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説教日:2001年8月12日 |
歴代誌第二・26章3節に、 ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。 と記されていますように、ウジヤは南王国ユダの王で、16歳の時から52年間ユダ王国を治めました。この52年という半世紀にわたるウジヤの治世は、ユダ王国の繁栄と安定の時でもありました。それは、歴代誌第二・26章5節に、 彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。 と記されていますように、ウジヤが、ゼカリヤの助言を得て、主を求め、主のみこころにしたがって国を治めたことに対する、主の祝福によることでした。 しかし、歴代誌第二・26章16節に、 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。 と記されていますように、ユダ王国の繁栄とともに、ウジヤの心は高ぶり、主の神殿の「香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に」入りました。香の壇の上で香をたくことは、主の御前に聖別された祭司の務めであって、そのためには聖別されていない王の務めではありませんでした。ウジヤは、異邦の王たちがしていたように、神殿の聖所に入って香をたこうとしたのです。ウジヤは、主のみこころに従う「主のしもべ」として立てられている点で、異邦の王たちと区別されている自分の立場を見失ってしまいました。 そのようにして、主の御前に高ぶって、主の聖さを冒したウジヤは、主のさばきを受けて、汚れた病とされている「ツァーラアス病」にかかってしまいました。その後の10年は、ウジヤは身を引いて、その子ヨタムが摂政としてユダ王国を治めました。 先週お話ししましたように、このウジヤの高ぶりは、ウジヤだけのことではなく、ユダ王国の民全体の高ぶりを象徴するようなことであったと考えられます。52年にわたるウジヤの治世の繁栄と安定を享受したユダ王国の民も、主の御前に高ぶって、かたくなな状態になってしまっていたのです。そのことは、ユダ王国に預言者として遣わされたイザヤに託されたメッセージから汲み取ることが出来ます。そのメッセージは、イザヤ書6章9節、10節に記されています、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。 という、ユダ王国に対する主のさばきの宣言でした。 このような主のさばきの宣言が、イザヤに託されたのは、ユダ王国の民が主の御前に高ぶって、その心がかたくなになってしまっていたからに他なりません。 それはまた、イザヤが、ユダ王国の民の心の高ぶりとかたくなさを感じ取っていたことをも意味しています。というのは、イザヤの側に何の自覚もないのに、このようなメッセージが突然与えられるということは考えられないことだからです。実際、5節に記されていますように、イザヤは、主のご栄光のご臨在に触れた時に、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 と言いました。自分を含めて、ユダ王国の民が「くちびるの汚れた民」であるという現実をわきまえていたのです。 このように、イザヤは、繁栄と安定の中で、主の御前に高ぶって、心をかたくなにしていたユダ王国の状態に気がついており、心を痛めていたと考えられます。 ウジヤの治世の繁栄と安定が、ウジヤが主を求めたことに対する、主の契約の祝福であれば、ユダ王国の高ぶりとかたくなさは、その祝福をのろいに変えるものでした。私たちは、主の啓示の言葉をとおしてこれらのことを見ています。その私たちの目には、ウジヤ王が自らの高ぶりによって主のさばきを招いたことは、ユダ王国が高ぶりとかたくなさによって主のさばきを招くに至ることへの前触れのような意味をもっていると写ります。おそらく、イザヤもこのことを、預言者的な目をもって見据えていたと思われます。 ウジヤ王は、自らの罪に対する主のさばきに気がついて、自らの身を引きました。ユダ王国の民も、ウジヤ王の身に起こったことから学んで、自らのおごりと高ぶりに気づいて、身を低くすべきでした。しかし、この時からウジヤ王が死ぬまでの10年間に、ユダ王国の民の間で罪の自覚と悔い改めがなされた形跡はありません。 このようなことから、イザヤは、自分がユダ王国の歴史の転換点に立っていることを自覚して、主を仰いだのだと思われます。そして、「ウジヤ王が死んだ年に」、イザヤ書6章に記されている「召命体験」をしたのだと思われます。 さて、イザヤは、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言っています。 イザヤは「主を見た」と言っていますが、人間は、二つの理由によって、神さまを見ることができません。 第一に、人間が見ることができるものは物質的なもので、光を反射して、人間の目の網膜に像を結ぶものです。 物質的なものとは、神さまがお造りになったこの世界とその中にあるもののことです。神さまは無限、永遠、不変の霊であられますから、神さまは物質的な方ではありません。また、物質的なものには限りがありますが、神さまには限りはありません。このように、神さまは物質的な存在ではないので、人間は神さまを見ることはできません。 これに対して、神さまは目で見ることはできないけれども、「心の目」で見ることができるのではないか、というような疑問が出されるかもしれません。 この「心の目」で見るということがどのようなことなのかは、いまひとつはっきりしません。それがどのようなことであったとしても、神さまは、いわゆる「心の目」で見ることもできません。というのは、「心の目」で見るといっても、それは、限りある人間の能力によることです。ところが、神さまは人間のあらゆる能力を無限に超えた方です。それで、どのような人間の能力を駆使しても、神さまを見ることはできませんし、想像することもできません。 第二に、いろいろな機会にお話ししてきましたように、神さまは、その存在において、無限、永遠、不変の方であるだけではなく、栄光においても、無限、永遠、不変の方です。それで、神さまによって造られたものは、無限、永遠、不変の栄光のうちにおられる神さまを見ることはできません。それは、たとえて言いますと、肉眼で太陽を直接的に見ることができないのと同じです。 テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。 人間は、これら二つの理由によって、神さまを見ることはできません。注意したいことは、今お話ししたことは、人間の方で、神さまを見ようとしても、見ることができないということです。また、神さまの「ありのままの姿」を、直接的に見ることができないということです。 それで、イザヤが、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と述べているのは、無限、永遠、不変の栄光のうちにおられる神さまを、直接的に見たという意味ではありません。無限、永遠、不変の栄光のうちにおられる神さまを、直接的に見ることができるのは、神さまご自身だけです。 では、イザヤが「主を見た」というのは、どのようなことなのでしょうか。 それは、神さまが、人間の能力に合わせて、人間に分かるように、ご自身を啓示してくださったということです。神さまが、ご自身はこのような方であるということを、イザヤに分かるような形で示してくださったのです。それで、この場合、神さまは、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身を表わしてくださっておられます。 イザヤが、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。 と言うとき、イザヤは、主の栄光のご臨在に触れているのですが、その栄光も、イザヤが耐えることができるようにと、限りなく制限された形で示されています。 神さまが、そのような形においてであっても、ご自身の栄光のご臨在をお示しになることには、確かな意味があります。神さまは、はっきりとした目的があって、ご自身の栄光のご臨在をイザヤに示してくださったのです。 このことを理解するために、今日は、ここで用いられている神さまの御名に注目してみたいと思います。その際、心に留めておきたいのは、神さまの御名は、神さまがどのような方であるかを私たちに示して下さる、啓示としての意味をもっているということです。主がイザヤに示して下さっている御名は、イザヤに対するメッセージです。主は、その御名によってあかしされているような方として、そこにご臨在しておられるということを、イザヤに伝えておられます。 イザヤは、 私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と言っていますが、新改訳では、この「主」は太字になっていません。それは、この「主」が契約の神である主の御名であるヤハウェではなく、アドナイ(アドーナーイ)が用いられているからです。 この「アドナイ」は、人間の社会の王や主人たちに当てはめられる「主」(アードーン)を、神さまに当てはめて用いるときの、いわば、「特別な読み方」です。人間の社会で、家臣やしもべが王や主人のことを「わたしの主」と呼ぶときには、「アドーニー」を用います。これを、神さまに当てはめるときには「アドナイ」(アドーナーイ)になります。 それで、この「アドナイ」は神さまをあがめて使う言葉ですが、特に、神さまがすべてのものの主として、すべてのものを所有しておられ、ご自身のみこころにしたがって治めておられる方であることを表わしています。 このことは、イザヤが、この方のことを、「高くあげられた王座に座しておられる主」と言っていることによっても表わされています。この「高くあげられた王座」の「高くあげられた」は、「高い、そして上げられた」というように、高いことを表わす二つの言葉を連ねて表わされていて、非常に高いことを示しています。「主」は非常に高く上げられた「王座に座しておられる」方です。このことも、「主」が、すべてのものを、ご自身のみこころにしたがって治めておられる方であることを表わしています。 もちろん、イザヤが「見た」と言っている「主」は、契約の神である主、ヤハウェです。そのことは、この「主」の回りにあって仕えているセラフィムが、この「主」を讚えて、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と歌っていることと、イザヤが、 ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。 と叫んでいることから分かります。 ここには「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)という呼び名が出てきます。「万軍の主」の「主」は新改訳で太字になっています。それは、この「主」が契約の神である主、ヤハウェであるからです。 けれども、セラフィムたちもイザヤも、主のことを、ただ単に「主」(ヤハウェ)と呼ぶのではなく、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)と呼んでいます。このことにも意味があると思われます。 この「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)という呼び名は、旧約聖書では261回ほど用いられていて、イザヤ書には62回ほど出てくると言われています。このことから、イザヤは、かなり頻繁にこの呼び名を用いていることが分かります。それは、イザヤが自分の「召命体験」において、「万軍の主」を見るという経験をしたからであると考えられます。 この「万軍の主」の「万軍」(ツェバーオース)は複数形ですが、その単数形(ツァーバー)は、基本的に、「軍隊」を表わしています。それは、地上の国家の軍隊ばかりでなく、主の御座の回りで仕えている御使いの群れや、神さまがお造りになった天体などをも表わすことがあります。 このことから、「万軍の主」という御名には、いくつかの意味が込められていると考えられます。 まず、「万軍の主」という御名の「主」(ヤハウェ)に注目しますと、「万軍の主」は、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の契約の民であるイスラエルを治めておられる王であることを表わしています。 また、「万軍の主」という御名は、契約の神である主、ヤハウェが、ご自身の民であるイスラエルだけでなく、エジプト、アッシリヤ、バビロンなど、強大な軍隊をもって地上を征服しようとする国々をも、御手のうちに治めておられることを示しています。 さらに、「万軍の主」という御名は、契約の神である主、ヤハウェが、御使いたちの群れや、ご自身がお造りになった広大な宇宙の全ての天体ををも御手のうちに治めておられることも示しています。ですから、セラフィムたちが、契約の神である主、ヤハウェのことを、「万軍の主」と呼んでいるのは、この方が自分たちの主でもあることを意識してのことであるわけです。 「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)という御名は、ただ単に、契約の神である主、ヤハウェが、地上のあらゆる国々を治めておられる方であり、御使いたちや天体をも治めておられる方であることを意味しているだけではなく、その方こそが、契約の神である主、ヤハウェであられるということをも意味しています。ですから、契約の神である主、ヤハウェは、「万軍の主」として、地上のあらゆる国々も、御使いたちも治めておられる方として、ご自身の契約の民の間にご臨在しておられることがイザヤに示されたのです。主は、ご自身の契約を守ってくださるために、地上のあらゆる国々も、御使いたちも治めておられます。 このことは、イザヤにとっては、どのような意味をもっていたでしょうか。 預言者として召されたイザヤに託されたのは、 行って、この民に言え。 「聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな。」 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、 その目を堅く閉ざせ。 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、 立ち返って、いやされることのないために。 という、ユダ王国に対するさばきの宣言でした。 イザヤ自身も、ウジヤの治世の末期において、ユダ王国の高ぶりとかたくなさが主のさばきを招くことは避けられないことを悟っていたと思われます。そして、ユダ王国に繁栄と安定をもたらしたウジヤも死んでしまいます。 そのような絶望的な状況の中で、なおも、主は、ご自身が、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)として、「高くあげられた王座に座しておられる」ことを、そして、ご自身の民の間にご臨在しておられることを、イザヤに示してくださったのです。 イザヤが宣言した主のさばきは、11節〜13節に、 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。 「町々は荒れ果てて、住む者がなく、 家々も人がいなくなり、 土地も滅んで荒れ果て、 主が人を遠くに移し、 国の中に捨てられた所がふえるまで。 そこにはなお、十分の一が残るが、 それもまた、焼き払われる。 テレビンの木や樫の木が 切り倒されるときのように。」 と記されていますように、徹底的な破壊をもたらします。それは、最終的には、バビロンの手によってユダ王国が滅亡し、「バビロンの捕囚」という事態に至るという、厳しい形を取ることになります。 しかし、そうではあっても、そのバビロンを用いて、ご自身の契約の民であるユダ王国をおさばきになるのは、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)です。「万軍の主」がユダ王国の民の間にご臨在しておられるからこそ、主の御前に高ぶって、心をかたくなにしているユダ王国はさばかれるのです。 異邦の国においては、その国の神々は、その国のパトロンですが、その国によって支えられています。その国の滅亡とともに、その神々も消滅してしまいます。それで、その神々がその国を滅ぼすというようなことは考えられません。しかし、主は「万軍の主」です。主はイスラエルばかりでなく、地の全ての国々を治めておられる主です。それで、ご自身の民であるイスラエルをおさばきになりますし、その他の全ての国々もおさばきになります。また、バビロンをお用いになって、ユダ王国をおさばきになることもあります。さらには、ペルシャをお用いになって、バビロンをおさばきになることもあります。 そうであれば、バビロンの手によってユダ王国が滅亡するという厳しいさばきがあっても、主の契約のうちに約束されていることは、必ず実現するということを信じることができます。 事実、先ほどの厳しいさばきの宣言の最後は、 しかし、その中に切り株がある。 聖なるすえこそ、その切り株。 という望みの約束で結ばれています。 根元から切り倒されたり焼かれたりした木であっても、その根元から新芽が出てくることがあります。そのように、「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)の厳しいさばきが執行された後に、なおも、恵みと約束によって残される、「聖なるすえ」と呼ばれる民があると言われています。 イザヤは、主のご臨在の御許から遣わされた預言者として、ユダ王国に対する主の厳しいさばきを宣言します。しかし、そのさばきの宣言の中に秘められている、「聖なるすえ」の回復の望みを宣べ伝えていきます。 それは、古い契約の中では、主が、ペルシャのクロスをお用いになって、イスラエルの民をバビロンから帰還させてくださり、エルサレム神殿が再建されるようにしてくださったことによって実現します。 しかし、それも、古い契約の下での「ひな型」あるいは「模型」として起こったことです。「聖なるすえ」は、最終的には、ご自身の十字架の死をもって、ご自身の民の罪を完全に贖ってくださり、罪の汚れを聖めてくださる御子イエス・キリストの贖いの御業によって生み出された、新しい契約の民において成就しています。「聖なるすえ」は、御子イエス・キリストの贖いの御業によって生み出されたのです。 このように見ますと、私たちの契約の神である主、ヤハウェが、「高くあげられた王座に座しておられる主」、また「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバーオース)として、すべてのものを治めておられることが、私たちにとっても意味をもっていることが分かります。 私たちは、「高くあげられた王座に座しておられる主」、また「万軍の主」の契約に基づいて贖い出された「聖なるすえ」として、この時代のこの国において生きています。これは、まことに厳しい時代ですが、その見える状況がどのようになっていくとしても、「聖なるすえ」の救いを完成してくださる「万軍の主」の恵みと約束の確かさに望みをおいて歩みたいと思います。 |
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