(第37回)


説教日:2001年5月13日
聖書箇所:民数記20章1節〜13節


 先々週から、民数記20章1節〜13節に記されている、「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事のお話を始めました。先週は、この出来事を、民数記16章、17章に記されている、コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らった出来事とのかかわりで考えるために、コラとその仲間たちの反逆の出来事の問題をお話ししました。今日は、そのことを補足しながら、もう少しお話しします。そのために、「カデシュ」での出来事のことには触れることができません。


 コラとその仲間たちがモーセとアロンに逆らったことを記している、民数記16章の1節〜4節には、

レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」モーセはこれを聞いてひれ伏した。

と記されています。
 1節では、コラは「レビの子ケハテの子であるイツハルの子」であったと言われています。このことから、コラがモーセとアロンにとって、どのような関係にあったかが分かります。レビは、ヤコブの一二人の子の一人です。レビの息子は、ゲルション、ケハテ、メラリです。次男のケハテの息子は、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルです。モーセとアロンは、ケハテの長男アムラムの息子です。(アロンが兄でモーセが弟です。)そして、コラは、ケハテの次男イツハルの長男です。ですから、コラの父と、モーセとアロンの父は兄弟で、コラは、モーセとアロンの従兄弟でした。
 また、以前、ダビデが主の契約の箱を運んだ時に、契約の箱に付き添っていたウザが、契約の箱に触れて、その場で主のさばきを受けて死んだ出来事との関連でお話ししましたが、ケハテ族は、契約の箱を初めとして、主の聖所の用具を運ぶ任務を委ねられていました。
 その任務を記している民数記4章4節には、「ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわること」であると記されています。
 同じレビの子孫の中でも、ケハテ族は、「最も聖なるものにかかわること」と言われる任務につくものとされました。そのケハテ族の中のアロンとその子孫が、大祭司また祭司として立てられ、主の聖所において仕えました。
 先週も引用しました詩篇106篇16節〜18節に、

 彼らが宿営でモーセをねたみ、
 主の聖徒、アロンをねたんだとき、
 地は開き、ダタンをのみこみ、
 アビラムの仲間を包んでしまった。
 その仲間の間で火が燃え上がり、
 炎が悪者どもを焼き尽くした。

と記されていることからしますと、コラとその仲間は、モーセとアロンがイスラエルの指導的な立場にあることに対して、ねたみをもつようになり、そこから、モーセとアロンに対して敵対していったと考えられます。
 実際、民数記16章1節の、

レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、

という言葉の「共謀して」と訳されている部分は、訳すのが難しいのですが、英語の新国際訳(NIV)のように「傲慢になった」と訳すことができると思われます。
 コラには、従兄弟であるモーセとアロンは、自分とあまり違わないと思えたのでしょう。モーセは生まれてすぐにエジプトの王「パロの娘」の子として育てられました。しかし、実際には、モーセの母に預けられたので、モーセの母のもとで育ちました。そのようなわけで、コラは、モーセとアロンを小さな時から知っていたと考えられます。また、コラは、同じレビの子孫の中でも、ケハテ族に属しており、「最も聖なるものにかかわる」任務を与えられていたことから、コラの中には特権意識があったかもしれません。
 また、コラとその仲間についた「二百五十人」も、特別な立場にある人々でした。
 2節では、この「二百五十人」のことが「会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人」と言われています。ここでは、「会衆の上に立つ人たち」、「会合で選び出された」、「名のある者たち」という、それだけでもこの人々が特別な人々であったことを表わす言葉が三つ連ねられています。これによって、この人々が特別な立場にあったことが強調されています。
 7節、8節にありますように、モーセは、この「二百五十人」に向かって「レビの子たちよ。」と呼びかけています。それで、この「二百五十人」はレビ人であるように思われます。ところが、27章3節には、「マナセの一族のツェロフハデの娘たち」が、

私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。

と言ったことが記されています。このことから、この「二百五十人」には、レビ人以外の者たちも加わっていたことが分かります。
 とはいえ、先ほどの「レビの子たちよ。」というモーセの呼びかけや、後ほどお話ししますが、この人々が、自分たちを祭司とするように要求していること、そして、実際に、16章18節で、

彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。

と言われていることからしますと、この「二百五十人」のほとんどがレビ人であったと思われます。
 人が他の人のことをねたむときのことを考えてみますと、たとえば、子どもは、大人がいろいろなことができることをうらやましく思うことはあっても、ねたむことはありません。人は、自分からかけ離れた存在にねたみを感じることは、まずありません。立場や能力が自分に近いか、近いと感じている人が自分にないものをもっていますと、その人に対してねたみを感じます。
 コラとその仲間についた「二百五十人」は、そのように有力な人々であったがために、モーセとアロンにねたみを感じたのだと思われます。そして、ついには、二人に敵対するようになったと思われます。
 4節〜11節には、

モーセはこれを聞いてひれ伏した。それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

と記されています。このことから分かりますように、コラとその仲間たちは、自分たちも祭司として、主の聖所において仕えることができるようにすることを要求しています。
 そこには、彼らなりの理屈もありました。彼らの言い分は、

あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。

というものです。
 「全会衆残らず聖なるものであって」というのは、少し分かりにくい訳ですが、その部分は、イスラエルの「全会衆」は聖なるものであり、その一人一人も聖なるものであるということを述べています。
 確かにそのとおりです。そのことは、出エジプト記19章5節、6節に記されている、

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

という主の言葉に示されています。
 また、「主がそのうちにおられる」ということも、当たっています。出エジプト記25章8節、9節に、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

と記されているとおりです。
 しかし、先週もお話ししましたように、コラとその仲間たちは、自分たちの立場に有利であると思われる、

全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる

ということは持ち出しますが、主が、モーセを出エジプトの贖いの御業を遂行してくださるためのしもべとして召してくださり、実際に、モーセをとおしてその御業を遂行してこられたことや、アロンとその子らを大祭司また祭司として任命してくださり、その働きを受け入れてくださったことを、無視してしまっています。
 また、先ほど引用しました、

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

という、主の御言葉に沿って言いますと、コラとその仲間たちの言うイスラエルの全会衆の聖さは、
今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、

と言われていますように、主の契約の御言葉の中に留まることによって実現します。
 もちろん、これに先立って、イスラエルの民が主の一方的な恵みによってエジプトの奴隷の状態から贖い出されているという事実があります。ですから、イスラエルの民が主の契約の御言葉のうちに留まって、それを守ることができるのは、主の贖いの恵みによることです。
 また、もう一つの、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

という主の御言葉に沿って言いますと、主がイスラエルの全会衆の間にご臨在してくださるのは、主の聖所にかかわるすべてを、主が御言葉によって示してくださった通りに作ることによっています。そして、その聖所に関する戒めの中に、アロンとその子らを、大祭司また祭司として聖別すべきことが示されていました。
 また、主は、イスラエルの民に聖所を与えてくださって、そこにご臨在してくださるのに先だって、一方的な恵みによって、イスラエルの民を、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、イスラエルの民と契約を結んで、ご自身の民としてくださいました。主は、この契約に基づいて、イスラエルの民の間にご臨在してくださるのです。
 コラとその仲間たちは、これらのことをまったく無視してしまっています。
 これが、外に現れた、コラとその仲間たちの問題です。しかし、このことだけですと、何となく、コラとその仲間たちが、主が示してくださった「規定」を守っていないことだけが問題であるというように見られかねません。コラとその仲間たちの問題は、主が示してくださった「規定」を守っていないということにあるだけではありません。それには、もっと深い根があります。
 すでにお話ししましたように、コラとその仲間たちの問題は、モーセとアロンに対するねたみにあります。その、モーセとアロンに対するねたみは、自分たちがモーセとアロンに近い立場に立っていたことから出ていました。そのことから、彼らの中に高ぶりが生まれ、そこからモーセとアロンに対するねたみが生まれてきたのであると考えられます。
 大切なことは、これが、単なる道徳的な高ぶりではないということです。コラとその仲間たちが、高ぶったから悪い、というだけのことではありません。彼らの問題の根は、主の契約の民であるイスラエルの聖さのことを根本的に誤解していることにあります。彼らがイスラエルの聖さの本質を誤解しているので、主の御前に高ぶり、モーセとアロンに敵対しているのです。
 繰り返しになりますが、彼らは、

全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる

と主張しました。
 しかし、そのイスラエルの会衆の聖さは、どのような聖さでしょうか。また、イスラエルの民の間に主がご臨在してくださるのは、何によっているでしょうか。すべて主の一方的な恵みによって「与えられたもの」です。イスラエルが主の民であることは、まったく、主の一方的な恵みによることです。それに対しては、イスラエルの民は、だれ一人として権利を持っていません。その点は、モーセとアロンでさえも例外ではありません。
 モーセはこのことをわきまえていた人です。自分が主のご臨在の御前にたって、主を礼拝し主に仕えることができるのは、主の一方的な恵みによっていることを、しっかりとわきまえていました。それで、コラとその仲間がモーセとアロンに敵対した時に、4節に、

モーセはこれを聞いてひれ伏した。

と記されていますように、自分で自分の立場を守ろうとはしないで、主を仰ぎ、そのみこころを求めました。
 はっきりと述べられてはいませんが、文脈から分かりますように、5節以下に記されていて、先ほど引用しました、モーセがコラとその仲間に語った言葉は、主がモーセに示してくださった言葉です。
 また、これとは別に、モーセの権威が、モーセの姉であるミリヤムと兄であるアロンに非難されたことがあります。そのことを記している民数記12章1節〜8節には、

そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ。」と言われたので、彼ら三人は出て行った。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

と記されています。
 アロンとミリヤムは、最初の妻、チッポラの死後のことであると思われますが、モーセが「クシュ人の女」をめとっていたことにつけ込んで、モーセの権威を非難しています。
 3節では、

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

と言われています。ここで「謙遜な」と訳されている言葉(アーナーウ)は、「柔和な」とも訳すことができる言葉です。どちらの意味であっても、ここでは、モーセが、主にまったく信頼していて、自分のことをすべて主にお委ねしていることを表わしています。
 モーセは、自分の立場が主から委ねられたものであることをわきまえていました。普通ですと、そのことを盾に取って、自分の特権的な立場を守ろうとします。しかし、モーセは、そのようにしませんでした。それが、主が委ねてくださった立場であるので、主がすべての攻撃からお守りになるということを信じているのです。それと同時に、主がそれを自分から取り去られることもありうることも認めているわけです。もちろん、主が、それを自分から取り去られることもありうるとしても、その務めを委ねてくださってるかぎりは、それに忠実であろうとしています。そして、その上で、主にすべてをお委ねしているのです。先ほどの引用の中にありましたように、主も、そのようなモーセのことを「わたしの全家を通じて忠実な者」と認めておられます。
 これがモーセの一貫した姿勢でした。
 モーセの謙遜は、ただ単に、「謙遜でありなさい。」と教えられているから謙遜に振る舞っている、というものではありません。もっと深いところで、自分のすべてが、主の一方的な恵みによって支えられていることを信じて、主にまったく信頼しているので、自然と、主の御前に謙遜になっているのです。また、自分を含めて、イスラエルの民が主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝し、主に仕えることができるのは、主の一方的な恵みによっていることを、終始一貫して認めているので、自然と、謙遜になっているのです。
 このように、モーセの謙遜は、主の一方的な恵みに対する、わきまえから生まれています。誤解を恐れずに言いますと、健全な神学が、主の御前での謙遜を生み出すのです。
 これに対しまして、コラとその仲間たちは、大祭司また祭司の職務が自分たちの間の権利であるかのように考えています。そして、誰がその立場に立つかは自分たちで決められると考えています。それで、有力な仲間を集めて一つの勢力を形成して、モーセとアロンに対抗しました。
 ですから、コラとその仲間たちは、

全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる

と主張していますが、イスラエルの会衆の聖さの本質も、主のご臨在がそこにあることの意味も、まったく分かっていなかったのです。イスラエルの会衆の聖さの本質は、それが自分たちから出たものではなく、主の一方的な恵みによる贖いの御業によって「与えられた聖さ」であり、主ご自身の聖さにあずかることにあります。そのような、主が一方的な恵みによって与えてくださる聖さがある所に、主がご臨在してくださるのです。
 それで、イスラエルの民は、自分たちの間に主がご臨在してくださることや、そのために自分たちを聖いものとしてくださっていることを感謝し、主の恵みを讚えるべきですが、そのことから、自分たちを誇ることはできません。
 それにもかかわらず、コラとその仲間たちは、祭司の職務に就くことをめぐって、モーセとアロンに対抗心を燃やしています。そして、数の力を頼んでモーセとアロンを追い落とし、自分たちが祭司の地位を得ようとしました。そのようなことをするのは、イスラエルの祭司職の聖さを誤解しているからであり、さらに、主の聖さを知らないからです。
 ですから、コラとその仲間たちの問題は、ただ高慢になったということにあるのではありません。その奥に、イスラエルの民が主の御前に聖なるものとされていることの意味を、彼らがまったく誤解しているという、より深刻な(神学的な)問題があるのです。そして、その誤解が、彼らのうちに、主の御前における高ぶりを生み出し、モーセとアロンに対するねたみを生み出したのです。
 この時、もし、モーセとアロンが、コラとその仲間と同じように、数の力を頼んで、別の勢力を形成して対抗しようとしたら、モーセとアロンも、主の契約の民であるイスラエルに与えられている聖さ、特に、祭司職の聖さを歪めることになります。すでにお話ししましたように、モーセはそのような道を取りませんでした。
 このことは、私たちにも当てはまることです。私たちが、新しい契約の祭司として、私たちの間にご臨在してくださっている主の御前に立って、主を礼拝し、主に仕えることができることも、神である主の一方的な恵みによっています。神さまが御子イエス・キリストを私たちの罪を贖ってくださるために遣わしてくださり、その十字架の上での死によって、私たちの罪をまったく贖ってくださったことにより、私たちは聖なるものとされています。
 その意味で、私たちの聖さも、主の一方的な恵みによって「与えられた聖さ」です。コリント人への手紙第一・1章30節、31節に、

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

と記されているとおりです。
 このような、主がご自身の愛によって備えてくださった贖いの恵みがなければ、私たちは主のご臨在の御前に近づくことはできません。それで、私たちが主のご臨在の御前に近づくことができるのは、私たち自身に固有の権利、すなわち、主の贖いがなくても当然私たちのものであるというような権利ではありません。
 ですから、私たちは、主の一方的な愛と恵みによって与えられている、新しい契約の祭司としての特権、すなわち、御子イエス・キリストの贖いに包んでいただいて、主のご臨在の御前に近づいて主を礼拝し、主に仕えることについて、何も誇るべきものをもってはおりません。私たちの奉仕も、その結果結ばれる実も、すべては、主の恵みによって支えられているのです。ただ主の恵みの栄光だけがほめたたえられるべきです。
 ローマ人への手紙3章23節〜27節では、

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

と言われているとおりです。
 コラとその仲間たちの問題は、他人事ではありません。今なお罪を宿している私たち自身の中に、同じ問題の根が潜んでいて、機会があれば顔を出してきます。主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝し、主に仕えることをめぐって、お互いの間で対抗心を燃やしたり、さばいたりすることは、コラとその仲間たちと本質的に同じ問題に陥って主の聖さを冒すことになります。
 もちろん、それは、礼拝や奉仕についての御言葉の教えに対するお互いの理解を、批判的に検討することを否定するものではありません。主の御前における謙遜は、主の聖さと恵みに対するわきまえから生まれてきます。そのわきまえをもつためには、御言葉を正しく理解することが必要です。
 私たちは、新しい契約の祭司として、主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝し、主に仕えることが、主の一方的な恵みによって与えられたものであることを心に刻みつけて忘れないようにしたいと思います。それがどのようなことであっても、常に、主の贖いの恵みのうちに留まることだけが、主の聖さを守る道です。

 


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