(第160回)


説教日:2004年3月7日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節では、父なる神さまが「ご自分の大きなあわれみのゆえに」、私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産をもつ者としてくださったと言われています。この相続財産の中心は、御子イエス・キリストの贖いに包まれて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。
 私たちは、すでにイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただいています。そして、新しく生まれ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。その意味で、私たちはすでに相続財産を受け継いでいます。けれども、この相続財産としての父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、まだ、最終的な完成に至ってはいません。それは、終わりの日にイエス・キリストが栄光のうちに再臨されるときに、私たちがイエス・キリストの栄光にあずかって復活することによって完成します。
 父なる神さまは永遠の聖定において、私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者となるように定めてくださいました。そして、それを実現してくださるために、天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に生きる者としてくださいました。神のかたちに造られている人間は、実際に、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。
 けれども、最初の人であるアダムとエバは、神である主に対して高ぶり、自ら神のようになろうとして主の聖さを犯して堕落していたサタンの誘惑にあったとき、自らの自由な意志において、その教えを受け入れて神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、神である主の栄光のご臨在の御前から退けられ、罪と死の力に捉えられてしまいました。
 それは、より大きな視野から見ますと、サタンが、神のかたちに造られている人間に罪を犯させることによって、人間に関する神である主のご計画をくじいてしまおうと働いた結果です。サタンはその目論見を成功させたわけです。けれども主は、そのようなことがあっても、ご自身の民に対するご計画を変えることはありませんでした。その実現の方法は変わりましたが(といっても、これも永遠の聖定において定められていたことですが)、ご自身の民をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして回復してくださり、さらに栄光に満ちたいのちにある愛の交わりのうちに導き入れてくださるのです。神である主は、そのために贖い主を備えてくださいました。そして、この贖い主を通して、ご自身のご計画を実現してくださったのです。
 この贖い主に対する最初の約束が、人類の堕落の直後に与えられました。創世記3章14節、15節には、

  神である主は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されています。
 ここに出てくる「」は神である主によって造られた生き物で、人格的な存在ではありません。その「」をサタンが用いて人を誘惑したのです。それで神である主は、サタンが用いた「」をお用いになって、逆にサタンに対するさばきを宣言されました。
 そのさばきは、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に霊的な戦いが展開され、最終的に「女の子孫」がサタンに致命的な打撃を与えて勝利することによって執行されます。この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」は、神である主に敵対して働いているサタンとその霊的な子孫と戦います。その意味で、「」と「女の子孫」は神である主の側に立つようになります。それは「」と「女の子孫」の救いを意味しています。


 この霊的な戦いは、すでに最初の人アダムとその妻エバの家庭において現実となっています。そのことを記している4章1節〜9節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 ここには、カインが弟アベルを殺してしまうに至った経緯が記されています。そして、これは、1節に記されている、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

というエバのことばに表われていますように、「女の子孫」として来られる贖い主の約束にかかわる霊的な戦いにおける出来事として理解すべきものです。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、このすべてを貫いているカインの問題の根は、カインが神である主の聖さをわきまえていなかったことにあります。
 神である主の聖さは、主がご自身のお造りになったこの世界とその中のすべてのものと絶対的に区別される方であられるということを意味しています。主は無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神であられ、その存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。そのような方として、ご自身のお造りになったこの世界とその中のすべてのものと絶対的に区別されるのです。
 私たちが神である主の聖さをわきまえていることは、主を無限、永遠、不変の栄光の神として礼拝することに現われてきます。礼拝は、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、この世界とその中のすべてのものの造り主であられ、真実にすべてのものを支えてくださっている神さまだけにささげられるものです。
 カインは、このような意味での神である主の聖さをわきまえてはいませんでした。主に敬意と服従の意を表わすささげ物をささげていますので、主が自分より偉大な存在であることを認めていることが分かります。けれども、アベルを野に誘い出して殺害し、主が問いかけられたときにしらばくれていることは、カインが、主は人気のない野にはおられず、そこで起こったことをご存じないと考えていたということを示しています。これは、カインだけの特別なことではなく、堕落した後の人間に典型的な神概念です。
 このように、カインは神である主の聖さをわきまえていない状態のままで主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝していました。それで、カインは主を礼拝することにおいて、主の聖さを冒していました。この点に、カインの礼拝の問題の本質があります。そして、このことのゆえに、主は「カインとそのささげ物には目を留められなかった」のであると考えられます。
 けれども、主がカインとカインのささげ物を受け入れてくださらなかったことに対して、カインのうちから激しい怒りが沸き上がってきたと言われています。主の聖さをわきまえていなかったカインは、問題が自分にあることに気づくことができなかったので、問題は主の側にあると考えたのだと思われます。自分は主の要求しておられるささげ物をささげているのに、それを受け入れてくれないのは理不尽なことであるというように、あるいはまた、アベルのささげ物だけを受け入れたのはえこひいきであるというように考えたということでしょう。
 主は、このような状態にあったカインを諭して、導いてくださっています。
 ここで大切なことは、カインは何の知識もなく主にささげ物をささげたのではないということです。カインとアベルが主にささげ物をささげたのは、両親であるアダムとエバから教えられてのことであると考えられます。当然、カインとアベルは、アダムとエバから、神である主が自分たちを含めて、この世界のすべてのものをお造りになったことを教えられたはずです。また、人が神のかたちとして造られたことの意味と祝福のこと、自分たちがどのようにして主に対して罪を犯して御前に堕落し、主とのいのちの交わりを失ってしまったかということ、そして、そのような自分たちのために神である主が「女の子孫」として来てくださる贖い主を約束してくださっていることなどを教えられていたと考えられます。そうでなければ、アベルが主に受け入れられるささげ物をささげることはできなかったはずです。アベルもアダムの子として、自らのうちに罪を宿していた者です。アベルとそのささげ物が主に受け入れられたのは、アベルが「女の子孫」として来てくださる贖い主を約束してくださった主を信じ、その恵みに頼っていたからです。そのような信仰は、アダムとエバから受け継いだものであると考えられます。
 また、主がカインに語りかけてくださったときのみことばにも、カインがアダムとエバから神である主のことを教えられていたであろうことが反映しています。7節には、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

という主のみことばが記されています。
 主はカインに、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。

と言われました。この、

あなたが正しく行なったのであれば、

という訳ですと、ここで主は、カインの過去のことを問題としているように理解されます。しかし、ヘブル語ではこの部分は未完了時制で表わされていて、現在のことか未来のことを表わしています。つまり、主はここで、カインのこの時のあり方を問題としておられるのです。新改訳がこれを過去のこととして訳しているのは、カインがささげ物をささげたことに問題があったと解釈してのことでしょう。しかし、ここでは、この時のカインのあり方が問題となっています。そうしますと、その問題はカインが激しく怒っていることです。なぜか印が激しく怒っているかというと、その根本原因は、カインが神である主の聖さをわきまえていないからです。
 もう一つ注意したいのは、差し当たって新改訳の訳文を用いますが、この、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。

という主のみことばは、「 ・・・・ ではないか」という、すでに分かっていることを表わす疑問詞(ハロー)で始まっています。ですから、主は、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる

ということを、あなたは知っているではないか、というように、カインを諭しておられるのです。それは、カインが主との関係のあり方について、アダムとエバから教えられてのことでしょうが、すでに知っていることを踏まえています。
 これに対しまして、これに続く、

ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。

という主のみことばには、先ほどの「 ・・・・ ではないか」という、すでに分かっていることを表わす疑問詞(ハロー)はついていません。ですから、これは、カインがまだ気づいていないことを教えてくださるために、主が語ってくださったみことばです。
 主がカインに語られた、

あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。

というみことばは、創世記の中で、解釈するうえで最も難しいことばの一つとされています。確かにいろいろな問題があります。けれども、これは、基本的に、カインが自分自身に目を向けて、自らのうちにある問題に気づくようになるため、そして、それを悔い改めて主の恵みに頼るようになるためのみことばであることははっきりしています。そのために主は、まず、カインが分かっていることを指摘してくださり、その上で、カインが気がついていないことに気づくように導いてくださっているのです。
 このように、こここで主は、カインが自分自身のうちにある罪に気がついて、悔い改めるように導いてくださっています。それは、カインが主の聖さをわきまえるようになるために必要な第一歩でもありました。そして、主の聖さをわきまえることは、主を正しく礼拝するために必要なことです。
 このこととの関連で、主の聖さをわきまえることと罪を自覚することの関係を、改めて確認しておきたいと思います。おそらく、そのためにいちばん分かりやすいのは、前にお話ししたことがあります、預言者イザヤの経験だろうと思われますので、それを見てみましょう。
 イザヤ書6章1節〜4節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
  「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

と記されています。ここに記されていることは、主ヤハウェが幻のうちに預言者イザヤに示してくださったことです。ここには、主ヤハウェの栄光のご臨在と、その御前において仕えているセラフィムのことが記されています。セラフィムはセラフの複数形ですので、ここには複数のセラフがいるわけです。セラフィムは顔と足を覆っています。これは、セラフィムが主の聖さをわきまえていることの現われです。そして、セラフィムはひたすら主の聖さと栄光を讚えています。セラフィムが、

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。

と、「聖なる」という言葉を三回繰り返しているのは、無限、永遠、不変の栄光の主のご臨在に触れているセラフィムに、主の聖さが絶えることなく押し寄せてくる波のように常に新しく迫ってきている現実を表わしています。セラフィムは栄光の主の聖さに圧倒されています。そして、その最も自然な応答としての礼拝をささげているのです。
 前にこの個所を取り上げたときにもお話ししましたが、セラフィムが主の聖さに絶えず圧倒されているということは、主の無限、永遠、不変の栄光の豊かさに触れているということでもあります。セラフィムを満たしていたのは主の聖さの内実である主の愛と恵みに満ちた豊かさであり、セラフィムはその主ご自身を知ることの喜びの中で、

  聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
  その栄光は全地に満つ。

と主を讚え、主を礼拝しているのです。これが主の聖さをわきまえ、主を聖なる神として知ることの幸いです。
 ところが、自らのうちに罪を宿しているイザヤは、このようなわけには行きませんでした。イザヤはセラフィムと正反対の状態にありました。5節に、

そこで、私は言った。
  「ああ。私は、もうだめだ。
  私はくちびるの汚れた者で、
  くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
  しかも万軍の主である王を、
  この目で見たのだから。」

と記されているとおり、自らが主の栄光のご臨在の御前に立ちえないばかりか、その聖さを犯すものとして、御前に滅びるほかのないものであることを実感したのです。イザヤは主のさばきによって滅ぼされる恐怖に撃たれるようにして、主の聖さに圧倒されてしまったのです。それはこの上なく恐ろしい時であったはずです。この時イザヤが主の恵みによって支えられていなかったとしたら、一瞬にして髪の毛が白くなり、身体も支えられないほどの恐怖に、自分自身が壊れてしまっていたことでしょう。
 これは世の終わりに栄光のキリストが再びこの世界に来られる時に、すべての人がよみがえってその御前に立つようになる時に実感することになる恐ろしさです。その終わりの日の恐ろしさを予感した人々の様子を記している黙示録6章15節〜17節には、

地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

と記されています。終わりの日のさばきの予感にさえ、人々はこのようにおののくのであれば、実際に栄光の主の御前に立つことの恐ろしさはどのようなものなのでしょう。
 少しわき道にそれてしまいますが、聖書の中には神である主のさばきの場としての地獄があることは示されています。けれども、「火の池」やエルサレムのごみを燃やし続けた「ゲヘナ」などの表象はありますが、それが具体的にどのようなものであるかについての描写はほとんどありません。ある人々は、地獄は神である主のご臨在の御前から最も遠いところであると考えています。さらには、地獄には神はいないと考える人もいます。けれども、そのように考えるべきではないのではないかと思います。
 存在において無限、永遠、不変の神である主がおられない所はありません。詩篇139篇7節〜10節には、

  私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
  私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
  たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
  私がよみに床を設けても、
  そこにあなたはおられます。
  私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
  そこでも、あなたの御手が私を導き、
  あなたの右の手が私を捕えます。

と記されています。
 これは神である主がどこにでもおられるという意味での「遍在」のことを述べています。この遍在という意味では、地獄にも神である主はおられます。一方、神である主のご臨在は、生きておられる人格であられる神さまが、ご自身のご意志で、特別な意味でご自身の栄光を表わすために、そこにご臨在されることです。このような意味での主のご臨在は地獄にはないのではないかと考えられるかもしれません。言い換えますと、地獄は神である主の栄光のご臨在から最も遠ざけられたところではないかということです。
 けれども、神である主に対して罪を犯した人間が、主がご臨在されるエデンの園から追い出され、主の栄光のご臨在の御前から退けられたことは、それが罪に対するさばきであると同時に、自らのうちに罪を宿すようになった人が神さまの聖さを冒して、さばきを受けて滅びてしまうことから守ってくださるための神である主の備えでもありました。もし地獄がそのように、神である主のご臨在の御前から最も遠いところであれば、そこは神である主の聖さを冒す者への配慮があるところということにならないでしょうか。
 おそらくそのように考えるべきではなく、世の終わりの栄光のキリストのご臨在は天と地のすべて、すなわち、地獄も含めて被造物世界のすべてを覆うもので、そこに充満な栄光を満たすものであると考えるべきでしょう。
 地獄は、「女の子孫」として来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストがご自身の十字架の死をもって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからないままで、さらには、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって獲得してくださった復活の栄光にあずかることがないままで、その充満な栄光の主のご臨在の御前に立つ所というように考えるべきなのではないかと思われます。言い換えますと、地獄とはかつて主の聖さを冒した者たちがいる所なのではなく、かつて神である主の聖さを冒した者が、常にまた徹底的に主の聖さを冒し続ける所であると考えられます。
 これは、イザヤの経験から類推しての考え方です。地獄は、自らのうちに罪を宿しているままに、栄光の主のご臨在の御前に立ってしまったイザヤが味わったであろう、気の遠くなるような恐ろしさが、単なる予感ではなく、現実のものとなっている所ということです。
 いずれにしましても、そのように、自らが、たちまちのうちに、また想像を越えた恐ろしさのうちに滅びるべきであるという絶望的な状態にあることを実感したイザヤに対して、主は贖いの恵みを示してくださいました。6節、7節に、

すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
  「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
  あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」

と記されているとおりです。
 このことにおいて、イザヤはセラフィムも知りえない主の祝福にあずかっています。主のご臨在の場である神殿に祭壇があって、そこにいけにえがささげられることの意味を悟るようになりました。イザヤは主の栄光のご臨在の御前では絶望するほかはない自分のために備えられている主の贖いの恵みを悟ったのです。このような意味での悟りは、自らのうちに罪がなく、贖いを受ける必要もなかったセラフィムには得られないものです。その意味で、イザヤはセラフィムに示されている主の栄光にまさる、主の愛と恵みに満ちた栄光に触れているのです。
 イザヤはこの時にかいま見た主の愛と恵みに満ちた栄光を、後にさらに明確な形で示されるようになります。すでにお話ししたことですので、結論的なことを言いますと、この6章1節で「高くあげられた王座に座しておられる主」と紹介されている栄光の主ご自身が、52章13節、14節に記されている、
  見よ。わたしのしもべは栄える。
  彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
  多くの者があなたを見て驚いたように、
     その顔だちは、
  そこなわれて人のようではなく、
  その姿も人の子らとは違っていた。  

というみことばから始まり、53章の終わりまで続くみことばによって紹介されている「苦難のしもべ」であられるという、衝撃的な啓示を受けることになります。
 53章4節、5節に、

  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と記されていますように、栄光の主が私たちの咎のために砕かれたのです。イザヤが幻のうちに見た栄光の主がご臨在されるまことの神殿の祭壇においてささげられたいけにえは動物ではなく、「女の子孫」として来てくださった永遠の神の御子、すなわち、栄光の主ご自身であったのです。
 確かに、イザヤの時代とカインの時代にはかなりの隔たりがあります。しかし、神である主が約束してくださった救いの本質は同じです。それはご自身の民の罪を贖ってくださるだけでなく、充満な栄光に満ちたいのちにあって、ご自身との愛にある交わりのうちに生かしてくださることです。また、その救いのために遣わされる救い主が「女の子孫」として来てくださる贖い主であることも同じです。
 神である主が預言者イザヤに、自らの罪を悟らせてくださったことから、セラフィムも悟ることのできなかった主の愛と恵みに満ちた栄光を悟らせてくださったことは、イザヤだけに与えられたことではありません。それは、カインが自らの罪を悟るように導いてくださっているときの主のみこころでもあったのです。言うまでもなく、それは、私たちに対しても与えられている恵みです。
 私たちが人の罪を糾弾するときには、それが自己中心的な怒りからでていることが多く、しばしば、その人を倒して終わってしまうことがあります。その糾弾のことばを口に出して言わないとしても、心の中でその人を殺してしまうことがいくらでもあります。しかし、主が御霊によって私たちに自分のうちにある罪を悟らせてくださるのは、必ず、「女の子孫」として来てくださった贖い主である御子イエス・キリストをとおして成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださるためです。そして、それによって、私たちにご自身の愛と恵みに満ちた栄光を、改めて悟らせてくださり、その愛と恵みに信頼する信仰を私たちのうちに新たにしてくださるためであるのです。私たちは、主の愛と恵みに満ちた栄光に触れてはじめて、主の無限、永遠、不変の豊かさに裏付けられた聖さをわきまえることができるようになります。

 


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