(第39回)


説教日:2001年6月3日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節

 今日も、これまでのお話に続きまして、「聖なるものであること」の基本的な意味についてお話しします。
 これまで、民数記20章1節〜13節に記されています、「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事の意味についてお話ししてきました。そのために、まず、この出来事の意味を、出エジプト記17章1節〜7節に記されています、イスラエルの民の第一世代が、「シンの荒野」の「レフィディム」で、やはり飲み水がなかったために主を試みた出来事とのかかわりで考えました。次に、この「カデシュ」での出来事の意味を、民数記16章、17章に記されている、コラとダタンとアビラムと、その「二百五十人」の仲間が、モーセとアロンに逆らった出来事とのかかわりで考えました。
 今日は、これまでお話ししたことを踏まえて、「カデシュ」での出来事を記している、民数記20章1節〜13節の記事に戻って、これまでのお話をまとめながら、いくつかのことを補足するお話をしたいと思います。


 民数記20章1節〜13節には、

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

と記されています。
 すでにお話ししましたように、これは、イスラエルの民がエジプトを出てから40年目の1月頃のことであると考えられます。荒野をさまよっていたイスラエルの民が、いよいよ約束の地であるカナンに入るために、「ツィンの荒野」の「カデシュ」からモアブの平原に向けて、荒野での最後の旅を始めようとしていたときに起こったことです。モアブはヨルダンの川向こうで、死海の東側の地方です。
 
 この時から約37年半前に、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代は、同じ「カデシュ」において、約束の地であるカナンの地に入るように導かれました。その際に、各部族の代表を送ってカナンの地を探らせましたが、カナンの地を探ってきた者たちのうち、ヨシュアとカレブ以外の者たちはその地の住民が強い民で、自分たちはその地に入ることができないと報告しました。民数記14章2節、3節に記されていますように、それを聞いたイスラエルの民は、モーセとアロンに向かってつぶやいて、

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。

と言いました。
 主はこの時イスラエルの民を滅ぼそうとされますが、モーセの執り成しを受け入れてくださって、イスラエルの民を保存してくださいます。20節〜23節には、主がモーセに語られた、

わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

という、さばきの言葉が記されています。
 そして、このさばきの言葉が実現して、それから37年半ほど経って、「ツィンの荒野」の「カデシュ」からモアブの平原に向けて、荒野での最後の旅を始めようとしていた時には、第一世代の者たちは、すでに荒野で滅んでしまっていたと考えられます。
 しかし、イスラエルの民の第二世代が、いよいよ約束の地であるカナンに入るために、「カデシュ」からモアブの平原に向けて、荒野での最後の旅を始めようとしていた時に、そこに水がなかったということで、「彼らは集まってモーセとアロンとに逆らい」、「モーセと争って」、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

と言いました。
 37年半ほど前に、同じ「カデシュ」において、イスラエルの民の第一世代が犯した罪を、同じように犯しています。自分たちの父の世代が滅び去ったのは不信仰のせいであるということを教えられているはずの第二世代が、同じ不信仰を繰り返しています。
 
 このように、イスラエルの民の第二世代は、第一世代の罪を繰り返しているのですが、その現われはより巧妙で、悪質なものになっています。

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

というのは、先週お話ししましたので詳しいことは省きますが、コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らって、主のさばきを招いて滅び去った時に、イスラエルの会衆もモーセとアロンに逆らって主のさばきを招き、「一万四千七百人」が死んだことを指しています。その時、自分たちの罪が招いた主の御怒りから救い出すために、決死の贖いと執り成しをしてくれたモーセとアロンの働きと、二人の働きをとおして示された主の恵みを平然と踏みつけるものです。
 また、それに続く、

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

という言葉は、形としては、モーセとアロンを責める言葉ですが、実質的には、モーセとアロンをお立てになっている主の導きに対する不信の言葉です。なぜなら、イスラエルの民は、幕屋にご臨在される主を表示する「雲の柱」が自分たちを導いておられることを知っていたからです。
 しかし、イスラエルの民は、自分たちの不信仰を巧妙にごまかしています。彼らは、

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。

と言っています。主に対する不信仰を募らせて「主の集会」の特質を失っているいる自分たちのことを「主の集会」と呼んではばかりません。その上、モーセとアロンが「主の集会」を滅ぼそうとしているというような告発をしています。
 さらに、

ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

という言葉にも、巧妙なごまかしが潜んでいます。それは、主が、この時も、それまでと変わらず、マナを与えてくださって、自分たちを養い続けてくださっているということには触れていないということです。主が、この時も、マナを与えてくださって真実に養い続けてくださっているのであれば、飲み水をも与えてくださるはずです。そのことを信じる代わりに、モーセとアロンを責めているのです。
 
 このようにして、イスラエルの民の第一世代に現わされただけでなく、第二世代にも受け継がれた不信仰について、二つのことをお話ししておきたいと思います。
 一つは、すでにお話ししたことですが、第一世代が「カデシュ」においてつぶやいた、

私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。

というつぶやきには、主の契約の民であるイスラエルの民の不信仰の本質が表わされているということです。
 もちろん、それは、いまお話ししましたように、巧妙にカモフラージュされていますが、第二世代のつぶやきにも表わされています。
 このつぶやきによってイスラエルの民は、自分たちをエジプトの地から導き出してくださった主のみこころのうちには「悪意」が隠されていたというようなことを言っています。エジプトの奴隷のままでいたらもっと生きられたのに、主はここで敵の手によって自分たちを滅ぼそうとされて、自分たちをここまで連れてきたのだというのです。
 これは、主がどのような方であるかについて恐るべき告白をすることです。
 ヨハネは、その第一の手紙の1章5節で、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と述べています。そして、この教えの上に立って、その手紙に記されている教えを展開しています。しかし、イスラエルの民は、主の本質的な特性のうちには「やみ」があるというのです。それは「やみ」だから自分たちには隠されていたけれど、いまこの「カデシュ」において、その「やみ」が正体を現わしたというようなことです。
 これは、無限、永遠、不変の愛と恵みに満ちている主の栄光を損ない、主の聖さを冒すことです。それは、自らの身に永遠の滅びを招く罪です。
 
 第二のことは、いまお話ししたことから分かりますが、このようなイスラエルの民の罪は、主を信じていない者の罪ではなく、ある形で、主を信じている者が犯す罪であるということです。神さまを信じていない人々は、神さまに対する不信感を募らせるようなことはありません。神さまを信じていない人々は、神さまを無視し侮っているのです。

なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。

と言ってつぶやいているイスラエルの民は、主が自分たちをエジプトの奴隷の状態から解き放って、エジプトの地から導き出してくださったことを認めています。イスラエルの民は、出エジプトの出来事を主の御業として信じています。しかし、その贖いの御業に「悪意」が隠されていたというのです。
 その意味で、すなわち、これが、何らかの形で主を信じている者が犯す罪であるという点で、私たちもこれと同じような罪を犯す危険性があります。
 私たちの地上の歩みには、さまざまな試練が待ち受けています。そのような試練が、私たちのうちに潜んでいる主に対する「隠れた思い」を明らかにするようになります。さまざまな試練に直面して、それを乗り越えられないように思えるときに、もしかしたら、主は「悪意」をもって私をこのような目に合わせておられるのではないかとか、そこまで、意識しないとしても、主は平然と私をこのような目に合わせておられるのではないかと疑ったりしないでしょうか。そのような形で、主に対する不信感を募らせることは、主が、自分と自分にかかわるすべてのことを治めておられるということを信じている者のうちでおこることです。
 
 この二つことから私たちの信仰を振り返ってみますと、私たちの信仰は、ただ、主がおられるということや、主がすべてのことを治めておられるということを信じるだけのものではありません。そのような信仰は悪霊たちももっています。ヤコブの手紙2章19節に、

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

と記されているとおりです。
 ここでは、

悪霊どももそう信じて、身震いしています。

と言われていますから、悪霊たちの信仰は、頭だけのものだと言うことはできません。唯一の神さまの現実を感じて「身震いしています」。
 また、私たちの信仰は、主が私たちをも治めてくださっているということを信じるだけの信仰でもありません。先ほどの、主がおられるということや、主がすべてのことを治めておられるということを信じるというのは、「一般的なこと」を信じているだけのことですが、これは、主が私たちを治めてくださっているということで、もう少し、自分たちに当てはめているわけです。
 けれども、それだけですと、先ほどお話ししましたような、荒野のイスラエルの民に典型的に見られる不信仰が潜んでいるかもしれません。
 私たちの信仰は、これらのもののさらに上にあります。そして、先ほど引用しましたヨハネの言葉が示していますように、主には「暗いところが少しもない」ということを信じるものです。特に、私たちに対する主のみこころには「暗いところが少しもない」ということを信じるものです。
 主には「暗いところが少しもない」ということを信じているときにだけ、私たちは、荒野のイスラエルに典型的に見られる不信仰からでるつぶやきから守られます。
 ヤコブの手紙5章9節〜11節で、ヤコブは、

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

と戒めています。この最後に述べられている、

主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ということが鍵です。このことを信じることから、主にある忍耐が生み出されます。そして、このような主にある忍耐から、さらに深く、

主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ということを知るようになります。
 
 ヨハネは、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と述べていました。

これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

と言われていますように、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

ということ、特に、私たちに対する主のみこころには「暗いところが少しもない」ということを信じる信仰は、御子イエス・キリストから出た教えを信じることです。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

ということは、イエス・キリストが、ご自身の十字架の死に至るまでの生涯と、御言葉をもっての教えをとおして教えて下さったことです。当然、私たちがそれを信じることができるのも、御子イエス・キリストの恵みによることです。イエス・キリストが御霊によって、私たちにそのことを信じさせてくださるのです。
 けれども、ここには大切なことがあります。
 それは、私たち自身のうちに、あの荒野のイスラエルに典型的に現れている、主に対する不信仰が潜んでいるということを認めることがなければ、私たちは、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

ということ、特に、私たちに対する主のみこころには「暗いところが少しもない」ということを信じて、主に信頼することはできないということです。
 これまで、荒野の第一世代の不信仰や、コラとその仲間たちの不信仰、さらには、「カデシュ」における第二世代の不信仰についてお話ししてきました。そこで私たちが見たのは、イスラエルの民の「あきれるほど」の不信仰ですが、それは、また、そのようなイスラエルの民に対して示された、契約の神である主の「驚くばかりの」忍耐と、恵みです。言い換えますと、荒野のイスラエルの不信仰をとおして、ローマ人への手紙5章20節に記されている、

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

という主の恵みがあかしされているのです。
 
 先ほどお話ししましたように、イスラエルの民の第二世代が、いよいよ約束の地であるカナンに入るために、「カデシュ」からモアブの平原に向けて、荒野での最後の旅を始めようとしていた、まさにその時に、同じ「カデシュ」で第一世代が犯したのと同じ罪を犯しました。
 しかも、そのつぶやきの中で、自分たちのために決死の執り成しをしてくれたモーセとアロンの働きと、二人の働きをとおして示された主の恵みを平然と踏みつけました。また、モーセとアロンをモーセとアロンが「主の集会」を滅ぼそうとしている者であるかのように告発しました。さらには、マナをもって真実に養い続けてくださっている主の恵みからは、わざと目をそらせています。
 そのようなイスラエルの民に対して、主は、

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。

と、モーセとアロンにお命じになって、ご自身の恵みをあかししてくださったのです。
 いま、モーセとアロンの罪のことはおいておきましょう。そのことをとおして示されている主の「驚くばかりの」忍耐と恵みは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、完全な形で私たちのために実現しています。その恵みは、私たちの罪がどんなに深くて、「あきれるほどの」ものであっても、まったく贖ってくださるものです。
 しかし、もし、私たちが、私たちのうちには、荒野のイスラエルのような罪はないというのであれば、まさに荒野のイスラエルのような罪を贖うために主が用意してくださった贖いの恵みは、私たちには適用されません。罪がない者の罪を贖うことは、主にもできません。
 最後に、このことを心に留めて、改めて、ヨハネのあかしに耳を傾けてみましょう。

 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。
ヨハネの手紙第一・1章5節〜2章2節

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第38回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第40回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church