![]() |
説教日:2001年8月26日 |
すでにお話ししましたように、イザヤは南王国ユダにおいて預言者として活動しました。1節に述べられている「ウジヤ王が死んだ年」は、ユダ王国の歴史の一つの転換点でもありました。歴代誌第二・26章3節に、 ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。 と記されていますように、ウジヤは16歳の時から52年間ユダ王国を治めました。この52年にわたるウジヤの治世は、ユダ王国の繁栄と安定の時でした。それは、ウジヤが主を求め、主のみこころにしたがって国を治めたことに対する、主の祝福によることでした。 しかし、歴代誌第二・26章16節に、 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。 と記されていますように、ユダ王国の繁栄とともに、ウジヤの心は高ぶり、主の聖さを冒してしまいました。そのために、ウジヤは、主のさばきを受けました。 このウジヤの高ぶりは、ウジヤだけのことではなく、ユダ王国全体の高ぶりを象徴するようなことでした。52年にわたるウジヤの治世の繁栄と安定を享受したユダ王国の民も、主の御前に高ぶって、その心がかたくなな状態になってしまっていました。そして、ウジヤ王が主の御前に高ぶって、主のさばきによって撃たれたように、主の御前に高ぶっているユダ王国にも、主のさばきが迫っていました。 事実、「ウジヤ王が死んだ年に」「召命体験」をしてユダ王国に遣わされたイザヤに託されたのは、9節、10節に、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。 と記されていますように、ユダ王国に対するさばきを宣言することでした。 そのような、ユダ王国の歴史の一つの転換点とも言うべき時に、主は、イザヤにご自身をお示しになりました。 ここでイザヤは、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言っています。これは、「私は ・・・・ 見た」と言われていますように、確かに、イザヤが経験していることです。しかし、この出来事全体は、主がイザヤのためになしてくださったことです。つまり、これは、イザヤが主を見ようとして主を見たことではなく、主がご自身をイザヤに示してくださったので、イザヤが主を見たということです。 主のことは、まず、「高くあげられた王座に座しておられる主」であると言われています。すでにお話ししましたように、ここで言われている「主」は「アドナイ」(アドーナーイ)で、ご自身がお造りになったすべてのものを治めておられる主権者であられることを意味しています。しかも、この「アドナイ」には、主が「私の主」であられるというような意味合いがあります。 イザヤは、ユダ王国に繁栄と安定をもたらしたウジヤ王が死んだ年という、ユダ王国の歴史の一つの転換点に立っています。そのイザヤの預言者的な目には、ユダ王国の高ぶりが主のさばきを招くに至ることが見え始めていました。そして、実際に、栄光の主のご臨在の御許から預言者として遣わされるに当たって、ユダ王国に対するさばきの宣言をするようにとの務めを託されました。 主は、そのような意味でイザヤをお遣わしになるに当たって、ご自身が、「高くあげられた王座に座しておられる主」であられることをお示しになりました。イザヤは、この後、主のさばきが、最終的には、バビロンの捕囚という形で、ユダ王国の滅亡をもたらすことになることを預言するようになります。その際に、イザヤは、そのような厳しいさばきも、「高くあげられた王座に座しておられる主」がバビロンをお用いになって、ユダ王国をおさばきになることであるという、目に見える現実の奥にある、主の御手のお働きを見るための視点を与えられたのです。 このことは、先週もお話ししましたように、セラフィムたちの賛美とイザヤの言葉に出てくる「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)という主の御名においてよりはっきりと示されるようになります。 「万軍の主」という呼び名は、契約の神である主、ヤハウェが、天体や御使いを含めた天のすべてのものも、地上のすべての国々も、御手のうちに治めておられる主であられることを示しています。このことは、また、契約の神である主、ヤハウェは、天のすべてのものも地上の国々も御手のうちに治めておられる主として、ご自身の契約のうちに約束してくださっておられることを、必ず実現してくださるということを意味しています。 主がこのような方であることを信じた人の例として、南王国の王ヒゼキヤのことを見てみましょう。すでに北王国イスラエルを滅ぼしていたアッシリヤの王セナケリブが、主をそしって、ヒゼキヤに降伏を迫ったとき、ヒゼキヤは主に祈りました。イザヤ書37章15節〜20節には、 ヒゼキヤは主に祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」 と記されています。 ヒゼキヤは、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)だけが「地のすべての王国の神」であられることを告白しつつ、そのことに基づいて祈っています。そして、主は、ヒゼキヤの祈りを聞いてくださいました。36節〜38節には、 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。 と記されています。 6章1節の最後には、 そのすそは神殿に満ち、 と言われています。 これによって、少なくとも二つのことが示されています。一つは、「すそ」のことが述べられていることによって、主はご自身のことを、衣をまとった方として、イザヤにお示しになったことが分かります。ただし、ここには「衣」という言葉はありません。 この衣は、主のことが1節で「高くあげられた王座に座しておられる主」と言われていることや、5節で「万軍の主である王」と言われていることと合わせて見ますと、王の威厳を表わす「王服」のことであると考えられます。「主」は王服をまとって「高くあげられた王座に座しておられる」のです。これによって、「主」が、すべてのものの王として治めておられることが示されていると考えられます。 もう一つは、その「すそ」が「神殿に満ち」ていたと言われていることによって、栄光の王であられる主のご臨在が、その「神殿」を満たしていたことが示されています。逆に言いますと、この「神殿」は、万物の王としての栄光に満ちておられる「主」のご臨在によって満たされており、そのようなものとして聖別されていたのです。 この「神殿」は、幻の中で示されたものですので、その当時、エルサレムのシオンの丘に、ソロモンによって建てられていた神殿のことではありません。ただ、幻の中で示されたことは、イザヤに分かるように示されたはずです。イザヤはエルサレムの神殿になじんでいたことでしょうから、この幻の中で示された神殿も、基本的な部分では、エルサレムの神殿が表象として用いられていたと考えられます。 そうではあっても、そこには重要な違いがあります。ソロモンが建てたエルサレムの神殿のことを記している列王記第一・6章19節〜28節には、 それから、彼は神殿内部の奥に内堂を設け、そこに主の契約の箱を置くことにした。内堂の内部は、長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ二十キュビトで、純金をこれに着せた。さらに杉材の祭壇にも純金を着せた。ソロモンは神殿の内側を純金でおおい、内堂の前に金の鎖を渡し、これを金でおおった。神殿全体を、隅々まで金で張り、内堂にある祭壇もすっかり金をかぶせた。内堂の中に二つのオリーブ材のケルビムを作った。その高さは十キュビトであった。そのケルブの一方の翼は五キュビト、もう一方の翼も五キュビト。一方の翼の端からもう一方の翼の端まで十キュビトあった。他のケルブも十キュビトあり、両方のケルビムは全く同じ寸法、同じ形であった。一方のケルブは高さ十キュビト、他方のケルブも同じであった。そのケルビムは奥の神殿の中に置かれた。ケルビムの翼は広がって、一つのケルブの翼は一方の壁に届き、もう一つのケルブの翼はもう一方の壁に届き、また彼らの翼は神殿の真中に届いて翼と翼が触れ合っていた。彼はこのケルビムに金をかぶせた。 と記されています。 エルサレムの神殿において、主の栄光のご臨在を表示し、その聖さを守っている生き物はケルビムです。しかし、イザヤが幻のうちに見た神殿においては、セラフィムがいて主に仕えていました。このことは、エルサレムの神殿の状況とは一致していません。 そこで問題になるのは、ケルビムとセラフィムの違いですが、そのことを考えるために、セラフィムのことを見てみましょう。セラフィムは、主のご臨在の御許で仕えている生き物です。そのような生き物としては、聖書の中では、ここに記されているだけです。 しかし、言葉だけの上から言いますと、セラフィム(セラーフィーム)は複数形で、その単数形は、サーラーフです。このサーラーフは、以前お話ししました、民数記21章6節に出てきた「燃える蛇」(複数形)の「燃える」を表わしています。また、イザヤ書14章29節には、 喜ぶな、ペリシテの全土よ。 おまえを打った杖が折られたからと言って。 蛇の子孫からまむしが出、 その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。 と記されています。この最後に出てくる「飛びかける燃える蛇」の「燃える蛇」がサーラーフです。この言葉は、30章6節にも出てきます。そこでは「飛びかける蛇」と訳されていますが、それは、14章29節の「飛びかける燃える蛇」とまったく同じ言葉です。 この「飛びかける燃える蛇」は、少なくとも、14章29節では象徴的な存在のことですが、これとセラフィムが同じ言葉で表わされていることの意味は、はっきりとは分かりません。両者に共通しているのは、飛ぶものであることと燃えるものであることです。また、「飛びかける燃える蛇」が主のさばきを執行するために用いられていることと、セラフィムが、イザヤを聖める主の御業のために用いられていることからしますと、主の救いとさばきの御業の執行にかかわるという点での共通性があるのかも知れません。 6章1節、2節では、 そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 と言われています。どうやら、セラフィムは立っている状態で、飛んでいるようです。 セラフィムには三対の翼、合計六つの翼がありました。「その二つで顔をおおい」というのは、聖なる主の無限の栄光の御前に、顔を上げることができないからです。テモテへの手紙第一・6章15節、16節に、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されていることは、人間だけでなく、すべての御使いたちにも当てはまります。 「二つで両足をおおい」ということは、栄光の主の御前に、セラフィムが自らの身を低くしていることの現われです。足は地に接するものとして、いちばん低い部分と考えられています。セラフィムは、そのような部分を主の御前にさらすことがないようにしているのです。言い換えますと、自分には、主の御前にさらすことができないような部分があることを表わしています。とはいえ、これは、セラフィムの足が汚れているということを意味してはいません。あくまでも、栄光の主の御前においては、その足をさらけ出すことができないということです。 また、「二つで飛んでおり」ということは、いつ主のみこころが示されても、それに従い、直ちに実行に移す態勢にあることを意味しています。 このようなことから、セラフィムとケルビムの違いを見て取ることができます。 いろいろな機会にお話ししましたが、ケルビムは、主の栄光のご臨在がそこにあることを表示しており、その栄光の聖さを守っています。その意味で、ケルビムの務めは、いわば、定まったものです。これに対して、セラフィムは、主の御前で仕えるものとして、その都度示される主のみこころに従うことができるように、常にその態勢を整えています。そのセラフィムにどのようなみこころが示されるかは、定まってはいません。それがどのようなみこころであっても、セラフィムは、直ちにそれに従う態勢にあるのです。 このように、セラフィムは、栄光の主のご臨在の御前で仕えている御使いです。セラフィムは、どのようなみこころにも直ちに従う態勢にあります。そのようなセラフィムは、所在ないもののように、漫然と、主の指示を待っているのではありません。常に、主に仕えるものの最高の務めに携わっています。それは、3節に、 互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 と記されていますように、主の栄光の御前で主を讚え、主を礼拝することです。 セラフィムは、主の栄光のご臨在の御前で仕える御使いとして、どのようなみこころにも、直ちに従う態勢にあります。その態勢のいちばん奥にあるのが、栄光の主ご自身を礼拝することです。これは、私たちにも当てはまることです。私たちの奉仕が主に対する奉仕であるなら、それは、主ご自身のご臨在の御前において、主を讚え、主を礼拝することから始まります。そして、主に対する奉仕は、すべて、主を讚え、主を礼拝することへと帰ってきます。 このセラフィムの礼拝については、改めてお話しします。ここでは、先ほども触れましたが、このセラフィムの存在があることから分かりますように、イザヤが幻のうちに見た神殿がエルサレム神殿のことではないということから、一つのことをお話ししたいと思います。 イザヤの預言の中で示される主のさばきは、最終的には、バビロン軍によるユダ王国の滅亡に至ります。それによって、エルサレムにある主の神殿も破壊されることになります。地上の国家にとって、それは、国家の滅亡であると同時に、そこに祀られている神々の消滅を意味していました。しかし、主の神殿の場合は、これとは違います。 すでに、繰り返しお話ししてきましたように、地上の国家としてのユダ王国は、やがて来るべきメシヤの御国の地上的な「ひな型」あるいは「模型」です。エルサレムの神殿も地上的な「ひな型」あるいは「模型」です。 もし、地上的な「ひな型」あるいは「模型」が、地上的な「ひな型」あるいは「模型」としての意味を失ってしまったときには、それは、主によって破棄されてしまいます。ユダ王国が主の御前に高ぶって主のさばきを招き、バビロンの捕囚に至ったことと、その際に、エルサレムの神殿が破壊されてしまったことは、まさにそのためのことです。 イザヤは、幻のうちに示された「万軍の主」がご臨在される神殿が、地上的な「ひな型」あるいは「模型」であるエルサレムの神殿を越えた神殿を示していることを理解するようになったと考えられます。そのことは、やがて、イザヤが、終わりの日に実現する栄光の主の来臨を預言する言葉の中で、主のご臨在が天と地に満ちていることと、人の手によって建てられた神殿が空しいものであることを示していることから知ることができます。66章1節、2節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 ――主の御告げ。―― わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 と記されています。 古い契約の下で建てられたエルサレムの神殿は地上的な「ひな型」あるいは「模型」でした。その本体は、復活のキリストのからだであり、栄光の主が御霊によってご臨在される新しい契約の共同体である教会です。 新しい契約の共同体としての、キリストのからだである教会は、そこに栄光の主が御霊によってご臨在しておられるところです。エペソ人への手紙1章20節〜23節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 ここにあかしされていることと、イザヤが幻の中で示された栄光の主のご臨在される神殿を比べてみますと、どうなるでしょうか。 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われていることは、栄光のキリストこそが「高くあげられた王座に座しておられる主」であられ、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)であられることを示しています。 また、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われていることは、キリストのからだである教会が「万軍の主」のご臨在しておられる神殿の本体であることを示しています。 確かに、ここには、セラフィムのことは記されていません。しかし、セラフィムによってささげられていた賛美と礼拝と同じ賛美と礼拝をささげる主の民がいます。そして、主のみこころを求めて、それを実行に移そうとしています。それは、もちろん、御子イエス・キリストの血による新しい契約の民である私たちのことです。 |
![]() |
||