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説教日:2001年6月10日 |
まず、ここに記されているイスラエルの民の不信仰について、これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関係あることを復習しておきましょう。 民数記20章3節〜5節に記されている、 ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。 というつぶやきに表わされているイスラエルの民の不信仰は、この時から37年半ほど前に、イスラエルの民の第一世代が、同じ「カデシュ」において示した不信仰と、本質的に同じものです。 その37年半ほど前に、イスラエルの民の第一世代は、約束の地であるカナンに入るように導かれました。しかし、カナンの地を探ってきた者たちのうち、ヨシュアとカレブ以外の者たちはその地の住民が強い民で、自分たちはその地に入ることができないと報告しました。民数記14章2節、3節に記されていますように、それを聞いたイスラエルの民は、モーセとアロンに向かってつぶやいて、 私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。 と言いました。 この荒野のイスラエルの不信仰の根本にあるのは、主のみこころの奥深くに、自分たちを滅ぼそうとする「悪意」が隠されているのではないかという不信です。自分たちをエジプトの奴隷の状態から救い出して下さった主の贖いの御業はありがたいものであったけれども、実は、その奥に、自分たちを荒野で滅ぼそうとする「悪意」が隠されていたのではないかという不信感を募らせているのです。 それから37年半ほど後に、イスラエルの民の第二世代も、本質的には同じ不信仰を表わしています。 第一世代の者たちは、 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。 と言って、自分たちの不信に満ちた思いを、直接、主に向けています。ところが、第二世代の者たちは、自分たちの不信の思いを主に向ける代わりに、 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。 と言って、モーセとアロンを責めています。 その際に、自分たちのことを「主の集会」と呼んでいます。これによって、自分たちが主の契約の民であることを主張しています。そして、モーセとアロンは、悪意をもって「主の集会」を滅ぼそうとしていると告発しています。イスラエルの民としては、悪いのはモーセとアロンであって、主ではないと言いたいのでしょう。それによって、主のことを悪く言うことは避けようとしているように思われます。 しかし、そのようにして主の「名誉」を守ろうとすることは、かえって、主の導きを否定することになります。なぜなら、同じ民数記9章15節〜18節に、 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。 と記されていますように、イスラエルの民を、エジプトを出てから、この時に至るまでの40年もの間、真実に導いてくださったのは、イスラエルの民の間にご臨在してくださる主であったからです。 ですから、このような「悪い所に引き入れた」のは、主ではなく、モーセとアロンであると言うことは、主がこの時に至るまで、イスラエルの民を導き続けてくださったことを否定することになってしまいます。実際に、イスラエルの民を「ツィンの荒野」に導かれたのは、主ご自身です。 この時、主がイスラエルの民を「ツィンの荒野」に導かれたのには理由があったと考えられます。 その理由については、すでに、出エジプト記17章1節〜7節に記されている、「シンの荒野」の「レフィディム」で、やはり飲み水がなかったために主を試みた出来事とのかかわりで考えられることと、民数記16章、17章に記されている、コラとダタンとアビラムと、その「二百五十人」の仲間が、モーセとアロンに逆らった出来事とのかかわりで考えられることをお話ししました。ここでは、それとは別のことをお話ししたいと思います。 「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事があった後、イスラエルの民は主の導きによって、モアブの平原に向けて旅立ちます。そのモアブの平原において、モーセはイスラエルの民に、約束の地であるカナンの地に侵入するに当たっての戒めを、いわば、遺言のように語ります。それが申命記の全体にわたって記されていますが、その中の8章2節〜6節には、 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 と記されています。 ここには、イスラエルの民が荒野で飢えることなどによって苦しんだことも、主の導きによることであったと言われています。普通であれば、荒野のようなところでは、いくら小さな民であるといっても、一つの民がそこに存在し続けることはとてもできません。しかし、主は、あえて、そのようなところにイスラエルの民を導き入れられました。 そのような厳しい状況の中では、その人が本当に主を生きておられる方として信じて、主に信頼するかどうかが試され、はっきりしてきます。物事が順調に行っている時には、簡単に、主に信頼していると言っている人が、実際に、物事がうまくいっていない状況の中では、主への不信感を募らせてしまうということは珍しくありません。その意味で、主がイスラエルの民を荒野に導き入れて、彼らを苦しめられたのは、「あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」と言われているのです。 イスラエルの民は、このような荒野の経験をしなかったとしたら、自分たちの中にある罪と不信仰に気がつかなかったことでしょう。何の試練もなくエジプトを出て、何の苦労もなく約束の地であるカナンに入っていたとしたら、自分たちはちゃんと主を信じており、主もそれに応えてくださっているというような思いになっていたことでしょう。 それは幸いなことのように見えますが、それによっては、イスラエルの民は、主の聖さに対する何のわきまえももつことができなくなっていたはずです。そして、いざカナンの地に入るようになったときには、そのことがより大きな問題を引き起こすことになっていったと思われます。 それで、主がイスラエルの民を荒野で苦しめられたのは、彼らの「心のうちにあるものを知るためであった。」のですが、それは、イスラエルの民が、主の契約の民としての歴史の初めの時点で、自分たちの現実に気がつくためのことでもあったのです。 荒野という、とても一つの民族が生き続けることができない場所であっても、そこにイスラエルの民を導き入れられたのは主ですから、主は真実な御手をもって、イスラエルの民を養い続けてくださいました。荒野には十分な食べ物がありませんでしたが、主はマナを与えてくださいました。 それだけではなく、マナのことに続いて、 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と言われています。主は、マナを初めとして、イスラエルの民のために必要なものをすべて備えてくださいました。その中で、いわば、マナは、それらを代表するものです。 ここでマナのことが取り上げられていることには意味があると思われます。食べることは、人間が生きていくうえで基本的に必要なことです。主はこの基本的な必要を満たしてくださるために、マナを与えてくださいました。しかも、イスラエルの民が繰り返し主に背いてきたにもかかわらず、主は40年の間、一日も欠かすことなく、マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださいました。 このように、主は、マナを初めとして、必要なものをすべて備えてくださいました。その主の備えの中には、民数記20章1節〜13節に記されています「カデシュ」において、水がなくてイスラエルの民が渇いたときに主が岩から水を出して渇きをいやしてくださったことも含まれます。 この、主の備えてくださったマナのことは「あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナ」と言われています。マナは、それまで人間が知らなかった食べ物でした。 出エジプト記16章13節〜15節には、 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。 と記されています。この時、イスラエルの民が互いに言った「マーン・フー」(「これは何だろう。」)の「マーン」(何?)から、この食べ物が「マナ」と呼ばれるようになりました。マナは、ヘブル語では「マーン」、ギリシャ語では「マンナ」です。まさに、マナは、人間がそれまで知らなかった食べ物だったのです。 これらのことを受けて、申命記8章3節では、 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 と言われています。 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。 ということは、しばしば、人間には、パンという物質的なものだけではなく、精神的、霊的なものも必要であるというような意味に理解されますが、ここでは、そのようなことを言っているのではありません。そのようなことのさらに奥にある人間の事実を述べています。 人は多くのパンを手にして死ぬこともあります。それで、人のいのちを根本的に支えているのはパンではなく、主に御口から出るもの、すなわち、主の御言葉です。御言葉をもってこの世界とその中にあるすべてのものを造り出された主の御言葉です。主が私たちのいのちを支えてくださっているので、私たちがパンを食べることが意味あることになります。また、主は、私たちのいのちを支えてくださるためにパンを用いてくださいます。それで、私たちは、パンを食べます。ですから、人はパンそのものや、パンがあることに信頼するのではなく、私たちのいのちを支えてくださっておられる主に信頼すべきです。 このことは、主がイスラエルの民を荒野に導かれて、そこにパンがなかったときにも変わりません。主は、荒野にパンがなかったのでどうしようもなくなったのではなく、人が知らなかったマナを与えてくださって、イスラエルの民を養ってくださいました。そのように、マナを与えてくださったことも、主のご意志の表現である御言葉によることです。 そのことをとおして、主は、 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。 ということを教えてくださったのです。 それは、40年にわたる荒野の旅の間、主が、常に変わることなくマナを与えてくださったことをとおして、イスラエルの民が、主は生きておられる方であり、真実な方であることを知って、どのような時にも、主を信頼して、その御教えと導きに従うようになるためでした。 私たちの主イエス・キリストは、その地上の生涯を通して、父なる神さまへの信頼のうちに歩まれました。マタイの福音書4章1節〜4節には、 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 と記されています。 イエス・キリストは公生涯の初めにおいて、荒野において、「四十日四十夜」の間、悪魔からの試みにあわれましたが、ここに記されているのは、その最後のものとして記されている三つの試みのうちの第一のものです。この試みについては、前にお話ししたことがありますので、いまお話ししていることとかかわりのあることだけに触れます。 この時、イエス・キリストは御霊に導かれて荒野に行かれました。その点ではイスラエルの民と同じです。 そのイエス・キリストが荒野で「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられ」ました。そこで悪魔は、 あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。 と勧めました。 これは、他の人のものを盗むとか、他の人を犠牲にするとか、道徳的に悪いことをするように勧めているのではありません。悪魔の目的は、イエス・キリストのうちに荒野のイスラエルの民の不信仰を起こさせることです。御霊に導かれて荒野に来られたイエス・キリストは、四十日四十夜の断食の後、体力的には限界に来ていました。しかし、そこは荒野で、食べるものはありませんでした。それで、悪魔は、イエス・キリストに、父なる神さまが御霊によって荒野に導かれたのは、ここでイエス・キリストを飢え死にさせるためであったのに違いないと、言っているのです。たとえば、「父なる神さまは、このような事態になることを知っておられたはずだから、いざというときのために身近に食べ物があるところに導かれるべきだった。それなのに、このような荒野に導かれたのは、あなたをここで飢え死にさせるためではないですか。」というような思いを吹き込もうとしたということでしょう。そして、イエス・キリストなら、神の御子としての御力によって、いくらでも、石をパンに変えることができるのだから、そうしたらどうかと勧めています。 イエス・キリストが、その悪魔の提案を退けられたのは、石をパンに変えること自体が悪いことだからではありません。その悪魔の提案が、父なる神さまに対する不信から出ており、父なる神さまに対する不信を表現することであるからです。イエス・キリストは、ご自身を荒野に導かれた父なる神さまのみこころには、隠された「悪意」のようなものはみじんもないということを信じておられるので、その悪魔の提案を退けられたのです。そして、父なる神さまの備えを信頼してお待ちになりました。 実際、11節には、 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。 と記されています。この「仕えた」(ディアコネオー)は、食卓で給仕をすることも表わす言葉です。父なる神さまは、御使いたちをお遣わしになって、イエス・キリストを養ってくださったのです。 主の恵みの備えを代表するマナについては、さらに、出エジプト記16章の31節〜35節に、 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。 と記されています。 ここに記されている戒めにしたがって、ヘブル人への手紙9章3節、4節で、 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。 と言われていますように、壺の中に入れられたマナを契約の箱の中に保存するようになりました。この時は、まだ、主の聖所が作られていませんでしたから、これは、後に、主の聖所が作られるようになってから実現したことです。 このように、マナを契約の箱の中に納めることは、後に実現することですが、そのことに関する戒めがここに記されていることは、マナを契約の箱の中に納めることが、主がマナを与えて下さったことと深くかかわっていることを意味しています。 この後、主は、シナイの山で、イスラエルの民と契約を結んでくださり、イスラエルの民をご自身の民としてくださいました。主は、この契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるようになります。そのために、主は、ご自身がご臨在される聖所を作るようにイスラエルの民にお命じになりました。出エジプト記25章8節、9節に、 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。 と記されているとおりです。 この、主がご臨在してくださる聖所の中心は、そのいちばん奥の、至聖所で、そこには「あかしの箱」とも呼ばれる契約の箱が置かれていました。この契約の箱の上蓋は「贖いのふた」と呼ばれますが、その両端に、主の栄光のご臨在がそこにあることを表示し、主の栄光のご臨在を守っているケルブを一つずつ、「贖いのふた」と一体となるように作りました。主は、その二つのケルビム(ケルブの複数形)の間にご臨在されました。 この契約の箱の作り方は、出エジプト記25章10節〜22節に記されていますが、16節では、 わたしが与えるさとしをその箱に納める。 と言われており、21節では、 その「贖いのふた」を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。 と言われています。 ここで言われている「さとし」は、主がシナイの山でモーセに授けてくださった二枚の「契約の板」のことです。それには十戒が書き記されていました。それを契約の箱の中に納めることが、契約の箱の作り方を示してくださった言葉の中で繰り返し語られています。それだけ、契約の箱に契約の板を納めることが大切なことであったのです。それは、主がイスラエルの民の間にご臨在してくださることは、主の契約に基づくことであるということを示しています。 この、主の契約は、主の一方的な恵みによってイスラエルの民に与えられたものです。イスラエルの民はもともとエジプトの地で奴隷となっていました。そのような民をご自身の民としてくださるというのが、主の契約です。そして、なぜ、そのような契約を与えてくださったかというと、ひとえに、主がイスラエルの民を、その一方的な愛で愛してくださったからです。申命記7章7節、8節に、 主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。 と記されているとおりです。 このように、主は、ご自身の一方的な愛によって、エジプトの奴隷の状態にあって、地上の民としては最も弱く取り柄のないイスラエルの民を、ご自身の民としてお選びになりました。そして、ご自身の契約によって、そのことを保証してくださいました。そのような一方的な愛と恵みによって与えられた契約に基づいて、主はイスラエルの民の間にご臨在してくださいました。その、主のご臨在の御許である契約の箱の中に、金の壺に入れられたマナが納められていました。 これは、主が、荒野での40年の間ずっとマナを与えてくださってイスラエルの民を養い続けてくださったことが、主の契約の祝福であることをあかししています。ご自身の契約に基づく主のご臨在からあふれ出る祝福が、40年の間ずっとマナを与えてくださってイスラエルの民を養い続けて下さったことに現われているのです。 このことは、特に、イスラエルの民が荒野の40年間において、主に対する不信を募らせ続けたことを考えますと、より一層意味深いこととなります。主の契約の箱に納められたマナは、イスラエルの民が荒野において、主に対する不信を募らせ続けたにもかかわらず、変わることなく示された主の一方的な恵みをあかししています。 またそれは「あなたがたの子孫のために保存せよ」と言われているとおり、後の子孫に対するあかしのためでもありました。これは、血肉のイスラエルの子孫を越えて、最終的には、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による、新しい契約における成就に至るものです。ヨハネの福音書6章48節〜51節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 と言われて、ご自身が、マナの本体であるとともに、マナによって示されている、真実な主の一方的な恵みの本体であり、私たちの永遠のいのちの源であられることをあかししておられます。私たちは、主の御言葉に基づく信仰によって、マナの本体である御子イエス・キリストを受け入れるなら、永遠のいのちをもつようになります。そして、主の契約の祝福にあずかって、主とのいのちの交わりのうちに生きるようになります。 |
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