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説教日:2001年9月30日 |
イザヤ書6章1節で言われている「ウジヤ王が死んだ年」というのは、ユダ王国の歴史の一つの転換点を意味しています。ウジヤ王の治世の繁栄と安定の後は、ユダ王国は、いくつかの改革の試みはありましたが、主の御前に堕落の道を歩みます。そして、最後には、主のさばきを招き、バビロンによってユダ王国は滅亡し、エルサレムの神殿は破壊され、ユダ王国の民は捕囚になります。 そのような歴史の転換点において、イザヤは預言者として召されました。そして、主の栄光のご臨在の御許から預言者として遣わされますが、そのイザヤに託された言葉は、6章9節〜13節に、 すると仰せられた。 「行って、この民に言え。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。』 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。」 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。 「町々は荒れ果てて、住む者がなく、 家々も人がいなくなり、 土地も滅んで荒れ果て、 主が人を遠くに移し、 国の中に捨てられた所がふえるまで。 そこにはなお、十分の一が残るが、 それもまた、焼き払われる。 テレビンの木や樫の木が 切り倒されるときのように。 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。」 と記されていますように、厳しいさばきの宣言でした。 イザヤが、主から遣わされた預言者として、主のさばきを宣言するということは、機械的なことではありません。何も理解しないテープレコーダーのように、ただ言われたことをおうむ返しにして語ったのではありません。イザヤ自身が、古い契約のもとにある者としての限界の中にありますが、自分の語ることを自分なりに理解して語っているのです。 たとえば、すでにお話ししました、ユダ王国が滅亡して、エルサレムの神殿が破壊されてしまうということとのかかわりで言いますと、イザヤは、エルサレムの神殿は地上的な「ひな型」であり「模型」であることを理解するようになりました。そして、そこから、66章1節に、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。」 と記されていますように、神さまはご自身がお造りになったこの天と地にご臨在してくださっておられるということを理解するようになりました。いわば、この天と地は、栄光の主がご臨在される神殿であるということです。 このことは、6章に記されている幻の中で、主の栄光のご臨在の御前で仕えているセラフィムたちが、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讃美していることをとおして、イザヤに示されていることと呼応しています。 イザヤが、主の預言者として、ユダ王国は主のさばきを受けて滅亡し、エルサレムの神殿は破壊され、ユダ王国の民は捕囚になってしまうという、さばきを宣言するときには、これまでお話ししたことのほかに、もう一つの重大な問題が生まれてきます。それは、主がダビデに与えてくださった契約はどうなるのかということです。それが、今日のお話で取り上げたい問題です。 サムエル記第二・7章12節、13節には、主がダビデに与えてくださった契約の中心が記されています。それは、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 という約束です。 ここで主は、ダビデに、ダビデの子が主のご臨在される神殿を建てるようになることと、主がダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く」立ててくださるということを約束してくださっています。 実際に、ダビデの子であるソロモンの王国はイスラエルの歴史の中で最も繁栄しましたし、ソロモンはエルサレムの神殿を建設しました。ところが、そのソロモンは晩年に偶像礼拝の罪を犯しました。そのため王国は、ソロモンの死後に分裂しました。そして、分裂した王国はさらなる背教を重ねて、北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南王国ユダはバビロニヤによって滅ぼされてしまいます。それとともに、ソロモンの建てた神殿も破壊されてしまいます。そればかりか、この王国の崩壊の後、今日に至るまで、地上には、再びダビデの子孫による王国が再建されることはありませんでした。イエス・キリストがお生まれになった時には、ダビデの血肉の子孫であるヨセフは、ガリラヤの大工として埋もれていました。 創世記49章10節には、 王権はユダを離れず、 統治者の杖はその足の間を離れることはない。 ついにはシロが来て、 国々の民は彼に従う。 という預言の言葉が記されています。 ここでは、約束のメシヤはユダ部族から出ると預言されています。そして、この約束に基づいて、ダビデが王国を確立したのです。また、王国が分裂した後は、ユダ部族は南王国ユダを構成していました。イザヤは、まさにそのユダ王国に対する主のさばきを預言するように召されていたのです。そのイザヤにとっては、主がダビデに与えてくださった契約はどうなるのかということが問題になります。 このような問題意識をもって、イザヤが見た幻についての記事を読んでみますと、そこには、この問題に対する答えの方向が示されていることが分かります。それは、イザヤの「召命体験」全体をまとめる意味をもっている、1節の、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 という言葉に示されています。 すでにお話ししましたように、この「主」は、ここでは「アドナイ」で、すべてのものをご自身のものとして所有し、御手のうちに治めておられる方です。主は、すべてのものをご自身のものとして所有し、御手のうちに治めておられる方として、「高くあげられた王座」に座しておられます。 先週お話ししましたように、この「高くあげられた王座に座しておられる主」は、後にイザヤが52章13節で、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と預言している、「苦難のしもべ」として、より具体的な栄光を表すようになります。 この、 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということの「高められ、上げられ」は、6章1節の「高くあげられた王座」の「高くあげられた」(直訳「高められ、上げられた」)と同じ言葉で表わされています。52章13節では、さらに「非常に高くなる」ということが付け加えられていて、「苦難のしもべ」がこの上なく高められることが述べられています。このことから、「苦難のしもべ」が、イザヤが幻の中で見た「高くあげられた王座に座しておられる主」であることが察せられます。 そして、そのことは、ヨハネの福音書12章37節〜41節に記されていることによって確証されます。 このことから、このイザヤが幻の中で見た「高くあげられた王座」が、主がダビデに約束してくださった、永遠に確立される王国の王座に当たるものであることが分かります。そして、イザヤの見た幻の中では、「高くあげられた王座」は、栄光の主がご臨在される神殿の聖所にありました。それで、この神殿こそが、ダビデの子が建設すると約束されていた神殿に当たるものだったのです。 このように、6章1節で「高くあげられた王座に座しておられる主」と言われている方は、52章13節で、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と預言されている「苦難のしもべ」として、より具体的な栄光を表すようになります。その有り様は、53章1節〜12節に預言的にあかしされています。先週引用した4節〜6節より後の10節〜12節を見てみますと、そこには、 しかし、彼を砕いて、痛めることは 主のみこころであった。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を彼がになう。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 と記されています。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 とあかしされている栄光の主は、ご自分の民の罪の贖いのために、ご自身のいのちを「罪過のためのいけにえ」とされます。そのことにこそ、栄光の主の栄光が現わされていると、イザヤは預言しているわけです。 このような、主の栄光についての驚くべき理解の根は、やはり、イザヤが「召命体験」において見た幻にあります。 復習になりますが、その幻によって示された神殿には、栄光の主のご臨在の御前で仕えているセラフィムがいて、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讚えています。 このセラフィムの讃美では、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 と言われていて、主が「聖なる」方であることが三回繰り返されて強調されています。また、 その栄光は全地に満つ。 と言われていて、主の栄光が全地を満たしていることが告白されています。 これらのことに接したイザヤは、主が自分に、主の聖さと栄光を啓示してくださっていることを理解したはずです。ただし、そこで示された主の聖さと栄光は、イザヤにとっては圧倒的な現実でした。イザヤは、このような、聖なる主の栄光のご臨在に触れたために、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを感じて、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫ばないではいられなくなりました。しかも、「くちびるの汚れた者」である自分が主の聖さを冒すものであり、主のさばきを受けて滅びることは当然のことであるということを、その瞬間に納得しながらのことでもあるのです。 続いて、6節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 と記されています。 先週お話ししましたように、イザヤからしますと、その「セラフィムのひとり」は、主の御怒りを携えてきて、イザヤに対するさばきを執行するものと感じられたはずです。それで、この「セラフィムのひとり」の手にある「燃えさかる炭」は、罪ある自分を焼き尽くしてしまうことによって、罪を一掃するために用いられると見えたはずです。セラフィムでさえも、「燃えさかる炭」を「火ばさみ」で取りました。それは、イザヤを焼き尽くすのに十分なものであったと考えられます。 しかし、7節には、 彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 主の栄光のご臨在の御前で、自らの罪と汚れと滅びを実感しているイザヤに、罪の贖いが宣言されました。 これは、私たちには、何となく当たり前のように感じられるかもしれませんが、イザヤにとっては衝撃的なことで、主の聖さと栄光についての理解に、いわば「コペルニクス的な転回」をもたらすものでした。 先ほど言いましたように、この幻において、主は、ご自身の聖さと栄光をイザヤに啓示しようとしておられます。イザヤからしますと、主の聖さと栄光は、主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまっているものを焼き尽くしてしまって、その罪と罪の汚れを一掃することに現わされます。それで、聖なる主の栄光のご臨在の御前に立たせられたイザヤは、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫んだのです。 しかし、その当然滅ぼされるべき自分が滅ぼされることがなかったばかりか、 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 ということを知らされました。 これは、イザヤが、「やれやれ良かった。」とか「ああ、助かった。」とか言って済ますべきことではありません。というのは、主が、これをとおして、イザヤに、ご自身の聖さと栄光を啓示してくださっているからです。イザヤは、このことをとおして示されている主の聖さと栄光を、全身全霊を傾けて理解し、受け止めなければなりません。 イザヤが、これのことを、「危ないところを、主の恵みによって助かった。」というような形でしか受け止めなかったとしたら、イザヤは、この後、預言者として活動することはできなかったことでしょう。というのは、それでは、自分の場合は助かった、というような、個人の体験談を語ることしかできないからです。 この時、イザヤは、自分がどうなったかという、自分中心の関心を越えて、主が示して下さっていることを受け取っています。そして、主の聖さと栄光は、主のご臨在の御許に備えてくださっている贖いの恵みのうちに最も豊かに現わされるということを、受け止めたのです。そのことは、イザヤが、やがて、「苦難のしもべ」において、主の聖さとその現われである栄光が最も豊かに現わされるということを、預言的にあかしするようになることから分かります。 イザヤはこの「召命体験」をとおして、主のご臨在の御許から預言者として遣わされ、南王国ユダに対するさばきを宣言するようになります。それは、6章11節〜13節に、 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。 「町々は荒れ果てて、住む者がなく、 家々も人がいなくなり、 土地も滅んで荒れ果て、 主が人を遠くに移し、 国の中に捨てられた所がふえるまで。 そこにはなお、十分の一が残るが、 それもまた、焼き払われる。 テレビンの木や樫の木が 切り倒されるときのように。 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。」 と記されています。そのさばきは、 そこにはなお、十分の一が残るが、 それもまた、焼き払われる。 テレビンの木や樫の木が 切り倒されるときのように。 と言われているほど徹底したさばきです。 しかし、イザヤは、この厳しいさばきの宣言の中に含められている主の恵みとあわれみを、しっかりと聞き取って、 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。 と記しています。それは、栄光の主のご臨在の御前で、自分自身の罪の現実が絶望的なまでにあらわにされた時に、贖いの恵みの備えを示していただいたイザヤが、聖なる主の栄光のご臨在の御前にこそ、贖いの恵みが備えられていて、それによって、主の聖さと栄光が現わされあかしされるということを悟っていたからに他なりません。それによって、 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。 という形で示されている恵みをしっかりと受け止める眼を開かれていたということでしょう。 このように、イザヤは「召命体験」において、主の聖さと栄光は贖いの恵みを通して最も豊かに現わされるということを理解するようになりました。このことは、やがて、イザヤが「召命体験」において見た栄光の主は、「苦難のしもべ」としてご自身の栄光をこの上なく豊かに現わされるという、預言的なあかしに発展していきます。 その「苦難のしもべ」は、ご自身のいのちを「罪過のためのいけにえ」としてくださって、イザヤが預言している厳しいさばきのまっただ中で、贖いの恵みをもって「切り株」を贖い出してくださる方です。 そして、この「苦難のしもべ」こそが、主がダビデに、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 と約束してくださった、「ダビデの子」であり、約束のメシヤです。 イザヤが、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と預言しているのは、イザヤが「召命体験」において見た「高くあげられた王座に座しておられる主」のことです。そして、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということは、主がダビデの子の王国の王座をとこしえまで堅く立ててくださることでもあります。 ですから、ユダ王国の滅亡の後、今日に至るまで、血肉のダビデの子による王国は再建されたことはありませんが、主の契約が無効になったのではありません。主は、地上のどこかに限られていて、「剣」によって守られ「剣」によって攻められる王国を建てられたのではありません。 主が確立してくださると言われている王国の基盤は、「高くあげられた王座に座しておられる主」が、「苦難のしもべ」として現われてくださって、ご自分の民の罪の贖いのために、ご自身のいのちを「罪過のためのいけにえ」としてくださるという、贖いの御業によって据えられています。そして、その御国の民は、主の聖なるご栄光のご臨在の御前において、贖いの恵みにあずかって、聖なるものとされています。 |
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