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説教日:2001年9月23日 |
イザヤは、このような主の栄光のご臨在に触れた時に、自分が直ちに滅ぼされるべきものであることを感じました。それで、5節に記されていますように、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫びました。 「神のかたち」に造られている人間にとっては、主の栄光のご臨在に触れるときに、主の聖さをわきまえて礼拝し、主の栄光を讃美することが、最も自然なことです。造り主である神さまを礼拝し讚えることこそが、永遠のいのちの本質であり、「神のかたち」の尊厳と栄光の現われの中心です。しかし、イザヤは、自分が「くちびるの汚れた者」で、主のご臨在の御前に立つことができないものであることを、滅びの予感とともに感じ取りました。そのために、主を礼拝することも、讃美することもできませんでした。 先週詳しくお話ししましたように、イザヤは、わけの分からないものに対する恐怖を抱いたのではなく、聖なる主のご臨在の御前に、自分が汚れたものであることを感じ取ったのでした。それで、自分が滅ぶべき者であることを、言い逃れのできない納得とともに感じ取っているのです。このことは、これからお話しすることと深くかかわっていますので、しっかりと心に留めておいてください。 ですから、イザヤが、 ああ。私は、もうだめだ。 と叫んだのは、そこで、直ちに、自分に対する主のさばきが執行されることを感じ取っているからです。 これに続いて、6節、7節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 すでにお話ししましたように、セラフィムは複数形ですので、そこには複数のセラフィムがいました。ただし、その数は正確には分かりません。セラフィムは、主の救いとさばきのみこころを直ちに執行するために待機している態勢にあります。そのような態勢にあって、主に仕えることの初めであり目的である、主への礼拝と讃美をしています。 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来た ということは、主のみこころを受けて「セラフィムのひとり」がイザヤの所に飛んできたということです。 私たちは、ここに記されていることの全体の流れと結末を知っていますので、このことを安心して読むことができます。しかし、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫んだイザヤの立場に立つとどうなるでしょうか。イザヤからしますと、そのような「セラフィムのひとり」が自分の方に飛んで来るということは、当然、主のさばきを執行するためのことだと感じられるはずです。 ああ。私は、もうだめだ。 という切羽詰まった言葉は、主のさばきが直ちに執行されることを感じ取ってのことで、それ以外の可能性を考える余地がなかったことを意味しています。そのような状況で、「セラフィムのひとり」が自分の方に飛んで来るのを見ることは、まさにいのちが縮む思いのすることであるはずです。 主は、それと同時に、 その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。 ということを示してくださっています。 ここでは、まず、「その手には燃えさかる炭が」あったということを示しています。ヘブル語では、6節全体が一つの文です。ヘブル語本文には、文の中の言葉の区切りとつながりを示す記号があるのですが、6節を大きく区切る記号は、この「その手には燃えさかる炭が」ということの後に置かれています。それで、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来た。そして、その手には燃えさかる炭が(あった)。 という部分がひとまとまりになっています。そして、その後に、その「燃えさかる炭」が「祭壇の上から火ばさみで取った」のもであるという説明がきています。 事柄の順序としましては、主のみこころが示されましたので、「セラフィムのひとり」が「燃えさかる炭」を「祭壇の上から火ばさみで」取ってから、それを手にして、イザヤのもとに飛んで来たということになります。 この「祭壇」がどの祭壇であるかということについて、意見が分かれています。この記事では、この「燃えさかる炭」がイザヤの罪を聖める働きをしているので、「燃えさかる炭」は聖所の正面にあるいけにえをほふる祭壇から取られたという見方があります。それに対して、この「燃えさかる炭」と訳された言葉(リツパー)は、聖所の中にある香を焚く祭壇で使われる炭を表わしているから、この祭壇は香を焚く祭壇であるという見方もあります。 この二つの見方は、エルサレムにあった神殿の祭壇が二つあったことに照らして、そのどちらの祭壇であるかという問題意識から出てきたものです。しかし、イザヤが幻の中で見た神殿はエルサレムの神殿ではありません。そこに、二つの祭壇があったのかどうかも分かりません。 このことから、これは黙示録8章3節に、 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。 と記されている「御座の前にある金の祭壇」のことであるとする見方もあります。 ただし、この「御座の前にある金の祭壇」は、エルサレムの神殿の香を焚く祭壇によって示されているものに当たります。それで、もし、イザヤが見た祭壇がこの「御座の前にある金の祭壇」であるのであれば、それは、エルサレムの神殿の聖所の中にあった、香を焚く祭壇に当たるものだということになります。 しかし、イザヤが見た幻の中の祭壇を特定することには無理があります。 このイザヤに示された幻は、主の御許から預言者として遣わされるようになるイザヤに対する啓示です。そのイザヤが知るべきことを示してくださったものです。それで、ここに示されているのは、そのために必要なことだけであって、それ以外のことは示されてはいません。 どういうことかと言いますと、たとえば、エルサレムの神殿においては、主のご臨在の御前にはケルビムがいて仕えていることが示されています。これに対して、イザヤの見た幻の中には、ケルビムは出てこないで、セラフィムが出てきて、主のご臨在の御前で仕えています。そうしますと、主のご臨在の御前において仕えているのはケルビムのなのか、それともセラフィムなのかという疑問が出てきます。 しかし、エルサレムの神殿とイザヤに示された幻をとおして示されていることに違いがあるのは、この二つのことによって示されていることが違うからです。 エルサレムの神殿においては、ケルビムの存在をとおして、主の栄光のご臨在が聖所にあることと、主の栄光のご臨在の聖さが守られていることが示されています。これによって、罪ある者が、罪のあるままで主のご臨在の御前に近づいて、主の聖さを冒してはならないことが示されています。 これに対して、イザヤに示された幻においては、セラフィムの存在をとおして、主が救いとさばきの御業を遂行されることが示されています。主は、この幻をとおして、イザヤを預言者として召してくださり、ご自身の栄光のご臨在の御許から、ご自身の救いとさばきの御業を宣べ伝えるために遣わしてくださるようになるからです。 このように、主が示してくださっていることは、その時その時の必要に応じて変わりますが、それが矛盾しているわけではありません。イザヤが見た祭壇も、それが主のご臨在の御前の祭壇であるということが分かればよいのであって、それ以上のことは示されていません。 話を戻しますが、 ああ。私は、もうだめだ。 と叫んだイザヤからしますと、その「セラフィムのひとり」は、本来、主の御怒りを携えてきて、イザヤに対するさばきを執行するはずです。そのようなイザヤに対して、主が示してくださったのは、その「セラフィムのひとり」の手に「燃えさかる炭」があるということでした。そして、その「燃えさかる炭」は「祭壇の上から火ばさみで取った」のもであるということでした。 この「セラフィムのひとり」の手に「燃えさかる炭」があるということで、イザヤが安心したと考えることはできません。私たちは、「燃えさかる炭」がイザヤの罪を聖めるために用いられたという結末を知っていますので、これでイザヤも安心したのではないかと考えたくなります。しかし、イザヤは、まだその結末を知りません。そのイザヤの目には、「セラフィムのひとり」が手にしていた「燃えさかる炭」は、罪ある自分を焼き尽くしてしまうことによって、罪を一掃するために用いられると見えたはずです。 それは、エルサレムの神殿の祭壇においては、罪を転嫁されたいけにえの動物を焼く火を思い起こさせるものでありえました。また、前に取り上げたことですが、アロンの子であるナダブとアビフが主の御前に「異なった火」をささげて、主の聖さを冒したために、主の御前から出た火が彼らを焼き尽くしてしまったことや、コラとその仲間の二百五十人が、やはり、主の聖さを冒したために、主の御前から出た火によって焼き尽くされてしまったことを思い起こさせるようなことでもありえたのです。 マラキ書4章1節には、 見よ。その日が来る。 かまどのように燃えながら。 その日、すべて高ぶる者、 すべて悪を行なう者は、わらとなる。 来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、 根も枝も残さない。 と記されています。イザヤにとっては、個人的なレベルでではありますが、まさに、そのような恐るべきさばきが自分に対して執行されると感じられたはずです。 イザヤにとっては実に恐ろしい「燃えさかる炭」を手にした「セラフィムのひとり」が、真っ直ぐに、イザヤの方に飛んで来ました。そして、その「燃えさかる炭」をイザヤの「口」に押し当てました。それは、イザヤ自身が、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫んだことに呼応しています。 主の栄光のご臨在の聖さによって、イザヤの心に映し出されたのは、自分は「くちびるの汚れた者」であるという現実でした。そのために、セラフィムに声を合わせて主を讃美し礼拝することができないという自分の現実でした。そして、そのような自分が栄光の主の御前に立ったことによって、主の聖さを冒してしまい、主のさばきを受けて滅びるほかはないという実感でした。「セラフィムのひとり」は、イザヤが自覚した汚れが集約している「口」に「燃えさかる炭」を押し当てました。当然、そのような「口」から、主のさばきが始まるはずです。 しかし、イザヤは「燃えさかる炭」で焼き尽くされることがありませんでした。それは、主のさばきが執行されなかったからではありません。「セラフィムのひとり」がイザヤの「口」に「燃えさかる炭」を押し当てたのは、ある意味において、イザヤに対するさばきが執行されたことを示しています。また、イザヤが「燃えさかる炭」で焼き尽くされることがなかったのは、イザヤに罪の汚れがなかったからでもありません。この時のイザヤは、絶望的な確かさで、自分の罪を心に映し出される形で自覚していました。 それでも、イザヤは滅ぼされることがありませんでした。それどころか、「セラフィムのひとり」は、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 と宣言しました。主の栄光のご臨在の御前で、自分自身の罪と汚れの絶望的な現実を心に映し出されて、滅びを実感しているイザヤに、福音が語られたのです。 イザヤにとって、このことが、どれほど大きな衝撃であったかは、容易に想像できます。自分は罪に満ちた者であって、主の栄光のご臨在の御前に立つこともできないし、セラフィムと声を合わせて主を讚え、主を礼拝することもできないものである。そのような自分が主の栄光のご臨在に触れたのであるから、当然、主のさばきを受けて滅びるべきである。そして、そのとおりに、主のさばきを遂行する「セラフィムのひとり」が「燃えさかる炭」を手にして自分の方にやって来て、「燃えさかる炭」を自分に押し当てた。そのようにして、主のさばきが執行されたはずなのに、自分には、福音の言葉が語られたという不思議な衝撃です。 イザヤは、自分が「くちびるの汚れた者」であるという現実と、その自分が主の栄光のご臨在の御前に立っていることを自覚することから生まれてくる聖なる恐れから、自分が滅ぶべき者であることを実感しています。そのことから、その自分に福音の御言葉が語られたことが衝撃となり、驚きとなっています。これに対して、イザヤが幻の中で経験していることの結末を知ってしまっている私たちには、イザヤが実感したであろう衝撃と驚きを汲み取ることが難しくなります。それは、私たちがイザヤが感じ取った聖なる恐れを感じとることが難しいからです。 これと同じようなことは、イザヤが幻の中で経験していることを理解するときに起こるだけではありません。どの道、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださっているのだから、もう結末は見えている。自分がさばかれることはないということさえ分かれば、後は用はないとでもいうように、神である主の聖さのことにはほとんど関心を示さなくなってしまうというようなことはないでしょうか。そんな中で、イザヤが経験した聖なる恐れの中での衝撃と驚きも、自分にとっては、遠い昔の話のようになっていってしまっているというようなことはないでしょうか。 繰り返しになりますが、イザヤが幻の中で経験していることは、やがて、主のご臨在の御許から預言者として遣わされるようになるイザヤに対する、主からの啓示としての意味をもっています。 実際、イザヤは、やがて、このことによって示されたことの奥にあることを預言的に語るようになります。それは、言うまでもなく、52章13節〜53章12節に記されている「苦難のしもべ」において実現する贖いの預言です。 52章13節には、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されています。 この「彼は高められ、上げられ」の「高められ、上げられ」は、6章1節で、イザヤが、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と述べているときの「高くあげられた」(直訳「高められ、上げられた」)と同じ言葉で表わされています。ここではさらに「非常に高くなる」と言われていて、この方が高くなることが強調されています。 また、15節で、 そのように、彼は多くの国々を驚かす。 王たちは彼の前で口をつぐむ。 と言われていることも、この方が「万軍の主」であることを思わせます。 ここでは、自分たちの力をもって他国を征服したり、人々を押さえつけてきた権力者たちが、この方の前で「口をつぐむ」ようになると言われています。それは、この方によって力ずくで押さえつけられるからではありません。この方によって表わされあかしされている栄光こそが真の栄光であり、この世の権力者たちが、それとは本質的に異なる栄光を追い求めてきていたことを悟るようになるからです。 これらのことから、ここでは、イザヤが幻のうちに見た「高くあげられた王座に座しておられる主」のことが語られていることが分かります。事実、そのことは、ヨハネの福音書12章37節〜41節にあかしされています。 ところが、14節では、 多くの者があなたを見て驚いたように、 そこなわれて人のようではなく、 その姿も人の子らとは違っていた。 と言われており、53章3節〜6節では、 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 と言われています。 確かに、イザヤを含めた私たちに対する主のさばきは執行されるのです。しかし、そのさばきは、「高められ、上げられ、非常に高くなる」方ご自身が、私たちに代わって負ってくださいます。そのために、私たちには罪の贖いがもたらされるというのです。 このことは、主のご臨在の御前の祭壇で動物のいけにえがほふられるという「ひな型」、「模型」として示していたことの「本体」です。イザヤは、この「本体」の預言をしていますが、それは、御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの身代わりとなって私たちの罪のさばきをみな受けてくださったことによって成就しました。 これが、イザヤが、幻の中で経験したこと、すなわち、主の栄光のご臨在の御前で、自分の罪が明らかに示されるとともに、その罪を一掃するためのさばきが執行されたはずなのに、イザヤ自身には罪の贖いと赦しの言葉が伝えられたということの奥にあることです。この方が成し遂げてくださった罪の贖いによって、本来、罪ある者を焼き尽くすはずの「燃えさかる炭」が、罪ある者の罪を聖める働きをするものとなっているのです。 |
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