(第161回)


説教日:2004年3月21日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 父なる神さまは永遠の聖定において、私たちを御子のうちにある者としてお選びになり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となるように定めてくださいました。そして、それを実現してくださるために、御子をとおして遂行された天地創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に生きる者としてくださいました。神のかたちに造られた人は、実際に、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。
 けれども、最初の人であるアダムとエバは、自らの自由な意志において、神である主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって主の栄光のご臨在の御前から退けられ、罪と死の力に捕らえられてしまいました。これは、サタンが神のかたちに造られて、造られたすべてのものを治める使命を委ねられている人間に罪を犯させることによって、主の創造の御業のご計画をくじいてしまおうとして働いた結果です。
 これに対して、主は贖い主を約束してくださり、時至って遣わされた贖い主の御業をとおして、ご自身の民を罪と死の力から解放し、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして回復してくださいました。そして、さらに栄光に満ちたいのちにある愛の交わりのうちに導き入れてくださる約束を与えてくださいました。
 これが、ペテロの手紙第一・1章3節、4節で、父なる神さまが私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産をもつ者としてくださったと記されていることです。この相続財産の中心は、神さまご自身で、私たちが御子イエス・キリストの贖いに包まれて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。
 神である主は人類の堕落の直後に贖い主についての約束を与えてくださいました。その約束は、創世記3章14節、15節に記されている、

  神である主は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。」

という「」へのさばきのことばに示されています。
 ここに出てくる「」は神である主によって造られた生き物で、人格的な存在ではありません。その「」をサタンが用いて人を誘惑したのです。それで神である主は、サタンが用いた「」をお用いになって、逆にサタンに対するさばきを宣言されました。そのさばきは、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に霊的な戦いが展開され、最終的に「女の子孫」がサタンに致命的な打撃を与えて勝利することによって執行されます。この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」は、神である主に敵対して働いているサタンとその霊的な子孫と戦います。その意味で、「」と「女の子孫」は神である主の側に立つようになります。それは「」と「女の子孫」の救いを意味しています。


 この霊的な戦いは、最初の人アダムとその妻エバの家庭において、すでに現実となっています。そのことを記している4章1節〜9節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 ここには、アダムとエバの間に生まれたカインが、弟のアベルを殺してしまうに至る経緯が記されています。繰り返しお話ししていますように、カインには現われた形としてはいろいろな問題がありますが、その根本には、隠れた問題があります。それは、カインが神である主の聖さをわきまえていなかったということです。そのことは、カインがアベルを野に誘い出して、そこでアベルを殺害していること、そして、神である主から、

あなたの弟アベルは、どこにいるのか。

と問いかけられたときに、

知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。

と応じていることに現われています。このことのうちに、カインが神である主を自分たち人間と同じような限界のうちにある存在と考えていたことが見て取れます。カインは主に敬意を表わすささげ物をささげていますので、主を自分たち以上の存在であると認めていたことが分かります。けれども、その違いは程度の問題でしかなかったのです。この点にカインの問題の根っ子があります。
 神さまの聖さは、神さまがご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であられるということを意味しています。神さまはその存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられ、その存在と属性の輝きである栄光も無限、永遠、不変です。そのような方として、神さまはご自身のお造りになったすべてのものと絶対的に区別されるのです。
 私たちが神さまの聖さをわきまえていることは、神さまを無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することに現われてきます。礼拝は、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、この世界とその中のすべてのものの造り主であられ、真実にすべてのものを支えてくださっている神さまだけにささげられるものです。
 カインは、このような意味での神である主の聖さをわきまえてはいませんでした。カインはアベルとともに主にささげ物をささげて礼拝しています。しかし、主の聖さをわきまえないままに主を礼拝していたのです。それが、主がカインとそのささげ物を受け入れてくださらなかった理由であると考えられます。
 カインは、主が自分と自分のささげ物を受け入れてくださらなかったことに激しく怒って、顔を伏せました。それは、主から顔をそむけることですが、それ自体が怒りの現われであるともとれますし、自分のうちにわき上がってきた怒りを主に悟られまいとしていることともとれます。
 これに対して、主は、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と語りかけてくださいました。
 すでにお話ししましたように、これは解釈するのにとても難しい問題をいくつか含むことばです。けれども、主がカインのうちにある問題を示してくださり、カインがそれを自分のこととして自覚して、主の恵みに頼って主に立ち返るようになるために語られている、ということははっきりしています。主は、まず、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

と問いかけておられます。主はカインの思いをご存じないために、それを知ろうとして問いかけておられるのではありません。主はすべてをご存知であられます。ですから、この問いかけによって、主は、カインが自分自身のうちで起こっていることに目を向けて、それについて考えるように導いてくださっているのです。
 その上で、主はカインに、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と語りかけてくださいました。
 ここで解釈が難しいのは、「受け入れられる」と訳されていることばと、「罪は戸口で待ち伏せして」と訳されていることばです。このどちらも、「もし何々ならば、何々である」という条件文の「何々である」という帰結に当たります。
 まず、この「受け入れられる」と「罪は戸口で待ち伏せして」ということばは、いったんおいておいて、それ以外の部分の新改訳の訳文の問題を取り上げておきます。
 第一に、前半の、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。

という主のみことばの条件節は、「あなたが正しく行なったのであれば」です。この新改訳の訳文では、過去のことを問題にしているようになっていますが、原文では未完了形で、現在か未来のことを表わします。これはカインの現在のあり方、すなわち、カインの普段のあり方を問題としています。ですから、この部分は、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられる。

となります。
 第二に、後半の、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

という主のみことばでは、条件節は「あなたが正しく行なっていないのなら」です。これも未完了形で、新改訳では現在形で訳されていますので、問題はありません。しかし、ここには、どこまでがその帰結節であるかという問題があります。新改訳では、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」までが帰結節となっています。けれども、実際には、この帰結節は、「罪は戸口で待ち伏せしている」までです。それでこの部分は、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

となります。
 これらのことから、7節は、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

となります。ただし、「受け入れられる」と訳されている部分と、「罪は戸口で待ち伏せして」と訳されている部分は、新改訳のままです。
 ここには、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられる。

という条件文と、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

という条件文があります。
 このどちらにも「正しく行なっている」[テーティーブ(ヤータブのヒフィール語幹)]ということばがあります。このことばは、ここで用いられている形(ヒフィール語幹)では、基本的に、積極的に他の人などによいこと、正しいことを行なうことを表わします。その場合には、神である主との関係においてよいこと、正しいことを行なっているかどうかが問題となっているということになります。また、このことばは自分の心をよいこと、正しいことに向かわせることを表わすこともできます。ここではこの意味で用いられていると考えている人々もいます。その場合には、カインが正しいこと、よいことに心を向けているかどうかが問題となっているということになります。
 この二つのことは矛盾することではなく、カインがよいこと、正しいことに心を向けているのであれば、主の御前によいこと、正しいことを行なうはずです。ただし、カインもアダムの子として、自らのうちに罪を宿しており、罪を犯します。それはアベルも同じです。ですから、カインにとって、またアベルにとって、よいこと、正しいこととは、主の備えてくださっている恵みに頼って、その恵みのうちに身を置いて、主との愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。この主の愛を受け止め主を愛することを離れて、よいこと、正しいことに心を向けることも、主の御前によいこと、正しいことを行なうこともできません。その意味で、主が「あなたが正しく行なっているのであれば」とか、「あなたが正しく行なっていないのなら」と言われるのは、カインが主の恵みを信じて、主の愛を受け止め主を愛しているかどうかを問題としているわけです。
 先ほどお話ししましたように、ここには、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられる。

という条件文と、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

という条件文があります。これも前回お話ししましたが、最初の、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられる。

ということばの前には、「何々ではないか」という、すでに分かっていることを表わす疑問詞(ハロー)がついています。それで、これは、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

となります。ところが、次の、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

ということばには、この疑問詞がついていません。
 ですから、主が最初に、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

と言われたときには、主は、すでにカインが知っていること、気づいていることを取り上げて、カインが自分自身を見つめるように導いてくださっています。
 これに対して、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

と言われたときには、カインが気がついていない危険が迫ってきていることを示してくださっています。そして、

それはあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

と言われて、カインがそれにきちんと対処すべきであることを示してくださっています。
 このように見ますと、ここに記されている二つの条件文の関係も見えてきます。人間的な言い方をしますと、主はカインに、

あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

という、カインが気づいていない危険に気づいてもらいたいということから、まず、すでにカインが気がついているカインの問題を取り上げて、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

と語りかけておられるのです。
 このように、主はカインを導いてくださるために、必要な段階を踏んでくださっています。このことのうちに、主がカインに心をかけ、カインのうちにあるものを知ってくださり、カインを導いてくださるために心を砕いておられることが感じ取れるのではないでしょうか。
 けれども、5節に、

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

と記されていることが、あまりにもそっけなく感じられるからでしょうか。ここで主がカインに心をかけ、カインのために心を砕いておられることに気がつくことは、私たちにとっても難しい気がします。まして、自らのうちにある問題には気づかず、主の側に問題があるかのように感じているカインにとっては、この主のお心遣いに気がつくことは、はるかに難しいことだったはずです。実際には、カインはこのような主のお心遣いに気がつかず、それを受け入れることはありませんでした。
 いずれにしましても、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

ということばも、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せしている。

ということばも、カインが主の恵みを信じて、主の御前に立つようになること、それによってカインが主との愛にあるいのちの交わりのうちに歩むようになることを願って、しかも段階を踏んでカインを導くために語られたことばです。
 さて、先ほど挙げました二つの問題のうちの一つは、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

という主のみことばの「受け入れられる」と訳されていることば(セエート)です。これは、基本的に「上げる」という意味のことば(ナーサー)の不定詞で、ここにはこの一つのことばしかありません。これをどのように理解するかをめぐって、いろいろな意見が出されています。前にも言いましたが、祈祷会における聖書研究では六つほどの見方を紹介して、それぞれについてどう考えるかをお話ししました。ここでは、そのうちの二つだけを取り上げてお話しします。
 一つは、言うまでもなく、「受け入れられる」という新改訳の解釈です。この解釈は新国際訳(NIV)などにも採用されていることから分かりますように、多くの人に支持されています。確かに、このことば(ナーサー)には「好意的に受け入れる」という意味があります。けれども、このことばがそのような意味に用いられるときには、「顔を」ということばが続きます。けれども、ここでは「顔を」ということばは用いられていません。これが、この見方の難点です。
 これに対して、この直前の6節には、

そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」

と記されていて「」のことに触れられています。それで、これに続く、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

においては、「」が省略されている可能性があります。
 ただし、そのように、ここでその前で用いられている「」が省略されていると見る場合には、この部分(セエート)を「受け入れられる」という意味に理解することはできません。この前の部分の、

なぜ、顔を伏せているのか。

という主のことばは、文字通りカインが顔を伏せたことに触れています。それで、これに続く、

あなたが正しく行なっているのであれば、受け入れられるではないか。

において「」が省略されているのであれば、それは文字通りカインが「」を伏せたこととと関連していることを述べているはずです。その場合には、ここで用いられている(ナーサー)ということばを最も基本的な「上げる」という意味で理解して、全体を、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

と理解するのが自然なことになります。そのように、主のみことばを6節からのつながりで見ますと、

なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

となり、うまくつながります。
 けれども、この見方に対しては、古くはルターからの反論があります。それは、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

というのは、あまりにも当たり前すぎて、わざわざ主がそのように問いかけられるだけの意味をもっていないのではないかというものです。
 しかし、すでにお話ししましたように、この、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

という主のみことばは、主がカインを導いてくださるうえで段階を踏んでくださって、すでにカインが分かっていることに触れて、カインが自分自身を見つめるようになるように導いてくださるものです。その意味では、私たちから見ると当たり前のことを言っているように見えても、この状況では決しておかしくはありません。
 カインが顔を伏せたことは、カインの中にあった激しい怒りの表現でした。そうであれば、主が、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

と言われたのは、カインが主の恵みに信頼して、主の御前に立っているのであれば、そのように怒るようなことはないはずではないかと、カインを諭しておられるわけです。また、カインが顔を伏せたことは、自分のうちから吹き出してきた激しい怒りを隠そうとしたためのことである可能性もあります。その場合には、カインの後ろめたさが働いているわけです。そうしますと、主が、

あなたが正しく行なっているのであれば、顔を上げられるではないか。

と言われたのは、そのカインが秘かに感じている後ろめたさを見つめるように、そして、主の恵みに信頼して、主に向かって顔を上げるように促していることばであるということになります。
 もう一つの問題につきましては、改めてお話ししたいと思いますが、最後に、これまでお話ししてきたこととの関連で一つのことをお話ししたいと思います。
 先ほど、5節に記されている、

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

ということばがそっけなく感じられると言いました。けれども、このことばがそっけないとすれば、その前の、

主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

ということばもそれに劣らずそっけないものであると言わなければなりません。どちらも、事実を淡々と述べているだけです。
 そうではあっても、アベルとそのささげ物は主に受け入れられ、カインとそのささげ物は主に受け入れられなかったという違いは歴然と残っています。もちろん、それはカインに問題があったからです。冷たく言えば、自業自得ということになります。けれども、ここに記されていることを読みますと、主は決してカインのことを自業自得というように扱ってはおられないということに気がつきます。この記事はカインに焦点を合わせているために、アベルのことには触れていないということもあるのですが、それにしても、主がカインに語られたことばがかなり詳しく記されています。この記事からは、主はアベルのことはおいておいて、もっぱらカインに心を注いでおられるのではないかとさえ思われるくらいです。(もちろん、主はアベルにアベルが信じているご自身の恵みと愛を、豊かに注いでくださっていたはずです。)
 マタイの福音書18章12節〜14節には、

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

というイエス・キリストのみことばが記されています。「女の子孫」として来てくださった贖い主であるイエス・キリストは、神さまのご臨在の御前から迷い出た私たちを訪ね求め、捜し出してくださいました。
 この主は、人類の歴史の初めに、ご自身のご臨在の御前にあるいのちの交わりから離れ去ろうとしているカインを回復してくださるために、深く心を砕いてくださっておられました。この主の恵みと憐れみに満ちたお心遣いは、人が主の御前に罪を犯した直後から今日に至るまで変わることなく、罪のために迷い出た者たちに向けられています。私たちも、この主の恵みと憐れみに満ちたお心遣いによって、主の御前に生きる者として回復していただいています。

 


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