(第162回)


説教日:2004年3月28日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節~21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまが私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産をもつ者としてくださったと記されています。この相続財産の中心は、神さまご自身で、私たちが御子イエス・キリストの贖いに包まれて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。
 天地創造の御業において神のかたちに造られた人は、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。しかし、神である主に敵対して働いているサタンの誘惑にあったとき、自らの自由な意志によってこれを受け入れ、神である主に罪を犯して神である主の御前に堕落してしまいました。その結果、人は神である主の聖なるご臨在の御前から退けられ、主との愛にあるいのちの交わりを本質とするいのちを失い、罪と死の力に捕らえられてしまいました。
 これに対して、神である主は直ちに贖い主についての約束を与えてくださいました。その約束の中心は、創世記3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主のみことばに示されています。
 ここには、人を誘惑した「」の背後にあって働いていたサタンに対する、神である主のさばきの宣言が記されています。そのさばきは、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に霊的な戦いが展開され、最終的に「女の子孫」がサタンに致命的な打撃を与えて勝利することによって執行されます。この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」は、神である主に敵対して働いているサタンとその霊的な子孫と戦います。それは、「」と「女の子孫」は神である主の側に立つようになるということで、「」と「女の子孫」の救いを意味しています。


 この霊的な戦いは、最初の人アダムとその妻エバの家庭において、すでに現実となっています。そのことを記している4章1節~9節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 ここには、アダムとエバの子であるカインが、弟のアベルを殺してしまうに至る経緯が記されています。カインにはいろいろな問題がありますが、その根本にはカインが神である主の聖さをわきまえていなかったという問題があります。
 神さまの聖さは、神さまがご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であられるということを意味しています。神さまはその存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、その存在と属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。そのような方として、神さまはご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別されるのです。
 カインは、このような意味での神である主の聖さをわきまえてはいませんでした。そのことは、カインがアベルを野に誘い出してアベルを殺害したこと、そして、神である主から、アベルのことを問いかけられたときに、しらを切ったことに現われています。これは、カインが神である主を自分たちと同じように限界のある存在であると考えていたことを意味しています。無限、永遠、不変の栄光の神である主と、主の御手によって造られた自分の間にある絶対的な区別をわきまえてはいなかったのです。
 私たちが神さまの聖さをわきまえていることは、神さまを無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することに現われてきます。礼拝は、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、この世界とその中のすべてのものの造り主であられ、真実にすべてのものを支えてくださっている神さまだけにささげられるものです。カインは、アベルとともに、主に敬意を表わすささげ物をささげて、礼拝しています。けれども、神である主が無限、永遠、不変の栄光に満ちた方であることはわきまえていませんでした。この点にカインの問題の根っ子があります。主がカインとそのささげ物を受け入れてくださらなかったのは、カインが主の聖さをわきまえないままに主を礼拝していたからであると考えられます。
 自分と自分のささげ物が主に受け入れられないことを知ったカインは、激しい怒りに燃えて顔を伏せました。それは激しい怒りの現われであるとも、その激しい怒りを主に悟られまいとしてのことであるともとれます。先週は、そのようなカインに対して、主がどのように語りかけてくださったかについてお話ししました。先週お話ししたことをまとめておきますと、6節後半と7節には、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と記されています。

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

という主のみことばは、カインのうちに起こっているすべてをご存知であられる主が、カインが自分自身のうちにあるものを省みるように諭し、導いてくださるものです。
 これに続く、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。

と訳されているみことばの「あなたが正しく行なったのであれば」は未完了時制で記されていて、現在か未来のことを表わします。この場合は、カインの現在の状態を問題にしています。カインが主にささげ物をささげたときのことというより、その時からこの時に至るまでずっとカインのうちにある問題に触れているのです。そして、その根底には、カインが主の聖さをわきまえていないということがあります。
 また、この主のみことばには、カインが、うすうすではあっても、このことについて知っているという意味合いを伝える疑問詞(ハロー)がついています。さらに、「受け入れられる」と訳されている部分は、基本的に「上げる」ことを表わすことば(ナーサーの不定詞)一語によって表わされています。いろいろ議論がありますが、ここには、この前において用いられている「」ということばが省略されていて「顔を上げることができる」と言われていると考えられます。それは、その前の「なぜ、顔を伏せているのか」ということばと対比されているわけです。
 これらのことから、6節後半から、7節前半の部分は、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げることができるではないか。

と訳したらいいのではないかと思われます。ここで「あなたが正しく行なっているのであれば」ということは、その前にカインが怒って顔を伏せていることを背景として語られています。カインが主の御前で顔を伏せたことは、カインが主との関係を損なってしまっていることの現われです。それで、「あなたが正しく行なっているのであれば」ということの「正しさ」は、一般的なよい行ないのことではなく、主との関係における正しさです。
 最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまってから、人は自らのうちに罪の性質を宿したものとして生まれてきて、実際に思いとことばと行ないのすべてにおいて神である主の聖さを冒す罪を犯してしまいます。それで、人は自らの罪のために主の御前に正しくあることはできません。そのような状態にある人が主の御前に正しくあるためには、あるいは正しく行なうためには、主が備えてくださっている贖いの恵みにより頼むほかはありません。そして、そのように、主が備えてくださっている贖いの恵みにより頼むことこそが、そして、その贖いの恵みによって主との愛にあるいのちの交わりに生きることこそが、主の第一のみこころです。
 このことはカインにも当てはまります。この時、主は3章15節に記されている「女の子孫」として来られる贖い主による恵みを約束してくださっていました。それで、カインはその約束に示されている主の恵みを信じて主の御前に立つことができたはずです。そのためには、自分が自らのうちに罪の性質を宿しており、そのままで主の御前に立つなら主の聖さを冒す者であるので、主の恵みを必要としているということを認める必要がありました。けれども、主の聖さをわきまえていないために主を自分とあまり違わない存在であると考えていたカインは、自分にそのような必要があるということを認めることができなかったのだと思われます。それで、主は、カインが自らのうちにある問題に気づいて、主の備えてくださっている恵みに信頼するようになるように導いてくださっておられると考えられます。
 これに続いて、神である主は、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と言われました。
 先週お話ししましたように、最初の部分は、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

で区切られます。そして、

それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と続いていくのです。
 この、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

の「あなたが正しく行なっていないのなら」は、その前の「あなたが正しく行なっているのであれば」と対比されています。先ほど言いましたように、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げることができるではないか。

というみことばには「何々ではないか」という、「すでにあなたもそのことを知っているはずだ」ということを伝える疑問詞がついていますが、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

と訳されている主のみことばにはそれがありません。ですから、ここから主は、カインが気づいていない問題をカインに示してくださっていると考えられます。主は、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げることができるではないか。

と言われましたが、カインは顔を伏せています。カインとしては怒りとともに顔を伏せる理由がありました。それは、主が自分と自分のささげ物を受け入れてくださらなかったということです。カインにとっては、それは主の問題と思えました。主が理不尽にも自分と自分のささげ物を受け入れてくださらなかったという受け止め方をしていたのです。
 あまり想像を膨らませてはいけないのですが、それは、おそらく次のようなことでしょう。主を自分たちと同じような存在と考えていたカインからしますと、自分は父アダムから教えられた通りに主にささげ物をささげた。それは主の要求に応えることで、当然主は受け取るはずであるというような考え方をしていたのでしょう。主はご自身の必要を満たすためにささげ物を要求しており、自分は犠牲を払ってその必要に応えたのに、主は自分と自分のささげた物を受け入れてくださらなかったというような考え方です。
 これに対して、主は問題はカインのうちにあることをお示しになりました。繰り返しになりますが、主は、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げることができるではないか。

と言われましたが、カインは顔を伏せています。ですから、カインは、このみことばによって、自分が主の御前に正しく行なっていないことを示されているということが分かったはずですし、実際に、主のみことばは、カインが自分に何らかの問題があることを感じ取っていたことを示しています。そのことを足がかりとして、主はさらに、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

と言われました。それで、主の御前に顔を伏せているカインには、「あなたが正しく行なっていないのなら」という主のみことばが自分に当てはまることが分かりました。
 ここでの問題は、

罪は戸口で待ち伏せしている。

という主のみことばです。何が問題かと言いますと、日本語の名詞と動詞には男性形と女性形の区別がないので分かりにくいのですが、この「」ということば(ハタート)は女性形の名詞です。ところが、「待ち伏せしている」と訳されていることば(ローベーツ)は男性形です。これはラーバツという動詞の分詞の男性形ですので、女性形の名詞を修飾しません。それで、これをどのように理解したらいいのかということが問題となります。
 この問題については、大きく分けて三通りの説明があります。
 第一は、この「待ち伏せしている」と訳されていることば(ラーバツ)が獣が横たわることを表わすということに注目します。創世記49章2節~27節には、ヤコブがその子たちについて預言的に語った祝福のことばが記されています。その中の9節には、

  ユダは獅子の子。
  わが子よ。あなたは獲物によって成長する。
  雄獅子のように、また雌獅子のように、
  彼はうずくまり、身を伏せる。
  だれがこれを起こすことができようか。

と記されています。ここで「身を伏せる」と訳されていることばが4章7節で「待ち伏せしている」と訳されていることばで、ともに男性形です。
 このことから、この4章7節では、女性形の名詞である「」ということばが表わしている「」を3章に記されている誘惑者である「」(男性形の名詞・ナハシュ)と結びつけて示すために罪が野獣になぞらえられ、そのうずくまる様が男性形の分詞で表わされているというのです。
 第二の説明は、問題は「待ち伏せしている」と訳されていることば(ローベーツ)が男性形の分詞であるので女性形の名詞である「」のことを述べるものではないということにあるけれども、もしこのことば(ローベーツ)が分詞ではなく、分詞の名詞化したものであれば、その問題はなくなるというものです。その場合には、このことば(ローベーツ)は「待ち伏せしているもの」あるいは「潜んでいるもの」という意味になります。そうしますと、この「罪は ・・・・ 待ち伏せしている」という部分は、文字通りには「罪は ・・・・ 待ち伏せしているものである」となりますが、実質的には「罪は ・・・・ 待ち伏せしている」ということを表わすことになります。
 第三の説明は、第二の説明と同じように、「待ち伏せしている」と訳されていることば(ローベーツ)を分詞の名詞化したものであると考えます。そして、この名詞化した分詞を同じく名詞化した分詞であるアッカド語のラービツやアッシリヤ語のラビツムが一種の悪霊を表わすことと関連づけて理解します。これら三つのことば、ローベーツ、ラービツ、ラビツムの中心である子音字は共通しています。そして、このラビツムが「戸口にいる悪霊」とされていることも文脈にあっていると考えます。
 この場合には、「罪は ・・・・ 待ち伏せしている」という部分は、「罪は ・・・・ 悪霊である」となります。しかし、罪が悪霊であるというのはみことばの教えではありません。罪は、自由な意志をもっている人格的な存在が神である主と主のみこころに背いている「状態」や背く「こと」であって、それとして独立した存在ではありません。難しいことばで言いますと、罪は実体ではないということです。悪霊はその人格の全体が罪の性質によって腐敗しきっていますし、悪霊は絶えず罪を犯し続けていますが、罪は悪霊であるとは言えません。けれども、この「罪は ・・・・ 悪霊である」ということばは、必ずしも罪が悪霊であるということを教えていると考えなくてもよくて、この場合には、「」が悪霊になぞらえられていて、それが悪霊の働きと結びつけられていると考えることもできます。
 これらのことをどのように考えるかということですが、第一の説明は「」を3章に記されている誘惑者である「」(男性形の名詞・ナハシュ)と結びつけて理解しています。また、第二の説明は、この「」が「待ち伏せしているもの」あるいは「潜んでいるもの」であると言われていると考えますが、これも、「」を具体的なものになぞらえて表わしています。その場合にも、このカインの記事が3章15節に記されている「」の背後にある存在へのさばきのことばをめぐる霊的な戦いの文脈で記されていることを考えますと、やはり、これは3章に記されている誘惑者である「」との結びつきを思わせるものであると考えることができます。同じことは、第三の説明が「」を悪霊になぞらえているとするならば、それにも当てはまります。
 このことから、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

という主のみことばは、これに含まれている問題をどのように説明するとしても、同じ方向で理解することができると思われます。それは、この「」を3章に記されている「」と結びつけて理解するということです。そして、あの「」の背後にあって働いていたサタンが、この時には、カインが「」を犯すようになるようにと働いているということを思わせます。このことは、このカインの記事が3章15節に記されている「」の背後にあるサタンへのさばきのことばをめぐる霊的な戦いの文脈で記されていることと調和しています。
 これをカインに当てはめてみましょう。主がカインに、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

と問いかけられたときには、カイン自身のあり方に問題があるのではないかという方向で導かれています。そして、主が、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げることができるではないか。

と言われたときには、その主のみことばが示していますように、カインは主に対して顔を上げることができないでいる自分の中に、何らかの問題があることに気がついていたと考えられます。そして、さらに、主が、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

と言われたときには、カインが自覚している問題以上の問題がそこにあるということを示してくださっています。そして、それは、カインの父と母を罪へと誘った「」の背後にあって働いているサタンの働きにかかわっているということを示してくださっているということです。
 この場合には、アダムとエバがカインに、自分たちの身に起こったことを包み隠さず話しているということが前提になっています。つまり、自分たちが最初、神である主との愛にあるいのちの交わりの祝福にあずかっていたこと、それがいかに幸いな交わりであったというこ、それなのに、「」の背後にあって働いていたサタンの巧妙な誘惑を受け入れてしまって、神である主に罪を犯して、御前に堕落してしまったこと、さらには、その直後に、神である主が「」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきのことばにおいて、「女の子孫」として来てくださる贖い主の約束を与えてくださったことを話しているということです。
 アダムとエバが自分たちの子どもたちにそれらのことを語り聞かせていたということは、アベルとそのささげ物が主に受け入れられているということから十分に考えられることです。それは、アベルが「女の子孫」として来てくださる贖い主の約束に示されている恵みを信じていたということを意味しています。そして、アベルは「女の子孫」として来てくださる贖い主の約束に示されている恵みのことを、アダムとエバから教えられて知り、実際に、それにより頼むようになったと考えられます。
 これらのことから、この時、神である主はカインに、その両親の失敗を思い起こさせる形で警告をお与えになっておられると考えられます。そして、主がこのような形で警告をお与えになったことには意味があると考えられます。
 言うまでもなく、カインは神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったアダムの子として、自分のうちに罪の性質を宿した者として生まれ、この時までの生涯の中で罪を犯し続けてきました。それは弟アベルも同じです。そして、人が犯す罪についてアダムとエバから教えられ、「女の子孫」として来てくださる贖い主の約束に示されている神である主の恵みを信じてそれに信頼するように教えられてきたはずです。それで、カインのうちにも、カインなりの罪の意識はあったと考えられます。そうでなければ、つまり、カインが「罪」というものを知らなかったとすれば、主がカインに、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と言われたときに、カインはまったく理解できなかったはずです。この時、主がカインにまったく理解できないことをおっしゃったと考えることはできません。ですから、カインにはカインなりの罪の自覚があったわけです。
 けれども、カインは、いつからそうなったかは分かりませんが、神である主を自分たちとあまり変わらない存在と考えるようになっていました。そのために、カインが自覚した罪も神である主との関係の問題という面は薄くなっていたと思われます。それは、今日罪のために神である主の御前に堕落してしまっている人の罪意識と同じものです。
 いずれにしましても、カインはこのときまでに罪を犯し、カインなりの罪の意識でそれを受け止めてきていました。けれども、この7節に記されている、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

という主の警告は、このときカインが向き合わなければならない「」は、それまでカインが犯してきた罪とは違う特別な意味をもっていることを示していると考えられます。というのは、この主の警告は、カインがこれを無視すると、やがて弟アベルを殺してしまい、ついには主の恵みをまったく退けて、主の御前からまったく離れ去っていってしまうに至るようになってしまうことを踏まえての警告であったからです。そして、それは、カインの両親であるアダムとエバを誘惑した「」の背後にあって働いていたサタンとの結びつきを決定的にしてしまうものであるということに対する警告であったからです。その意味で、このとき主が、

罪は戸口で待ち伏せしている。

と警告してくださっている「」は、それまでカインが犯してきたさまざまな罪の集大成のような罪、それまでカインが犯してきたさまざまな罪が積み上がって最終的に至った罪であると考えられます。
 終わりの日におけるサタンの働きのことを記している、テサロニケ人への手紙第二・2章9節~12節には、

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

と記されています。
 ここでサタンの欺きに欺かれる人々のことが、

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

と記されています。福音に示されている恵を拒み続けることによってその人々の心はますますかたくなになっていって、偽りを信じるようになってしまうということです。これは、主のさばきの現われで、サタンの働きは、そのために用いられると言われています。今、主はサタンがまったく人を惑わすことがないように、その働きを抑えておられますし、一般恩恵に基づく御霊のお働きによて、人々の心を照らしてくださっています。それは、そのこと自体が目的なのではなく、人々に救いの道を示してくださるためなのです。けれども、人々が真理のみことばのうちに示されている救いを退け続けるなら、それは救いはいらないという意思表示ですから、その人々の求めるとおりになることをお許しになるということです。
 カインも、その両親から主の恵みについて教えられてきました。けれども、それを信じなかったために、主の聖さに対するわきまえを失って、主についても自分たちとあまり違わない存在と考えるようになってしまいました。そして、ついに、決定的な転機を迎えることになってしまったのです。
 主が、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と警告してくださったときのカインの「」は、このような意味をもっていました。それは、カインの両親であるアダムとエバが犯した最初の罪に比べられるような重さをもっています。
 実際、この二つの罪には、いくつかの類似点があります。どちらも、主が前もって特に戒めていてくださったにもかかわらず犯された罪です。また、どちらの場合も、人が罪を犯した後に主が悔い改めの機会を与えてくださったのに、人は悔い改めることはありませんでした。アダムとエバには、

あなたは、どこにいるのか。

というみことばから始まる一連の語りかけによって、カインには、

あなたの弟アベルは、どこにいるのか。

というみことばから始まる一連の語りかけによって、自らの罪を認めて悔い改める機会を与えてくださいましたが、どちらの場合も、人間の側が悔い改めることはありませんでした。さらに、どちらの場合も、人間の側が悔い改めなかったにもかかわらず、主はなおも恵みをもって接してくださいました。アダムとエバには、「最初の福音」を示してくださいました。カインには「最初の福音」はすでに与えられていますが、それ以外に、誰もカインに復讐をしないように取り計らってくださっています。そして、どちらの場合も、人は、その罪によって主との交わりから遠ざかってしまいました。さらに、どちらの場合も、その罪の結果、その人の住む土地がのろわれています。
 アダムとエバが犯した最初の罪によって、人類は神である主との愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。この時のカインの罪にも同じような面があります。すでにお話ししましたが、カインからレメクに至るカインの子孫の歴史が全人類のあり方に決定的な影響を与え、ノアの時代に至って、全人類を、それぞれの心のうちにおいても、外側に現れてきた社会的な状態においても、徹底的に腐敗させてしまうようになりました。人の心のうちの状態のことは、6章5節に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。また外に現れた状態のことは、6章11節、12節に、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。それは、カインが、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

という主の警告を踏みにじって、まったく主の御前から離れ去ってしまったことから始まっています。
 もちろん、違いもあります。アダムとエバは罪のない状態にあったときに罪を犯しましたが、カインは自らのうちに罪の性質を宿す者として罪を犯しました。ただし、カインはそのような者に対する神である主の恵みの備えを示されていました。アダムとエバは、自分から罪を認めて悔い改めることはしなかったのに、なおも、主が備えてくださった贖い主についての約束に示されている恵みを信じました。しかし、カインは最後まで主の恵みを拒んで、主の御前からまったく離れ去ってしまいました。
 ここに、同じように重大な意味をもった罪を犯したアダムとエバとカインが、その後に示された主の贖いの恵みに対してまったく違う受け止め方をしていること、そして、そこからそれぞれが別の歩みを始め、二つの異なった歴史を造ることになっていくことが見て取れます。言うまでもなく、カインの歩みはレメクにいたり、アダムとエバの信仰の歩みは、セツを経てノアにまで受け継がれていきます。これが「最初の福音」に示されている、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫との間の霊的な戦いの歴史となっているのです。私たちも罪を犯す者です。その都度、「女の子孫」として来てくださって贖いの御業を成し遂げてくださった主の恵みを信じて、罪を認めて悔い改め、主との愛にあるいのちの交わりに生きることによって、霊的な戦いに勝利するように招かれています。

 


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