(第35回)


説教日:2001年4月29日
聖書箇所:民数記20章1節~13節


 今日も、「聖なるものであること」の基本的な意味についてのお話を続けます。今日は、民数記20章1節~13節に記されている、「ツィンの荒野」の「カデシュ」での出来事を取り上げます。そこには、

イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現われた。主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」これがメリバの水、イスラエル人が主と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

と記されています。
 この出来事を含めて、民数記20章と続く21章は、荒野を旅していたイスラエルの民が、いよいよ約束の地であるカナンに入るために、荒野での最後の旅として、ツィンの荒野からモアブの平原まで旅をした、その途上において起こったことを記しています。その旅において起こったことの一つとして、20章22節~29節には、アロンの死が記されています。そして、33章38節には、

祭司アロンは主の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。

と記されています。
 それで、今日お話しします「カデシュ」での出来事は、「イスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目」の「第一の月」のことであると考えられます。また、この時すでに、イスラエルの民の荒野の第一世代は荒野で滅んでしまっており、第二世代の時代になっていたと考えられます。


 1節には、ミリアムの死が記されています。ミリアムはモーセとアロンの姉でした。
 民数記の12章に記されていますが、かつて、ミリアムは、モーセの結婚のことで、アロンと一緒にモーセを非難しました。その時、6節~8節に記されていますように、主はアロンとミリアムに向かって、

わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。

と言われました。
 そして、ミリアムは主のさばきによって、らい病にかかり、七日の間、宿営の外に締め出されてしまいました。
 このように、主が「わたしの全家を通じて忠実な者である」と認められたモーセも、「カデシュ」での出来事のために、約束の地に入ることができませんでしたし、イスラエルの民を約束の地に導き入れることもできませんでした。
 申命記3章23節~27節には、

私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

というモーセの述懐の言葉が記されています。このように、モーセは、約束の地に入りたいと、切に、主に願いましたが、この「カデシュ」での出来事のために、どうしても許されませんでした。
 このような重大な結果を招いた、「カデシュ」での出来事とは、いったい、どのようなことであったのでしょうか。

 この出来事の意味を考えるためには、二つの出来事とかかわらせて見る必要があると思われます。
 一つは、出エジプト記17章1節~7節に記されている、「レフィディム」での出来事です。もう一つは、民数記16章、17節に記されています、コラとその仲間の反逆の出来事です。今日は、「レフィディム」での出来事との関連を考えてみたいと思います。
 出エジプト記17章1節~7節には、

イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

と記されています。
 この「レフィディム」での出来事は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の状態から贖い出されてから、数か月後の出来事です。これに対して、民数記20章1節~13節に記されている、「カデシュ」での出来事は、荒野におけるイスラエルの民の最後の旅において起こったことです。
 このことは、この四〇年の間、荒野を旅していろいろなことを経験したイスラエルの民が、本質的に変わっていなくて、主に逆らい続けたことを示しています。そして、その不信仰は、荒野の第一世代が滅んで、第二世代になっても絶えることがなかったことを示しています。
 モーセは、申命記31章27節~29節で、第二世代の不信仰のことを、

私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。

と述べています。
 モーセは、およそ人間に考えられる限界をはるかに越えた深い忍耐をもって、自分に委ねられたイスラエルの民を導いてきました。シナイの山の麓でイスラエルの民が金の子牛を造ってこれを拝んだときには、自分の身を滅ぼしてでもイスラエルの民を救おうとしました。「カデシュ」での出来事は、このようなイスラエルの民の不信仰が、ついには、モーセをも巻き込んでしまったということです。

 さて、出エジプト記17章1節~7節に記されている「レフィディム」での出来事は、法律的な意味合いがあり、主の契約に基づく「告発」としての意味をもっています。
 もちろん、この場合の契約は、出エジプト記3章に記されていることですが、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として、ご自身をモーセに現わしてくださった主が、モーセを通して、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださると約束してくださった時の契約です。
 2節に記されています、モーセの、

あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。

という言葉は、イスラエルの民が契約の神である主の真実さを疑い、主のしもべとしてイスラエルの民の前に立っているモーセを告発していることを意味しています。

あなたがたはなぜ私と争うのですか。

の「争う」と訳されている言葉(リーブ)は、ここでは、契約違反を告発することを表わしていると考えられます。
 7節には、

それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

と記されています。この「メリバ」(メリーバー)は、先ほどの「争う」と訳されていて、契約違反の告発を示していると考えられる言葉(リーブ)から派生しています。
 その告発の内容が、3節に記されています。そこでは、

いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。

と言われています。そして、モーセが、主に、

私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。

と訴えていますように、契約違反の責めをモーセに負わせようとしているのです。「石打ち」の刑は宗教的な性格をもっていて、この場合は、契約違反に対する社会的な制裁です。その当時の発想では、契約違反に対する制裁は、神から下されるものと考えられていました。
 イスラエルの民は、これまで、主が、エジプトの地で力強い御腕をもってエジプトにさばきを下し、紅海ではパロの軍隊を滅ぼして、自分たちを救い出してくださったことを経験しています。出エジプト記14章31節では、

イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

と言われています。
 マラでは、水が苦くて飲めなかったのを、主は、そこの水を飲めるようにしてくださいました。さらには、彼らが飢えたときには、主は、マナを与えてくださって、真実に支えてくださいました。それでも、ここで、主の真実さに対する不信をあらわにしています。

 このような、イスラエルの民の不信仰に対しては、主のさばきが執行されることが予想されます。5節、6節には、

主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

と記されています。

民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。

ということは、そこで、正式なさばきが執行されることを示しています。「あなたがナイルを打ったあの杖」は、言うまでもなく、モーセが、エジプトの地に対する主のさばきを執行するために用いた「」です。
 その、主のさばきを執行するために用いられる「」によって打たれなければならないのは、不信仰からモーセを告発し、主を試みているイスラエルの民です。ところが、主は、

さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。

と言われました。
 主ご自身が、「ホレブの岩の上」にお立ちになって、主のさばきを執行するモーセの前に立たれるというのです。それは、主のご臨在を表示する「雲の柱」が「ホレブの岩の上」に留まられたことによって示されたと考えられます。
 モーセが主のさばきを執行するための「」で「ホレブの岩」を打ったとき、打たれたのは、その「」の上に立っておられた主ご自身でした。主が、本来は、イスラエルの民が受けなければならないさばきを、ご自身の身に負ってくださったのです。それによって、その「」から水が出て、イスラエルの民はそれを飲みました。
 このことは、主の贖いの御業に関する啓示の全体の流れから見ますと、すなわち、主の啓示が完結した後の私たちの目から見ますと、やがて、御子イエス・キリストにおいて成就する贖いを指し示すものでした。イエス・キリストは、私たちの罪に対するさばきをご自身の身に負ってくださって、十字架にかかってくださいました。これによって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びの中から救い出してくださいました。

 このことを念頭において、民数記20章1節~17節に記されている「カデシュ」での出来事を見てみましょう。
 3節で、

民はモーセと争って言った。

と言われていることの「争った」は、先ほどお話しました契約違反に対する告発を示すものです。
 そのイスラエルの民の告発は、

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。

というものです。
 これは、今日は取り上げられませんが、もう一つのコラとその仲間の反逆の出来事とのかかわりも示しますが、その本質は、出エジプト記17章1節~7節に記されている「レフィディム」での出来事のときの告発と同じものです。これは、契約の主の真実さに対する不信仰から出た告発です。
 民数記を読んでいきますと、これに先立って、イスラエルの民が繰り返し主に逆らい続けたことが記されています。そして、いよいよ、約束の地であるカナンに入るために、荒野での最後の旅に出ようとしている時に、このような不信仰を募らせたのです。
 しかし、その時、主はモーセに、

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。

とお命じになりました。
 これは、あの「レフィディム」での出来事において、荒野の第一世代の不信仰に対して主が示してくださった、恵みを思い起こさせるものです。荒野の第二世代がその父たちと同じ不信仰を示した時にも、主は、あの時と同じ恵みを示してくださいました。
 ただし、あの時は、主ご自身が岩の上にお立ちになって、さばきの杖の一撃を、イスラエルの民に代わって、お受けになってくださいました。しかし、今度は、モーセとアロンが、イスラエルの会衆の前で「岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束されていました。
 これは、主の贖いの御業の啓示の歴史全体から見ますと、御子イエス・キリストがご自身の民の身代わりとなって、十字架にかかって成し遂げてくださった罪の贖いは、一度限りで永遠に有効なものであることを指し示しています。御子イエス・キリストの十字架の死は、繰り返される必要はありませんし、繰り返しなされてはならないものです。それで、もう「」が打たれることはないのです。
 このような、モーセの思いを越えたみこころにしたがって、主は、モーセとアロンが、イスラエルの会衆の前で「岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束してくださいました。そして、その約束の上に立ってのことですが、モーセに、

あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。

とお命じになりました。
 しかし、10節、11節には、

そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

と記されています。
 このことでのモーセの問題は、主が、イスラエルの会衆の前で「岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束してくださったのに、それを受け入れないで、「岩を二度打った」ことにあります。モーセは、この点で主の戒めに背いてしまいましたが、これには、二つのことが関わっています。
 まず、主の贖いの御業の啓示の歴史の流れの中では、先ほどお話ししましたように、贖い主の死による罪の贖いを誤ってあかししてしまうことになります。
 それで、主は、モーセを約束の地に入らせてくださらないという「さばき」を下され、それを撤回されないことをもって、この誤りを修正されたのです。

 それと同時に、12節には、

あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。

という主の言葉が記されています。
 モーセとアロンが主を信じなかったということはどういうことなのでしょうか。それは、先ほどお話しました、主が荒野の第二世代の人々の不信仰に対しても、第一世代の人々の不信仰に対してと同じように示してくださった恵みを信じなかったことだと思われます。
 詩篇106篇32節、33節には、

  彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。
  それで、モーセは彼らのために
  わざわいをこうむった。
  彼らが主の心に逆らったとき、
  彼が軽率なことを口にしたからである。

と記されています。
 主は、イスラエルの民の不信仰に対して御怒りをお示しになりました。しかし、その御怒りは、あの出エジプト記17章1節~7節に記されている、「レフィディム」での出来事において、「ホレブの岩」の上にお立ちになった主が、ご自身の身に負ってくださいました。主は、今、この「カデシュ」においても、その恵みをあかししてくださろうとしておられます。いわば、あの「ホレブの岩」も、「カデシュ」にあった「」も、主の一方的な恵みをあかしするために聖別されていたのです。
 ですから、モーセは、まず、主が、この時にも、その恵みを示してくださるために、イスラエルの会衆の前で「岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束してくださったことを受け止めるべきでした。そして、イスラエルの民に、彼らの不信仰にもかかわらず、主が「岩に命じれば、岩は水を出す。」と約束してくださったことの意味と、そこに示されている恵みをあかしすべきでした。
 しかし、モーセは、それを飛び越えて、

あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。

という主の戒めだけを捉えて、

逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。

と怒りの言葉を投げつけてしまいました。そして、その怒りをもって「岩を二度打った」のです。
 これでは、かりに、モーセが、形として「」に命じたとしても、それは、主を信じて主に従ったことにはならなかったことでしょう。

 私たちは、日々、主の御怒りを引き起こす罪を犯します。そのことに対して、言い知れない恐れを感じます。それと同時に、主が、あの「ホレブの岩」と「カデシュ」にあった「」をとおしてあかししてくださった、主の一方的な御恵みを思い起こします。その御恵みは、ただ単に、荒野の世代の、あきれるばかりの不信仰に対して示されたというだけではありません。その不信仰の世代が代わっても、主の御恵みが変わることはないことが示されました。このような、私たちの思いを越えた主の御恵みは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにおいて、私たちのために、すべて成就しています。
 それで、私たちは、そのことをあかししている主の契約の御言葉に基づいて、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに信頼して、大胆に、主のご臨在の御前に近づきたいと思います。そして、それによって、決して変わることのない主の愛と御恵みに包まれていることを信じて、感謝と喜びをもって、主を礼拝し、主に仕えたいと思います。

 


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