(第159回)


説教日:2004年2月29日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節に記されていますように、父なる神さまは、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産を持つ者してくださいました。この相続財産の中心は、私たちが御子イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにあります。
 私たちが受け継いでいる相続財産のことは、古い契約の下ではアブラハムに与えられた契約において約束されていました。それで、これまで、アブラハムに与えられた契約の祝福と召命についてお話しし、その祝福と召命の歴史的な背景となっている神である主の贖いの御業の歴史についてお話ししてきました。
 主の贖いの御業は最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後から始まっています。神である主は、最初の女性であるエバを誘惑して主に背かせた「」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきを宣言されました。そして、そのさばきの宣言において「最初の福音」を示してくださいました。創世記3章15節には、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 ここで、神である主は「おまえ」と呼ばれている「」に向けて語っておられますが、これによって「」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきを宣言しておられます。そのさばきは、「」と「女の子孫」が、サタンとその霊的な子孫に対して霊的な戦いを展開し、ついには「女の子孫」がサタンの「頭を踏み砕く」ようになるというものです。この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」は、サタンとその霊的な子孫との霊的な戦いを展開することにおいて、神である主の側に立つようになります。このことが「」と「女の子孫」の救いを意味しています。


 この霊的な戦いは、最初の人アダムとその妻エバの間に生まれたカインとアベルの間で始まっています。そのことを記している創世記4章1節〜9節には、

 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 これまで、ここに記されているカインが弟のアベルを殺してしまったことをより広い観点から理解するために必要なことをいくつかお話ししてきました。今日もそのお話、特に先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 まず、最も基本的なこととして、カインにはさまざまな問題がありましたが、その根底には、カインが神である主の聖さに対するわきまえを失っていたことがあるということを再確認しておきたいと思います。
 繰り返しお話ししていますように、神さまの聖さは、神さまがご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを意味しています。神さまは、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。そして、その豊かさのうちに、私たちを含めて、この世界とその中のすべてのものをお造りになって、真実にそれを支えておられます。そのような方なので、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるのです。
 それで、人が神さまの聖さをわきまえるということは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを認めることを意味しています。そして、そのことは、その人が神さまの無限の豊かさからあふれ出てくる愛と恵みによって生かされている者としての自覚の下に、畏れと感謝をもって、神さまを礼拝することに現われてきます。
 カインは、主に「ささげ物」(ミンハー)をささげています。これは、基本的に、主権者に敬意を表わすためのささげ物です。このことから、カインが、主は自分より偉大な方であるということを認めていたことが分かります。ところが、8節、9節には、

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。カインは、人のいない野に行けば、そこには主もおられないし、主は隠れて行なったことは見ておられないと考えていました。
 ですから、カインにとって、主は自分よりは偉大な方ではあるけれども、その違いは程度の差でしかないというような理解をしていたと考えられます。カインはそのような理解をもって主を礼拝し、ささげ物をささげていました。このことにカインが主の聖さに対するわきまえを失っていることが現われているいます。そして、このことがすべての問題の根底にあります。
 ここにはカインとアベルのことが記されていますが、先週お話ししましたように、これはこれとして独立しているのではなく、4章1節〜24節に記されているカインとその子孫の歴史への導入として記されています。
 お手元にある聖書で4章1節〜24節を見ていただきたいのですが、記事全体のバランスという点では、カインとアベルのお話が1節〜16節に記されているのに対して、カインの子孫の歴史のことは17節〜24節の八つの節に記されているだけです。その意味では、導入の方が本文よりも長いということになってしまいます。なぜこのような構成になっているかということは、これまでお話ししてきたこと、特に先週お話ししたことからお分かりになると思いますが、いくつかのことが考えられます。
 第一には、カインとその子孫の歴史の導入にカインとアベルのことが記されていることによって、カインとその子孫の歴史が、3章15節に記されている「最初の福音」に示されている、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫との間に展開されている霊的な戦いを背景としていることがを示されています。ですから、私たちも4章1節〜24節に記されているカインとその子孫の歴史を、霊的な戦いの展開という観点から理解しなければならないのです。
 第二に、このカインとその子孫の歴史において際立っているのは、最初に記されているカインとアベルのことと、最後に記されているレメクのことです。しかも、このカインとその子孫の歴史は23節、24節に記されている、

  アダとツィラよ。私の声を聞け。
  レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
  私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
  私の受けた打ち傷のためには、
  ひとりの若者を殺した。
  カインに七倍の復讐があれば、
  レメクには七十七倍。

というレメクのことばで終わっています。
 レメクは、

  私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
  私の受けた打ち傷のためには、
  ひとりの若者を殺した。

と言っています。
 ここで「私の受けた傷」と「私の受けた打ち傷」は、どちらも単数形です。しかも、この「打ち傷」ということばは「打つこと」を表わすこともあります。その場合は、レメクは殴られただけだったということになります。また、「ひとりの人」と「ひとりの若者」の「ひとりの」ということばはなく、「」と「若者」が単数形であるので「ひとりの」と訳されているのです。それに沿って訳しますと、レメクは、

  私の受けたひとつの傷のためには、ひとりの人を、
  私の受けた打ちひとつの傷のためには、
  ひとりの若者を殺した。

となります。レメクは、たった一つの傷を受けただけで、あるいは、一回殴られただけで、その人を殺したということを誇っています。
 先週もお話ししましたが、この、

  カインに七倍の復讐があれば、
  レメクには七十七倍。

というレメクのことばは、13節〜15節に、

カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。

と記されていることを受けています。
 このことに、カインとアベルのこと、特に、主の御前を離れ去ったカインのあり方が、レメクのあり方につながっていることが示されています。

  カインに七倍の復讐があれば、
  レメクには七十七倍。

というレメクのことば
 カインはアベルの兄弟(あるいは父アダム)からの復讐を恐れています。それはカイン自身が、誤解に基づいているのですが、アベルを恨んで復讐をしたことの反映でしょう。それで、復讐があるかもしれないことを神である主に訴えています。そして、主から、

それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。

という保証をいただいてから、主の御前を離れていきました。これに対してレメクは、自分の力で容赦のない復讐をしたことを誇っています。自分は神である主の復讐にまさる復讐をすることができると言って、主の保証を当てにするどころか、それを見下しています。
 カインは主の御前から離れていったときに、自分の方から主との関係を絶ちました。そうではあっても、カインは主がおられることと、主は自分より大きな存在であることを認めて、主に自分の思いを訴えています。そして、主の取り計らいによって自分の心配が解決した後は、もう主には用はないという感じで主の御前を離れていきました。これに対しまして、レメクは、自分にとって主は無用の存在であるというだけでなく、自分の方が主よりも強くて大きな者であるという主張をしています。
 ですから、4章1節〜24節に記されているカインとその子孫の歴史は、カインとアベルのことに典型的に現われたカインのあり方が徹底化していって、レメクにおいて頂点に達していることを記しているのです。大きな川もそれをさかのぼっていきますと、最後にはせせらぎのような水源にたどり着きます。レメクにおいて現われてきた暴虐の極みは、それをたどっていくとカインとアベルの出来事におけるカインのあり方から始まっているということです。そして、この二つの関係を際立たせるために、最初に記されているカインとアベルのことと、最後に記されているレメクのことが詳しく記されていて、その間の人物たちのことはごく簡単に触れられているのであると考えられます。
 ある人は「われわれのうちなるカイン」ということを言っています。確かに、私たちもアダムの子孫です。生まれながらにアダムから受け継いだ罪の罪責を負い、自らのうちに罪を宿し、罪の暗やみによって神さまの聖さに対するわきまえを欠いている者でした。ただ神である主の約束のとおり「女の子孫」として来てくださった贖い主が成し遂げてくださった贖いにあずかって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者としていただいています。その私たちのうちには今なお罪の性質が残っており、私たちは罪を犯します。
 カインが主を礼拝しつつそのうちでは主の聖さに対するわきまえが失われていたということが、カインからレメクに至る歴史において徹底化していったということは、私たちそれぞれのうちにおいても起こりうることです。せせらぎのような水源が大河の流れに発展していってしまう可能性があります。そうであれば、その水源の段階で注意深くある必要があります。私たちは週ごとにささげる礼拝において、主の聖さに対する確かな自覚をもって、主を無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝したいと思います。
 先週お話ししましたように、創世記の構成から言いますと、4章1節〜24節に記されているカインとその子孫の歴史、すなわちアダムからカインを経てレメクに至る歴史は、それとして一つのまとまりをなしていますが、これは、より大きな歴史の流れを形造っていることが示されています。このアダムからカインを経てレメクに至る歴史は、5章1節〜6章8節に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史と時間的に並行しています。そして、アダムからセツを経てノアに至る歴史は、4章25節、26節に、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されている、礼拝者の群れの形成の歴史の記事によって導入されています。
 アダムからカインを経てレメクに至る歴史とアダムからセツを経てノアに至る歴史は同時進行のこととして展開していっただけでなく、相互に影響し合ってていました。そのことは、この二つの歴史が、「最初の福音」に示されている、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫との間に展開されている霊的な戦いとしての意味をもっていることからしますと、当然のことでした。
 また、二つの歴史が相互に影響し合っていたことは、6章1節〜4節に記されている「神の子たち」と「人の娘たち」の結婚の記事にも示されています。(先週お話ししたことからお分かりになると思いますが、「神の子たち」はセツの子孫たちで、「人の娘たち」はカインの子孫たちであると、一律に決めることはできません。カインとセツのほかにもアダムとエバの子どもたちがいましたから、その子どもたちの中に「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を信じた者たちがいたでしょう。また、カインの子孫の中から、その主の約束を信じた者たちが出てきた可能性もあります。それらの人々は「神の子たち」に数えられます。)
 この二つの歴史が最終的にどのようになっていったかということは、6章5節〜8節に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた

と記されていることに示されています。
 5節〜7節では、ノアの時代の人のあり方に焦点が合わされています。後でお話しすることとの対比で言いますと、ここでは「人のあり方」に焦点が合わされているということです。まず、外側から見たときのこととして、

地上に人の悪が増大した

と言われています。そして、そのことの奥にある人の内側の状態として、

その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く

と言われています。ここでは「みな」、「いつも」、「悪いことだけ」にというように、人の内面の腐敗が徹底していたことが示されています。
 ここで特に注意したいことは、人がこのように徹底的に腐敗した状態になってしまったということが、5章1節〜6章8節に記されている「アダムの歴史の記録」の結論部分に記されているということです。普通に考えますと、人のあり方が徹底的に腐敗してしまったということは、アダムからカインを経てレメクに至る歴史の結論として記されるべきことのように思われます。けれども、実際には、アダムからセツを経てノアに至る歴史の結論部分に記されています。
 先週お話ししましたように、これは、アダムからセツを経てノアに至る歴史が、アダムからカインを経てレメクに至る歴史の流れに飲み込まれていってしまった結果起こったことです。セツの子であるエノシュの時代には、

そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と言われていますように、「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を信じて、主ヤハウェを礼拝する礼拝者の群れが形成されて歴史を造っていました。しかし、その群れは歴史とともに背教していってしまい、最後にはノアだけが残るという様態になってしまいました。
 このことから、私たちは一つの大切なことに気づかされます。ノアの時代に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

という状態を生み出してしまったのは、「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を継承するはずの者たちの背教によってもたらされたということです。
 確かに、アダムからカインを経てレメクに至る歴史は、レメクにおいて徹底的に腐敗したものとなってしまいました。その結果、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と言われている状態になりました。けれども、そのような事態を生みだしたことには、それより深い、根本的な原因がありました。それは、「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を信じる信仰を継承するはずの者たちが、その信仰を捨てて背教してしまったということです。それで、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

ということが、アダムからセツを経てノアに至る歴史の結論部分に記されているのだと考えられます。
 「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を継承するはずの者たちが背教したということは、その人々が、カインからレメクに至る歴史の流れを造り出していた世界観や価値観を受け入れて、それにしたがって生きるようになってしまったということを意味しています。そして、その根本的な原因は、その人々が、カインと同じように、主の聖さに対するわきまえを失ってしまうようになったからであると考えられます。
 これが、霊的な戦いにおいて「女の子孫」がサタンとその子孫に敗北してしまうというときの敗北の仕方です。それは霊的な戦いですので、決して、武力や、暴力などを初めとする血肉の力による、この世の勢力争いにおいて、負けるということではありません。あくまでも、神である主の聖さにかかわる戦いであり、神である主の聖さをわきまえて主を礼拝することを中心とした、霊的な戦いです。このことを見失って、血肉の力を頼みとした戦いを始めることは、霊的な戦いにおける敗北を意味しています。「女の子孫」たちは、主の聖さをわきまえ「女の子孫」として来られる贖い主に対する主の約束を信じて、主を礼拝することを中心として生きることにおいて霊的な戦いを戦うのです。
 同じ6章の11節、12節には、ノアの時代の状況が別の観点から記されています。そこでは、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と言われています。
 先ほどの5節〜7節では、人のあり方に焦点が合わされていました。そして、それが外から見えるあり方においても、内面の状態においても、腐敗が徹底してしまっていたことが記されています。これに対しまして、この11節、12節では、「」に焦点が合わされています。この二つの節の中に「」ということば(ハーアレツ)が四回用いられています。しかも、それが繰り返し出てきても代名詞で表わされているのではなく、その都度「」ということばが用いられています。このように、ここでは「」に焦点が合わされています。
 この「」が何を表わしているかについて、これは「地の住人」を表わしているという見方を取る人が多くあります。ここではどうなのかということを離れてのことですが、「」が「地の住人」を表わすということ自体には問題はありません。ここでも「」は「地の住人」を表わしているという見方に対する評価は(祈祷会における聖書研究において扱いましたが)込み入ったものになりますので、ここでは扱うことはいたしません。結論的に言いますと、これは「地の住人」というよりは、「」そのもののことを述べているのだと考えられます。その場合には、

地は、神の前に堕落し

ということは、「」が神の御前に荒廃していることを示していると考えられます。
 11節では、

地は、神の前に堕落荒廃していた。

と言われています。「神の前に」ということは、「」が造り主である神さまとの特別な関係において存在していることを示しています。「」は造り主である神さまのみこころに従って造りだされたものです。それで、「神の前に」どのような状況にあるかが問題となっています。「」の在り方について最終的に評価される方は神さまご自身です。
 さらに、12節では、

神が地をご覧になると、実に、それは、堕落荒廃していた。

と言われています。このことも、「」の在り方について最終的に判断される方は造り主である神さまご自身であることを示しています。
 このことは、1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事を思い起こさせます。というのは、天地創造の御業の記事においては、この「」に焦点が合わされているからです。
 いろいろな機会にお話ししてきましたが、1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、天地創造の御業の記事全体に対する見出しに当たることばです。これに続く2節は、新改訳では、

地は形がなく、何もなかった。

というように始まっています。実は、2節の冒頭には「さて」という意味の接続詞(ウェ)があります。それでその部分は、

さて、地は形がなく、何もなかった。

というようになります。つまり、この2節から天地創造の御業の記事の焦点は、今私たちが住んでいるこの「」に合わされています。そして、神さまがこの「」を神のかたちに造られている人の住むべき所として整えていってくださった御業が記されています。神さまがこの「」を人の住むべき所として整えてくださったということについては、イザヤ書45章18節に、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、

と記されています。
 ところが、この「」について、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

と言われている状態の時、すなわち、とても人が住むことのできない状態の時に、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。その時すでに、神さまの御霊がこの「」にご臨在しておられました。この「」は人の住み処として整えられていきますが、それに先立って神さまの御霊がご臨在してくださっている所であるのです。その意味では、この「」は人の住み処である前に、造り主である神さまがご臨在しておられる神殿としての意味をもっています。
 このように、神さまの天地創造の御業によって造り出されたこの「」は、何よりもまず、造り主である神さまがが御霊によってご臨在してくださっている所です。そして、神のかたちに造られている人間は、この神さまがご臨在される「」に住まう者とされています。このことは、人は神さまのご臨在の御前に生きる者であるということを意味しています。それが、1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事の焦点が「」に当てられていることの意味するところです。
 また、1章27節、28節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここでは、神さまが、人を神のかたちにお造りになって、「歴史と文化を造る使命」を授けられたことが記されています。その使命の第一に述べられているのは、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。

ということです。
 これは、神のかたちに造られていて、造り主である神さまの愛と慈しみに満ちた人格的な特性を映し出す人間が「」を満たすべきことを意味しています。そのようにして、神のかたちの栄光を担う人間が「」を満たしていたなら、「」は、何よりもまず、造り主である神さまを礼拝する礼拝の場として聖別されていったはずです。そして、神さまの愛と慈しみに満ちた栄光によって満たされていたはずです。
 そして、これに続く、

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という神さまのみことばに示されている使命も、神のかたちに造られている人間が、神さまの愛と慈しみに満ちた栄光を映し出すこととして遂行されていったはずです。
 ところが、6章11節、12節には、

地は、神の前に堕落荒廃し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落荒廃していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 繰り返しになりますが、このような状態になってしまったことのいちばん奥には、セツの子であるエノシュの時代に、

そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と言われている人々の子孫が、「女の子孫」として来られる贖い主についての主の約束を信じて主を礼拝することを止めて、背教してしまったという事実があります。そして、その結果として、その人々が、カインからレメクに至り、

  私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
  私の受けた打ち傷のためには、
  ひとりの若者を殺した。
  カインに七倍の復讐があれば、
  レメクには七十七倍。

と豪語したレメクにおいて頂点に達した歴史の流れに飲み込まれていってしまったのです。
 このことは、逆に、神である主の聖さをわきまえて、そのご臨在の御許からあふれ出る豊かな愛と恵みに包まれて、主を礼拝する者たちの群れが地上に存在しているということが、主の御前にどんなに大きな意味をもっているかということを示しています。私たちは、そのような意味をになう者として、今ここで無限、永遠、不変の栄光の主を礼拝しています。そして、そのような者として、神の子どもたちに約束されている相続財産、すなわち、御子イエス・キリストの贖いの恵みに包まれて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる祝福を受け継いでいます。

 


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