(第50回)


説教日:2001年9月2日
聖書箇所:イザヤ書6章1節~13節


 今日も、イザヤ書6章に記されています、一般に「預言者イザヤの召命体験」と呼ばれる記事からお話しします。
 イザヤは、南王国ユダにおいて預言者としての活動をしました。イザヤ書1章1節には、

アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

と記されています。
 南王国ユダは、52年にわたるウジヤの治世において、繁栄と安定を享受しました。それは、突き詰めていきますと、ウジヤが主のみこころを求めたことに対して、主が祝福をもって応えてくださったためでした。
 しかし、半世紀におよぶ繁栄の中で、ウジヤもユダ王国の民も主の御前に高ぶってしまいました。申命記8章11節~20節には、途中を省略しますが、

 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。 ・・・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。
 あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。

と記されています。
 ウジヤもユダ王国の民も、主がモーセをとおして戒め、警告しておられたことを忘れてしまったのです。
 主の御前に高ぶって主の聖さを冒したウジヤは主のさばきによって撃たれました。同じように、ユダ王国の民も、主の御前に高ぶって、さばきを招く道を歩み始めていました。「ウジヤ王が死んだ年」は、そのような、ユダ王国の歴史の一つの転換点でもありました。その年に、イザヤは6章に記されている「召命体験」をいたします。
 イザヤがこの時に至るまでに、すでに、預言者として活動をしていて、ここで新たな局面を踏まえての「再召命」を受けたのか、この時に初めて預言者としての召しを受けたのかについては意見が分かれています。どちらの言い分にもそれなりのものがあって、判断が難しいところです。最近の聖書学者たちの意見は、イザヤはこの時に初めて預言者としての召しを受けたという方向に傾いているようです。けれども、私は、これがイザヤの再召命であると考える根拠の方が強いと感じています。(興味のある方は、個人的にお聞きくだされば、お話しいたします。)
 イザヤがこの時に初めて預言者として召されたのだとしても、イザヤがすでに預言者的な眼で歴史を見ていたことは確かです。ユダ王国全体がウジヤ王の治世の繁栄の中で高ぶっている中で、イザヤもただそれに流されているだけであったというのであれば、いくら栄光の主のご臨在に触れたといっても、5節に記されている、

  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。

という告白は生まれてきません。また、何の準備もないのに、9節、10節に記されているような、さばきの宣言を託されても受け止めることは出来ません。イザヤは、ユダ王国の繁栄と安定の時代に、すでに、主のさばきを受けるであろうことを感じ取っていたので、さばきが下される理由を聞くことはなく、ただ、

主よ、いつまでですか。

という問いかけをしただけでした。そして、11節~13節に記されていますように、そのさばきの厳しさが示されても、それをそのまま受け止めています。
 これらのことは、イザヤには、この時すでに、預言者的な洞察があったことを意味しています。そして、このことが、イザヤはこの時までに預言者としての活動をしていたのではないかと、私が考える理由の一つです。


 1節~4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。
 先週は、主の栄光のご臨在の御許で仕えているセラフィムについてお話ししました。
 セラフィムは主の救いとさばきの御業にかかわるみこころを実行する生き物であると考えられます。ここでは、セラフィムは、いつ、どのような主のみこころが示されても、直ちに、それに応じることができるような態勢にあることが示されています。そのセラフィムは、主のご臨在の御許において主に仕えているものとして、主に仕えることの中心であり、出発点であり、到達点でもある礼拝をささげています。
 セラフィムは複数形ですので、そこには複数のセラフィムがいたことが分かります。けれども、その数は示されてはいません。3節で、

互いに呼びかわして言っていた。

と言われていることから、どうやら、二つに分かれて主を讃美していたようです。それが、二人のセラフィムが一人づつ分かれているのか、もっと多くのセラフィムが二つのグループに分かれているのかは分かりません。
 また、文法の上では、

互いに呼びかわして言っていた。

と言われていることは、この訳にも表わされていますように、それが、一度だけのことではなく、頻繁になされていたことを示しています。この場合は、セラフィムは絶えず主を讃美していたのです。
 そのセラフィムの讃美は、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

というものでした。

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

というように、「聖なる」という言葉が3回繰り返されているのは、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)の聖さを強調するためです。これが、三位一体の神さまの御父と御子と御霊に当てはめられて、3回繰り返されているということではありません。
 この3回の繰り返しによる強調は、単なる言葉の上での強調にとどまるものではなく、その現実が常に新鮮で圧倒的なものであることを表わしていると考えられます。
 本当にきれいな景色を初めて見た人は、内側から揺り動かされて思わず「きれい」と叫びます。景色などの場合には、何度もそれを見ているうちに馴れてきて、その感動が薄れてしまうことがあります。私は小学生の時に、初めて田舎の山に登ってその裏側を見ました。そこは、ベニマンサクが生育する南限とされているところで、ベニマンサクが一面に生えていました。その紅葉で山肌全体が燃えているように見えて、その衝撃に私は思わず息を飲んでしまいました。しかし、その強烈な印象を胸にして、次にその山に登った時には、それほどの衝撃はありませんでした。
 しかし、主の聖さと栄光には、そのようなことがありません。セラフィムたちは、絶えず主の聖さと栄光の現実にさらされています。セラフィムたちにとっては、主の聖さと栄光が、常に、圧倒的なものとして迫ってきます。そのために、セラフィムたちは、絶えず、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と讃美し続けるほかはない状態にあるのです。

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

というセラフィムたちの讃美で繰り返されている「聖なる」という言葉(カードーシュ)は、この場合、「万軍の主」の聖さを表わしています。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、この「聖なる」という言葉によって表わされている神さまの聖さは、基本的に、神さまが、神さまによって造られたものと「絶対的に」区別される方であることを表わしています。
 神さまが、神さまによって造られたものと「絶対的に」区別される方であるということは根拠があります。それは、神さまの存在と一つ一つの属性が無限、永遠、不変であり、その存在と属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変であることです。言い換えますと、神さまはあらゆる点において、無限に豊かな方であるということです。これに対して、神さまによって造られたものは、私たちには気の遠くなるような広がりをもっている宇宙であっても、御使いであっても、あらゆる点において限りのあるものです。それで、神さまは、これらのものと「絶対的に」区別される方であるのです。
 そして、神さまが神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを表わすのが、神さまの聖さです。
 セラフィムたちは、また、

  その栄光は全地に満つ。

と言って、神である主の「栄光」を讚えています。
 神さまの栄光は、神さまの聖さと表裏一体の関係にあります。神さまの聖さは、神さまが神さまによって造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを表わしています。これに対して、神さまの栄光は、神さまの無限、永遠、不変の存在と一つ一つの属性の輝きです。その意味では、神さまの栄光は、神さまの聖さを表現するものであると考えることができます。
 神さまの聖さが、神さまの存在と一つ一つの属性が無限、永遠、不変であり、その存在と属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変であることに基づいていて、造られたすべてのものと「絶対的に」区別される方であることを意味しているのであれば、造られたものは、神さまの聖さを把握し尽くすことはできません。また、神さまの聖さを表現すると考えられる、神さまの栄光も無限、永遠、不変の栄光ですから、どのような被造物も、直接的にその栄光に触れることは出来ません。ただ、神さまが私たちの限界に合わせて啓示してくださる栄光に触れることが出来るだけです。それで、私たちには、被造物としての限界の中で神さまの聖さを告白し、神さまの栄光を讚えることができるだけです。
 そのような私たちが神さまの聖さを告白し、栄光を讚える唯一の方法は、神さまがご自身の聖さを啓示してくださっている、栄光のご臨在の御前で、神さまを礼拝することです。神さまは礼拝されるべき方であり、私たちは神さまを礼拝すべきものであるということにおいて、神さまと私たちの「絶対的な区別」が告白されるのです。
 その意味で、私たちが礼拝すべき方は、神さまお一人です。そして、神さま以外のものを礼拝することは、神さまの聖さを冒すことです。また、その意味で、神さまを礼拝することは、神さまの聖さと栄光をわきまえて、それを讚えることを中心としています。
 ですから、セラフィムたちは、自分たちに啓示されている神さまの聖さと栄光の現実に触れながら、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と、神さまを讃美し礼拝しているのです。
 もちろん、セラフィムが、

おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい

と言われていることも、セラフィムが主に栄光を帰し、自らの身を低くして主を礼拝する時の姿勢です。
 主の聖さを告白したセラフィムは、続いて、

  その栄光は全地に満つ。

と告白しています。
 この、

  その栄光は全地に満つ。

と訳されている、セラフィムの言葉においては、「その栄光」が最後にきています。また、「満つ」と訳されている言葉は名詞で、「満たしているもの」を表わしています。これらのことを生かして訳しますと、

  全地を満たしているものは、その栄光。

となります。この場合は、「全地を満たしているもの」が主語であると理解することになります。
 そして、この、

  全地を満たしているものは、その栄光。

というセラフィムの言葉からは、二つのことを汲み取ることができます。
 一つは、「全地を満たしているもの」が、主語として強調されているということです。このことは、新改訳のように、「その栄光」を主語と理解して、

  その栄光は全地に満つ。

と訳しても変わりはありません。というのは、この訳のように理解しても、ヘブル語の原文では、「全地を満たしているもの」が、「その栄光」の前にきていて、強調されているということになるからです。
 もう一つは、主の栄光は、ただ、この「全地」を満たしているだけではないということです。ここで、「その栄光」と言われているのは、御使いや天体を含めた天のすべてのものと、この「全地」にあるすべてのものを御手のうちに治めておられる「万軍の主」の栄光のことです。ここでは、「全地を満たしているもの」は、そのような、「万軍の主」の栄光であると言われているのです。
 新改訳のように、

  その栄光は全地に満つ。

と理解しますと、主の栄光がこの全地に満ちているだけであるというような印象を与えかねません。もっとも、私たちは、もともと、神さまの栄光の現われがこの地に限られていると考えることはありませんので、

  その栄光は全地に満つ。

という言葉から、主の栄光はこの全地に満ちているだけであるというような印象をもつことはないと思います。
 このように、セラフィムたちは、「万軍の主」を讚えつつ、主の聖さを告白した後、「全地を満たしているもの」は、「万軍の主」の栄光であるとあかししています。
 このセラフィムの告白とあかしは、「万軍の主」の栄光のご臨在の御許から、預言者として遣わされるイザヤに対する啓示としての意味をもっています。それがどのような意味をもっているのか、考えてみましょう。
 かつて、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、主、ヤハウェの契約の民とされたイスラエルの民は、主がご臨在されるシナイの山の麓で金の子牛を作り、これを主ヤハウェであるとして礼拝しました。そのようなイスラエルの民のために、モーセは、繰り返し、主に執り成しました。その執り成しの中で、モーセは、イスラエルの民が主の契約の民であることの本質について、

私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。
出エジプト記33章16節

と、主に申し上げています。
 確かに、主の契約の民の本質的な特性は、その民の間に主がご臨在してくださっていることにあります。そこに主のご臨在がなければ、イスラエルの民は、主の契約の民としての本質を失ってしまいます。
 このことと符合して、主の契約の祝福は、レビ記26章11節、12節に記されています、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という、主の御言葉によってまとめられます。
 そして、そのことを実現してくださるために、主は、聖所を与えてくださいました。出エジプト記25章8節、9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されているとおりです。
 この聖所は、イスラエルの民が荒野を旅していたときには、移動することができるように、幕屋の中にありました。そして、イスラエルの民が約束の地であるカナンに定着して、ダビデとソロモンによって王国が確立した後には、それに合わせて、エルサレムの神殿の中にありました。
 ご存知のように、ウジヤ王は、主の御前に高ぶって、主の聖所にある香を焚く壇の前に行って、主の御前に香を焚こうとして、主の聖さを冒してしまいました。
 また、ウジヤと同じように、主の御前に高ぶっているユダ王国の民も、主の御前に罪を犯し、主の聖さを冒し続けていくようになります。捕囚期の預言者エゼキエルが見た幻の中では、エルサレムの神殿において、ユダ王国の民が様々な形の偶像礼拝をしていました。
 そのようなユダ王国の民のもとに、預言者として遣わされたイザヤは、主のさばきを宣言することになります。そして、そのさばきは、バビロンの手によってユダ王国が滅亡し、主の聖所のあるエルサレムの神殿が破壊されてしまうに至るものでした。
 そのことは、イザヤにとって、大きな問題を生み出すことになります。もし、主の契約の民であるユダ王国が滅亡し、主の聖所のあるエルサレムの神殿が破壊されてしまうとすれば、主のご臨在はどうなるのか、また、主の契約の民はどうなるのか、さらには、父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約の約束はどうなるのかということです。
 この問題に対する答えの鍵が、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

というセラフィムの讃美をとおして啓示されています。
 契約の神である主、ヤハウェは、御使いや天体を含めた天のすべてのものと、この「全地」にあるすべてのものを御手のうちに治めておられる「万軍の主」です。その「万軍の主」の栄光は、主がお造りになったすべてのものを満たしています。先週引用しました、エペソ人への手紙1章23節の言葉を使えば、「万軍の主」は「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」です。エペソ人への手紙では、この方が栄光のキリストであることが示されています。
 ですから、「万軍の主」の栄光は、エルサレムの神殿の聖所に限定されているのではなく、「全地を満たしているもの」なのです。エルサレムの神殿の聖所は、「万軍の主」の栄光のご臨在がどのようなものであるかを、イスラエルの民に教えるための地上的な「模型」です。そして、そのイスラエルの民も、主の契約の民がどのようなものであるかを示すための地上的な「模型」です。
 もし主の栄光のご臨在が「全地を満たしているもの」であるのであれば、主の栄光のご臨在はエルサレムにある神殿に限定されてはいません。そして、主のご臨在の御前に立って主を礼拝することが主の契約の民の本質であれば、主の契約の民は、ユダ王国に限定されるものではありません。
 もちろん、そこには、「全地」に散らされているすべての民が、主の御前に罪を犯して堕落しているために、主のご臨在の御前に立つことができないという問題が、厳然と横たわっています。「全地」に散らされているすべての民が主のご臨在の御許に召し集められるためには、この問題が解決されなければなりません。このことも、イザヤの見た幻の中で示されていますが、それについては、改めてお話しします。
 自分たちが主に選ばれた契約の民であり、エルサレムの神殿は主の神殿であり、そこに主のご臨在があるということを信じきっているユダ王国の民には、主のさばきによってユダ王国が滅亡し、エルサレムの神殿が破壊されるということは、とても信じられないことでした。言い換えますと、ユダ王国の民は、地上的な「模型」にとらわれてしまっていて、その枠から抜け出ることができないでいたのです。
 これに対して、イザヤは、主のさばきによってユダ王国が滅亡し、エルサレムの神殿が破壊されることを預言するという任務を託されたことによって、逆に、地上的な「模型」にとらわれることから解放されて、「万軍の主」の栄光のご臨在が「全地を満たしているもの」であるということの意味を悟るように導かれていったと考えられます。
 そのことは、その後のイザヤの預言から知ることができます。その例は、先週も引用しました66章1節、2節に記されている、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ――主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。

という言葉に見られます。
 もう一つの例を見ますと、やがて、イザヤは、全ての民が主のご臨在の御許に召し集められ、主を礼拝するようになることを預言するようになります。56章4節~7節には、

まことに主はこう仰せられる。
 「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

と記されています。
 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第49回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第51回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church