(第38回)


説教日:2001年5月27日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節


 先週は講壇交換でしたので、一週あきましたが、今日も、「聖なるものであること」についてのお話を続けます。
 これまで、民数記20章1節〜13節に記されています、「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事の意味についてお話ししてきました。
 まず、この出来事を、出エジプト記17章1節〜7節に記されています、イスラエルの民の第一世代が、「シンの荒野」の「レフィディム」で、やはり飲み水がなかったために主を試みた出来事とのかかわりで考えてみました。
 それに続きまして、この「カデシュ」での出来事を、民数記16章、17章に記されている、コラとダタンとアビラムと、その「二百五十人」の仲間が、モーセとアロンに逆らった出来事とのかかわりで考えようとしています。それで、まず、コラとその仲間たちの反逆の出来事の問題をお話ししてきました。


 「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事と、コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らった出来事とをつなげることとしては、二つのことが考えられます。
 一つは、すでにお話ししたことです。20節2節〜5節に記されていますように、「カデシュ」においてイスラエルの民のための水がなかったので、民はモーセとアロンと争って、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

と言いました。
 ここで、イスラエルの民は、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

と言っています。「私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき」というのは、16章に記されている、コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らったために、主のさばきを受けてイスラエルの会衆から断ち切られた時のことです。その時、イスラエルの民は、コラとその仲間たちが主のさばきを受けて死んだことに不満を募らせて、モーセとアロンに逆らいました。そのために、主のさばきを招いて、さらに「一万四千七百人」が死にました。
 そのことを記している、16章41節〜50節には、

その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。

と記されています。
 「その翌日」というのは、コラとダタンとアビラムと、その「二百五十人」の仲間に対する主のさばきが執行された日の「翌日」ということです。その前の日には、イスラエルの民も主のさばきにあうところでしたが、モーセとアロンの執り成しによって、さばきを免れました。そのようにして救われたイスラエルの民が、次の日には、モーセとアロンにつぶやいたのです。それは、自分たちのために執り成してくれる存在を退けることに他なりません。
 主がモーセとアロンに、

あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。

と言われた時に、

ふたりはひれ伏した。

と言われています。これは、その前の日のことを記している21節、22節に、

「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」ふたりはひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

と記されていることから類推しますと、執り成しの祈りをしたのだと考えられます。
 しかし、イスラエルの民は、前の日に自分たちのために執り成してくれたモーセとアロンを拒絶したばかりです。主のさばきは、すでに始まっていました。
 46節に、

モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」

と記されていることは、モーセの思いつきではなく、主が示してくださったことであると考えられます。
 ここで、アロンが取った「火皿」には定冠詞がついていますので、前にお話ししました、年に一度の大贖罪の日にアロンが至聖所に入るときに携えていく「火皿」であると考えられます。レビ記16章12節、13節には、

主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。その香を主の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

と記されています。
 アロンが、主のご臨在の御前に出るときに携えていく「火皿」を取ってイスラエルの会衆の中に走って行ったのは、イスラエルの会衆の中に、さばきを執行される主のご臨在があったからであると思われます。アロンは、大祭司としてイスラエルの民とひとつになり、イスラエルの民を代表して、さばきを執行される主のご臨在の御前に立ったのです。
 アロンは「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」と言われていますが、これは、主のさばきが執行されている「最前線」に、立ったということです。それは、

見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。

という言葉に示されていますように、まことに恐るべき状況を目の当たりにしてのことであると考えられます。アロンは、主のさばきの御手がイスラエルの民をさばきながら延びてくる、その「最前線」に立ったわけです。アロンが主によって聖別された大祭司でなかったとしたら、たちどころに滅ぼされてしまうような、恐ろしい状況でした。アロンはそのような状況の中に踏み込んで、大祭司として、「決死の」贖いと執り成しをしたのです。
 しかし、「カデシュ」においてモーセとアロンに逆らったイスラエルの民は、飲み水がないということで、こんなことなら、あの時の主のさばきによって死んでいた方がよかったと言っています。主の恵みに信頼するかわりに、主の恵みが無意味なものであったと言い出すのです。
 もう一つのことですが、「カデシュ」においてイスラエルの民がモーセとアロンに逆らったときのことを記す20章7節〜9節には、

主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

と記されています。
 この9節で、

そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。

と言われているときの「」は、17章に記されている「アロンの杖」のことであると考えられます。
 コラとその仲間たちのことでモーセとアロンに逆らって、主のさばきを招いたイスラエルの民に対するさばきが、アロンの「決死の」贖いと執り成しによって止んだ後に、主は、アロンを大祭司として召していてくださっていることを示してくださいました。17章1節〜5節には、

主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」

と記されています。
 そして、8節では、

その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。

と言われており、10節では、

主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」

と言われています。
 これを受けて、至聖所のことを記している、ヘブル人への手紙9章4節では、

そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。

と言われています。
 この「アロンの杖」はアロンが大祭司として聖別されていることをあかしするものです。それは、それに先だって、イスラエルの民の罪が極まって、主のさばきが執行されたときに、アロンがイスラエルの民と一つとなって、さばきを執行される主のご臨在の御前に立って、イスラエルの民のために、贖いと執り成しをしたことを受けています。
 「カデシュ」において、モーセとアロンは、このことをあかしするために主のご臨在の御前におかれていた「アロンの杖」を取って、イスラエルの民の目の前で「」に命じて水を出すように戒められたと考えられます。
 これに対して、20章11節で、

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。

と言われていることから、モーセが主の御前から取ったと言われている「」は「アロンの杖」ではなく、モーセの杖であったと主張する人々もいます。
 しかし、11節で「彼の杖」と言われているのは、「モーセが手にしている杖」という意味だと思われます。
 そのような言い方は他にも見られます。たとえば、すでにお話ししました「レフィディム」での出来事を記す出エジプト記17章5節、6節には、

主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」

と記されています。
 ここで「あなたがナイルを打ったあの杖」と言われている杖は、モーセが持っていた、モーセの杖です。しかし、出エジプト記7章12節では、その杖は「アロンの杖」と言われています。それは、アロンがパロの前でその杖を投げるとそれが蛇に変わったからです。
 これだけですと、モーセとアロンがそれぞれの杖を持っていて、アロンがパロの前で自分の杖を投げたのかもしれないという気もします。しかし、15節に記されていますように、モーセは「蛇に変わったあの杖を手に取って」ナイルの岸でパロを迎えて、その杖、すなわち、12節で「アロンの杖」と呼ばれた杖で、ナイルの水を打つと水は血に変わると言いました。そして、実際に、その杖で、ナイルを打ったのはアロンでした。
 このことは、モーセの杖をアロンが使ったときには、「アロンの杖」とも呼ばれることを示しています。同じように、「アロンの杖」をモーセが使えば、「モーセの杖」とも言われるわけです。
 また、出エジプト記17章に記されています「レフィディム」での出来事では、モーセが「」を打つように命じられています。ところが、民数記20章に記されています「カデシュ」での出来事においては、モーセだけではなく、アロンも一緒に「」に命じて、「」が水を出すようにするように命じられています。そこでは、アロンも重要な役割を果たしています。それで、モーセが「彼の杖で岩を二度打った」後では、モーセだけではなく、アロンも約束の地に入ることができないと言われたのです。
 このことも、「カデシュ」での出来事においてモーセが主の御前から取った杖は、「アロンの杖」であったということを思わせます。
 これらのことを心に留めておいて、前回と前々回にお話ししました、コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らったことを記している民数記16章の記事に戻ってみたいと思います。
 すでにお話ししたことですが、25節〜35節に記されていますように、コラと共謀したダタンとアビラムと、その家族は、イスラエルの民の目の前で、地に飲み込まれて滅び去ってしまいました。また、それぞれの火皿を取って主の御前に香を焚いていた「二百五十人」も、主のご臨在の御前から出た火によって焼き尽くされてしまいました。
 16節〜18節に、

それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、主の前に出なさい。あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおの主の前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。」彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。

と記されていますことから分かりますように、この「二百五十人」が主のご臨在の御前から出た火によって焼き尽くされたときに、その場所にはアロンもいて、香を焚いていました。そして、その時、アロン以外の者は、主の聖さを冒すものとして、焼き尽くされてしまいました。
 このようにして、主は、ご自身のご臨在の御前に近づいて仕える祭司として聖別しておられたアロンとその子らを、改めて、ご自身の御前において仕える祭司として認証し、公に示されました。
 これは一見すると、コラとダタンとアビラムと、その仲間の「二百五十人」と、モーセとアロンの、祭司職をめぐる争いに巻き込まれた主が、モーセとアロンの方に味方をされた話であるかのように見えます。しかし、そのような見方は、コラとその仲間たちの考え方に当てはまるだけです。
 前回詳しくお話ししたことですが、1節、2節にありますように、コラは、「会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人」を自分の味方につけて、モーセとアロンに対抗しました。さらに、19節にありますように、イスラエルの民の全会衆を自分たちの味方につけてモーセとアロンに逆らわせようとしました。
 この企ては、ある意味で成功しています。コラとダタンとアビラムと、その家族は、地に飲み込まれてしまい、主の御前で香を焚いていた「二百五十人」は、主の御前から出た火によって焼き尽くされてしまいましたが、次の日のことを記す41節には、

その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」

と記されています。「イスラエル人の全会衆」の心は、モーセとアロンから離れてしまっています。それは、コラの企てが成功しているからです。
 コラとその仲間は、そのように、いわば、血肉の力としての勢力を結集して、祭司の職位を奪取しようとしました。
 しかし、モーセとアロンは、それと同じ形でコラとその仲間たちに対抗しようとはしませんでした。二人は、ひたすら主の御前にひれ伏して、主のみこころの表わされることを求めています。そして、自分を責める者たちのための執り成しもしています。
 主から委ねられた使命と職務は、ただただ、主の一方的な恵みによって委ねられたものであって、血肉に基礎づけられているものではありませんし、血肉によって支えられているものでもありません。
 モーセは、自分が主から召されたときから、一貫してそのようなわきまえをもっていて、その使命を遂行するに当たっても、常に主に信頼し、主の御言葉に従いながら、主の恵みを仰ぐ姿勢を貫いてきました。アロンは、12章に記されていることですが、ミリヤムと心を合わせてモーセを非難したときに犯した自分の誤りと、その時のモーセの姿勢から、そのことを、しっかりと学んでいたと考えられます。
 ですから、モーセとアロンは、初めから、自分たちの立場を守るために、勢力争いをしようとはしてはいません。それで、「会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人」を初めとする「イスラエル人の全会衆」がコラとその仲間の味方になったので、自分たちは、主を味方につけようと画策したのではありません。
 もちろん、主はモーセとアロンの側に立っておられました。しかし、それは、血肉の争いに巻き込まれてのことではありません。出エジプト記3章12節には、主がモーセに現われてモーセを召してくださった時のことが、

神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

と記されています。主は、ご自身の一方的な恵みによって、モーセを召してくださった時から、モーセとともにいてくださると約束してくださって、その約束のとおり、モーセとともにいてくださるのです。
 主がモーセとともにいてくださるのは、

あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。

という主の御言葉に示されていますように、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださるためにモーセを用いてくださるためでした。
 モーセは、その意味では、イスラエルの民と主に仕えるしもべでした。それで、モーセは、イスラエルの民の上に立って、それを支配しようとしたことはありません。むしろ、イスラエルの民がシナイの山の麓で金の子牛を造って背教してしまって、主の御怒りを引き起こしたときには、主の御名のためとイスラエルの民のために自分のいのちを捨てようともしました。出エジプト記32章31節、32節に、

そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

と記されているとおりです。

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。

と訳されているモーセの言葉は、文体の上でもぎこちないものです。それは、モーセが、主の「書物」から自分の名が消されることの恐ろしさを十分に知っていて、なおかつ、

どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。

と言ったことを思わせます。そこには、私たちの主のゲツセマネの祈りに通じるものがあります。
 これが、主の一方的な恵みによって主から使命を委ねられている者の本来の姿です。
 先ほども触れましたように、「カデシュ」において、イスラエルの民のために水がなかった時に、民は、新たな主の恵みの備えがあることを信じて、待ち望むべきでしたが、モーセとアロンに逆らって、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

と言いました。自分たちがコラとその仲間と心を合わせて、モーセとアロンに逆らったときに下された、主のさばきによって滅んでいたほうがよかったと言っています。
 ここで肉体的にかわいて死ぬよりは、主の聖さを犯してさばかれて滅んでいたほうがましであるというようなことを、平然と言っています。主の聖さを冒すことがどのようなことであるか、そして、それによって主のさばきを招くことがどのようなことであるのか、まったく分かっていません。この点で、先ほど引用しました中で、モーセが、

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。

と、ためらいがちに言っていることとは正反対です。
 マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの御言葉が記されています。この時のイスラエルの民にはこのようなわきまえもありません。
 そればかりではありません。イスラエルの民は、あの時、主のあわれみによって立てられた、アロンの大祭司としての執り成しによって、最初のさばきを免れました。次の日、アロンは、主のさばきが執行されている「恐るべき最前線」に出て行って、そこで、イスラエルの民のための贖いと執り成しました。それは、アロンは主の御言葉を信じて、従ったからです。主は、それを受け入れてくださって、イスラエルの民に下されていたさばきの執行を停止されました。
 しかし、ここでは、そのようなアロンの「決死の」贖いと執り成しも「いらないおせっかい」であったと言っています。あの時のアロンの贖いと執り成しが自分たちにとってどれほどのことであったかを、本当にわきまえているなら、決して口にすることができないことを、口にしています。
 誰の目にも、このようなイスラエルの民のためには、もう執り成しのしようはないように思われます。
 しかし、8節に記されている、モーセに対する

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。

という、主の言葉は、このように、あくまで主に逆らい続けるイスラエルの民に、なおも恵みを示してくださる主のご栄光をあかしする言葉です。
 それは、まさに、ローマ人への手紙5章20節にあかしされている、

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

という、恵みの栄光です。
 主は、その恵みに満ちた栄光をあかししてくださるためにモーセとアロンを召してくださいました。特に、ここでは、アロンが、罪を犯し続けるイスラエルの民のために立てられている大祭司であることをあかしする「アロンの杖」がイスラエルの民の目の前に示されることになります。
 主のご臨在がその上に留まられた「」は、すでに、「レフィディム」において、打たれています。主はご自身の民の罪に対するさばきの一撃をご自身の身にお受けになり、民にいのちをお与えになることをお示しになりました。
 すでに、その贖いが成し遂げられているのであれば、その後は、その贖いに基づく祭司的な働きが意味をもってきます。モーセとアロンが「アロンの杖」を取って、主のご臨在が一つとなられた「」に命じて水を出すことは、そのような大祭司の働きによってもたらされる恵みをあかしします。
 先ほどお話ししましたように、この時に至るまで、モーセとアロンは、血肉の力を頼むことなく、ひたすら主の恵みを仰いで、このような主の恵みに満ちた栄光をあかしするために用いられてきました。
 しかし、この「カデシュ」においては、そのような主の恵みに満ちた栄光をあかししないで、自分たちの怒りを、イスラエルの民にぶつけてしまいました。
 そこには、そのことを正当化するものではありませんが、それなりの理由があったのではないかと思われます。
 すでにお話ししましたように、この時には、イスラエルの民の罪が、もう、そのためには執り成しのしようもないと思われるほどに極まっていました。しかし、主は、まさにこのような時をとらえて、そのようなイスラエルの民の罪さえも覆ってくださる恵みを示してくださりました。
 それは、「アロンの杖」を取って「」に水を出すように命じるという、単純な行為に秘められている、人の思いをはるかに越えた恵みでした。その思いもよらない恵みは、モーセとアロンさえも、それを十分に受け止めることができなかったと言うべきなのでしょう。そのために、モーセとアロンは、主の恵みに満ちた栄光をあかしすることができなかったのではないかと思われます。
 そのような、人知をはるかに越えた恵みを十分にあかしできる方は、人の性質を取って来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストだけです。
 私たちは、イスラエルの民をさげすむことはできません。私たちも同じように、あきれるほどの罪を犯し続けます。福音の御言葉をとおして、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた完全な贖いを知っている私たちは、しばしば、その贖いを「隠れみの」にして罪を犯してしまうような者です。
 しかし、私たちには、「レフィディム」において打たれた「」の本体として、ご自身の十字架の死によって、完全な贖いを成し遂げてくださり、その贖いに基づいて、なおも、執り成し続けてくださる大祭司があります。ローマ人への手紙8章23節、24節で、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

とあかしされているとおりです。

 


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