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説教日:2001年5月6日 |
先週は、この「カデシュ」での出来事を、出エジプト記17章1節〜7節に記されている「レフィディム」での出来事とのかかわりで理解するとどうなるかお話ししました。それとともに、この出来事は、民数記16章、17章に記されている、コラとその仲間の反逆の出来事ともつながっています。それで、今日は、このコラとその仲間の反逆の出来事のことをお話ししたいと思います。ただし、このお話は今日だけで終えることができませんので、今日は、コラとその仲間の反逆の出来事に焦点を合わせてお話しします。 「カデシュ」での出来事を記している民数記20章の2節と3節前半では、 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。 と言われています。この「争った」は、先週お話ししましたように、契約違反に対する告発を示すものです。 そのイスラエルの民の告発は、 ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。 というものです。 これは、基本的には、出エジプト記17章1節〜7節に記されている「レフィディム」での出来事の時の告発と同じです。また、先ほど引用しました、37年半ほど前に、イスラエルの民の第一世代が、同じ「カデシュ」において、モーセとアロンに向かってつぶやいた言葉と同じです。 これは、イスラエルの民の第一世代の不信仰が、そのまま第二世代に引き継がれていることを示しています。 この第一世代と第二世代に共通している不信仰は、どのようなものでしょうか。 それは、主が自分たちをエジプトの奴隷の地から贖い出してくださったことや、主が自分たちとともにいてくださることを信じないというものではありません。イスラエルの民は、そのことは信じているのです。しかし、主が自分たちをエジプトの地から贖い出してくださったのは、自分たちを荒野で死なせるためであった、と言ってつぶやいています。イスラエルの民は、主のみこころのいちばん深いところに、自分たちに対する「悪意」があると言っているわけです。 エジプトの奴隷の状態から解放してくださったので、ありがたいと思っていたら、何のことはない、それは、自分たちを荒野で死なせるためであったと言って、つぶやいているのです。これは、主の愛や恵みに見えるものの奥に悪があって、それが自分たちに対する「悪意」となって現われているとすることです。主のご人格の本質的な特性は愛ではなく、悪であるとすることで、主の聖さを冒すことです。 イスラエルの民の不信仰の本質がこのようなものであることは、後でお話しすることに関わっていますので、心に留めておいていただきたいと思います。 このように、イスラエルの民の第二世代は、第一世代と同じ不信仰のうちにありましたから、主のさばきを受けて滅ぼされてしまっても仕方がないのですが、先週お話ししましたように、主は、モーセとアロンに命じて、そこにあった岩から水を出させてくださり、イスラエルの民の渇きをいやしてくださいました。これによって、「レフィディム」での出来事を通して、第一世代に示してくださった主の一方的な恵みが、第二世代に対しても示されることになりました。 それとともに、ここには注目すべきことがあります。それは、この時、イスラエルの民が、 ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。 と言ったということです。 この「私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき」というのは、民数記16章に記されている、コラとその仲間がモーセとアロンに逆らって、主のさばきを受けてイスラエルの会衆から断ち切られた時に、イスラエルの民も、モーセとアロンに逆らって、主のさばきを招き、「一万四千七百人」が死んだ時のことを指しています。 また、ここで「死ぬ」と訳されている言葉(ガーワァ)は、死ぬことを表わす一般的な言葉(ムース)ではありません。この「死ぬ」という言葉(ガーワァ)は、いわゆる「モーセ五書」の中では、創世記に6回出てきますが、その他は、民数記17章12節、13節と、この20章3節、そして、同じ20章29節に出てくるだけです。 民数記17章12節、13節には、 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」 というイスラエルの民の言葉が記されています。この中の、最初の「死んでしまう」と最後の「死に(絶えなければならない)」が、この言葉(ガーワァ)で表わされています。 それでは、イスラエルの民はなぜこのようなことを言ったのかといいますと、それも、コラとその仲間がモーセとアロンに逆らったことを受けています。 もう一つ大切なことがありますが(それについては来週取り上げます)、これらのことは、「カデシュ」での出来事と、コラとその仲間がモーセとアロンに逆らったことが、つながっていることを示しています。 それで、そのコラとその仲間がモーセとアロンに逆らった出来事を見てみますと、16章1節〜7節には、 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」モーセはこれを聞いてひれ伏した。それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」 と記されています。 さらに18節、19節には、 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現われた。 と記されています。 ダタンとアビラムは、この場に出てきませんでした。しかし、それは、自分たちのことを反省したからではありませんでした。二人は、とにかく、モーセの指示には従いたくないという思いから、出てこなかったのです。 20節、21節に、 主はモーセとアロンに告げて仰せられた。「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」 と記されていますように、この時、主は、イスラエルの全会衆を滅ぼそうとされました。これは、イスラエルの全会衆も、コラとその仲間たちの方に、ある程度、傾いていたことを意味しています。確かに、「会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人」がコラとその仲間たちにの側に立ったのですから、そうなることもうなずけます。この世の尺度で言えば、「名のある者たち二百五十人」対モーセとアロンということですから、モーセとアロンには「勝ち目」はありません。また、19節で、 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。 と言われているのも、コラが、「全会衆」は自分の味方となると思っていたからに他なりません。 いずれにしましても、主は、イスラエルの全会衆を滅ぼそうとされました。しかし、22節〜24節に、 ふたり[モーセとアロン]はひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」主はモーセに告げて仰せられた。「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」 と記されていますように、この時は、モーセとアロンの執り成しによって、そのさばきは、コラとダタンとアビラムとその家族だけに下されました。 モーセはイスラエルの全会衆に、主のさばきを告げました。そして、イスラエルの長老たちとともに、ダタンとアビラムの所に行って、彼らに、主のさばきを告げました。 31節〜33節には、 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。 と記されています。そして、35節には、 また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。 と記されています。 これは、「香をささげていた二百五十人」が、主の御前から出た火によって「焼き尽くされた」という点で、先々週お話しした、ナダブとアビフが主の御前に「異なった火」をささげたことによって、主の御前から出た火によって「焼き尽くされた」ことに通じるものです。 それは、どちらも、主のご臨在の御前に近づいて、主に仕える祭司の務めにおいて、主が語ってくださったことに背くことによって、主の聖さを冒すことであったからです。 このことは、私たちにもそのまま当てはまります。私たちは、御子イエス・キリストの血による新しい契約の祭司として、イエス・キリストの御名によって、主のご臨在の御前に近づいて主を礼拝し、主に仕えます。イエス・キリストの贖いに包まれないで、主の御前に近づくことは、ナダブとアビフや、あの「二百五十人」と同じように、主の聖さを冒すことになります。 今日も、私たちは主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝しています。漫然と、自分が礼拝すれば当然、主に受け入れていただけるというような考えをしないように気をつけなければなりません。御子イエス・キリストの血による罪の贖いに信頼することなく、不用意に主を礼拝することは、ナダブとアビフや、あの「二百五十人」と同じように、主の聖さを冒すことになります。 ナダブとアビフと、あの「二百五十人」の間には違いもあります。先々週お話ししましたように、ナダブとアビフは、善意と熱心から「異なった火」をささげたと考えられます。これに対して、この「二百五十人」は、モーセとアロンに逆らっています。 しかし、この「二百五十人」が「おのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。」と言われているのは、彼らとしては、自分たちが主に受け入れられていると考えていたからに他なりません。つまり、この「二百五十人」は、モーセとアロンが間違っていて、自分たちは正しいと考えていたのです。 その点では、ナダブとアビフも同じです。この「二百五十人」もナダブとアビフも、主が示してくださったことに反することをしてしまっていますが、自分たちとしては、主の御前によいことをしていると思っているのです。 「二百五十人」の言い分を見てみましょう。彼らは、モーセとアロンに向かって、 あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。 と言いました。 彼らは、まったくの偽りを言っているわけではありません。彼らの言うとおり、イスラエルの「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられ」ます。それは、それとして正しいことです。しかし、その先は、まったく主のみこころを無視した、自分たちの論理です。 主がモーセを通して語ってくださったのは、アロンとその子孫を祭司として聖別することでした。それは、モーセが身内をひいきして語ったことではありません。主がモーセを通して語ってこられたことは、主がモーセを通してなしてこられた出エジプトの贖いの御業に裏付けられています。 そして、先々週お話ししましたように、アロンとその子らが大祭司また祭司として聖別されて、最初の務めを果たした時に、主の御前から出た火が、彼らのささげたささげものを焼き尽くしました。これは、イスラエルの全会衆の前で起こったことです。このようにして、主は、アロンとその子らを大祭司また祭司として受け入れてくださっていることを、イスラエルの全会衆に示してくださいました。それは、イスラエルが、アロンとその子らを大祭司また祭司としてもつ「祭司の国」であることを示してくださったということです。 それでも、コラとその仲間たちは、このことを受け入れませんでした。というより、詩篇106篇16節〜18節に、 彼らが宿営でモーセをねたみ、 主の聖徒、アロンをねたんだとき、 地は開き、ダタンをのみこみ、 アビラムの仲間を包んでしまった。 その仲間の間で火が燃え上がり、 炎が悪者どもを焼き尽くした。 と記されていることからしますと、初めのうちは、モーセとアロンを受け入れていたのでしょうが、モーセとアロンに対する嫉みから始まって、だんだんと、敵がい心を燃やしていったのだと思われます。そして、「二百五十人」もの「名のある者たち」を同調者として得たのと、イスラエルの全会衆が自分たちの方に傾きそうなことを察知して、モーセとアロンに逆らって立ったのであると思われます。 主が、コラとその仲間たちに対するさばきを執行されたことを見たイスラエルの民は、それを、どのように受け止めたのでしょうか。当然、主の御前にへりくだって、モーセとアロンを再び受け入れたと考えたくなります。しかし、実際はそうではありませんでした。41節には、 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」 と記されています。 何と、「イスラエル人の全会衆」は、こぞって、モーセとアロンを非難したのです。その結果、さらに、主のさばきを招くことになりましたが、その点については、来週お話しします。今日は、「イスラエル人の全会衆」がモーセとアロンを非難したことをどのように理解したらいいのか、お話ししたいと思います。 モーセとアロンに逆らったコラとその「二百五十人」の同調者を含めた仲間たちは、主のさばきによってイスラエルの会衆から断ち切られました。それは、主がご自身の御手でなさったことで、人は、誰もそれに関わっていません。これによって、主は、コラとその仲間たちがご自身の民ではないということを示されました。イスラエルの民は、それを見たばかりです。それなのに、コラとその仲間のことを「主の民」と呼んでいます。しかも、コラとその仲間を殺したのはモーセとアロンであると言い張っています。 これは一体どういうことなのか、私たちとしましては、理解に苦しむところです。 この時、主が、コラとその仲間をさばかれたことを、イスラエルの民が認めなかった、ということは考えられません。コラとその仲間をさばかれたのは主であることを認めながら、なおも、このようなことを言うのは、主のさばきは不当であると言いたいのだと思われます。 人間の場合には、十分な事実関係が分からないために、誤ったさばきをしてしまうということがありますが、主にはそのようなことはありえません。ですから、イスラエルの民が、主のさばきは不当なものであると言い張ることは、主のみこころのいちばん深いところに「悪意」がある、と言うことに他なりません。やはり、ここでも、荒野のイスラエルの不信仰の本質が現われてきていると考えられます。先ほどお話ししましたように、イスラエルの民の不信仰は、主のみこころのいちばん深いところに「悪意」があるというような考え方から出ています。 事実、この16章41節の、 イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。 という言葉は、先ほど引用しました、「カデシュ」における第一世代の決定的な不信仰を記している14章2節の、 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。 という言葉を思い起こさせます。そして、その「カデシュ」における第一世代のつぶやきの根は、主のみこころのいちばん深いところに「悪意」があるという考え方でした。 また、イスラエルの民がモーセとアロンを責めているのは、モーセとアロンが、主の「悪意」の手先となっているということか、積極的に、主の「悪意」を引き出していると考えているからでしょう。 イスラエルの民は、主がモーセとアロンの祈りを聞いてくださったことを知っています。実際には、主がモーセとアロンの執り成しの祈りを聞き入れてくださったので、イスラエルの民はさばきを免れました。そのことは棚に上げて、モーセとアロンが、自分たちに逆らったコラとその仲間たちを主に訴えたので、主もそれを受け入れて、コラとその仲間たちをさばいたと考えたのでしょう。 もしそうであれば、イスラエルの民は、決して、コラとその仲間のことを悼んでいるのではないと思われます。むしろ、そのようなモーセとアロンの働きのために、自分たちにも災いが及んでくることがないようにという思いから、モーセとアロンを非難しているのだと思われます。コラとその仲間のことは、いわば「ダシ」に使われているだけです。 イスラエルの民が、主のみこころのいちばん深いところに「悪意」があるというような思いをもっているかぎり、イスラエルの民の中では、いつその「悪意」が自分たちに向けられるか分からないという不安が渦巻くことになります。それは、さらに、主とそのしもべであるモーセとアロンに対する不信を募らせることになります。 このようなイスラエルの民の不信仰は、私たちも陥りやすい罠です。目の前に試練がやって来て立ちはだかりますと、「こんなことなら、主を信じなかったほうがよかった。」というようなことを言うことはないでしょうか。あるいは、主の戒めに従うために、何かができないことがあると、「クリスチャンになったために、損をした。」というような思いを抱くようなことはないでしょうか。 これは、御子イエス・キリストのいのちの価をもって私たちをご自身のものとしてくださった神である主のみこころのどこかに、なおも、私たちに対する「悪意」が隠されていると言うことになります。 それに対して、「本気で、そのようなことを言っているわけではない。」という答えがあるかもしれません。しかし、これは、先ほどお話ししましたように、私たちの主の人格的な特性の本質に関わることですので、「ほんの軽い気持ちで言っただけだ。」ということで済ましてしまってはならないことです。このことは、常に、注意深く心に刻んでおかなければならないことです。 さらに、実際的なことですが、私たちがこの世で経験する試練は、時には、自分自身が蒔いたものを刈り取ることがありますし、時には、この世が神の子どもたちに加えたものであることもあります。また、形としては、人類の堕落とともにもたらされた虚無が、神の子どもたちをも飲み込みそうになるということもあります。もちろん、神の子どもたちがそれに飲み込まれてしまって滅びてしまうということは決してありません。ローマ人への手紙8章38節、39節で、パウロが、 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と告白しているとおりです。 先ほどお話ししましたように、私たちが、主のみこころのどこかに「悪意」が隠されているというような思いをもっているかぎり、いつ、その「悪意」が自分に向けられるか分からないという不安が渦巻くことになります。そのような状態では、試練の時、あるいは、物事がうまく行かない時には、さらに、主への不信を募らせるようになります。 神さまは、御子イエス・キリストのいのちの価をもって、私たちをご自身のものとしてくださいました。それは、私たちに対する愛と恵みから出ています。 また、ローマ人への手紙8章28節、29節では、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と言われています。 それがどのような試練であっても、たとえ、私たち自身が蒔いた種を刈り取ることであっても、主は、それをも用いてくださって、私たちを御子イエス・キリストの栄光の「かたち」に似た者としてくださるというのです。 ですから、私たちは、主のみこころのいちばん深いところには、私たちに対する愛と恵みがあることを信じたいと思います。私たちに対する主のみこころのいちばん奥に、私たちに対する愛と恵みがあるということを信じている時にだけ、私たちは、その試練の中でも、神の子どもとして、主に信頼して歩むことができます。 |
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