(第51回)


説教日:2001年9月9日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日も、イザヤ書6章に記されています、一般に「預言者イザヤの召命体験」と呼ばれる記事からお話しします。
 6章1節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されています。
 イザヤが預言者として活動をした南王国ユダは、52年にわたるウジヤの治世において、繁栄と安定を享受しました。それは、ウジヤ王の政治的な手腕が優れていたからですが、そのように、ウジヤに知恵が与えられたことも含めて、ウジヤが主のみこころを求めたことに対して、主が祝福をもって応えてくださったからです。
 しかし、半世紀におよぶ繁栄と安定の中で、ウジヤ王もユダ王国の民も主の御前に高ぶってしまいました。
 主の御前に高ぶって主の聖さを冒したウジヤは主のさばきによって撃たれました。同じように、ユダ王国の民も、主の御前に高ぶって、さばきを招く道を歩み始めていました。「ウジヤ王が死んだ年」は、そのような、ユダ王国の歴史の一つの転換点でもありました。その年に、イザヤは6章に記されている「召命体験」をいたします。


 1節の終わりから4節には、

そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 イザヤはユダ王国において預言者として活動するように召されて、主の御許から遣わされます。この世の宗教の発想からしますと、主がユダ王国の守護者であることを示してくださることが期待されます。しかし、これまでお話ししたことから分かりますように、ここでは、主は、そのようにご自身をお示しになってはおられません。主は、ユダ王国にとどまらず、この世界のすべてのものを御手のうちに治めておられる方であられることが示されます。そして、イザヤをとおして、主のさばきはユダ王国に対しても執行されることが宣言されるようになります。
 主は、まず、「高くあげられた王座に座しておられる主」と言われています。この「」は、すべてのものをご自身のものとして所有し、治めておられる「アドナイ」です。そして、そのような方として、「高くあげられた王座に座しておられる」と言われています。
 また、主は、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)とも呼ばれています。これは、契約の神である主、ヤハウェが、御使いや、昼と夜を区別し時の流れをつかさどる天体、また、強力な軍事力を背景として地を支配している王国などを、すべて治めておられる方であることを示しています。
 さらに、主のご臨在の御許で仕えているセラフィムの讃美においては、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と言われています。
 ここでは、主が「聖なる」方であることが三回繰り返されて強調されています。主の聖さは、主が、すべてのものの造り主として、造られたすべてのものと絶対的に区別され、その存在と属性の一つ一つが無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられることを意味しています。セラフィムは、さらに、

  その栄光は全地に満つ。

と言って、主の存在と属性の輝きである無限、永遠、不変の栄光が、全地を満たしていることを告白しています。
 このように、主は、ご自身が、お造りになったすべてのものを所有し治めておられる方であるということを示しておられます。そして、その栄光のご臨在は、ユダ王国の中心であるエルサレムにある神殿の聖所に限定されているのではなく、「全地」を満たしていることが示されています。
 このような啓示を受けた預言者イザヤは、当時のユダヤ人が頼みとし、誇りとしていたエルサレムの神殿が、地上的な「ひな型」であり、本物の「模型」でしかないことを理解するようになります。
 57章15節には、

  いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
  その名を聖ととなえられる方が、
  こう仰せられる。
  「わたしは、高く聖なる所に住み、
  心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
  へりくだった人の霊を生かし、
  砕かれた人の心を生かすためである。」

と記されています。
 また、繰り返しになりますが、66章1節、2節には、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ――主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。

と記されています。
 このように、契約の神である主、ヤハウェのご臨在は、天と地を満たしています。それで、主の栄光のご臨在は、エルサレムの神殿に限定されているのではありません。主の栄光のご臨在は、全地を満たしているのです。そうであれば、先週引用しました、56章7節に、

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる

という主の言葉が記されていますように、「すべての民」が、主の栄光のご臨在の御前に立って、主を礼拝することができるはずです。
 それでは、エルサレムにある神殿が建てられた意味は何でしょうか。それは、造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまっている人間は、だれ一人として、神さまの聖なる栄光のご臨在の御前に近づくことができないことを示すためです。59章1節、2節には、

  見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
  その耳が遠くて、聞こえないのではない。
  あなたがたの咎が、
  あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
  あなたがたの罪が御顔を隠させ、
  聞いてくださらないようにしたのだ。

と記されています。
 これに沿って言いますと、人が主の栄光のご臨在の御前に立つことができないのは、主のご臨在がどこかに限定されているからではありません。主の栄光のご臨在は、全地を満たしています。問題は、

  あなたがたの咎が、
  あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
  あなたがたの罪が御顔を隠させ、
  聞いてくださらないようにしたのだ。

という現実があることです。
 言い換えますと、本来、主の栄光のご臨在は全地を満たしているのですが、その栄光がそのまま示されるなら、自らのうちに罪を宿しており、罪を犯している人間は、その栄光によって撃たれて滅ぼされてしまいます。そのようなことがないようにと、主は、いわば、ご自身の栄光を隠してくださっているのです。
 このような人間の現実を示すために、エルサレムの神殿の中にある主の聖所は、主の栄光のご臨在があることを表示し、その聖さを守っているケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。
 それとともに、エルサレムの神殿においては、神殿の正面にある祭壇において、主によって指定された動物のいけにえがささげられていました。そして、その血によって聖められた祭司たちが、主の聖所において仕えました。さらに、年に一度、大贖罪の日に、大祭司が聖所の奥の至聖所に入るときにも、いけにえの血を携えて入りました。
 これによって、人が主の栄光のご臨在の御前に近づくことができるためには、主が備えてくださるいけにえの血によって、その罪が聖められていなければならないことが示されていました。ヘブル人への手紙9章22節で、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と言われているとおりです。
 このことも言い換えますと、罪ある人間を滅ぼすことがないようにと、隠されている栄光が示されるようになるためには、私たちの罪が取り除かれなければならないということです。そのために、主はいけにえの血による罪の贖いを備えてくださっているのです。
 エルサレムの神殿は、これらのことを教えるための「模型」であり「視聴覚教材」でした。
 ヘブル人への手紙では、先ほどの9章22節に続く23節〜26節において、その「模型」が指し示している「本物」の聖所のことが述べられています。そこには、

ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

と記されています。
 さらに、これに続く27節、28節には、

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

と記されています。
 ここには、イエス・キリストの再臨が、私たちの救いを完成してくださるためであることが示されています。
 人間は、造り主である神さまの栄光のご臨在の御前に立って、神さまを礼拝し、神さまとのいのちの交わりのうちに生きるものとして、「神のかたち」に造られました。それで、人間は、本来、神さまの栄光のご臨在の御前に立つべきものです。このような人間の本来の姿が回復されるために、今は隠されている神さまの栄光のご臨在が、充満な形で表わされるようになります。それが、世の終わりのイエス・キリストの再臨によって実現します。
 これらのことを念頭において、イザヤ書6章に戻りましょう。セラフィムの讃美に続いて、4節では、

その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と言われています。
 この「敷居の基」のことは、新改訳欄外には、「あるいは『入口のちょうつがい』」と記されています。「敷居の基」の「」と訳された言葉(アムマー)の意味が今一つはっきりしないのです。新共同訳は「入口の敷居」としており、新国際訳は「入口の側柱と敷居」と訳しています。
 これらのどれを採るべきなのかは決められませんが、これで、大体のことは分かります。イザヤは神殿の入口の辺りにいて聖所の中を見ていたので、その辺りが揺れ動いたのを感じたということでしょう。
 それは、セラフィムの讃美の声のためであると言われています。その時に地震も起きたのだというような見方もありますが、そのことは分かりません。
 これに続いて、

宮は煙で満たされた。

と言われています。
 この「」は、主のご臨在に伴うものであると考えられます。出エジプト記19章18節には、

シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

と記されています。ここでは、主の栄光のご臨在に伴って、主のご臨在の場であるシナイの山が煙に満たされ、揺れ動いたと言われています。
 また、イザヤ書4章5節、6節にも、

主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。

と記されています。
 ここに記されている「」は夜に現われるものですが、先ほどの、シナイの山を覆った「」は、昼間に現われたものであると考えられます。
 イザヤの見た幻の中で示された主の神殿を満たした「」は、6節に記されている祭壇で燃えている火から出た煙であるという意見もあります。しかし、この「」が主のご臨在に伴う煙であることは確かですが、祭壇から立ち上る煙が、主のご臨在に伴う「」と見なされるのかどうか、疑問が残るところです。
 いずれにしましても、このような、主の栄光のご臨在に伴うこれらの現象は、まことに恐るべきものです。出エジプト記19章16節では、シナイの山に主がご臨在された時に、それに伴う現象に触れたイスラエルの民のことが、

宿営の中の民はみな震え上がった。

と記されています。
 イザヤ書6章5節には、主の栄光のご臨在に触れたイザヤの反応が記されています。そこには、

そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

と記されています。
 この、

ああ。私は、もうだめだ。

という言葉は、自らの滅びを実感したイザヤの口をついて出てきたもので、切迫性があります。「ああ。私は」というのは、思わず口をついて出てくる言葉で、「私はわざわいだ」ということを表わしています。また「もうだめだ」は、「私は滅ぼされた」という言い方です。完了形によって、滅びの実感の強さと確かさが表わされています。
 これは、ただ単に、イザヤが、

その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と言われている、主の栄光のご臨在に伴う恐るべき現象に触れて、思わず叫んだということではありません。

しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

というイザヤの言葉からも分かりますように、それに先だって述べられている、主のまとっておられる「王服」の衣の裾が神殿に満ちていることと、そこに、主の御前で仕えているセラフィムがいて、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

という讃美を歌い交わしていることを含めた、主の栄光のご臨在に触れたために、叫んだことです。
 そのように、いわば「せっかく」、主がご自身の栄光のご臨在を示してくださったのに、それに触れたイザヤは、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

というセラフィムの讃美に言葉を合わせて、主を讚えることができませんでした。
 セラフィムのように主を礼拝して、主の聖さを告白し、主の栄光を讚えることこそが、「神のかたち」に造られている人間の存在の最大の理由であり、最大の祝福であり、永遠のいのちの本質です。しかし、イザヤは、そのように主を聖なる方として礼拝し、讚えることができませんでした。
 そのような、この上ない祝福にあずかることができないというだけではなく、自分がそこで直ちに滅ぼされるということを感じ取ったのです。そして、一瞬のうちに、その理由を納得しました。そして、

私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

と告白しました。
 これは、この訳に表わされているように、イザヤにとってこのような汚れた状態が、いつも自分の現実であるということを表明しています。時には汚れたものになるとか、汚れた一面があるというような限定のない、罪と汚れが自分の恐ろしい現実であると感じられたということです。
 「くちびるの汚れた者」ということは、「くちびるの汚れた民の間に住んでいる」ということとつながっていますので、イザヤが預言者として召されるようになることと関係していると考えられます。ただし、それは、この幻全体をイザヤに対する主の啓示として見たときに考えられることです。この時のイザヤには、自分が主の預言者として召されるというようなことを考える余裕もなかったはずです。それで、この時のイザヤは、自分が「くちびるの汚れた者」であるので、とても栄光の主を讚えることはできないという現実を実感しているのだと思われます。
 きれいな花や美しい景色に触れた人は、思わず「きれい」と叫びます。主の栄光のご臨在に触れる人は、思わず、栄光の主を礼拝し讃美します。それが、「神のかたち」に造られている人間にとって、最も自然なことです。しかし、現実の人間は、その主の栄光のご臨在に触れるときには、自分が滅びることを実感します。主への讃美のうちにいのちの幸いを実感する代わりに、自分が滅びる恐怖に自分を失ってしまいます。このことのうちに、「神のかたち」に造られている人間が本来の姿を失ってしまっていることが、最もはっきりと現われてきます。
 それで、私たちが、栄光の主のご臨在に触れているかどうかを測るための重要な尺度の一つは、自分の罪を実感しているということです。
 主の栄光のご臨在が示されたとき、イザヤは、自分の罪を思い知らされ、直ちに滅びることを実感して、嘆いただけでした。自分では、どうすることもできませんでした。それも、栄光の主の御前における人間の現実です。
 しかし、イザヤにとって最も恐るべき時が、最も祝福された時に変えられました。6節、7節には、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 エルサレムの神殿で行なわれる儀式として、繰り返しささげられていた動物のいけにえは、「視聴覚教材」として、罪の贖いを指し示していました。その贖いが、突如として、イザヤにとっての現実になったのです。主のご臨在に触れて、自分がたちまちのうちに滅ぼされることを、恐ろしいまでの現実として実感した時に、動物のいけにえによって示されていた贖いの「本体」が立ち現れてきて、イザヤを覆ってくれました。そして、イザヤの不義は取り除かれ、罪が贖われたということが宣言されました。
 救いとさばきに関する主のみこころを直ちに執行するために待機しているセラフィムが、イザヤの方にやって来ました。それは、イザヤが実感したとおりであれば、イザヤに対するさばきを執行し、イザヤを滅ぼすはずでした。しかし、栄光の主のご臨在の御前には、罪の贖いが備えられていました。セラフィムは、その贖いをイザヤに当てはめて、イザヤの罪を贖うという主のみこころを実現したのです。
 先ほど、私たちが、栄光の主のご臨在に触れているかどうかを測るための重要な尺度の一つは、自分の罪の自覚であると言いました。そのもう一つの尺度が、この自分では何もできないイザヤのように、主が一方的な恵みによって備えてくださった贖いを受け取っていることです。
 この二つのことは、一つのことの裏表です。どんなに深い罪の自覚があっても、主の贖いの恵みに触れていないとしたら、それは、栄光の主のご臨在に触れたことのしるしではありません。また、自分では主の恵みを受けたと思って、そのありがたさに涙を流しても、主の御前に罪を自覚していないのであれば、その人は、栄光の主のご臨在に触れて、贖いの恵みを受け取ったとは言えません。
 8節以下に記されていることから分かりますように、主が一方的な恵みによって備えてくださった贖いによって、罪を聖めていただいたイザヤは、恐れなく、主の御声を聞くことができるようになりました。そして、

だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。

という主の御声を聞いたときには、大胆にも、

ここに、私がおります。私を遣わしてください。

と応えています。それは、主の備えてくださる贖いが完全な贖いであることを意味しています。
 私たちには、このイザヤが幻のうちに経験した罪の贖いの現実がさやかに示されています。その贖いは、御子イエス・キリストの十字架の死によって現実となって、私たちに与えられています。
 ヘブル人への手紙10章19節〜22節では、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と言われています。


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