(第46回)


説教日:2001年7月29日
聖書箇所:歴代誌第二・26章1節〜23節


 今日も、聖なるものであることの基本的な意味についてのお話を続けます。先週は、歴代誌第二・26章に記されていますウジヤ王のことをお話ししました。今日は、先週お話ししたことを補足しながら、さらに、いくつかのことをお話ししたいと思います。
 先週お話ししましたように、ウジヤのことは、列王記第二・15章1節〜7節にも記されています。列王記第二の記事では、ウジヤはアザルヤと呼ばれています。「ウジヤ」は「ヤハウェは私の力」という意味であり、「アザルヤ」は「ヤハウェはお助けになった」という意味です。この二つの名前の一つが生まれた時につけられた名前で、もう一つが王に即位した時につけた名前ではないかと思われます。歴代誌第二の記事には、もう一人のアザルヤである、大祭司アザルヤが出てきますので、区別のためにウジヤという名前を採用したのかもしれません。その場合には、列王記第二が用いているアザルヤの方が、王に即位した時につけられた名前である可能性が高くなります。
 歴代誌は、南王国ユダの王たちに焦点を当てて記しています。その際に、まず、王たちの業績を記し、その後に、王たちが主の戒めに背いて犯した罪のことを記しています。歴代誌第二・26章に記されているウジヤのことも、その順序で記されています。1節〜15節においてはウジヤの業績のことが記されており、16節〜23節には、ウジヤが犯した罪のことが記されています。


 ウジヤの業績のことを記している1節〜15節では、ウジヤが治めていた南王国ユダに当たる部分に限ってのことですが、ウジヤが、ダビデとソロモンの時代の領土を回復し、それに相応した繁栄を築いたことが示されています。詳しいことは先週お話ししましたので、繰り返しません。
 これは、ウジヤの業績として記されていますが、このことの奥には、4節、5節で、

彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。

と言われている、主の祝福があります。
 先週、この祝福は、古い契約の下にある地上の「ひな型」としての意味をもっている国家としてのイスラエルに与えられた祝福であって、そのままの形で、今日の国家や私たちに当てはまることではないということを、簡単にお話ししました。この点をもう少しお話ししておきたいと思います。
 古い契約の下では、主の契約の民とその国がイスラエルという地上の民族と国家によって表わされていました。そして、それは、ダビデの血肉の子孫である王たちによって治められていました。そのために、歴代誌の記事が示していますように、その王たちは、自らのうちに宿している罪によって、実際に、主の御前に罪を犯してしまいます。
 歴代誌は、このようなダビデの血肉の子孫である王たちによって治められている地上のイスラエルの歴史を記すことによって、それが、決して揺るぐことがない、永遠の御国ではないことを示しています。神の御国は、約束のメシヤによって治められる、決して揺るぐことがない、永遠の御国です。このことから、やはり、ダビデの血肉の子孫である王たちにまさる王、すなわち、約束のメシヤを待ち望まなければならないことを、暗黙のうちに示しています。
 新しい契約の下では、主の契約の民は地上のどこかに国家を形成してはいません。新しい契約の民は、地上の歩みにおいては、それぞれが生まれて育った国家にその身を置いていますが、地上の有り様を越えて、御子イエス・キリストが治めておられる神の御国に属しています。ピリピ人への手紙3章20節、21節に、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

と記されているとおりです。
 この神の御国は、人間によって治められる国ではなく、父なる神さまの右の座に着座しておられる御子イエス・キリストが治めておられる国です。
 聖書において、「国」は、基本的に、領土のことではなく、それを治めている王の主権、あるいは、その主権の及んでいるところを意味しています。神の御国は、父なる神さまの右の座に着座しておられる御子イエス・キリストが支配しておられるところを指しています。その意味で、神の御国は地上のどこかに固有の領土をもってはいません。地上のどこかに領土をもっているということは、神の御国がそこに限定されているということですが、神の御国にはそのような限界はありません。
 また、御子イエス・キリストの支配は、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊による「霊的な支配」です。御霊は、御言葉を私たちに悟らせてくださり、私たちが御言葉にあかしされている御子イエス・キリストの贖いの恵みを信じて受け取るときに、その贖いの恵みを私たちに当てはめて、私たちを生かしてくださいます。
 ですから、神の御国は地上の国家のように剣(武力)によって守られる国ではありません。また、武力を背景としている強制力によって支配する国でもありません。御子イエス・キリストの支配は、その民である私たちが、御霊のお働きによって、福音の御言葉を悟って、自ら納得したうえで、自分の意志で従うことの中に現われてきます。御子イエス・キリストは、真理と自由の御霊によって、私たちを治めてくださり、導いてくださるのです。
 人が神の御国に加えられるのは、血肉の誕生によるのでもなければ、剣によって征服されることによるのでもありません。ただ、御国の王であるイエス・キリストがご自身の十字架の上での死をもって成し遂げてくださった、罪の贖いにあずかって、罪を赦され、罪と死の力から解放されて、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、新しく生まれることによっています。そのように、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを私たちに当てはめてくださるのが、御霊のお働きです。
 それで、ヨハネの福音書3章3節〜5節に記されているイエス・キリストとニコデモの対話において、

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」

と言われています。
 今日では、新しい契約の民は、地上の国家の垣根を越えて存在しているばかりでなく、歴史の中で立ち現れては消えていった国家の垣根を越えて存在しています。たとえば、ローマ帝国はもはや地上に存在していません。その栄華も過去のものとして過ぎ去ってしまいました。それを形作っていた人々の働きも、その栄華とともに過ぎ去ってしまいました。しかし、その中にあって、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、神の御国の民とされた人々は、今も、父なる神さまの右の座に着座してご自身の民を治めておられる御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの交わりのうちに生かされています。
 そのように、神の御国は、地上の領土において剣によって支配するものではなく、王であるイエス・キリストがご自身の御言葉と御霊によって治めてくださる霊的な国です。地上の国家としてのイスラエルは、古い契約の下にあって、それを映し出す「ひな型」、地上的な「模型」でした。それで、ダビデやソロモンの時代の繁栄も、ウジヤの時代の繁栄も、地上の「ひな型」としての繁栄でした。
 もう一度、歴代誌第二・26章4節、5節に記されていることを見てみましょう。そこでは、

彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。

と言われていました。
 ここでは、ウジヤが「神を求め」、主のみこころに従ったので、主がウジヤを祝福してくださったということが記されています。このことを受けて、6節〜15節には、その祝福が、具体的に記録されています。それは、ダビデとソロモンの時代を思い起こさせるほどのものでした。
 しかし、5節の、

彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。

という言葉は、ウジヤが主のみこころに従ったので、主がウジヤを祝福してくださったということを示しているだけではありません。それと同時に、それは、あくまでも、ゼカリヤが「神を認めることを教えた」結果、ウジヤが神さまを求めた間のことであったという「但し書き」でもあります。
 ゼカリヤの死か失脚によって、その助言が得られなくなった時に、ウジヤは重大な罪を犯してしまいました。それが16節〜23節に記されています。
 16節には、

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。

と記されています。
 このウジヤの罪のことをお話しする前に、先週お話ししたことを補足しておきたいと思います。先週は、ウジヤが主の聖さを冒して「ツァーラアス病」をもって撃たれたけれども、なおも、主のあわれみと恵みにあずかっていたということをお話ししました。これに対しまして、16節で「ついに身に滅びを招いた」と言われていることから、そのような見方をしてはならないのではないか、というような疑問が生まれてくるかもしれません。
 この「ついに身に滅びを招いた」の「身に」は補足された言葉です。また、「滅びを招いた」と訳されている言葉(シャーハス)は、また、「(自らを)堕落させた」とも訳すことができます。新共同訳は、これを「堕落し」と訳しています。そのどちらを取るかは、実際にウジヤが犯した罪から判断するほかはありません。
 新改訳は、祭司でもないウジヤが主の神殿の聖所に入って、主の聖さを冒したので「滅びを招いた」と理解しているのです。私は、この理解が正しいと思います。そのような形で主の聖さを冒すことは、滅びを招くことです。
 そうしますと、やはり、先ほどの疑問が問題となります。これに対しましては、主のあわれみと恵みは、まさにそのように、自らの罪によって滅びを招いてしまっている者に対して示されている、ということを思い出していただきたいと思います。ウジヤは、主の聖さを冒して、自らの身に滅びを招きました。主は、そのウジヤに、先週お話ししましたようなあわれみと恵みをお示しになったのです。
 このことは、私たちにも当てはまります。私たちも自らの罪によって滅びを招いていました。そして、実際に、滅びへの道を歩んでいました。主は、その私たちに、あわれみと恵みを示してくださって、御子イエス・キリストによって、私たちを滅びの道から贖い出してくださいました。
 ウジヤの罪は、具体的には、主の聖所の

香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった

ことです。
 聖所は、そこに主の栄光のご臨在がある所として、聖別されていた所です。そこで仕える祭司は、アロンの子孫であり、祭司としての務めに就くに当たっては、主が定められた任職の儀式をとおして、聖別されなければなりませんでした。
 主は、そのようにして、ご自身のご臨在の聖さをあかししておられます。ウジヤは、そのようにしてあかしされている、主のご臨在の聖さを冒してしまいました。
 この地上の神殿の聖所も、古い契約の下にあった地上の「ひな型」でした。この「ひな型」の本体、すなわち、新しい契約の下における「本体」は二つの面をもっています。
 一つは、御子イエス・キリストの御霊が宿ってくださっているキリストのからだである教会と、それに連なっている神の子どもたちそれぞれのからだが、その本体としての聖所であるということです。
 コリント人への手紙第一・3章16節には、

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

と記されています。
 ここでは、複数の「あなたがた」が、単数の「神の神殿」であると言われています。この「神殿」と訳されている言葉(ナオス)は「聖所」を表わしています。
 また6章19節には、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

と記されています。
 ここでは、単数の「あなたがたのからだ」が、単数の「聖霊の宮」であると言われています。この「」と訳されている言葉(ナオス)も「聖所」を表わしています。
 もう一つは、ヘブル人への手紙9章24節に、

キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。

とあかしされている「天そのもの」が、地上の「ひな型」としての聖所の「本体」です。
 それは、父なる神さまの栄光のご臨在の場であり、御子イエス・キリストはその右の座で、私たちの大祭司として仕えておられるのです。ローマ人への手紙8章34節に、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されているとおりです。
 この二つは、今は、形としては分かれていますが、世の終わりにイエス・キリストが再臨されて、私たちのからだを復活の栄光のからだに造り変えてくださる時には、「一つのもの」となります。御子イエス・キリストにあって、主の充満な栄光が私たちの間に宿ってくださるようになるのです。
 黙示録21章1節〜4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されているとおりです。
 ウジヤが入ろうとしたのは、地上の「ひな型」である神殿でしたが、「ひな型」は、やがてくる「本体」を忠実に映し出さなければなりませんでした。
 すでにお話ししましたように、ツィンの荒野のカデシュにおいて、モーセとアロンは、主の戒めにしたがって岩に命じて水を出させることをしないで、岩を二度撃ってしまいました。このことによって、二人は、イスラエルの民を約束の地に導き入れることができませんでした。このことも、地上の「ひな型」は、やがてくる「本体」を忠実に映し出さなければならないということによっています。
 主がご自身の契約の民の罪を背負って、民に代わってさばきの一撃を受けてくださったことは、一度限りで永遠に有効なことです。それは、シンの荒野のレフィティムにおいて起こりました。40年後のカデシュにおいては、もはや、岩は撃たれる必要はなく、岩に命じれば水が出ることが示されました。そのことを示さなかったモーセとアロンが約束の地に入ることが許されなかったことによって、岩が二度目にも撃たれたことが誤りであったことが示されたわけです。
 古い契約の下にあった、地上の「ひな型」においても、主がご臨在される聖所の聖さは、決して冒されてはなりませんでした。祭司でもないウジヤがそこに入ったことも、そこで香を焚こうとしたことも、主の聖さを冒し、その身に滅びを招くことでした。
 もちろん、それは、その「本体」においてこそ、そこにご臨在される栄光の主の聖さが守られなければならないことを意味しています。新しい契約の時代になって、それが緩くなったというように考えてはなりません。
 私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の民とされています。それで、私たちの間には栄光の主のご臨在があります。古い契約の下では、主の贖いが完成していませんでしたから、主の民は主の聖所から遠ざかることによって、その聖さを守らなければなりませんでした。しかし、御子イエス・キリストの血による新しい契約の下では、主の民のための罪の贖いが完成しています。私たちは、この贖いの完成を告げる福音の御言葉の真理に基づき、御霊のお働きによって、主を礼拝することによって、主の聖さを守だけでなく、その聖さを積極的に表わし、あかしします。ヘブル人への手紙10章19節〜22節では、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と勧められています。
 今日も、私たちは主の栄光のご臨在の御前に立って、主を礼拝しています。私たちは、栄光の主のご臨在の御前に立って、主を礼拝することを永遠の務めとする新しい契約の祭司です。しかし、もし、私たちが、御子イエス・キリストの贖いの恵みの中に身を置いていないとしたら、ウジヤと同じ罪を犯すことになります。また、直ちにさばかれることがないということで、そのような礼拝を繰り返すなら、その罪を積み上げることになります。
 私たちは、主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝するに当たって、信仰の眼をもって、御子イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった罪の贖いを見つめ、その恵みに信頼しなければなりません。
 歴代誌第二・26章16節では、

しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。

と言われていて、ウジヤが主のご臨在の御前に立って香を焚こうとして神殿に入ったのは、高ぶりによることであることが示されています。

彼が強くなると、彼の心は高ぶり

ということは、サタンの堕落を映し出すものと考えられる、ツロの王の堕落に通じるものです。ツロの王の堕落を記しているエゼキエル書28章12節〜17節では、

  神である主はこう仰せられる。
  あなたは全きものの典型であった。
  知恵に満ち、美の極みであった。
  あなたは神の園、エデンにいて、
  あらゆる宝石があなたをおおっていた。
  赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、
  緑柱石、しまめのう、碧玉、
  サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。
  あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、
  これらはあなたが造られた日に整えられていた。
  わたしはあなたを
  油そそがれた守護者ケルブとともに、
  神の聖なる山に置いた。
  あなたは火の石の間を歩いていた。
  あなたの行ないは、
  あなたが造られた日から
  あなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
  あなたの商いが繁盛すると、
  あなたのうちに暴虐が満ち、
  あなたは罪を犯した。
  そこで、わたしはあなたを汚れたものとして
  神の山から追い出し、
  守護者ケルブが
  火の石の間からあなたを消えうせさせた。
  あなたの心は自分の美しさに高ぶり、
  その輝きのために自分の知恵を腐らせた。
  そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、
  王たちの前に見せものとした。

と言われています。
 これは、ツロの王の堕落を記しているものですが、ここで用いられている表象的な表現は、単なる人間を越えたものの堕落、すなわち、サタンの堕落を映し出すものであることが見て取れます。その堕落は、自らの「強さ」のために神さまの御前に高ぶったことから始まっています。それは、

彼が強くなると、彼の心は高ぶり

と言われているウジヤの場合にも当てはまります。
 主の御前に高ぶることは、造り主である神さまと被造物である自分の間にある絶対的な区別を否定することです。その意味で、神である主の聖さを冒すことです。そのことが、特に、聖なることにかかわる主の戒めをないがしろにすることとなって現われてきます。その典型的な現われが、昔の王たちや現代の権力者たちが、民に対して高ぶって、自らが神であるかのごとくに振る舞うことです。
 異邦の国の王たちは、祭司的な王でした。自分たちを神の子孫とし、神々につながるものとして、祭司としての務めを果たしていました。ウジヤが主の神殿に入って、聖所の香の壇で香を焚こうとしたことは、この異邦の国の王たちに倣ってのことであると考えられます。ウジヤは、自分もそのような祭司的な王としての栄光をもっている者として振る舞おうとしたのだと考えられます。
 このようなことを主の神殿でなすことは、異邦の国の王がその神殿で香を焚くことにまさって、主の聖さを冒すことです。なぜなら、異邦の神殿には偶像があるだけですが、主の神殿には、栄光の主のご臨在があるからです。
 イスラエルの王は、民の上に高ぶって、自らを神の位置に据える異邦の国の王たちと区別されていなければならないと戒められています。イスラエルの王に対する戒めを記す申命記17章18節〜20節には、

彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

と記されています。
 ここでは、

王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため

と言われています。人は、主の御前ではへりくだりのポーズを取ることがいくらでもあります。しかし、「自分の同胞の上に高ぶること」があれば、その人のへりくだりはポーズでしかありません。
 ウジヤが主の神殿に入ったときに、大祭司アザルヤと80人の有力な祭司たちが、ウジヤをいさめました。それに対して、ウジヤは激しく怒ったと言われています。ここでは、

王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため

という主の戒めの趣旨が踏みにじられています。
 自らのうちに罪を宿している人間の心には、主に対する高ぶりが潜んでいます。それは、条件が整えば、人に対する高ぶりとなって現われてきます。それは、ダビデの血肉の子孫たちおいても例外ではありませんでした。
 しかし、私たちの贖い主となってくださった御子イエス・キリストは、昔も今も変わることなく、決して、私たちの上に高ぶることのない方です。
 永遠の神の御子であられるイエス・キリストは、貧しくなって来てくださり、私たちの罪を背負って十字架の上で死んでくださって、私たちの救いを成し遂げてくださいました。私たちを生かし、私たちを高めてくださるために、ご自身のすべてを捨ててくださいました。
 コリント人への手紙第二・8章9節には、

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

と記されています。
 また、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章34節で、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と言われており、ヘブル人への手紙2章17節、18節で、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と言われていますように、今も、私たちの大祭司として、私たちのために、父なる神さまのご臨在の御前で仕えてくださっておられます。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第45回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第47回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church