(第43回)


説教日:2001年7月8日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節


 これまで、聖なるものであることの基本的な意味についてお話しするために、民数記20章1節〜13節に記されています「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事を取り上げてお話ししてきました。
 まず、ここに記されていることの基本的な意味についてお話ししました。それに続いて、この出来事との関連で考えられる、いくつかのことをお話ししました。その中で、この出来事にいたるまで、繰り返し表わされてきたイスラエルの民の不信仰には「根」ガあるということをお話しました。
 その「根」は、イスラエルの民が、主のみこころのうちに自分たちに対する「悪意」が隠されているというような、主に対する不信感をもっていたことです。そして、そのような、主に対する不信感から、さまざまな機会に、主に対するつぶやきが生み出されてきました。
 このような不信仰が、荒野のイスラエルの第一世代と第二世代をとおして繰り返されてしまったのは、イスラエルの民のうちから主に対する不信感が取り除かれていなかったからです。そして、イスラエルの民のうちから主に対する不信感が取り除かれなかった原因は、イスラエルの民が自分たちのうちに、そのような、主に対する不信感が潜んでいることを認めて、主の御前に、また、主に対して悔い改めることをしてこなかったからであると考えられます。
 先週は、このことから、悔い改めるということについてお話ししました。今日も、そのことを、もう少しお話ししたいと思いますが、その前に、念のために、一つのことをお話ししておきたいと思います。


 すでにお話ししましたように、主のみこころのうちに自分たちに対する「悪意」が隠されていると考えることは、主の本質的な特性に「やみ」があると考えることで、主の聖さを冒すことです。それで、私たちは、そのような考え方をもたないように気をつけなければなりません。
 けれども、それは、私たちが主のみこころについて、何の疑問ももってはならないという意味ではありません。
 これはとても微妙なことですので、注意深く考えなければなりませんが、主のみこころについて、健全な意味での疑問をもつことは、大切なことです。それは、主のみこころの中に「悪意」が隠されているのではないかというような疑いをもつこととは、まったく違うことです。
 ヨハネの手紙第一・1章5節には、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と記されています。また、4章8節と16節では、

神は愛です。

と言われています。
 それで、私たちは、神さまは聖なる方であり、神さまのうちにはやみがないことと、神さまの本質的な特性が愛であることを信じています。神さまのみこころには、どのような意味においても「悪意」のようなものは隠されていません。神さまのみこころはすべて、神さまの愛から出ています。私たちは、そのことを疑うべきではありません。
 けれども、神さまは無限、永遠、不変の方であり、そのみこころは私たちの思いをはるかに越えています。イザヤ書55章8節、9節に、

  わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
  わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
  ――主の御告げ。――
  天が地よりも高いように、
  わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
  わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

と記されているとおりです。
 そのために、私たちは神さまのみこころを、神さまと同じようには知ることができません。神さまは、私たちがこの世にある間、さまざまな試練お用いになって、私たちを訓練してくださり、ご自身の聖さにあずからせてくださいます。その試練は、人間の罪によって特徴づけられるこの世から加えられる試練である場合もありますが、私たち自身の罪や愚かさによって、私たちが刈り取った試練である場合もあります。神さまは、そのどちらをも、ご自身の無限の知恵によって用いてくださいます。けれども、私たちは、神さまの知恵によって用意されている道筋のすべてを分かるわけではありません。そのために、出口が見えなかったり、壁に突き当たったように感じられて、苦しまなければならないことがあります。そのようなときに、神さまのみこころが分からなくなって、神さまに向かって叫ぶということもあります。
 たとえば、イスラエルの父祖ヤコブの子であるヨセフのことを考えてみましょう。ヨセフは兄弟たちのねたみをかって、売られてしまいました。売られた先のエジプトの地においては、主がともにいてくださいました。ヨセフも主のみこころを追い求めていました。しかし、事態は必ずしも好転することがなく、さらなる試練が待っていました。彼は陥れられて投獄されました。さらに、獄屋から解放されるはずの期待も、2年もの間裏切られたままになっていました。
 やがて、その知恵が認められ、解放されてエジプトの宰相となり、エジプトを飢饉から救いました。そこに、激しい飢饉に見舞われたカナンの地から、食料を求めてエジプトにやって来た兄弟たちが、ヨセフのことを知らないままに、ヨセフに会うようになりました。
 ヨセフは、兄弟たちが、自分たちが犯した罪をどのように受け止めているかを試しました。創世記の記事を読んでいきますと、何となく、ヨセフが、弟ベニヤミンのことで、兄弟たちに対して意地悪く接しているように見えます。しかし、それは、兄弟たちの中にあるものを探り出すためのことでした。兄弟たちが自分に対して犯した罪を思い起こさせることによって、兄弟たちがそれをどのように受け止めているかを明らかにしようとしたのです。そして、兄弟たちが、真にその罪を自覚していることが分かった時に、自分がヨセフであることを告白しました。
 創世記45章4節〜8節には、

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと5年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」

と記されています。
 これらのことには、人の思惑をはるかに越えた神さまのみこころが働いています。人はその道筋を見通すことができませんので、その試練の中にあって苦しみます。ヨセフもそうでした。詩篇105篇17節〜19節には、

  主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。
  ヨセフが奴隷に売られたのだ。
  彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、
  ヨセフは鉄のかせの中にはいった。
  彼のことばがそのとおりになる時まで、
  主のことばは彼をためした。

と記されています。
 ヨセフはこれらの試練の中で育てられ、ついには、主のご計画の中での自分の立場を理解するようになりました。

それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。

という、ヨセフの言葉は、それを反映しています。それは、ただ単に、自分の親族を飢饉によるから救ってくださるということではありません。アブラハムに与えられた契約をとおして示されている「アブラハムの子」として来られる贖い主についての約束を受け継ぐ、主の契約の民が保存されるという意味をもっていました。
 ヨセフは、兄弟たちに対する恨みを抱き続けて復讐するようなことはありませんでした。初めから恨みを抱かなかったというより、自分のこれまでの試練がすべて主の壮大なご計画の中に組み込まれていることを悟ったときに、個人的な恨みは消え去っていったのであると思われます。
 ヨセフは、これまでの試練の歩みが主の壮大なご計画の中に組み込まれていることを理解したからこそ、その歩みの中で起こったことで、清算されていないままで残されている兄弟たちの罪を、主の道に沿って取り扱う必要を感じたのだと思われます。そして、この問題を知恵深く取り扱って、兄弟たちが自分から罪を認めて悔い改めるに至るように導きました。ヨセフは、兄弟たちの罪を主の道に沿って取り扱うことによって、主の聖さを守るとともに、主の赦しの恵みをあかししています。
 このように、主のみこころには、人間の思いをはるかに越えた面があります。ヨセフの場合は特別な例のように見えますが、それは具体的な形においての違いです。ヨセフも含めて、神の子どもたちすべてに対する神さまのみこころは、ご自身の聖さにあずからせてくださり、最終的に御子イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださることです。そして、教会を、キリストのからだとしての充満な栄光に満たしてくださることです。そのために、神さまは、ご自身の無限の知恵にしたがって、さまざまな試練を用いてくださいます。それに対して、私たちには、造られたものとしての限界があります。そのために、主の無限の知恵によって備えられた道筋を見通すことはできません。
 そればかりでなく、私たちは、自らのうちに罪を宿しています。そのために、主のみこころを歪めて受け止めてしまう傾向があります。
 このことをわきまえていることから、健全な意味での疑問が生まれてきます。
 それは、主のみこころを疑うことではなく、自分たちと自分たちの理解を疑うことです。自分たちが当然のことのように考えていることを、御言葉に照らして、批判的に検討したり、まだ分かっていないことを探り求めることです。時には、それが、苦しみの中から主に向かって叫ぶ形を取ることもあります。
 このような意味での健全な意味での疑問をもつこと、そして、主に向かって問いかけることは、決して、不信仰から出るものではありません。それは、形としては、荒野のイスラエルが、自らのの中に潜んでいる主に対する不信感から、主に向かってつぶやいたことと似ているように見えますが、本質的に違っています。
 一方は、主を信頼するからこそ主に向かって叫ぶのです。造られたものとしての自分たちの限界と、自らのうちに罪を宿しているものとして、自らのうちにある暗さをわきまえながらも、主に信頼しているので、試練の中で主に向かって叫びます。
 もう一方は、主に対する不信感を燃やして叫ぶのです。それは、自らの限界と罪のやみをわきまえて身を低くして、主に頼ることではありません。むしろ、主のみこころには「悪意」が隠されていると、秘かに、しかし、一方的に、決めつけてしまっています。
 ですから、私たちが自分のうちにある罪を悔い改めるということは、主のみこころについて何の疑問ももたないようにするということを意味してはいません。主のみこころは私たちの思いをはるかに越えたものです。しかし、主のみこころは全体的な調和が取れたものです。そして、主は、それを私たちに啓示してくださっています。それで、私たちが主のみこころについてより深く知ろうとすることは、主のみこころにかなっています。そのためには、私たちは、自分たちの限界と、自らのうちにある罪が生み出す暗さをわきまえているものとして、健全な意味での疑問をもって、主のみこころを探り求めなければなりません。
 悔い改めることについて、さらに、お話ししたいことは、私が1996年の夏に、医学部の学生の方々と、実際に医療に携わっておられる方々の修養会において、お話をさせていただいた時に考えさせられたことです。
 その時の小グループの話し合いの中で、その当時、大学病院の精神科で研修医をしておられた方が、一つの問題提起をされました。それは、一般的なカウンセリングでは、罪責感を捨てるように導きます。これに対して、クリスチャンは、罪を自覚することが大切であると教えられています。その方は、このことをめぐって、どう考えたらいいのか迷っておられるようでした。
 この時に、私がお話ししましたことの資料は、『EMFジャーナル』27巻2号の「付録」として、主催してくださった方々が印刷してくださいましたので、皆さんにもお配りいたしました。その中で、この問題を取り上げています。それをお読みくださった方々には、繰り返しになりますが、大切なことでもありますので、この機会に改めてお話しさせていただきたいと思います。
 私たちのうちには、今なお罪の性質が残っており、実際に罪を犯します。私たちは、その罪を自覚して苦しみます。そのような時に、「罪責感をもつことは有害である」と言って、その罪の事実から目をそらすことは、危険なことであると考えています。さまざまな心理学的な「操作」によって罪責感を捨てるように導くことからは、偽りの平安しか生まれてきません。このことは、その心理学的な「操作」に「キリスト教的な色彩」を持たせて、「神さまは愛の神であるから、罪のことを問題にする必要はない」というように説得したところで変わるものではありません。
 また、自分のうちに罪の現実を抱えたままで、自分の力で罪を克服しようとして、どのような修業をしてみても、それで自分のうちにある罪の本性を除き去ることはできません。一時的に、あるいは、ある形では罪の本性を抑制する力は強くなるとしても、罪の本性そのものは残っていますので、やがて、罪の本性は別の形で新しい芽を出してきます。
 神の子どもたちは、このことをよく知っています。それで、自分の力には頼らないで、私たちを罪の本性を聖めてくださる、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの恵みに信頼しています。
 さらに、そのような修業を心理的に行なうこと、すなわち、自分のうちにある罪責感によって自分自身のことを罪深い者であると言って、責め続けることも危険なことです。それは、一見すると、自分の罪を認めているのだから「よいこと」であるように見えます。しかし、ここにも罪の落とし穴があります。罪は本当に巧妙に働くものです。
 どういうことかと言いますと、罪は、私たちが、造り主である神さまに対して犯すものです。ですから、真の罪の自覚は「造り主である神さまに対して罪を犯した」という自覚です。詩篇51篇3節、4節には、

  まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
  私の罪は、いつも私の目の前にあります。
  私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
  あなたの御目に悪であることを行ないました。

という、神さまに対する告白が記されています。
 このように、真の罪の自覚は、神さまとの関係で罪を自覚することです。それも、単に罪に対するさばきを恐れることではなく、神さまのみこころに背いて、神さまを悲しませたということを認めることです。ですから、真の意味で罪を自覚したときには、その人の心は神さまに向いています。人が罪を犯すときには、その人の心は神さまから背けられています。しかし、罪を自覚するときには、その人の心は神さまに向いています。それが、罪を悔い改めることの特徴です。その意味で、罪の悔い改めは、神さまの御前において、神さまに対してなされるのです。
 真の悔い改めのことを、私たちは「いのちに至る悔い改め」と呼んでいます。その「いのちに至る悔い改め」の特徴は、神さまに帰ることにあります。「神のかたち」に造られている人間にとって、造り主である神さまの御許にあって、神さまの愛のうちに生きることがいのちです。すでにお話ししましたように、「いのちに至る悔い改め」は、それ自体で独立しているものではなく、常に、「救いに至る信仰」の裏側にあります。この悔い改めによって、神さまの御許に帰り、信仰によって、神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった、罪の贖いの恵みを信じて、それに信頼するようになります。
 そのように、神さまの御許に帰って、イエス・キリストが十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いを信仰によって受けつることをしない「悔い改め」は、「いのちに至る悔い改め」ではありません。
 しかし、自らのうちに罪の本性を宿している人間は、その罪のために、造り主である神さまに心を向けることはありません。それで、自分が神さまに対して罪を犯し、神さまを悲しませてしまったということを自覚することはありません。その人は、神さまの御前で、神さまに対して罪を悔い改めることはありません。
 その意味で、生まれながらの人間の罪責感あるいは罪の自覚は、罪の本性によって歪められています。そのために、生まれながらの人間は、神さまの御前で、神さまに対して罪を自覚することがないのです。
 このような、罪責感を「罪によって歪められた罪責感」と呼ぶことができます。危険なのは、この「罪によって歪められた罪責感」です。「罪によって歪められた罪責感」は、しばしば、自分自身を激しく責めさいなみながら、秘かに「自分はこんなに罪を認めている」という誇りを生み出します。そして、その秘かな誇りは、人が神さまに向くことを妨げてしまいます。
 そのような状態に陥ってしまっている人においては、自分を責めること自体が目的化してしまうことがあります。それによって、その人は自分自身を空しく責め続けて終わってしまいます。その結果、造り主である神さまの御許に帰ることが妨げられてしまうだけでなく、極端な場合には、それで人生が浪費されてしまいます。生涯、自分を責め続けることで終わってしまうのです。
 一般のカウンセリングが、罪責感を捨てるべきであると主張するのは、このようなことに気がついているからではないかと思われます。その意味では、いたずらに罪責感をもち続けるべきではないとすることにも一理あります。ただし、一般のカウンセリングでは、神さまとの関係で考えることはありませんので、神さまの御前においてなされる「いのちに至る罪の悔い改め」の必要性を認めることもありません。
 このような「罪によって歪められた罪責感」によって、自分を責め続けることは、神の子どもたちにとって、とても不健全なことです。そこでは、「罪責感」が神さまとは無関係に、自分の内側で働いているだけで、一種の「自家中毒」のような状態になってしまっています。これが、罪の巧妙さの現われです。
 このこととの関連で注意したいことは、その「罪責感」はその人がもっている「神のイメージ」と結びついて現われてくることがあるということです。
 その場合には、その人は、「自分は『神』との関係で罪を自覚している」と考えてしまいます。しかし、実は、その人がもっている「神のイメージ」は、やはり、生まれながらの人間のうちにある罪によって歪んだものです。
 たとえば、相次いで起こった災いによって、すべてを失ってしまったヨブのもとにやって来た3人の友人は、ヨブに罪の悔い改めを迫りました。しかし、その友人たちがもっていた「神のイメージ」は、すべてのことを因果応報の原理にしたがって冷徹にさばくだけの「神」でした。結果的に、友人たちは、神さまについて真実を語らなかったということで、神ご自身から糾弾されています。
 そのような、自分のうちにある「神のイメージ」に基づいて神さまのことを考えることは、信仰の姿勢であるかのように見えます。しかし、それは、必ずしも、イエス・キリストによってご自身を啓示してくださり、福音のみことばを通してご自身をあかししてくださっている神さまを信じることではありません。初めにお話ししましたように、私たちは、神さまについての自分自身の理解に疑問をもって、それを御言葉に照らして、批判的に検討する必要があります。
 ですから、その人が抱いている罪責感がその人のうちにある「神のイメージ」に結びついているからといって、造り主である神さまとの関係で自分の罪を自覚しているということにはなりません。そのために、その人は罪を悔い改めて神さまの御許に帰ることはありません。それは、やはり、罪によって神さまから離れてしまっている状態にある、その人のうちで、「自家中毒」のように「罪責感」が働いている状態であると言わなければなりません。これも、罪の巧妙さの現われの一つです。
 人は、神さまが備えてくださった、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、神ご自身とその愛と恵みを知るようになって初めて、神さまの聖さを知り、自分自身のことを神さまとの関係で見つめることができるようになります。そのようになって初めて、自分の罪を、神さまの聖さを冒すものであり、神さまのみこころに背き、神さまを悲しませていることであると自覚することができます。そして、神さまの御前で、神さまに対して、罪を悔い改めることができるようになります。
 その意味で、人は、ただ、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかっているときにだけ、罪を神さまに対する罪であると認めて、神さまに対して悔い改めることができます。それで、人が罪を自覚したときには、すでに、その人のうちに、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が働いています。
 人は御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって罪を赦していただき、神の子どもとしていただいて初めて、神さまの聖さをわきまえるようになります。そして、聖なる恐れとともに、自らの罪を悔い改めます。そこには罪に対する恐れがありますが、それは「罪によって歪められた罪責感」に縛られて、不気味な恐怖感にさいなまれることとはまったく違います。自らの罪に対する聖なる恐れは、悔い改めと信仰によって、その罪を贖ってくださった主の愛と恵みを受け取ることに対する深い感謝と喜びを生み出します。
 ですから、私たちは、罪を自覚したときには、いたずらに(自分で)自分を責めないで、直ちに、恵みの主の御許に帰らなくてはなりません。そして、神さまの御前に罪を告白して、神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった、贖いの恵みによる罪の赦しを、信仰によって受け取らなくてはなりません。このすべてのことの中に、御霊が働いていてくださいます。
 すでにお話ししましたように、私たちが御子イエス・キリストによって成し遂げられた罪の贖いにあずかるようにしてくださるのは、御霊のお働きです。その、御霊のお働きによる「救いの順序」においては、まず、私たちが、よみがえられたイエス・キリストと結び合わされます。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれます。その結果、「改変」あるいは「改心」が起こります。その「改変」の消極的な面が悔い改めであり、積極的な面が信仰です。これに続いて、法的に義と認められること、子とされること、実質的に聖められること、そして、世の終わりに、完成される栄光化が続きます。
 このことは、御霊が、私たちを御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださってから、私たちが自分の罪を自覚して、それを神さまの御前で悔い改めることができるようになる、ということを意味しています。そのように、新しく生まれた者だけが、マルコの福音書1章15節に記されている、

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

という、イエス・キリストの招きの言葉に応えることができるのです。
 このように、真の罪の悔い改めは、必ず、イエス・キリストの贖いの恵みに信頼する信仰となって現われてきます。ですから、私たちは、罪を犯して神さまの聖さを冒してしまい、神さまを悲しませてしまったときに、その罪を悲しみをもって悔い改めるべきですが、「罪によって歪められた罪責感」に縛られて、いたずらに自分を責めさいなんでいてはなりません。そのように、自分のことを自分で責め続けることは、一見すると、謙遜なことであるように見えますが、そこからは、「自分は罪を自覚して、自分をだめだと言っているから、大丈夫だ」というように感じる、自己義認の芽が出てくる危険性があります。罪を犯してしまった時には、その罪を神さまの御前で悔い改めつつ、そのような私たちのために神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった罪の贖いを信じて、その恵みに信頼しなければなりません。
 テモテへの手紙第一・1章15節には、

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

という、パウロの告白が記されています。しばしば、

私は ・・・・罪人のかしらです。

という言葉だけが、クリスチャンの口にすべき言葉であるように語られることがあります。しかし、

私はその罪人のかしらです。

という言葉は独立した言葉ではありません。「その罪人の」は関係代名詞で表わされていて、
キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。
の「罪人」(複数)を受けています。
 ここでも、イエス・キリストの恵みの中で、自分の罪の自覚と告白がなされています。ですから、

私はその罪人のかしらです。

という言葉を独立させて自分に当てはめ、「私は、罪人のかしらです。」とだけ言うことは、このパウロの告白の精神にそってはいません。それでは「自分告白」になるだけで、「キリスト告白」になりません。パウロと同じように「キリスト告白」をするためには、「私は、イエスさまが救うために来てくださり、実際に救ってくださった罪人たちのかしらです。」と、イエス・キリストの贖いの恵みの確かさと深さを告白しなくてはなりません。
 


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