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説教日:2001年7月22日 |
ウジヤは十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。 というのは、これらの34年を含めた年数です。それにしても、「五十二年間」というのは、半世紀を越える年数ですから、ウジヤの治世が安定していたことを示しています。 その理由が、続く4節、5節に記されています。そこでは、 彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。 と言われています。 彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。 という言葉は、先ほどお話ししましたアマツヤの罪のことを考えますと、意外に思われるかもしれません。 しかし、それがアマツヤの生涯のすべてではありません。25章2節では、 彼[アマツヤ]は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。 と言われています。アマツヤは、心からということではありませんでしたが、「主の目にかなうこと」を行なったのです。もっとも、そのアマツヤも、おそらく、王位に就いてから5年ほどで、偶像礼拝に走ってしまいました。 これに対しまして、ウジヤの場合には、「全き心をもってではなかった」というような但し書きはありません。 とはいえ、ウジヤの場合にも、 彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。 という但し書きがあります。 「ゼカリヤの存命中」というのは、直訳では「ゼカリヤの日々の間」ということです。これは「ゼカリヤの存命中」ということの他に、ゼカリヤがウジヤの助言者としての務めに就いていた間という意味にも取れます。もしゼカリヤがウジヤの助言者としての務めに就いていた間ということであれば、ウジヤは、「神を認めることを教えたゼカリヤ」を、ある時から退けてしまったということです。 ゼカリヤの死か失脚によって、ゼカリヤの教えが得られなくなった時に、ウジヤは、16節以下に記されている、高ぶりによる滅びの道を歩み始めてしまいました。それは、ウジヤの治世の終わりから10年目のことでした。 歴代誌においては、ユダの王たちの業績が先に記され、その後、王たちが犯した罪が記されています。それは、文学上の技巧というよりは、実際に、王たちが繁栄を得ることによって、その心が神である主の御前に高ぶってしまったということを繰り返したことによっています。 ウジヤの場合も、例外ではありませんでした。 そのようなわけで、26章においても、まず、ウジヤの業績が記されています。 2節には、 彼は、アマツヤが先祖たちとともに眠って後、エラテを再建し、それをユダに復帰させた。 と記されています。エラテは紅海に面した港町で、ソロモンが支配下において、そこを拠点として、アラビア、アフリカ、インド洋に至るまでの海上貿易を展開しました。それが、後にエドムの支配下に置かれてしまいましたが、ウジヤはそれを取り返したのです。それは、海上貿易を復活させるために他なりません。 6節では、 彼は出陣してペリシテ人と戦ったとき、ガテの城壁、ヤブネの城壁、アシュドデの城壁を打ちこわし、アシュドデの中の、ペリシテ人たちの間に、町々を築いた。 と言われています。「ヤブネ」と「アシュドデ」は、地中海沿岸の街道沿いの町です。「ガテ」はその二つの町に至るための分岐点となっている町です。ウジヤは、これらの町を支配下に置いたことによって、地中海における海上貿易を展開させたと考えられます。 さらに、7節、8節には、 神は彼を助けて、ペリシテ人、グル・バアルに住むアラビヤ人、メウニム人に立ち向かわせた。アモン人はウジヤのもとにみつぎものを納めた。こうして、彼の名はエジプトの入口にまで届いた。その勢力が並みはずれて強くなったからである。 と記されています。 これは、領土の上では、ダビデとソロモンの時代のような広がりを見せたことを示しています。ただし、北王国イスラエルはウジヤの支配下にはありませんでしたので、南王国ユダの部分が、ダビデとソロモンの時代のような広がりを見せたということです。 9節、10節には、 ウジヤはエルサレムの隅の門、谷の門および曲がりかどの上にやぐらを建て、これを強固にし、荒野にやぐらを建て、多くの水ためを掘った。彼は低地にも平野にも多くの家畜を持っていたからである。山地や果樹園には農夫やぶどう作りがいた。彼が農業を好んだからである。 と記されています。 ここでは、ウジヤが南王国ユダにおいてなした事業を記しています。農業と牧畜における繁栄は、いのちの源である主の祝福によることです。また、町の城壁ややぐらを堅固なものにしたことも、神である主の祝福によることであり、主が町を守ってくださることの具体的な現われです。 考古学的な発掘も、ウジヤの時代においてなされた建築、建設を裏付けています。 11節〜15節においては、ウジヤの「戦闘部隊」のことが記されています。それは、兵士の数において強力であっただけでなく、その武器においても優れた武器が開発されていたことが示されています。 優れた「戦闘部隊」が与えられていることも、主がご自分の民を守ってくださることの具体的な現われであると考えられます。このこと反映して、歴代誌においては、優れた「戦闘部隊」のことは、主の祝福の下にあった王たちの場合にだけ記されています。 もちろん、これは、古い契約のもとにある地上の「ひな型」としてのイスラエルについて言えることです。新しい契約のもとにある今日では、軍事的に強力な国であることが、直ちに、主の祝福によることであると言うことはできません。 ウジヤの「戦闘部隊」についての描写は、15節後半の、 こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。 という言葉をもって結ばれています。 実際に、戦闘におけるウジヤの名は、北王国イスラエルのさらに北において勢力を伸ばしつつあったアッシリヤの記録にも残されているようです。 この、 彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。 という言葉では、誰がウジヤを助けたのか、はっきりと示されてはいません。それは、ウジヤに仕えた者たちのこととも取れますが、ここでは、それらを用いてくださる神である主のことであると考えられます。というのは、6節〜15節に記されている、ウジヤの業績全体にかかわることを述べている5節では、 彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。 と言われていて、ウジヤの治世の繁栄が主の祝福によるものであることを示しているからです。また、対外的な戦いのことを述べる7節でも、 神は彼を助けて、ペリシテ人、グル・バアルに住むアラビヤ人、メウニム人に立ち向かわせた。 と言われています。この「神は彼を助けて」の「助ける」と、15節の「助けを得て」(直訳「助けられて」)の「助ける」は同じ言葉です。 このように、4節と5節で、 彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。 と言われているとおり、主はウジヤをあらゆる面において栄えさせてくださいました。 しかし、これは一変してしまいます。16節には、 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。 と記されています。 すでにお話ししましたように、このことの背景には、ウジヤの助言者で、「神を認めることを教えた」ゼカリヤの死か失脚によって、ゼカリヤの教えが得られなくなったという事情があります。 ウジヤ犯した罪を見てみましょう。 繰り返しになりますが、16節では、 しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。 と言われています。これがウジヤの罪の本質です。具体的には、16節の終わりに、 彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。 と記されていますように、主に聖別されている祭司の務めとされている「香の壇の上で香を」たくことをしようとしたのです。そのこと自体が、神である主の聖さを冒すことですが、そのようなことにウジヤを駆り立てたのが、ウジヤの高ぶりであるということです。 これに続いて、 彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。 と言われています。 この「不信の罪を犯した」は、「不真実なことをすること」や「裏切り行為をすること」などを表わす、一つの言葉(マーアル)で表わされています。ここでは、主の戒めに示されていることを踏み越えてしまうことを意味しています。具体的には、先ほどの、主に聖別されている祭司の務めと規定されている「香の壇の上で香を」たくことを、祭司でもない自分がしようとしたことです。 これがどのようなことであるかについては、以前お話ししました、コラとその250人の仲間たちがモーセとアロンに逆らったことに示されています。 簡単に振り返っておきますと、同じレビの子孫でありモーセとアロンの従兄弟であるコラは、イスラエルの民の有力な250人を仲間にして、祭司職を自分たちのものにしようと図りました。民数記16章18節には、 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。 と記されています。そして、35節には、 また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。 と記されています。これは、「香をささげていた二百五十人」が主の聖さを冒してしまったために、聖絶されてしまったことを意味しています。 この出来事を取り上げてお話ししたときには触れませんでしたが、このことを受けて、続く36節〜40節には、 主はモーセに告げて仰せられた。「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。――主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。 と記されています。 ウジヤは、祭司でもないのに「香の壇の上で香をたこうとして」主の戒めを踏み越えたのですが、それは、また、 これは、アロンの子孫でないほかの者が、主の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。 という主の明確な警告を踏みにじることでした。 歴代誌第二・26章17節、18節には、 すると彼のあとから、祭司アザルヤが、主に仕える八十人の有力な祭司たちとともにはいって来た。彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。」 と記されています。 この祭司たちは、ダビデやソロモンの繁栄を思い起こさせる繁栄を築いた王であるウジヤをも恐れず、はっきりと、ウジヤの罪を指摘しています。彼らは、祭司でしたが、ここではウジヤに対して預言者的な働きをしています。 ウジヤは、この勇気ある真実な言葉に耳を傾けて、自らの高ぶりの罪を悔い改めるべきでした。しかし、ウジヤの高ぶりは、祭司たちの勇気ある真実な言葉をも踏みつけてしまいました。19節には、 ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。 と記されています。 もはや人間がどうすることもできなくなったと思われたその時、主がご自身の聖さをお守りになられました。19節後半と20節には、 彼が祭司たちに対して激しい怒りをいだいたとき、その祭司たちの前、主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にらい病が現われた。祭司のかしらアザルヤと祭司たち全員が彼のほうを見ると、なんと、彼の額はらい病に冒されていた。そこで彼らは急いで彼をそこから連れ出した。彼も自分から急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。 と記されています。 19節で「らい病」と訳されている言葉(ツァーラアス)は、たとえば、レビ記13章、14章に記されている記述を見ますと、今日のハンセン病とは違う症状を示しているようです。これにはいろいろな症状があって、一つの特定の病名で表わすことができません。また、衣服や家にもこの病気が発生することが記されています。 今日では、「らい病」という言葉が差別用語であるということから、この言葉が用いられることは、ほとんどありません。ある人々は、このような言葉が聖書にあるということだけで、つまずいてしまった、というようなことも言われています。このようなことから、新共同訳では、この言葉(ツァーラアス)は「重い皮膚病」と訳されています。 それで、問題は解決したかと言いますと、そうではなく、今度は、特に最近増加していますが、「重い皮膚病」で苦しんでおられる方々が、深く傷ついてしまった、ということも聞いています。特に、その方々が、「らい病」という訳語の代わりに「重い皮膚病」という訳語が採用されたという経緯を聞いて傷つくようになったということです。人々の心に差別の構造が残っている中で、呼び方を変えても、根本的な解決にはなりません。 他の差別用語の扱い方にはいろいろな問題が絡んでいて、一律に扱うことはできないと思いますが、この「らい病」と訳されている言葉、すなわち、ヘブル語のツァーラアス、ギリシャ語のレプラは、ハンセン病のことではないようですので、別の訳を考えたほうがいいと思われます。 たとえば、「ツァーラアス病」というように、原語をそのまま音訳するのはどうでしょうか。その場合にも、「レプラ」という言葉は「らい病」を連想させますので、避けたほうがいいでしょう。もし、それがかえって意味不明のものとなってしまうようでしたら、意訳して「汚れた病」というように訳してもいいのではないかと思います。 ウジヤが「ツァーラアス病」に冒されたのは、主の聖さを冒してしまったからです。21節では、 ウジヤ王は死ぬ日までらい病に冒されていたので、らいを病む者として隔離された家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである。 と言われています。さらに、23節では、 ウジヤが彼の先祖たちとともに眠ったとき、人々は、彼はらい病に冒されていたからと言って、彼を王たちの所有していた野の墓地に先祖たちといっしょに葬った。 と言われています。 ウジヤは、死んだ後も、王家の墓の中ではなく、その近くの「王たちの所有していた野の墓地に」葬られました。 しかし、1節〜15節に記されているウジヤの業績からしますと、これは余りにも厳しいというような気もします。これについては、いくつかのことが考えられますが、今日は、一つのことに触れるだけにして、他のことは改めてお話ししたいと思います。 今日お話ししたいことは、ウジヤが、なおも、主のあわれみにあずかっていたと思われるということです。 もしウジヤが、実際に、主のご臨在の御前で香をたいてしまっていたとしたら、コラの仲間の250人と同じように、その場で、直ちに焼き尽くされて、聖絶されていたことでしょう。しかし、主は、ウジヤをそのようにはなさいませんでした。ウジヤが主の御前で香をたくようになる前に、ウジヤを「ツァーラアス病」で撃たれました。それによって、ウジヤに罪を悟らせてくださいました。 20節に、 彼も自分から急いで出て行った。 と記されていますように、ウジヤは、遅まきながら、自らの罪を悟ったのです。そして、その後、死ぬまでの10年間、隔離された家に住むことに甘んじました。 しかし、そうではあっても、ウジヤは、死んでもなお、王家の墓の中には葬られませんでした。これは、古い契約の贖いの限界によることです。 ウジヤは、主のさばきの御手になおも示されていたあわれみにあずかり、自らの罪を悟りました。そのウジヤには望みがあります。ウジヤのさばき主は、また、恵みとあわれみの主でした。 ヨハネの福音書5章21節、22節には、 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。 と記されています。父なる神さまから「すべてのさばき」を委ねられている御子イエス・キリストは、また、恵みとまことに満ちた私たちの贖い主です。 その主が人の性質を取ってきてくださった時のことを記す、マルコの福音書1章40節〜42節には、 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。 と記されています。 古い契約の儀式律法においては、「ツァーラアス病」にかかった人々は、その人々自身が汚れたものとされていただけではなく、接触する人に汚れを伝えるものとされ、厳しく隔離されていました。その人々は、病気の苦しみの上にさらに、家族や社会から隔てられる社会的な苦しみを負っていました。それ以上に、神である主との関係において汚れたものとされる、宗教的な苦しみを負っていました。 もう20年ほど前のことになります。その頃は、マルコの福音書からお話ししていましたので、この1章40節〜42節に記されている、全身が「ツァーラアス病」に冒された人の癒しのことをお話ししたことがあります。その時にもお話ししましたが、「イエスは深くあわれみ」の「深くあわれみ」と訳されているところは、ある写本では「憤って」となっていて、そのように読む可能性もあります。 ある人は、イエス・キリストは、全身が「ツァーラアス病」に冒されて隔離されているはずの人が、人々のいるところにやって来たので、がみがみ言って怒ったのだと考えています。しかし、「憤って」という読みを取っても、ここには、イエス・キリストがその人のことを怒ったということは示されてはいません。 このことが心にかかっていたときに、「原爆展」を見る機会がありました。熱で皮膚がめくれてしまっている人々や黒焦げになってしまっている子供たちなどの姿を写した写真を見ながら、私のうちには悲しみを通り越して、憤りが湧いてきました。「このようなことがあっていいのか」という憤りです。 私は、自分のうちにある、そのような憤りに気がついたときに、もしイエス・キリストが、全身が「ツァーラアス病」に冒された人を前にして「憤り」を感じられたのであれば、それは、その人に対する憤りではなく、その人の痛みと苦しみと悲しみのすべてをご自分のこととして感じ取られたイエス・キリストが、このような悲惨があるということに対して抱かれた激しい憤りであったはずだと思いいたりました。 御子イエス・キリストは、全身が「ツァーラアス病」に冒された人がご自身の御許に来ることをお許しになっただけでなく、ご自身から手を伸ばして、その人に触れてくださいました。それは、その人を受け入れてくださっているからですが、さらに、その人の痛みと苦しみのすべてをご自身のものとして受け止めてくださり、背負ってくださるためでした。そして、そのような主として十字架についてくださり、贖いを成し遂げてくださることによって、すべての汚れをまったく聖めてくださいました。 すでにお話ししましたように、主のさばきの御手になおも示されていたあわれみにあずかり、自らの罪を悟ったウジヤは、悔い改めと信仰に導かれていたと思われます。そうであれば、ウジヤは、約束の贖い主であるイエス・キリストの恵みにあずかって聖められ、終わりの日には、復活のからだによみがえることでしょう。 |
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