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説教日:2004年2月22日 |
この戦いは霊的な戦いであって、血肉のぶつかり合いによって「女」と「女の子孫」とサタンとその霊的な子孫のどちらが強いかをはっきりさせるものではありません。これが霊的な戦であることいについて、これまでお話してきたいくつかのことをまとめておきたいと思います。 まず、霊的な戦いの争点は何か、何をめぐって霊的な戦いが戦われるのかということですが、霊的な戦いの争点は神である主の聖さです。その意味で、「女」と「女の子孫」は神である主の聖さをあかしすることによって霊的な戦いに参加するように召されています。 神である主の聖さは、神である主が造られたすべてのものと絶対的に区別される方であられるということを意味しています。神である主はその存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の栄光と豊かさに満ちておられる方です。そして、ご自身の無限の豊かさのうちにこの世界とその中のすべてのものをお造りになり、お造りになった一つ一つを満たしてくださり、それぞれの特性にしたがって生かしてくださっておられます。それゆえに、神である主は造られたすべてのものと絶対的に区別される方であられるのです。 それで、私たちが神である主の聖さをあかしすることは、私たちと私たちが住んでいるこの世界が神さまの豊かさのうちにあるものとして造られ、その豊かさに満たされて支えられ、導かれていることを感謝とともに告白することによってなされます。その最も基本的な告白は、神である主を無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することにあります。 霊的な戦いはまた真理をめぐる戦いでもあります。霊的な戦いの争点は神である主の聖さにあります。御使いたちもサタンも含めて、この世界とその中のすべてのものにとって最も大切なことは、神である主が造り主であり、自分たちは神さまによって造られたものであるということです。そして、神である主がその存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさと栄光に満ちておられる方であって、ご自身の無限の豊かさのうちにこの世界とその中のすべてのものをお造りになり、お造りになった一つ一つを満たしてくださり、それぞれの特性にしたがって生かしてくださっておられるので、自分たちは今ここに存在しているということです。これこそが第一の真理であり、その他のすべての真理の土台です。このように、この世界にかかわる真理の根底には神である主の聖さがあります。その意味で、神さまの聖さをわきまえて、神さまを畏れ敬い、神さまを礼拝することは、私たちが真理のうちを歩むことの出発点であり、真理を追い求めることの土台です。また、この意味で、神さまの聖さを争点とする霊的な戦いは真理をめぐる戦いでもあるのです。 この点で、サタンは第一にして最も根本的な真理である、神さまが聖なる方であることを否定します。それで、サタンは偽り者であり偽りの父であるのです。霊的な戦いは、サタンがこの偽りをとおそうとして働いている中で、神さまの聖さにかかわる真理を、神さまを無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することを中心として、あかしすることを意味しています。 また、サタンの罪の始まりは、その高ぶりにあると言われています。そして、それはそのとおりです。注意しなければならないのは、サタンの高ぶりは、自らが神の位置に立とうとする高ぶりであるということです。その高ぶりはサタンのそぶりからは分かりません。聖書にはいくつかの事例が記されていますが、サタンも神である主の御前においては謙遜そうなそぶりを見せます。しかし、サタンのうちには自分が神の位置に立とうとする思いがあって、それがサタンを突き動かしています。それは、サタンのうちに罪の暗やみがあって、神である主の聖さに対するわきまえが失われてしまっているために、神である主は自分とあまり違わない存在であるという錯覚が生まれてきてしまっていることによっています。もちろん、サタンは神である主の方が自分より大きな存在であることを知っています。けれども、その違いは絶対的なものではなく、程度の問題であるというようなことになっているのです。このように、サタンの高ぶりの根底には、サタンのうちで神さまの聖さに対するわきまえが失われてしまっているという現実があります。 いずれにしましても、霊的な戦いにはこれらの面がかかわっています。これらはばらばらのものではなく、すべて神である主の聖さにかかわるものとしてのまとまりをもっています。私たちの礼拝は「女の子孫」として来てくださった御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業の上に成り立っています。その礼拝においては、何よりも無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまが、その豊かな愛と恵みに対する感謝に満ちた告白とともに、あがめられなければなりません。 このような意味をもっている霊的な戦いは、すでに最初の人アダムとその妻エバの間に生まれた子どもたちの間で始まっています。そのことを記している創世記4章1節〜9節には、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 と記されています。 ここにはカインが自分の弟であるアベルを殺してしまったことが記されています。それで、ここに記されていることは「カインとアベルの物語」というように受け止められています。けれども、ここに記されていることだけを取り出して見たときに言われることです。ここに記されていることは、4章1節〜24節に記されていることの一部です。そして、4章1節〜24節に記されていることは、カインとその子孫の歴史です。弟アベルを殺してしまったカインは、16節に、 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。 と記されていますように、主のご臨在の御前から離れ去ってしまいます。4章1節〜24節はそのようにして始まるカインの子孫の歴史を記しているのです。カインとアベルのことは、いわば、その導入に当たります。 今日は、このカインの子孫の歴史を全体的に見たときに考えられることをまとめておきたいと思います。これも、これまでにお話ししてきたことを整理するものです。 このカインの子孫の歴史は、カインから数えて六代目、アダムから数えて七代目のレメクに至ります。23節、24節には、 さて、レメクはその妻たちに言った。 「アダとツィラよ。私の声を聞け。 レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、 私の受けた打ち傷のためには、 ひとりの若者を殺した。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。」 と記されています。 このレメクの言葉から分かりますように、レメクは暴虐の限りを尽くしています。それによって、神である主をも侮るものになっています。 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 というのは、13節〜15節に、 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。 と記されていることを受けています。カインはアベルの兄弟からの復讐(アダムからの復讐という見方もありますが)を恐れて、そのことを神である主に訴え出ています。そして、主からの保証をいただいて、主の御前を離れ去っていきました。これに対してレメクは、もはや主からの保証を当てにしてはいません。自分の力で復讐をしたことを誇っています。しかも、主の報復は生ぬるく、自分はそれをはるかにしのぐ七十七倍の復讐をすると豪語しています。もはや自分は神以上のものだと言わんばかりです。このようなレメクの高ぶりを支えたのは、22節に、 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。 と記されていることにあります。トバル・カインが開発した武器がレメクに権力の集中をもたらしたのです。 そして、このようなアダムからカインを経てレメクに至る歴史が、5章1節〜32節に記されている、アダムからセツを経てノアに至る歴史と並行して進んでいきます。そして、その二つの歴史はそれぞれ独立して進んでいったのではなく、相互に影響し合って進んでいきました。 4章25節、26節には、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されています。ここで、 そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と言われているときの「主の御名によって祈ること」は「主の御名を呼び求める」といことで、祈ることも含めて、主を礼拝することを意味しています。この時には、「女の子孫」として来られる贖い主についての神である主の約束を信じて主を礼拝する群れが起こされ、礼拝者の歴史が造られていたのです。 これはすべてセツの子孫のことだ、と言うことはできません。というのは、アダムとエバにはカインとセツのほかにも息子、娘たちがいましたから、その息子、娘たちや、さらにその子どもたちの中から主を礼拝する者たちが起こされた可能性があります。また、カインの子どもたち、さらにはその子孫たちの中から、主を信じて主を礼拝する者たちが生まれた可能性も否定できません。 けれども、その礼拝者たちの歴史が造られたという喜ばしい報告の後に記されている、セツの子孫たちの歴史の最後を記している6章5節〜8節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。 と記されています。ここでは、 その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く というように、「みな」、「いつも」、「だけに」というようにことばが積み重ねられて、悪の増大が徹底していたことが示されています。また、同じ6章の11節、12節にも、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 このことから、アダムからカインを経てレメクに至る歴史と、アダムからセツを経てノアに至る歴史は相互に影響し合って、このように徹底的に悪を追い求め、暴虐で地を満たしてしまうに至る歴史となってしまったことがうかがわれます。これは、カインの子孫の頂点であるレメクの支配と影響がこの世を席巻したということでもあります。それは、6節に、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されているように、神さまの創造の御業の根底にあったみこころを徹底的に踏みにじるものでした。かろうじて「女の子孫」として残ったのはノアだけとなってしまったのです。霊的な戦いにおける「女」と「女の子孫」の陣営は風前のともしびでした。 この時、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」の側が最終的な敗北の一歩手前にまで来ていたということをめぐって、三つのことを考えておきたいと思います。 一つは、このことは「女」と「女の子孫」の造る歴史が、サタンとその霊的な子孫の造る歴史に飲み込まれてしまったということを意味しているということです。それは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」の側が敗北してしまったということを意味しています。 先ほど引用しました4章25節、26節に、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されていますように、「女の子孫」として来てくださる贖い主に対する信仰によって「女」と「女の子孫」の側が歴史を造っていましたが、その歴史は、その後、カインを経てレメクに至る歴史、暴力の積み上げによって人を支配する歴史の流れに飲み込まれていってしまう歴史になってしまいました。私たちはその詳しい経緯を知りません。けれども、5章に記されている「アダムの歴史の記録」に記されている父祖たちの名前をたどっていって、気がつくと、6章5節〜7節に記されている、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 というみことばに出会うことになります。それはセツからエノシュへと受け継がれ、その時代に人々が神である主を礼拝するようになっていった歴史が逆転して、神を礼拝していた人々の群れが背教していく歴史となっていたったことを意味しています。そして、最後にはノア一人が残るだけになってしまいました。これは、その時代全体が、そしてあらゆる点において、徹底的にサタン的なものを映し出すようになってしまったという、私たちの想像を越えた恐ろしい状態になったということです。霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の側の敗北と言うほかはありません。最後の砦としてノアが残っていると言っても、それは敗北に敗北を重ねてきた結果、かろうじてノアが残っているということです。 もう一つのことは、そのようにサタン的なものをこの上なく鮮明に映し出すような時代になってしまったということに、「女」と「女の子孫」の側の敗北があっただけではないということです。人類全体が罪の升目を満たしてしまったために、神である主はそのような歴史をさばきによって清算してしまわなければならない事態になってしまったのです。言い換えますと、神である主がこれ以上その歴史を放置されるなら主の聖さが問われることになってしまうということです。 「女」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫との間の霊的な戦いは、人間の中の二つの群れの間の戦いです。いわば、それは水平の関係にある者同士の間の霊的な戦いです。これに対して神である主の終末的なさばきは、いわば垂直的なもので、上から下されるものです。ノアの時代にはそれが避けられない状態になってしまいました。 このような事態になってしまったことの背後に、アダムからカインを経てレメクに至る歴史の影響があります。イザヤ書14章12節〜15節には、バビロンの王の高ぶりの姿が記されています。そこには、 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 しかし、あなたはよみに落とされ、 穴の底に落とされる。 と記されています。一般に、これはサタンの高ぶりによる堕落を映し出すものであると理解されています。そして、確かにこれにはそのような意味があると考えられます。この聖書の中でサタンの高ぶりを映し出すものとして代表的に取り上げられるバビロンの王の高ぶりでさえ、レメクの高ぶりにはおよびません。バビロンの王の高ぶりは、バビロンという一帝国の滅亡をもたらしただけです。それがどんなに強大な帝国であったとしても、バビロンはいくつかの帝国の中の一つでした。けれども、レメクの高ぶりは、それによってそれまでの人類の歴史のすべてを清算してしまう、終末的な主のさばきをもたらすほどの暴虐を全地に満たしてしまうことになったからです。 創世記4章1節〜24節に記されているカインの子孫の歴史を記している記事を見てみますと、それは先ほど引用しました、 カインに七倍の復讐があれば、 レメクには七十七倍。 というレメクの高ぶりのことばで終わっています。それはカインの子孫の歴史の頂点を記すものです。この世の価値の尺度から言いますと、レメクは自らの力によって全世界の頂点に立ったということです。しかし、それと同時に、この記事からは、そこで歴史が突然断ち切られている感じもリアルに伝わってきます。それは、実際に、カインの子孫の歴史がレメクにおいて断ち切られてしまったからに他なりません。言うまでもなく、それはノアの時代の大洪水による終末的なさばきによって、それまでの歴史が清算されてしまったということです。 カインとアベルのことを考えますと、アベルはゆえなく殺されてしまって、多くの可能性を残しながらその生涯を終えてしまいました。これに対して、カインは復讐を受けることがないようにという主の保証も取り付け、生き永らえて、その子孫を残すようになりました。どう考えても理不尽なことであるという気がします。しかしそれは、それぞれを一個人として、しかも神である主とのかかわりから切り離して見たときのことです。霊的な戦いという視点からは、カインとアベルはそれぞれが属している群れがあります。二人は「女の子孫」とサタンの霊的な子孫という別の群れに属していました。そして、それぞれの群れが神である主の御前に歴史を造っています。 アベルの生き方はアベル個人のものでありつつ、アベルが属している「女の子孫」という群れの特性を反映しています。4章25節、26節に、 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。 と記されていますように、アベルの生き方はセツへと受け継がれ、礼拝者の群れの歴史に連なっていきます。この意味で、アベルは神である主の御前に実を結ぶ歴史を造ることに参与しています。 これに対しまして、カインがその子孫に受け継がせる形で築いた歴史は、その頂点に達したと思われたときにこそ、それが徹底的に神である主の聖さを冒すものであることをあらわにしました。カインはまことに空しい、詩篇1篇4節のことばで言えば「風が吹き飛ばすもみがらのような」歴史を築いていきました。それは、主のさばきによって御前で全く清算されてしまうべき歴史でした。 そのさばきによって、背教を重ねた「女の子孫」の歴史ばかりでなく、「女の子孫」の歴史をほぼ飲み込んでしまったサタンの霊的な子孫の歴史も清算されたのであるから、霊的な戦いにおいてはお相子ではないか、という見方があるかもしれません。けれども、そのように見ることはできません。というのは、確かにサタンの霊的な子孫の歴史は清算されたのですが、それは創世記3章15節に記されている、主のみことばに示されている、「女の子孫」として来られる贖い主によってサタンとその霊的な子孫に対するさばきが執行されたということではないからです。「女の子孫」として来られる贖い主が来られる前に「女の子孫」の歴史が途絶えてしまうということになれば、神である主が宣言されたサタンへのさばきが執行されないばかりか、最終的に歴史を支配したのはサタンであったということになってしまいます。もしそのようなことになれば、それこそ、神である主の聖さが問われることになってしまいます。 カインの子孫の歴史には、神である主の聖さをめぐってこのような重大な問題を生みだす根が潜んでいました。そして、それはレメクの時代になって実を結んでしまったのです。そして、カインが主の御前を離れ去ってしまったことがその出発点となっています。 最後に考えておきたいことは、このようなサタン的なものが徹底的な形で映し出されるような事態は、アダムからカインを経て七代目のレメクの時代において実現してしまいます。アダムからセツを経ての流れでは十代目のノアの時代のことです。聖書に記されている系図には、しばしば、七とか十という完全数に揃えるための省略がありますから、ここに記されている父祖たち以外の父祖たちがいたことも考えられます。そうではあっても、人類の歴史のごく早い時期に、歴史が終末的な主のさばきを招いてしまうに至るという状態になってしまったことは確かなことです。 このことは何を意味しているのでしょうか。これにはいろいろなことがかかわっています。そのいくつかはすでにお話したことですので、ここでは、一つのことだけを改めて取り上げておきたいと思います。それは、このように短い期間に人間の歴史が神である主の御前に罪の升目を満たしてしまって、主の終末的なさばきを招くに至ってしまったということは、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間のうちにある罪の暗やみの深さを示しているということです。言い換えますと、自らのうちに罪を宿している人間が、血肉の力によって生み出すのは、このような歴史であるということです。 よく、アダムからセツを経てノアに至る歴史は信仰の家系の歴史であるといわれます。確かにそういう面があります。「女の子孫」として来られる贖い主の約束に対する信仰は、ノアにまで受け継がれてきました。その意味で、この家系には信仰の継承があったのです。けれども、その裏側にはもっと悲しむべき背教の歴史がありました。 5章に記されているアダムからセツを経てノアに至る父祖たちの歴史の記録を見てみますと、そこには一定の書式があります。それは、「Aは何年生きて、Bを生んだ。AはBを生んで後、何年生き、息子、娘たちを生んだ。Aの一生は何年であった。こうして彼は死んだ。」というものです。たとえば3節〜5節には、 アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。 と記されています。 このアダムに関する記事から分かりますように、これは最初に生まれた男子すなわち長子の歴史ではありません。セツには少なくとも二人の兄がありました。カインとアベルがそれぞれ独立していたことを考えますと、そして、カインが復讐を恐れていたことを考えますと、アベルの後そしてセツの前に兄弟が生まれていた可能性があります。ですから、「Aは何年生きて、Bを生んだ。」と言われている時の「B」は必ずしも長子ではなく、最終的にノアにつながっていく父祖たちのことです。そして、アダムから始まって、そこに記されている父祖たちのそれぞれが息子と娘たちを生みました。ですから、それによって生まれた人の数は大変なものになっていったはずです。そして、それぞれの父祖たちは自分の息子と娘たちに「女の子孫」として来られる贖い主の約束についてあかしをしました。そうでなければ、ノアへと信仰が継承されることはなかったでしょう。けれども、結果的には、アダムから十代目に記されているノアの時代には、「女の子孫」として来られる贖い主の約束を信じていたのはノアだけになっていたのです。この意味で、5章に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史は、信仰の継承の歴史ですが、その裏にはもっと大きな背教の歴史があるわけです。みなアダムからカインを経てレメクに至る歴史が生み出したものに飲み込まれていってしまいました。 このようにして、信仰の家系と言われるアダムからセツを経てノアに至る家系の歴史でさえも、背教の歴史であることを免れることはありませんでした。まさに、血肉が作り出す歴史はこのようなものであるということが、あかしされているのです。それでも、ノアが「女の子孫」として来られる贖い主の約束を信じたということは、そこに主の恵みとあわれみがあったからに他なりません。 これは人類の歴史の初めに「女の子孫」として来られる贖い主の約束に対する信仰を受け継いだ父祖たちのことですが、主の契約の民として選ばれたイスラエルの民についても同じことが言えます。イザヤ書1章9節には、預言者イザヤがイスラエルの民について述べたことばが記されています。そこには、 もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を 私たちに残されなかったら、 私たちもソドムのようになり、 ゴモラと同じようになっていた。 と記されています。 神である主の贖いの御業の歴史の全体をとおしてあかしされているのは、「女」と「女の子孫」の歴史が造られてきたのは血肉の力によらないで、すべてはただ主の恵みとあわれみによっているということです。私たちもただ主の恵みとあわれみによって支えられて、「女の子孫」として来てくださって、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のための贖いを成し遂げてくださった贖い主、御子イエス・キリストを信じることができるようになりました。そして、その同じ恵みとあわれみによって、神の子どもが受け継ぐ相続財産をもつ者、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者とされています。 |
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