(第42回)


説教日:2001年7月1日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節


 今日も、聖なるものであることの基本的な意味についてお話しします。これまで民数記20章1節〜13節に記されている、「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事を取り上げてお話ししてきました。
 そして、先週は、荒野のイスラエルが、その第一世代と第二世代をとおして、契約の神である主に対する不信仰を繰り返してしまったことの原因となっていたと思われることについてお話ししました。
 まず、それを、簡単にまとめておきたいと思います。
 民数記20章1節〜5節には、

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

と記されています。
 この出来事は、イスラエルの民がエジプトを出てから40年目の最初の月のことで、この時までに、荒野のイスラエルの第一世代は、積み重ねた不信仰に対するさばきによって、荒野で死に絶えてしまっていたと考えられます。また、この出来事は、イスラエルの民がカナンの地に入るために、荒野での最後の旅を始めようとしていた時に起こりました。
 4節と5節前半の、

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。

という、モーセとアロンに対する非難は、そのまま、イスラエルの民を「ツィンの荒野」の「カデシュ」に導かれた主に対する非難の言葉です。これは、自分たちに対する主のみこころの奥には自分たちを滅ぼそうとする「悪意」が潜んでいて、それが現われてきたという、主と主のみこころに対する不信感を表わすものです。
 主に対するこのような不信感は、荒野のイスラエルが、その第一世代と第二世代をとおしてもち続けたものです。そして、これが「根」となって、ここから、さまざまな機会に、主に対するつぶやきが現われてきました。このような、イスラエルの民の不信仰の「根」となっている発想は、主の本質的な特性に「やみ」が潜んでいるというもので、主の聖さを冒すものです。


 先週は、イスラエルの民が、このような不信仰の「根」となっている、主に対する不信感を除き去ることができなかったことの、根本的な原因についてお話ししました。その原因は、イスラエルの民が、自らのうちに主に対する不信感が潜んでいることを認めて、それを持ち続けてきた罪を、主の御前に悔い改めたことがなかったことにあります。
 今日は、主の御前に、自らの罪を悔い改めることがどのようなことであるかについて、先週お話ししたことを補足したいと思います。
 まず、確認しておきたいことは、先週お話ししましたように、自分の罪を悔い改めることは、それとして独立したことではないということです。真の悔い改めは、必ず、主に対する信仰となって現われてきます。また、悔い改めに裏打ちされていない信仰は、贖い主であるイエス・キリストに結びついて実を結ぶようになる信仰、すなわち、生きて働く信仰ではありません。ガラテヤ人への手紙5章6節の言葉では、「愛によって働く信仰」ではありません。
 悔い改めと信仰が結びついていることは、荒野のイスラエルを導いてくださった、契約の神である主のみこころからも汲み取ることができます。
 荒野のイスラエルの第二世代に向かって語られた、申命記の8章2節には、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と記されています。
 ここには、主がイスラエルの民にさまざまな試練をお与えになった理由あるいは目的が記されています。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

というのは、主がイスラエルの民の心のうちにあるものを知ろうとされたということです。しかし、これは、主がイスラエルの民の心のうちにあるものをお分かりにならないので、イスラエルの民に試練をお与えになって、知ろうとされたということではありません。主はイスラエルの民の心のうちにあるものをご存知であられました。それは、主が無限、永遠、不変の神であられて、この世界のすべてのことを完全に知っておられるということから言えることですが、この申命記において、イスラエルの民の第二世代が、この先、主に対して不信仰と反逆を繰り返すことを、繰り返し、預言的に警告していることからも分かります。
 イスラエルの民の心のうちに主に対する不信感が潜んでいるということに気がついていないのは、むしろ、イスラエルの民自身でした。それで、これは、イスラエルの民が、自分たちの心のうちに潜んでいるものを知るようになるためのことであったと言うことができます。
 ここで、それが、主が知ってくださることであるように語られているのは、イスラエルの民の心のうちにあるものを明らかにしてくださるのが、主であることを示していると考えられます。そして、イスラエルの民が、いわば、主に導いていただいて、自分たちのうちに主に対する不信感が潜んでおり、そのために、心から主を信じることができなかったことを自覚し、主の御前に、また、主に対して、その罪を悔い改めるようになることが、主のみこころでした。
 このことに続いて、3節では、

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と言われています。
 ここには、主がイスラエルの民にさまざまな試練をお与えになったことの、より積極的な理由あるいは目的が記されています。それは、イスラエルの民が飢えたときに、主が人間の経験を越えたマナを与えてくださったこと、そして、そのマナをもって40年の間、真実に養い続けてくださったことをとおして、イスラエルの民が、主に信頼するようになるためでした。
 ここでは、そのために、イスラエルの民が、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

という原則を理解するとともに、主を真実な方として知るようになり、主に信頼するようになるべきことが教えられています。そのために、主は、マナを40年の間変わることなく、イスラエルの民に与え続けてくださいました。
 このように、荒野のイスラエルの40年の歩みの中で、主はイスラエルの民を、さまざまな試練をとおして訓練し、ご自身の聖さにあずからせようとされました。
 主がお与えになる試練をとおしての訓練については、ヘブル人への手紙12章7節〜11節で、

神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

と言われています。
 これが、主が、イスラエルの民にさまざまな試練をお与えになった理由あるいは目的でしたが、イスラエルの民は、このような主のみこころを受け止めませんでした。与えられた試練をとおして、自らのうちに潜んでいて自分でも気がついていなかった、主に対する不信感に気がついて、その罪を主の御前に悔い改めたことはありません。最後まで、自分たちに与えられている試練が、主の「悪意」の現われであるという発想を捨てないで、主に向かってつぶやき続けました。
 それが、民数記20章に記されている「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事に見られますが、これで終わってはいません。続く21章の4節、5節には、

彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

と記されています。
 「ツィンの荒野」の「カデシュ」では、民はモーセとアロンに向かって逆らったと言われています。それは、遠回しの形で、主に逆らうことでした。しかし、ここでは、明確に「神とモーセに」逆らったと言われています。また、「カデシュ」では、直接マナに対する不満を表わさないで、

ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。

というような言い方をしていました。しかし、ここでは、あからさまに、

私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。

と言っています。
 「カデシュ」で示した自分たちの不信仰を恥じ入って、真実に悔い改めたとは、とても思えません。それどころか、その不信仰にもかかわらず、主が示してくださった御恵みにつけ込んで、主に対する恐れをを失い、つぶやくことにおいても大胆になってしまっています。
 そうではあっても、この場合も、主は、確かに、イスラエルの民の心のうちにあるものを明らかにしておられます。ただ、残念なことに、イスラエルの民は、それを自分のこととして受け止めませんでした。
 このように言っても、私たちは、イスラエルの民のことを見下すことはできません。私たちのうちにも同じ罪が巣くっています。私たちとイスラエルの民の違いは、ただ一つのことにあります。それは、私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による新しい契約にあずかっているということです。私たちは、新しい契約において与えられている贖いの恵みによって罪を聖められて、御霊によって悔い改めへと導かれています。
 いずれにしましても、荒野のイスラエルの40年の歩みを導いてくださった主が、イスラエルの民にさまざまな試練をお与えになったのは、イスラエルの民が、自分でも気がついていない、主に対する不信感が自分自身のうちに根を張っていることを自覚して、その罪を主の御前に悔い改めるようになるためでした。これは、いわば主に導かれて、自分自身を知ることをとおして、悔い改めに至ることです。
 それとともに、イスラエルの民が、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

という原則を理解し、その原則に基づいて、主が真実な方であることを知り、あらゆる時に主に信頼するようになるためでした。これは、やはり、主に導かれて、主ご自身を知って、主に信頼するようになることです。
 お気づきのことと思いますが、このことは、まさに、悔い改めと信仰に当たります。そして、このことのうちに、すでにお話ししましたように、悔い改めと信仰が深く結び合っていることが見て取れます。
 先ほどお話ししましたように、申命記8章2節の、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

という御言葉は、主がイスラエルの民にさまざまな試練をお与えになったのは、主がイスラエルの民の心のうちにあるものを知ってくださるためであった、と言われています。これは、主が私たちの心のうちにあるものを明らかにしてくださるということを意味しています。私たちは、主が明らかにしてくださる私たちの現実を知るようになるのです。それによって、私たちは主の御前に自らの罪を悔い改めることができるようになります。もちろん、それは、私たちが、御霊のお働きによって、新しい契約のうちに示されている贖いの恵みにあずかることによっています。
 このように、悔い改めは、主が、私たちのうちに潜んでいて、私たちも気がついていない、主に対する不信仰の「根」を明らかにしてくださることと、私たちがそれを自覚することから生まれてきます。これは、当たり前のことのように響きますが、ここには微妙な問題もあります。
 私たちの悔い改めは、主が明らかにしてくださる私たちの現実を、私たちが自分のこととして、自分で納得してなすことです。その意味で、悔い改めは、強制されたり、脅迫されたりしてするものではありません。
 この点については、いくつか疑問も湧いてきます。先週も引用しました、マルコの福音書1章14節、15節には、

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

と記されています。イエス・キリストは、私たちに自らの罪を自覚し、それを悔い改めて、その上で、福音を信じることを求めておられます。その意味で、私たちは自分の罪を悔い改めなければならないのではないでしょうか。
 しかし、この、自分の罪を悔い改め「なければならない」ということを、どのように理解するか注意しなければなりません。今日では、この「何々しなければならない」という言葉は、強制的な感じがして敬遠されています。けれども、私たちが自分の罪を悔い改め「なければならない」ということは、外側からの強制や脅迫によって、悔い改めることを求めているものではありません。
 私たちが自分の罪を悔い改め「なければならない」のは、私たちのうちに罪があり、実際に罪を犯すからです。私たちは、イスラエルの民と同様、自分のうちに主に対する不信感を宿しているものです。その意味で、私たちは自分の罪を悔い改め「なければならない」ものです。その意味で、私たちが自分の罪を悔い改め「なければならない」ということは、単純に、私たち自身の現実を述べているものです。
 ところが、もし、私たちが自分のうちに主に対する不信感などの罪を宿していることに気がついていないとしたら、真の意味で悔い改めることはできません。その悔い改めはポーズでしかありません。もちろん、イエス・キリストは、そのような悔い改めのポーズや、実質のない悔い改めを求めておられるのではありません。私たちが、自分のうちに神さまに対する罪を宿しているということを認めて、その罪を悔い改めることを求めておられます。
 そして、先ほどの御言葉が示していますように、私たちのうちに神さまに対する不信感などの罪が巣くっていることを明らかにしてくださるのは、主ご自身です。主が、御霊によって、それを明らかにしてくださって初めて、私たちはそれを自覚することができますし、悔い改めに導かれます。
 ですから、主が、私たちに悔い改めるように求めておられるときには、同時に、私たちを導いて、私たちのうちに主に対する不信感などの罪がある現実を悟らせてくださるのです。それで、私たちは、自分から「このようなことは悔い改めなければならない」と自覚するように導かれます。
 さらに、もう一つの疑問がわいてきます。先ほどの、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

という御言葉は、主がイスラエルの民を、試練に遭わせて苦しめられたことを示しています。それによって、イスラエルの民は脅迫されたのではないだろうかということです。そのような感じ方は、私たちが旧約聖書を読みながら、何となく感じていることかもしれません。
 この点については、実際に、イスラエルの民がどのように受け止めたかということと、主のみこころを分けて考える必要があります。
 すでにお話ししましたように、イスラエルの民の発想からしますと、主がお与えになったさまざまな試練は、自分たちに対する主の「悪意」の現われと感じられました。それで、イスラエルの民は、目の前の困難な状況のことでつぶやきました。また、その不信仰に対する主のさばきも、降ってわいた災害ででもあるかのように受け止めていたと思われます。そのようなイスラエルの民であれば、主がお与えになった試練を、主からの「脅迫」ででもあるかのように受け止めたことは、十分に考えられることです。いつ、主の「隠されている悪意」が自分たちに向かってくるか分からないというような不信感をもって、恐れていたかもしれません。
 イスラエルの民に限らず私たちすべては、主に対して、このような感じ方をしているかぎり、決して、主の御前に真実な悔い改めをすることはできません。せいぜい、自分たちの不信仰に対して主のさばきがくだされたときに、「まずいことをしてしまった」とか「失敗してしまった」というようなことを考えるだけです。
 たとえば、イスラエルの民が、「主に向かってつぶやくと、さばかれる」というような、経験上のレッスンを身につけていたとしましょう。それは十分考えられることです。そうしますと、不信仰からつぶやいて主のさばきを招いたときにも、「しまった、つぶやいてしまった」というような、感じ方をして終わってしまう可能性があります。それは、自分たちの罪を悔い改めることではなく、「やり方がまずかった」とか「失敗した」というような、「方法論」のまちがいを考えるだけのことです。
 これは、主のみこころの奥に自分たちに対する「悪意」があって、いつそれが自分たちに向けられるか分からないから注意しなければならないのに、うっかり、つぶやいてしまった、というような感じ方です。このような感じ方の奥には、主に対する不信感があり、そこから、さらに、ある種の脅迫感が生まれてきています。
 しかし、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

という御言葉と、それに続く、

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

という御言葉は、主には、イスラエルの民を脅迫しようとする意図はまったくないことを示しています。むしろ、主は、イスラエルの民を訓練して、ご自身が真実な方であることをお示しくださり、さらに、ご自身を信頼するように導いてくださいました。それによって、イスラエルの民を、さらに、ご自身に近づけてくださるためでした。
 主の訓練に関して、先ほどは、ヘブル人への手紙12章7節〜11節に記されています御言葉を引用しましたが、今度は、黙示録3章19節、20節に記されています、栄光のキリストの御言葉を見てみましょう。それは、ラオデキヤにある教会に対して語られたもので、

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

と言われています。
 この主の御言葉は、ラオデキヤにある教会に対して語られたものですので、基本的には、教会全体に当てはめられるものです。もちろん、それは、教会の兄弟姉妹たちそれぞれが自覚して受け止めていかなければなりません。
 この栄光のキリストの御言葉においても、主が私たちに試練をお与えになるのは、私たちをご自身の愛のうちで訓練してくださるためであり、私たちが悔い改めへと導かれるとともに、主ご自身を私たちのうちに迎え入れて、主との親しい交わりにあずかるようになるためであることが示されています。もちろん、私たちが主のご臨在の御前に近づいて、主との親しい交わりにあずかるためには、主の訓練をとおして、主の聖さにあずかっていなければなりません。
 実際には、この主との親しい交わりは、特に、今日も、私たちがその恵みにあずかります、聖餐式における主との交わりにおいて実現します。
 よく、20節の、

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

という御言葉だけが引用されますが、それに先だって、私たちを悔い改めへと導いてくださる主のお働きがあることを見失ってはなりません。
 主の御声を聞いて戸を開けることは、主がお与えになる試練の中で、私たち自身が主の恵みを必要としている罪人であることを自覚して、主の御前で、また、主に対して、真実な悔い改めをすることから始まります。そして、この真実な悔い改めが、主の贖いの恵みを信じて、主との親しい交わりのうちに入る、生きた信仰となって現われてきます。
 それで、教会は、聖餐式には、自分が主の恵みを必要としている罪人であることを自覚し、主の御前で、また、主に対して、真実な悔い改めをして参加するように勧めてきました。自らを吟味するというのは、そのようなことです。「自分を吟味してみたところ、自分は大丈夫だから聖餐式にあずかることができる」というような感じ方をしているとしたら、それこそ、聖餐式の意味を取り違えています。
 もちろん、繰り返しになりますが、この場合も、真の悔い改めは、生きた信仰と結びついています。そして、聖餐式において提示されている、主イエス・キリストが十字架の上で裂いてくださった肉と、流してくださった血による罪の贖いを信じて受け取ります。
 いずれにしましても、主が私たちに試練をお与えになるときに、主は私たちを脅迫して、私たちがわけも分からない恐怖感に駆られて、悔い改めることを求めておられるのではありません。主は、その試練をとおして、私たちのうちにあるものを明らかにしてくださいます。私たちは、それを砕けた心をもって受け止めたうえで、主の御前に、また、主に対して真実に悔い改めるように導かれるのです。
 ですから、悔い改めは、私たちが自分のこととして、納得してすべきことですが、それは、栄光のキリストが、ご自身の贖いの恵みに基づいてお働きになる御霊によって導いてくださることによって、実現するものです。
 


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