(第47回)


説教日:2001年8月5日
聖書箇所:イザヤ書6章1節〜13節


 今日、お話しするのは、イザヤ書6章1節〜13節に記されています、預言者イザヤが、栄光の主の顕現に接したという出来事です。
 1節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されています。
 ここでは、イザヤが「主を見た」のは「ウジヤ王が死んだ年」のことであったと言われています。このウジヤの死が、イザヤの経験の背景となっています。
 「ウジヤ王」につきましては、先々週と先週お話ししましたので、今日お話しすることと関係のあることを簡単に振り返っておきましょう。
 歴代誌第二・26章3節には、

ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。

と記されています。このウジヤの52年の治世は、最初の24年の間、ウジヤが父アマツヤの摂政としてユダ王国を治めたことと、最後の10年間、ウジヤの子ヨタムがウジヤの摂政としてユダ王国を治めたことを含んでいます。
 そして、この後の5節に、

彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。

と記されているとおりに、ゼカリヤの助言を得て主を求めたので、主は、ご自身の契約に基づいて、ウジヤが治めるユダ王国を栄えさせてくださいました。
 ウジヤの治世とまったく重なるというわけではありませんが、同時代に、北王国イスラエルを治めたのは、ヤロブアム(二世)です。ヤロブアムはウジヤと違って主を求めることはありませんでしたが、主のあわれみによって、北王国イスラエルも栄えました。また、この時代には、北王国イスラエルと南王国ユダの間には争いがなかったようです。それで、その時代の二つの王国を合わせますと、まさに、ダビデ、ソロモン時代を彷彿させるものがあったのです。
 このように、ウジヤの52年の治世は、繁栄と安定の時期でした。
 ウジヤに与えられた繁栄と安定は、ウジヤが、ゼカリヤの助言にしたがって主を求めた結果、主から与えられた祝福によるものでした。その意味で、ウジヤは、主の祝福の器として立てられて、さまざまなことで輝かしい業績を上げました。この場合に忘れてはならないのは、ウジヤが王として立てられたこと自体が、主がダビデに与えてくださった契約に基づくことであり、ウジヤが祝福を与えられたのも、主がモーセをとおしてイスラエルの民に与えてくださっていた契約に基づくことであったということです。
 しかし、ウジヤは、晩年になって、ユダ王国の繁栄が、主の一方的な恵みによって与えられた契約に基づくものであることを見失ってしまいました。ウジヤの治世の42年目のことを記す、列王記第二・26章16節に、

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。

と記されているように、ユダ王国の繁栄によってウジヤの心は高ぶり、異邦の国の王たちのように、自ら祭司的な王として振る舞おうとして、主の神殿の聖所で香を焚こうとするまでになりました。
 このようにして、ウジヤは、高ぶりから、主の聖さを冒してしまい、「ツァーラアス病」で撃たれてしまいました。そして、自ら汚れたものとなったことを認めて、最後の10年は、隔離された所に住むことに甘んじました。
 すでにお話ししましたように、そのように、主の聖さを冒して、主のさばきの御手によって撃たれたウジヤも、主のあわれみを受けて、その恵みに頼って生きるようになったと考えられます。


 これらのことは、ユダ王国の王であるウジヤのことですが、このことを、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

という、イザヤ書6章1節の言葉との関連で見るとどうなるでしょうか。
 一般に、この「ウジヤ王が死んだ年」ということは、52年にわたるウジヤの治世の終わりを告げるもので、それまでに与えられたユダ王国の繁栄と安定に影を落とす出来事であると考えられています。それは、まさにそのとおりです。イザヤは、ウジヤ王の死という象徴的な出来事が示している、繁栄と安定の時代の終わりを敏感に感じ取って、主を仰いだのだと思われます。そして、イザヤ書6章に記されている、主の栄光の顕現に接したのだと思われます。
 しかし、このこととの関連で、一つの疑問が浮かんできます。それは、ウジヤの治世の42年目のこととして、

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。

と記されていることは、確かに、ウジヤの心の高ぶりを記していますが、果たして、それは、ウジヤに限ったことなのだろうかということです。ユダ王国が繁栄したために、その心が高ぶったのは、その王であるウジヤだけだったのだろうかということです。
 これに対しましては、王であるウジヤだけではなく、ユダ王国の民全体が、ウジヤによる52年という長きにわたる統治の中で、繁栄と安定を味わったことによって、主の御前に高ぶって、主を求めることがなくなったと考えられます。
 そのことは、イザヤ書6章の記事から知ることができます。6章9節、10節には、栄光の主のご臨在に接して預言者としてさらに整えられたイザヤが、主のご臨在の御許から遣わされるに当たって、ユダ王国の民に語るべきこととして、主から委ねられた言葉が記されています。そこには、

すると仰せられた。
  「行って、この民に言え。
  『聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。』
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
  立ち返って、いやされることのないために。」

と記されています。
 少し分かりにくいかもしれませんが、ここでは、主が、かたくななユダ王国の民に対するさばきを執行されることが示されています。イザヤは、そのようにさばきを執行される主の主の預言者として遣わされました。主がご自身の預言者を遣わしてくださって、ご自身の御言葉を語ってくださることは、主の恵みによることです。しかし、心がかたくなになってしまっているユダ王国の民は、主の御言葉を悟ることがないというのです。それによって、ユダ王国の民の心は、ますますかたくなになってしまうという悪循環に陥って、ついには、最終的なさばきによる国家の破滅に至ってしまうことになります。そのことは、11節〜13節に、

私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。
  「町々は荒れ果てて、住む者がなく、
  家々も人がいなくなり、
  土地も滅んで荒れ果て、
  主が人を遠くに移し、
  国の中に捨てられた所がふえるまで。
  そこにはなお、十分の一が残るが、
  それもまた、焼き払われる。
  テレビンの木や樫の木が
  切り倒されるときのように。
  しかし、その中に切り株がある。
  聖なるすえこそ、その切り株。」

と記されていることから分かります。
 このように、ユダ王国の民が、主の御言葉を悟ることがないということ自体が、主のさばきが執行されていることの現われであるのです。
 このことから、ユダ王国の民全体が、52年にわたるウジヤの治世の繁栄と安定にどっぷりと浸かって、心が肥え太り、主に対してかたくなな状態になってしまっていたことが分かります。その意味では、ウジヤ王の心が高ぶったことは、ユダ王国全体の高ぶりの象徴のようなことです。
 そして、イザヤが、先ほどの、

行って、この民に言え。
  「聞き続けよ。だが悟るな。
  見続けよ。だが知るな。」
  この民の心を肥え鈍らせ、
  その耳を遠くし、
  その目を堅く閉ざせ。
  自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
  立ち返って、いやされることのないために。

というような、恐るべきさばきのメッセージを託されても、それに異議を申し立てることがないばかりか、疑問を抱くこともなかったということから、イザヤも、ユダ王国の民のかたくなさを感じ取っていたと思われます。
 歴代誌第二・26章22節には、

ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。

と記されています。
 イザヤは、ウジヤの業績とその生涯の結末を、預言者の目で見ていました。そのイザヤの観察は、ユダ王国の王であるウジヤを中心としてはいましたが、当然、ウジヤが治めているユダ王国の状態にも及んでいたと考えられます。そして、主の御前におけるユダ王国の現実に、深い憂慮の念を抱いていたと考えられます。
 そして、ウジヤ王の死をユダ王国の歴史の転換点ととらえて、主を仰いだときに、主の恵みにあずかって、イザヤ書6章に記されている出来事を経験したのだと考えられます。
 今日は、このことから、私たちにかかわる一つのことをお話ししたいと思います。
 今年も、8月になりました。私たちは、この月には、特に、自分たちが、この日本という国に遣わされて住んでいる神の御国の民であることを意識します。このような時に、52年にわたるウジヤ王の治世が繁栄と安定の時であったことを、この国が、先の戦争における敗戦の後、これまで歩んできた50数年の歩みに重ね合わせて見ることは、意味あることと思われます。少なくとも、この間にもたらされた経済的な繁栄と、半世紀の間、この国の中では、戦争を経験することがなかったという安定は、ウジヤの時代のユダ王国の繁栄と安定に比べられるのではないでしょうか。
 もちろん、このような比較には、注意も必要です。
 先週お話ししましたように、ウジヤが治めたユダ王国は、古い契約の下にあって、やがて来たるべきメシヤによって治められる神の御国を映し出す、地上的な「ひな型」あるいは「模型」でした。そして、その地上的な国家であるユダ王国の中心には、やはり、地上的な「ひな型」あるいは「模型」である、主の聖所がありました。
 しかし、今日、私たちは、約束のメシヤである御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による新しい契約の下にあります。新しい契約の下では、古い契約の下にあった地上的な「ひな型」あるいは「模型」は、すべて、その役割を終えています。ヘブル人への手紙8章13節では、

神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。

と言われており、10章9節では、同じことが、

後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

と言われています。
 それで、今日では、中東のイスラエルをも含めて、地上のどのような国家でも、それを、そのまま、神の御国と重ね合わせることはできません。
 先週お話ししましたように、神の御国は、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、御言葉と御霊によって治めておられる国です。
 栄光のキリストが約束の聖霊を注いでくださったペンテコステの日に、その出来事の意味をあかししたペテロの言葉を記している、使徒の働き2章29節〜33節には、

兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されています。
 ここでは、ダビデのことが、

彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。

と言われています。このことの背後には、サムエル記第二・7章12節、13節に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と記されている、ダビデに与えられた約束があります。
 そして、このペテロのあかしでは、ダビデの子孫が就くと約束されていた永遠の王座は、この地上にはなく、ご自身の民の罪の贖いを成し遂げられた後、死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストが着座された父なる神さまの右の座が、ダビデの子孫が就くと約束されていた永遠の王座であると言われています。このことも、地上のどのような国家も、メシヤが治められる神の御国と同一視することができないことを意味しています。
 そして、ここでは、また、父なる神さまの右の座に着座された御子イエス・キリストは、ご自身がお注ぎになった御霊によって治められることが示されています。神の御国の支配は、御言葉と御霊による霊的な支配であって、「剣」を初めとする血肉の強制力による支配ではないのです。
 古い契約の下にあったユダ王国は、このような神の御国を映し出す、地上的な「ひな型」あるいは「模型」でした。しかし、今日では、そのような意味をもった国家はどこにもありません。その点に、ウジヤが治めたユダ王国と、私たちの住んでいる国との違いがあります。
 その一方で、アテネの人々に語ったパウロの言葉を記している使徒の働き17章24節〜27節には、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

と記されています。
 ここでは、いろいろなことが示されていますが、今お話ししていることとのかかわりでは、地上のどの国家も、神さまの造られた世界の中において、造り主である神さまの御手に支えられて存在していることが示されています。
 もちろん、人間が造り主である神さまに罪を犯して御前に堕落してしまったために、地上のどの国家も、国家としては、あのウジヤの王国のように神さまを求めるということはありません。神の御国に入るためには、自らの罪を悔い改めて、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかるほかはありません。それは、一人一人が自らの責任においてなすことから始まりますので、それを飛び越えて、国家がこぞってすることではありません。
 しかし、地上の国家の「本来あるべき姿」は、御子イエス・キリストが御言葉と御霊によって治めておられる神の御国において実現しています。もし、人間が、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落することがなかったとしたら、そこに生み出されたであろう国家は、剣などの血肉の強制力によって治められる国家ではなかったはずです。それは、造り主である神さまのご臨在を中心とした、真理の御霊によって導かれる国家であったはずです。
 その意味では、地上の国家も、メシヤである御子イエス・キリストが御言葉と御霊によって治めておられる神の御国に倣うことによって、造り主である神さまの祝福にあずかることになります。逆に、神の御国とは反対の方向に走ることによって、造り主である神さまのさばきを積み上げることになります。いずれにしましても、地上の国家のあり方も、また、それを構成している一人一人のあり方も、造り主である神さまによってさばかれることになります。
 私たちは、これらのことを踏まえたうえで、私たちの住んでいる日本という国を考えています。ですから、私たちは、この国の中に偶像があふれていて、人々の心がそれに縛られてしまっていることを悲しみます。そして、国家がこぞって偶像礼拝に走ってしまうようなことを警戒し、そのような動きに反対し、正当な手段と手続によって、それを阻止しようとします。
 しかし、私たちは、偶像を拝んでいる人々を「剣」(投獄や制裁)など、外からの圧力で脅して、偶像礼拝を止めさせることはいたしません。私たちは、御霊に信頼し、福音の御言葉をもって、偶像礼拝が造り主である神さまに対する罪であることをあかしします。その人がその罪を悟って、神さまに悔い改めて、御子イエス・キリストの贖いによって罪を贖われることによって初めて、偶像から解放されると信じているからです。
 ある立場の人々は、クリスチャンが多数派となって、政治的な力によって法律を作り、人々が神さまに従うようになる国家を形成することを目指しているようです。しかし、たとえば、偶像礼拝について言いますと、その人がその罪を悟って悔い改めることはないのに、「剣」(投獄や制裁)など、外からの圧力に脅かされて、形の上で偶像礼拝をしないでいるというだけでは、神さまの御前に偽善を生みだすだけであって、真の解決にはなりません。「剣」(投獄や制裁)など、外からの圧力で脅して、「神のかたち」に造られている人間の良心の自由を損なうことは、根本的、原理的なところで、神さまのみこころに背くことになります。
 ウジヤの治世の52年間の繁栄と安定の中で、王であるウジヤもユダ王国の民も、主の御前に心が高ぶり、かたくなになってしまいました。それは、霊的な暗やみに閉ざされてしまうことへの第一歩です。それと同じように、この国の過去50数年の経済的な繁栄とある種の安定の中で、この国を治めてきた人々も国民も、霊的な暗やみに閉ざされつつあるのではないでしょうか。
 このことは、今日、私たちがひしひしと感じていることです。それで、私たちは、この国が、かつて、国家神道の下に統一されて国民の心が縛られ、駆り立てられるようにして侵略戦争に走ってしまったことを、再び繰り返すことがないように警戒したいと思います。そして、そのために目を覚まして執り成す祭司の務めを果たしたいと思います。
 しかし、そのようにあるためにも、私たちは、神の御国の民としての私たち自身のあり方を振り返ってみる必要があります。なぜなら、ユダ王国の52年間の繁栄と安定の中で、王であるウジヤと王国の民が、主の御前に心が高ぶり、かたくなになってしまったということは、それが、神の御国の地上的な「ひな型」あるいは「模型」であるユダ王国のことであるという点からしますと、この日本という国の人々に当てはまるという以上に、私たち、この国に住んでいる神の御国の民に当てはまることだからです。ウジヤの治世の下にあったユダ王国の問題から学ばなければならないのは、私たち、神の御国の民です。
 先週も引用しました、ピリピ人への手紙3章20節、21節には、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されています。
 私たちは、この御言葉は、私たち、神の御国の民のことを述べていると考えています。そうであれば、私たちは、この御言葉が、それに先立つ19節の、

彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

ということと対比されていることをしっかりと心に留めておかなければなりません。そして、主の御前にへりくだって、私たち自身のあり方を省みる必要があります。
 私たち神の御国の民が、地上の有り様としては、この日本の国に身を置きながら、この国の過去50数年の経済的な繁栄とある種の安定の中で、それにどっぷりと浸かってしまって、主の御前に心が高ぶり、かたくなになってしまっているというようなことはないでしょうか。その結果、口では、主を信じていると言いながら、実際には、パウロの言葉で言いますと、自分たちの「欲望」に縛られて、ひたすら、その満足を追い求め、「地上のことだけ」を考えているというようなことはないでしょうか。そして、

彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。

と言われているように、それらのものが得られることが、自分を高める道だと、どこかで感じているというようなことはないでしょうか。
 もしそのようなことがあれば、それは、口で主を求めていると言うことによって、あるいは、形の上で主を礼拝していることによって、自らの「うちなる実態」を隠してしまうということです。それこそが、イザヤ書6章5節で、イザヤが言っている「くちびるの汚れた民」の現実です。
 また、もし私たちが、そのような罠に陥っていながら、そのこと自体に気がつくことができないとしたら、それは、もはや、主の御言葉を悟ることができなくなっているということを意味しています。それは、先ほどの、預言者イザヤに託された恐るべき主の御言葉が示していますように、主のさばきが執行されていることの現われです。
 そして、もしそのような現実があるとしたら、ウジヤの方が幸いです。ウジヤは、主の御前に高ぶって、主の聖さを冒してしまい、「ツァーラアス病」で撃たれてしまいました。しかし、そのことによって、自らの罪を悟り、自ら身を引いて10年の時を過ごしました。その中で、ウジヤは、主のあわれみと恵みにあずかって、主の御前において自らの罪の現実を悟り、悔い改めていやされるようになったと考えられます。
 いずれにしても、ユダ王国の繁栄と安定の歴史の転換点において、預言者イザヤが主を仰いで、主の恵みによって経験したことは、今日、この国に生きている神の御国の民にとっても、大切な意味をもっていると思われます。このことを念頭において、さらに、お話を続けたいと思います。

 


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