(第52回)


説教日:2001年9月16日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章に記されています、預言者イザヤの「召命体験」の記事からお話しします。
 6章1節〜4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 ここで、幻をとおしてイザヤに示された栄光の主のご臨在は、主の御許から預言者として遣わされるイザヤに対する啓示としての意味をもっています。
 イザヤは「高くあげられた王座に座しておられる主」を見たと述べています。この「」は、すべてのものをご自身のものとして所有し、御手のうちに治めておられる「アドナイ」です。「」は、すべてのものをご自身のものとして所有し、御手のうちに治めておられる「アドナイ」として、「高くあげられた王座に座しておられる」のです。
 さらに、「」は、主のご臨在の御許で仕えているセラフィムによって「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)と呼ばれて、讚えられています。「万軍の主」という呼び名は、契約の神である主、ヤハウェが、御使いや、昼と夜を区別し時の流れをつかさどる天体、また、強力な軍事力を背景として地を支配している王国などを、すべて治めておられる方であることを示しています。
 セラフィムは、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と言って、主を讚えています。
 この讃美では、主が「聖なる」方であることが三回繰り返されて強調されています。主の聖さは、基本的に、主が、天地の造り主として、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。そして、それには実質があります。その聖さの実質は、主が存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられるということです。主は存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方ですので、造られたすべてのものと絶対的に区別される方なのです。
 セラフィムは、さらに、

  その栄光は全地に満つ。

と言って主の存在と属性の輝きである無限、永遠、不変の栄光が、全地を満たしていることを告白しています。
 そして、このセラフィムの讃美の声のために、

敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と言われています。イザヤが立っている所が揺れ動いて、「」が宮に満ちました。これは、主の栄光のご臨在に伴う現象です。


 このような主の栄光のご臨在に触れたイザヤは、自分がすぐにでも滅ぼされることを感じ取って、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫びました。
 本来、「神のかたち」に造られている人間は、このような神である主の栄光のご臨在に触れるときには、主の聖さをわきまえて礼拝し、主の栄光を讃美します。しかし、イザヤは、主を礼拝することも、讃美することもできませんでした。むしろ、自分が「くちびるの汚れた者」で、主のご臨在の御前に立つことができないものであることを、滅びの予感とともに感じ取りました。それは、イザヤにとって、まことに恐ろしいことでした。
 しかし、それは、訳も分からない恐怖ではありませんでした。訳の分からない恐怖は、私たちにとっては、暗やみのようなものです。中学生の時の先生の一人が、山道を歩いていて激しい雷に遭ったという話をしてくださったことがあります。雷が近くなってきて、あちこちに落ちるのに、隠れるところがありませんでした。それで、身に付けている金属のものを外して、雨の中でしたが、腹ばいになって身を伏せていたそうです。さいわい無事に帰ってこれたけれども、本当に命の縮む思いがしたということでした。その先生にとっては、その時の雷は、いつ自分の所に落ちるか分からない、暗やみのような恐怖であったわけです。
 聖なる主の御前には、そのような暗やみのような恐怖はありません。むしろ、その恐れの理由と源は、隠しようもないほどに、はっきりと分かってしまうのです。イザヤにとって、自分の滅びは、理不尽なものではなく、自分自身が納得するほかはないものでした。その意味で、このイザヤの恐れは聖なる恐れです。この聖なる恐れは、主の御怒りが理不尽な怒りではなく、聖なる怒りであることから出ています。そして、主の御怒りが聖なる怒りであることは、主ご自身が聖なる方であることから出ています。
 ローマ人への手紙2章16節には、

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。

と記されています。
 ここには、神さまには「人々の隠れたこと」がすべて明らかになっていることが示されています。人の目にまったく隠されていても、神さまはすべてをご存知であられて、公正にまた厳正におさばきになります。それが、ここで「人々の隠れたことを」ということの意味です。
 このことは、神さまがその知恵と知識において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であるということから、納得することができます。問題は、あらゆる点において限界のある人間の方です。
 まず、問題となることは、人は、思い当たることのないことでさばかれることがあるのかということです。言うまでもなく、神さまには不正はありませんので、人は犯したことのない罪のことでさばかれることはありません。
 それでは、私たちが気がついていない罪をさばかれることがあるのでしょうか。もちろん、私たちが気がついていない罪も罪であることには変わりがありませんので、神さまはご自身の義の尺度で公正におさばきになります。
 しかし、その場合、罪の自覚がない人は、神さまのさばきを理不尽なさばきであると思うのではないでしょうか。これに対して言えることは、聖なる神さまのさばきには、そのような意味での暗やみもないということです。コリント人への手紙第一・4章5節には、

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

と記されています。私たちの「隠れたこと」は、ただ神さまだけに分かるのではありません。神さまのさばきの座の前に立つときには、さばきを受ける私たち自身も納得するほかはない形で、私たちの「隠れたこと」が、私たち自身に明らかにされるはずです。それは、何らかの形での、神さまの啓示によることです。

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫んだ、イザヤは、主の栄光のご臨在の御前において、自らの滅びを実感しただけではなく、自分が滅びるべきことを自分から納得していたのです。
 このことは、今お話ししたことからお分かりのことと思いますが、主が聖なる方であることによっています。
 主の聖さは、基本的に、主が、天地の造り主として、造られたすべてのものと絶対的に区別される方であることを意味しています。そして、主の聖さは、主が存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方であることに基づいています。
 このことを今お話ししていることにかかわらせて言いますと、主は知恵と知識において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられますから、主には、何かが分からないという意味での暗やみがありません。
 詩篇139篇11節、12節には、

  たとい私が
  「おお、やみよ。私をおおえ。
  私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
  あなたにとっては、やみも暗くなく
  夜は昼のように明るいのです。
  暗やみも光も同じことです。

と記されています。
 また、主は、聖、義、善、真実などの倫理的・道徳的な属性においても、無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられます。それで、主には倫理的・道徳的な暗やみはありません。
 ヨハネの手紙第一・1章5節には、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と記されています。
 先ほどの詩篇139篇11節、12節に記されていることは、主の無限、永遠、不変の知恵と知識という知的な属性にかかわっています。これに対しまして、このヨハネの手紙第一・1章5節に記されている、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

ということは、そのような知的な属性とともに、聖、義、善、真実などの倫理的・道徳的な属性もかかわっています。そして、主はこれらすべての属性において無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方ですので、聖なる方であるのです。そして、その無限、永遠、不変の豊かさに満ちた属性の輝きが、主の栄光です。
 主がそのような方として、ご自身を現わしてくださることが、主の栄光のご臨在です。あるいは、聖なる主の栄光のご臨在と言うべきでしょうか ・・・・ 。イザヤは、その主の栄光のご臨在を幻の中で見ました。主は、そのような形で、ご自身をイザヤに示してくださいました。その主の栄光のご臨在に接したイザヤは、いわば、主の聖なる方であることの現実(リアリティ)によって、自分の罪と汚れを自分の心に映し出されてしまったのです。それで、

  ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。

と叫んだのです。
 このように、イザヤは、主の聖さの現われとしての主の栄光のご臨在に接したことによって、滅びの実感とともに、自らの罪と汚れの現実に打ちのめされてしまいます。大切なことは、イザヤのうちにこのような自覚を生み出したのが主の聖さであったということです。というのは、主の聖さからは、また、主の恵みとあわれみが生み出されているからです。
 6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 このような主の恵みとあわれみが主の聖さから生み出されていることを考えるために、イザヤ書の記事からは離れることになりますが、以前、取り上げたことがあるホセア書11章8節、9節を見てみましょう。そこには、

  エフライムよ。わたしはどうして
  あなたを引き渡すことができようか。
  イスラエルよ。どうして
  あなたを見捨てることができようか。
  どうしてわたしはあなたを
  アデマのように引き渡すことができようか。
  どうしてあなたをツェボイムのように
  することができようか。
  わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
  わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
  わたしは燃える怒りで罰しない。
  わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
  わたしは神であって、人ではなく、
  あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。
  わたしは怒りをもっては来ない。

と記されています。
 これは、預言者ホセアをとおして、北王国イスラエルに対して語られた主の言葉です。
 イスラエルの歴史において、ダビデとソロモンの時代に統一王国が成立しました。しかし、ソロモンは晩年に偶像礼拝の罪を犯して、主の御前に背教してしまいました。それによって、主のさばきを招くに至り、ソロモンの死後、イスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。
 北王国イスラエルにおいては、歴代の王たちが主の御前に罪を犯し続けました。そのために、北王国イスラエルは主のさばきを受けて、最終的には、アッシリヤの手によって滅ぼされてしまいます。
 北王国イスラエルはそのような道を歩みますが、主は北王国イスラエルにも預言者を遣わしてくださって、警告を与えてくださいました。その一人が、ホセアです。
 ここには「エフライム」が出てきますが、エフライムは北王国イスラエルの十部族の一つです。ここでは、エフライムはその次に出てくるイスラエルと同義語として使われています。このように、エフライムがイスラエルを代表するもののように用いられているのは、創世記48章8節〜20節に記されていますように、エフライムが、父祖エフライムの時から特別な祝福を受けていて、イスラエルの部族の中で栄誉ある立場にあったことと、ソロモンの死後にダビデ王朝に反逆して、北王国イスラエルを創設し、最初の王になったのが、エフライム部族から出たヤロブアムであったことによっていると思われます。
 また、「アデマ」と「ツェボイム」が出てきますが、「アデマ」と「ツェボイム」は、創世記10章2節や14章2節に記されていることから分かりますように、ソドムとゴモラの姉妹都市でした。そして、申命記29章23節に、

その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。

と記されていることから、ソドムとゴモラが主のさばきによって滅ぼされたときに、「アデマ」と「ツェボイム」も滅ぼされたと考えられます。それで、「アデマ」と「ツェボイム」のようになるということは、主のさばきによって徹底的に滅ぼされてしまうということを意味しています。
 ホセアの預言の中に「アデマ」と「ツェボイム」が出てくるのは、北王国イスラエルが主の御前に罪を犯し続けているので、まさに、「アデマ」と「ツェボイム」のようになるべき状態にあるということを背景としています。事実、イザヤ書1章9節には、

  もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を
  私たちに残されなかったら、
  私たちもソドムのようになり、
  ゴモラと同じようになっていた。

と記されていて、南王国イスラエルも同じような状態にあることが示されています。北王国イスラエルは、それ以上の堕落と背教の中にありました。
 北王国イスラエルの実状はそのようなものでしたので、主は、ホセアをとおして、主のさばきが下されることを、繰り返し宣言しておられます。たとえば10章15節には、

  イスラエルの家よ。
  あなたがたの悪があまりにもひどいので、
  わたしはこのようにあなたがたにも行なう。
  イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる。

と記されています。
 ところが、ご自身の預言者をとおして厳しいさばきを宣言される主の「心情」が吐露されています。それが、

  エフライムよ。わたしはどうして
  あなたを引き渡すことができようか。
  イスラエルよ。どうして
  あなたを見捨てることができようか。
  どうしてわたしはあなたを
  アデマのように引き渡すことができようか。
  どうしてあなたをツェボイムのように
  することができようか。
  わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
  わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
  わたしは燃える怒りで罰しない。
  わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
  わたしは神であって、人ではなく、
  あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。
  わたしは怒りをもっては来ない。

という主の言葉です。
 実際には、北王国イスラエルの罪は、そのさばきをとどめることができないほどのものになってしまっていました。それで、主のさばきは執行され、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。しかし、そのさばきを執行される主の「心情」は、ここに、

  わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
  わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

と記されているようなものでした。
 そして、

  わたしは燃える怒りで罰しない。
  わたしは再びエフライムを滅ぼさない。

とも言われています。
 これは、さばきが執行されないということではなく、「アデマ」と「ツェボイム」のように、徹底的に滅ぼし尽くされてしまうことはないという意味です。そればかりでなく、エゼキエル書37章15節〜28節などに記されていますように、主は、北王国イスラエルが南王国ユダと一つとされて、回復されると約束してくださっています。
 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、その理由です。それについては、

  わたしは神であって、人ではなく、
  あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。

と言われています。
 ここで、

  わたしは神であって、人ではなく、

と言われていることによって、すでに、神さまの聖さが示されています。それは、

  あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。

という言葉によって明確に示されています。
 「あなたがたのうちにいる聖なる者」という言葉は、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の契約の民の間にご臨在しておられることを意味しています。
 しかし、北王国イスラエルは主を捨てて、偶像を拝み続けています。それによって、主が「あなたがたのうちにいる聖なる者」でなくなることはありません。北王国イスラエルは、主がご自身の契約に基づいて、自分たちの間にいてくださるのに、主を捨てて偶像を拝み続けているのです。そのように、北王国イスラエルは主に背き、主の聖さを犯し続けています。そのために、主はご自身の義の基準にしたがって、北王国イスラエルをさばかれます。それによって、主はご自身の聖さを現わされます。
 それとともに、主の聖さの根底には、無限、永遠、不変の善と真実があります。主は、その真実によって、父祖アブラハムに与えてくださった契約を覚えていてくださいます。その契約は、主が一方的な愛と恵みによって与えてくださったものです。

  わたしの心はわたしのうちで沸き返り、
  わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

という、主の「心情」は、主の無限、永遠、不変の善と真実から生まれてきています。主は、その契約に基づいて、主に背き続けている北王国イスラエルを、なおも、あわれんでくださり、分裂してしまっているイスラエルの民を一つとして回復してくださるのです。
 このように、主の恵みとあわれみは、主の聖さに基づいています。主がご自身のことを「あなたがたのうちにいる聖なる者」として示しておられるのは、主の聖さに基づいている恵みとあわれみを示してくださるためです。
 イザヤは、この恵みとあわれみを経験したのです。
 それにしても、本来、北王国イスラエルは、「アデマ」と「ツェボイム」のように滅ぼし尽くされるべきものです。そのようなイスラエルが回復されるというのは、「アデマ」と「ツェボイム」の目には不正と映ることでしょう。「アデマ」と「ツェボイム」は再建できないまでに滅ぼし尽くされてしまったのに、北王国イスラエルは滅ぼし尽くされることがないばかりか、やがては回復されるというのです。それでは、主の義は立てられず、主の聖さは損なわれてしまうのではないかと問われることになります。
 これには、古い契約の限界がかかわっています。
 古い契約のもとでは、血肉のイスラエルの民とそれにかかわるものごとが、いわば、地上的な「ひな型」や「模型」のような意味をもったものとして用いられています。
 主は一方的な恵みによってイスラエルの父祖にご自身の契約を与えてくださいました。そして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出して、ご自身の契約の民としてくださいました。そして、その契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在されました。
 主はまた、いけにえの制度をとおして、主の栄光のご臨在の御前に立って主との交わりにあずかるためには、イスラエルの民の罪が贖われなければならないことと、主がその贖いを備えてくださることをお示しになりました。
 しかし、古い契約のもとで献げられていた動物の血はイスラエルの民の罪を聖めることはできませんでしたので、イスラエルの民は主の御前で罪を犯し続けて、背教してしまいました。そのために、イスラエルの民は主のさばきを招くにいたり、北王国も南王国も滅亡してしまいます。
 そのように、主のさばきはイスラエルの民に下されたのですが、イスラエルの民は完全に滅ぼし尽くされることがありませんでした。そこには、なおも、主の恵みとあわれみによる回復の道が備えられていました。
 このことから、古い契約のもとでは、ある種の「不徹底さ」があることが見て取れます。主がイスラエルの民の罪をおさばきになる時には、恵みとあわれみによって、いわば、「手心」が加えられました。それで、イスラエルの民が完全に滅ぼし尽くされるということはありませんでした。しかし、これによって示されている恵みとあわれみは、本来下されるべきさばきに「手心」を加えることに表わされています。また、それによっては、主の義も十分に立てられないのではないかという疑問が残ることにもなります。
 そのようなわけで、「アデマ」と「ツェボイム」は再建できないまでに滅ぼし尽くされてしまったのに、北王国イスラエルは滅ぼし尽くされることがないばかりか、やがては回復されるというのでは、主の義は損なわれてしまうのではないかという疑問は、古い契約のもとにあった預言者たちには解けないものでした。
 その疑問は、古い契約をすべて成就する御子イエス・キリストの十字架において初めて解決されるようになります。十字架においては、私たちの罪に対するさばきが、何の「手加減」もなく、御子イエス・キリストの上に下されました。そこでは、主の義の要求は完全に満たされています。また、主の、私たちに対する恵みとあわれみは、充満な形で表わされています。
 このように、御子イエス・キリストの十字架においては、主の無限、永遠、不変の義と、無限、永遠、不変の恵みと愛が完全に調和しています。その意味で、主の聖さは、御子イエス・キリストの十字架において、もっとも豊かに示されているのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第51回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第53回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church