(第41回)


説教日:2001年6月24日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節


 先週は伝道礼拝でしたので一週あくことになりましたが、今日も、聖なるものであることの基本的な意味についてのお話を続けます。
 これまで、民数記20章1節〜13節に記されていることを中心として、イスラエルの民の不信仰について、いくつかのことをお話ししてきました。今日も、そのイスラエルの民の不信仰について、これまでお話ししたこととは別のことをお話ししたいと思います。
 民数記20章1節〜13節に記されていることは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されてから40年後の「第一の月」のことであると考えられます。この時に至るまでの間に、荒野のイスラエルの第一世代は、積み重ねた不信仰のために、約束の地であるカナンに入ることができないで、荒野で滅んでしまっていたと考えられます。
 この時、イスラエルの民の第二世代は、いよいよ約束の地であるカナンに入るために、荒野での最後の旅となる、「ツィンの荒野」の「カデシュ」から、モアブの平原に向けての旅を始めようとしていました。
 しかし、そこに飲み水がありませんでしたので、イスラエルの会衆は、モーセとアロンに逆らって、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

と言いました。
 これは、モーセとアロンに向けられている非難ですが、実際には、この時までイスラエルの民を導いてこられた主に対する非難です。それで、この言葉は、主が、この「ツィンの荒野」の「カデシュ」の水のないところに導き入れて、自分たちを殺そうとしているのではないかという、主に対する不信感を示すものです。
 これは、主のみこころの中には、自分たちに対する「悪意」が隠されていて、ここでそれが表わされているということで、荒野のイスラエルの第一世代と第二世代を通して見られる不信仰の根底にある考え方です。主と主のみこころに対するこのような考え方が「根」となって、そこから、様々なつぶやきが生み出されてきました。


 このことについては、すでに詳しくお話ししてきたところですが、このような、イスラエルの民の不信仰の本質的な特性を踏まえた上で、イスラエルの民の不信仰にかかわるもう一つの問題を取り上げます。
 イスラエルの民は、モーセとアロンに向かって、まず、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

と言いました。
 この「私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき」というのは、すでにお話ししましたように、同じ民数記16章に記されている出来事のことです。16章1節、2節には、

レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。

と記されています。
 コラは、モーセとアロンの従兄弟で、自分がアロンに代わって大祭司の職務に就き、仲間になった「二百五十人」を祭司にしようとしたようです。「会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち」と言われているイスラエルの民の有力者「二百五十人」を味方につけたコラは、さらにイスラエルの会衆全体を自分の味方につけて、自分たちの企てを実現しようとしました。
 しかし、コラとその仲間たちは、主のご臨在の御前に立った時、主の聖さを冒す者として、主のご臨在の御許から出た火によって焼き尽くされてしまいました。
 そのようなことがあった次の日に、イスラエルの会衆は、こぞって、コラとその仲間たちが滅ぼされたことで、モーセとアロンを非難しました。そのために、主の聖なる御怒りによるさばきが、イスラエルの会衆の間で始まりました。
 その時、アロンは、主のさばきが執行されている所に行って「死んだ者たちと生きている者たちとの間に」立ち、民の罪のための贖いをしました。いわば、主のさばきの御手が迫ってくるその「最前線」に身をさらして、民のための贖いをしたのです。それによって、主のさばきは止みましたが、この時に「一万四千七百人」が死にました。
 イスラエルの民が、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

と言っているのは、この時の主のさばきによって死んでいればよかったという意味です。
 イスラエルの民は、目の前に困難な状況が迫って来た時に、その時までになされた主の御業と、受けてきた恵みを思い起こして、主に信頼するかわりに、主に対する不信感を募らせて、それまで受けてきた恵みをも否定してしまうのです。
 本質的にこれと同じことは、荒野のイスラエルの第一世代の者たちも言っています。
 出エジプト記16章1節〜3節には、

ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

と記されています。
 これは、イスラエルの民がエジプトを出てから一月足らずのことです。この時すでに、イスラエルの民が言った、

エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。

という言葉に、主が自分たちをエジプトの地から連れ出したのは、荒野で自分たちを殺すためであったという不信感が表わされています。これによって、出エジプトの贖いの御業そのものが否定されてしまっています。そして、どうせ、殺されるなら、こんな荒野で飢えて死ぬよりは、

エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、

殺されていたほうがよかったと言っています。
 この時のイスラエルの民は、主が、自分たちを奴隷としていたエジプトの地を10のさばきをもってさばかれたことを目の当たりにしていました。また、紅海において、その水を割って自分たちを通らせてくださり、同じ水によってエジプトの軍隊をさばかれたことも見届けていました。
 それで、イスラエルの民は、この時も、主の御手に信頼して、その備えを待ち望むべきでした。しかし、そうする代わりに、主に対する不信感を募らせたのです。
 これは、主に対する不信仰ですが、この時は、イスラエルの民の食べ物がなくなった最初の経験でしたし、教育的な意味もあって、主は、マナを備えてくださいました。そしてこの時から、主は、イスラエルの民が荒野にあった40年の間、1日も欠けることなく、マナを与えてイスラエルの民を養い続けてくださいました。
 また、すでに何度か取り上げたことですが、エジプトを出てから2年ほど経ってから、イスラエルの民の第一世代がいよいよカナンの地に入るように導かれた時にも、カナンの地を探るために遣わされた者たちから、その地の民が強い民であるという報告を聞いて、

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。
民数記14章2節、3節

とつぶやいています。
 今日、皆さんに考えていただきたいのは、なぜ、イスラエルの民は、このようなことを繰り返してしまうのか、ということです。言うまでもなく、それはイスラエルの民の不信仰によることです。そして、その不信仰の根底に、主のみこころの奥には自分たちに対する「悪意」が隠されているというような、主と主のみこころに対する誤解と不信が潜んでいます。そのことはすでにお話ししてきました。ここでの問題は、なぜ、そのような主に対する不信が払拭されないで、不信仰が繰り返されてしまうのかということです。
 もちろん、これはイスラエルの民だけの問題ではありません。私たちも、自分のことを振り返ってみますと、同じ罪を繰り返します。その点ではイスラエルの民と同じであることを心に留めて、イスラエルの民の問題を考えてみたいと思います。そして、それをとおして、改めて、私たち自身のことを振り返ってみたいと思います。
 結論的に言いますと、イスラエルの民の間に主に対する不信が根づいたままになっていて、実際に、主に対する不信仰を繰り返してしまうことのおもな原因は、イスラエルの民が、自分たちの不信仰の罪を自覚して、主の御前に、真実に悔い改めたことがないということにあります。
 今日取り上げている「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事のことを考えてみましょう。
 イスラエルの民は、飲む水がないということで、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

と言いました。
 しかし、もし、コラとその仲間たちがモーセとアロンに取って代わって大祭司と祭司の職務に就こうとして、主のさばきによって滅ぼされてしまった時に、イスラエルの民が、主の聖さは、主が示してくださったとおりに守らなければならないものだということを身にしみて学び、さらに、主の御言葉から逸れて主の聖さをを冒すことが、どれほど恐ろしいことであるかを学び取っていたとしたら、次の日に、モーセとアロンを非難するようなことはなかったはずです。
 さらに、次の日に、モーセとアロンを非難して、主のさばきを招いて、多くの兄弟たちが倒れた時に、自分たちのことを振り返っていたとしたらどうだったでしょうか。そして、自分たちもコラとその仲間たちと同じように、主の聖さをわきまえていなかったために、コラとその仲間たちのさばきを不当なことと考えてしまい、モーセとアロンを非難してしまったということに気がついて、主の御前に、自分たちの罪を悔い改めていたとしたらどうだったでしょうか。
 そうしていたら、自分たちも主のさばきにあって滅ぶべき者であったのに、アロンの決死の執り成しと贖いによって、さばきを免れたということを、受け止められたことでしょう。そして、あのような罪は二度と繰り返してはならないと、心に刻むことができたことでしょう。
 そのようにして、自分たちの罪を自覚して、悔い改めていたとしたら、このことに示されていた主の忍耐と、自分たちの罪を赦してくださる主の贖いの恵みを受け止めることができたはずです。そうすれば、「ツィンの荒野」の「カデシュ」において、飲む水がなかった時にも、たとえ不安と恐れがあったとしても、なお、主の恵みの御手に信頼して、その備えを待ち望むことができたことでしょう。
 ですから、イスラエルの民が、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

とつぶやいたのは、イスラエルの民の不信仰によることなのですが、それは、コラとその仲間たちの反逆があった時に、自分たちの罪の現実を自覚して、主の御前に、真実に悔い改めていなかったためであると言うことができます。
 そして、そのような不信仰が、荒野のイスラエルの第一世代から第二世代に渡って、常に繰り返されてきたのは、その40年の間に、イスラエルの民が、自分たちが主に対する不信をもっていることを自覚して、その罪を主の御前に、真実に悔い改めたことがなかったことを意味しています。
 これまでお話ししてきたことから分かりますように、イスラエルの民は、繰り返し、自分たちのことを嘆いています。しかし、その嘆きは、自分たちの罪の現実に対する嘆きではありません。自分たちが「ひどい目」にあっているというように受け止めたうえでの嘆きです。
 前回も引用しました、申命記8章2節〜5節には、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

と記されています。
 主が、エジプトを出て来て間もないイスラエルの民のつぶやきをお聞きになって、マナという、人間の経験を越えた糧を備えてくださったことは、イスラエルの民のからだの必要を満たしてくださるためであると同時に、イスラエルの民に、どんな時にも主に信頼すべきことを、悟らせてくださるためでした。それによって、イスラエルの民は、「私たちは主を信じられなくてつぶやいてしまったけれど、主は、私たちの思いを越えたマナを備えてまで、私たちの必要を満たしてくださった。やはり、私たちはつぶやいたりしないで、主を信じて、主を待ち望むべきだったのだ。」ということを悟って、自分たちの不信仰を悔い改めるべきでした。
 このように、マナは、イスラエルの民が、エジプトの地と紅海において、主の御手のお働きを目の当たりに見てきたのに、主を信じないで、食べ物がないといってつぶやいた自分たちの不信仰を恥じ、その不信仰を悔い改めて、この後は、どのような時にも主を信じて歩むべきことを心に刻み込むために、主が備えてくださったものです。主が40年の間、一日も欠けることなく、マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださったことは、そのような、悔い改めに基づく信仰を支えてくださるためでした。
 しかし、イスラエルの民が、主の恵みの備えをそのように受け止めた形跡はありません。
 マナが与えられたことは出エジプト記16章全体に記されていますが、続く17章1節〜3節には、

イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」

と記されています。
 イスラエルの民は、食べ物がなかった時に主を信じないでつぶやいた時にマナが与えられたことで、「やはり主を信じてその備えを信頼すべきであった」と、自分たちの不信仰を恥じて、悔い改めるべきでした。そうしていたとしたら、同じように、飲み水が無くなったときには、不安や恐れがあったとしても、なお、主に信頼しようとしたはずです。
 しかし、イスラエルの民は、そのようにはしませんでした。むしろ、主に対する不信感を募らせてつぶやいています。食べ物がなかった時につぶやいたらマナが与えられたことで、不信仰からつぶやくことに何の恐れを感じなくなってしまっていたのでしょうか。あるいは、つぶやくことによって、主を動かすことができると考えるようになってしまっていたのでしょうか。
 これは荒野のイスラエルの第一世代のことですが、第二世代の者たちも、「ツィンの荒野」の「カデシュ」において、同じことを繰り返しています。
 このように、荒野のイスラエルは、その第一世代と第二世代を通して、自分たちが主に対する不信感を持っていることを自覚することがなく、その罪を主の御前に、真実に悔い改めたことがありません。
 主は、イスラエルの民がご自身に信頼するようなるようにと、荒野の中で試練をお与えになりました。しかし、イスラエルの民は、主のみこころのうちに「悪意」が隠されていると受け止めて、主に対する不信を募らせました。
 また、主はイスラエルの民にご自身の聖さをお示しになるために、イスラエルの民の罪に対するさばきを執行されました。しかし、イスラエルの民は、それを、降って湧いてきた災いででもあるかのように捉えていただけです。それが去ってしまえば、けろりと忘れてしまっています。
 さらに、主は、イスラエルの民が主の恵みに信頼するようになるようにと、イスラエルの民の不信仰にもかかわらず、さまざまな恵みを示してくださいました。しかし、イスラエルの民にとっては、それは、私たちの言葉で言いますと、何か「ラッキーなこと」があったというようなことだけで、それによって、主の恵みに対する信頼を深めて、信仰によって危機を乗り越えていくようにはなりませんでした。
 これらのことを見ますと、イスラエルの民は、状況次第で浮いたり沈んだりしているだけです。
 このことを踏まえて、改めて出エジプトの贖いの御業に対するイスラエルの民の反応を見てみましょう。主が紅海の水を割って自分たちを通らせてくださり、同じ水によってエジプトの軍隊をさばかれた時には、モーセとともに、主に向かって讃美の歌を歌いました。それが出エジプト記15章前半に記されています。
 しかし、同じ15章の後半には、マラというところの水が苦くて飲めなかったので、モーセに向かってつぶやきました。主はモーセをとおして、その水を甘くしてくださいました。そして、先ほどお話ししましたように、続く、16章には、「シンの荒野」で食べ物がなかったので、つぶやいたことが記されており、17章には、「レフィディム」で飲む水がなかったのでつぶやいたことが記されています。
 イスラエルの民の讃美は、状況次第で浮いたり沈んだりしている中で、「よいこと」があった時の反応でしかありません。主の恵みに対する認識を深めながら、主の真実な恵みを讚えるものではありません。それは、状況が変われば、たちまちのうちに、つぶやきに変わってしまうものでした。
 このように、イスラエルの民は、状況次第で浮いたり沈んだりしているだけです。自分たちの見ていることを越えて、主の恵みに信頼して待つことはありませんでした。それも、イスラエルの民が、自分たちのうちに潜んでいる不信の罪を自覚して、それを主の御前に、真実に、悔い改めたことがなかったからですし、御前に悔い改めた者に示される、贖いの恵みを受け取っていなかったからです。
 このようなイスラエルの民の目に写る主は、秘かに自分たちに対する「悪意」をもっていたり、「よいこと」をもたらしてくれることもある一方で、災いをもたらして困らせたりする不確かな存在です。これでは、とても、聖なる方であるとは言えません。ですから、イスラエルの民の発想の中では、主の聖さが冒されていたのです。
 このことから、私たちも自分のことを振り返ってみる必要があります。
 私たちは主を信じていると告白していますが、それは、主を信じると「何かいいこと」があるというようなことを信じているもので、よいことがあれば舞い上がり、困難なことがあれば沈み込むというように、状況次第で浮いたり沈んだりしているだけの、死んだ信仰であるというようなことはないでしょうか。それとも、信仰の目を主ご自身に向けて、主の真実さに裏打ちされている愛と恵みに信頼して、主を待ち望み続けているでしょうか。
 主が、私たちの主を信じているという告白の影に、主に対する不信が潜んでいることを、試練をとおして明らかにしてくださったのに、私たちはそれを認めていないし、その罪を悔い改めてもいないというようなことはないでしょうか。
 私たちの信仰が生きて働く信仰であるためには、私たちが自分自身のうちに潜んでいる主に対する不信を自覚して、その罪を主の御前に真実に悔い改めることが必要です。言い換えますと、罪の悔い改めに裏打ちされていない信仰は、生きて働く信仰ではありません。
 ここでいう「生きて働く信仰」は、神学的には「救いに至る信仰」と呼ばれます。それは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて働かれる御霊が私たちのうちに生み出してくださるものです。これを、ガラテヤ人への手紙5章6節の、

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

という言葉に合わせて言いますと、「愛によって働く信仰」です。イエス・キリストに結びついて、その贖いの恵みによって愛の実を結ぶ信仰ということでしょうか。
 マルコの福音書1章14節、15節には、

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

と記されています。
 イエス・キリストがなさった「神の福音」の宣教は、私たちに自らの罪を自覚し、それを悔い改めて、その上で、福音を信じることを求めています。
 また、ルカの福音書5章31節、32節には、

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。

という、イエス・キリストの言葉が記されています。
 この後半の「罪人を招いて、悔い改めさせるために」と訳されている部分を直訳しますと、「罪人を悔い改めへと招くために」となります。ここでは、イエス・キリストは「罪人を悔い改めへと招くために」来られたと言われています。これによって、私たちが自分の罪を自覚して、悔い改めることができるのは、イエス・キリストの恵みによっているということが示されています。
 さらに、よみがえられたイエス・キリストが、弟子たちに旧約聖書に記されていることを悟らせてくださったことを記している、ルカの福音書24章45節〜48節には、

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

と記されています。
 ここでは、福音の宣教のことが「罪の赦しを得させる悔い改めが ・・・・ 宣べ伝えられる」ことと言われています。
 このように、イエス・キリストの福音宣教においても、復活されたイエス・キリストから教会に託された福音宣教においても、罪を悔い改める者に与えられている贖いの恵みが示されています。
 私たちは、この贖いの恵みを信仰によって受け取ります。しかし、もし、私たちが自分の罪を自覚していなかったとしたら、私たちは、イエス・キリストが備えてくださった贖いの恵みを受け取ることはありません。それで、私たちが信仰によって、イエス・キリストの贖いの恵みを受け取るのは、私たちのうちに罪の自覚がある時だけです。そして、もし、私たちが真に自分の罪を自覚しているなら、私たちは、その罪を悲しみつつ悔い改めます。
 このようなわけで、私たちの信仰が、贖い主であるイエス・キリストに結びつく、生きて働く信仰であるためには、私たちが自分自身のうちにある罪を自覚して、神さまの御前に真実に悔い改めることが必要なのです。
 教会は、このことを御言葉と経験から学んできました。それで、信仰は、それだけで独立しているものではなく、その裏側に悔い改めを伴っていると告白してきました。
 主の贖いの恵みに基づく救いは、御霊のお働きですが、御言葉は、この御霊のお働きには、必ずしも時間的ではなく、論理的というべき順序があることを示しています。
 その、御霊のお働きによる「救いの順序(オルド・サルティス)」においては、まず、私たちが、よみがえられたイエス・キリストと結び合わされます。これを「神秘的結合」と呼びます。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれます。これを「新生」と呼びます。その結果、一般的な言葉で言う「改心」、神学的には「改変」が起こります。実は、その「改変」の消極的な面が悔い改めであり、積極的な面が信仰なのです。これに続いて、法的に義と認められることである「義認」、子とされること、実質的に聖められることである「聖化」、そして、「聖化」の完成としての「栄光化」が続きます。
 このように、生きて働く信仰は、罪の自覚に基づく悔い改めに裏打ちされています。そして、主の御前での、真の悔い改めは、決して、いたずらに自分を責めることではありません。犯した罪を嘆き悲しむことはありますが、それで終わることはありません。必ず、イエス・キリストの贖いの恵みに信頼する信仰となって現われてきます。ヨハネの手紙第一・1章9節に記されています、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束にしたがって、罪を告白して赦していただきます。そして、イエス・キリストの愛と恵みに信頼して、主を待ち望み、主のみこころに従って歩むようになります。

 


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