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説教日:2004年2月15日 |
この霊的な戦いは、すでに最初の人アダムとその妻エバの家庭において現実となっています。そのことを記している創世記4章1節〜9節には、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 と記されています。 1節〜5節に記されているカインのささげ物の問題については、すでにお話ししました。そして、続く6節、7節に記されている、主がカインに語られたことばについてのお話を始めたところです。6節、7節には、主がカインに、 なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。 と言われたと記されています。 実はここに記されている主がカインに語られたことばは、解釈するのにとても難しいことばとして知られています。たとえば、主は、 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。 と言われたと記されていますが、この「受け入れられる」と訳されたことばをめぐっては、私の知るかぎりでも、六つほどの解釈があります。また、 罪は戸口で待ち伏せして(いる) と訳されている主のことばに関してもいくつかの問題があり、それぞれの問題をめぐって、いくつかの考え方が出されています。さらには、最後の、 (それは)あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。 ということばをめぐっても、それが最初の女性エバに対するさばきのことばを記す3章16節の、 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。 という主のことばと同じであるということから、いろいろな見方がなされています。 これらの問題については、すでに十数年前に祈祷会における聖書研究で取り上げて、私の考え方をお話ししました。けれども、それはあまりに込み入ったお話ですので、礼拝の説教では、それらを整理してお話ししたいと思います。この主がカインにお話しになったことばを理解するためには、これまでお話ししたことが深くかかわっていますので、今日は改めてそれを復習しながら、主がカインに語ってくださったことの大枠をお話ししたいと思います。 すでにお話ししましたように、アダムとエバに最初に生まれた男の子に対して、エバはこの子が「最初の福音」に約束されている「女の子孫」であるという思いからカインという名前をつけました。けれども、カインはエバの期待に反して「女の子孫」ではなく、むしろサタンの霊的な子孫であることを現わしていくようになります。それは具体的には、カインが自分の弟であるアベルを殺してしまうことに現われてきますが、それにはより深い原因があります。それは、カインが主の聖さをわきまえていなかったということです。神さまの聖さは、神さまがご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを意味しています。神さまは、存在と属性の一つ一つにおいて無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。そして、その豊かさのうちに、私たちを含めて、この世界とその中のすべてのものをお造りになって、真実にそれを支えておられます。そのような方なので、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるのです。それで、私たちが神さまの聖さをわきまえていることは、神さまの無限の豊かさからあふれ出てくる愛と恵みによって生かされている者としての自覚の下に、畏れと感謝をもって、神さまを礼拝することに現われてきます。 ただ神さまが私たちと絶対的に区別されているというだけであれば、神さまは私たちにとって隔絶した分からない存在であるということになってしまいます。そして、後ほどお話しすることとかかわっていますが、神さまは分からない存在であるから恐ろしいということになってしまいます。神さまが私たちと絶対的に区別される方であるということは、神さまがあらゆる点において無限に豊かな方であることに基づいています。そして、神さまの豊かさは創造の御業と摂理の御業、そして特に贖いの御業において満ちあふれています。私たちはその豊かさからあふれ出る愛と恵みにあずかっています。神さまの聖さをわきまえることは、この神さまの豊かな愛と恵みにあずかって生きることの中で起こることです。 カインはこの神さまの聖さに対するわきまえをもっていませんでした。8節、9節には、 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 と記されています。カインは人のいない野に行けば、そこには神である主もおられないし、主は隠れて行なったことは見ておられないと考えていたのです。 ここに記されている記事においては、神さまは一貫して契約の神である主、ヤハウェとしてご自身を示してくださっています。それは無限、永遠、不変の栄光の神である主が被造物である私たちにご自身を示してくださり、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、限りなく身を低くしてくださったことの現われです。父親や母親が赤ちゃんに接するときには、その赤ちゃんに合わせるように、無限、永遠、不変の栄光の神である主は、神のかたちに造られている人間をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、無限に身を低くされて、ご自身を私たち人間に合わせて示してくださっています。それで、私たちは神さまを親しく知り、神さまの愛を受け止めることができるのです。カインだけでなく私たちすべても、ただ無限に身を低くしてご自身を示してくださっている主を知ることができるだけなのです。 父親や母親が赤ちゃんに合わせて赤ちゃんに接しているときに、赤ちゃんの方は、父親や母親のことを見分けることはできますが、二人がどのような人生を歩んできて、どのような社会的な貢献をしてきたかということまではわきまえていません。それと同じように、無限、永遠、不変の栄光の主が私たちに合わせて、私たちに分かるようにご自身を示してくださっているとき、私たちは主のことをすべて分かるわけではありません。そうではあっても、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることが、私たちを豊かに生かしてくださっています。それは、赤ちゃんが自分の両親がどのような歩みをして、どのような社会的な貢献をしている人であるかを知らなくても、その両親の子どもであることの恩恵にあずかっているのと同じです。 そのようにして、主は無限のへりくだりをもって親しくご自身をカインに示してくださったのですが、カインはそれを誤解して、主のことを自分たちよりは大きな存在であるけれども、そして、それゆえにささげ物をささげるけれども、その違いは程度の問題であるというような受け止め方をしていました。それは、カインだけの問題ではなく、私たちの陥りやすい危険でもあります。 主はカインに、 なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。 とお語りになりました。これは、4節後半から5節に、 主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 と記されていることを受けています。 すでにお話ししましたように、この、 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 ということは、 それはカインに対してひどく燃えた。そして彼の顔が落ちた。 というような言い方で、それらのことがカインに対して起こったことでもあるかのような形で現わされています。これは、おそらく、カインのうちから沸き上がってきた激しい怒りは、カインの意識を越えた深いところに潜んでいたもので、それがこの時に噴出してきたということを表わしていると思われます。カインが「顔を伏せた」ことは、相手に対して顔を上げることの反対で、向き合っている相手との関係が正常な状態ではないことを表わしています。 この時カインは主の聖さに対するわきまえを欠いているために、主を無限、永遠、不変の栄光の神としては礼拝していません。そのために、主にささげたささげ物は形としては感謝や敬意や忠誠心を表わすささげ物ではありましたが、真の意味で主を無限、永遠、不変の栄光の神としてあがめるものではありませんでした。 ヨハネの福音書4章24節に記されているように、イエス・キリストは、 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 お教えになりました。この「霊とまことによって」ということについてはいくつかの見方がありますが、結論的には、御霊と真理によってということであると考えられます。そして、この御霊と真理によってということは、一つのことの裏表です。私たちが真理に基づく礼拝をすることができるのは御霊が私たちに真理を悟らせてくださるからです。また私たちは真理のみことばをとおして働きかけてくださる御霊に導いていただいて初めて、真の意味で神さまを礼拝することができます。御霊が礼拝する者に悟らせてくださる第一にしてもっと根本的な真理は、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。 一般に真理といいますと、造られたこの世界にかかわることという枠の中の真理が考えられています。けれども、造られたものはすべて造り主である神さまから出ていますし、神さまによって支えられて存在しています。そのすべてのものの造り主であられ、支え主であられる神さまがどのような方であるかということこそは、第一の真理であり、もっとも根本的な真理です。そして、その真理の中心にあるのは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられ、それゆえに聖なる方であるということです。 カインの礼拝は、神である主の聖さに対するわきまえを欠いている点で、致命的な欠けがありました。すでにお話ししましたように、主が無限、永遠、不変の栄光の神であられることを否定することは、およそ偽りといわれるものの中でもっとも深い偽りで、そこからすべての偽りが生まれてくる源というべき根本的な偽りです。 先ほど言いましたように、およそ真理と呼ばれるものの中で第一の根本的な真理は、造り主であられ、支え主であられる神さまがどのような方であるかということにかかわる真理です。そして、その中心にあるのは神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられ、それゆえに聖なる方であるということです。このことを偽ることは、もっとも深く根本的なことを偽ることになります。それは、サタンのものの見方と考え方の根本にある偽りであって、それがサタンの働きを根底から動かしています。サタンの特質をひと言で言いますと、サタンは偽り者であるということになります。その偽りのうちでいちばん深い偽りは、神さまの聖さを否定することです。そして、それがサタンの存在と働きのすべてを決定しています。 マタイの福音書4章に記されている、イエス・キリストが荒野においてサタンからお受けになった試みの最後のものは、8節〜10節に記されています。そこには、 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 と記されています。サタンは無限、永遠、不変の栄光の主にのみささげるべき礼拝を、自分にささげるように要求しています。その根底には、サタンの高ぶりがあるのですが、さらにその奥には、サタンが、神さまが無限、永遠、不変の主であられるということに対するわきまえを欠いているという事実があるのです。 少し話がそれてしまいますが、ある人々は、この荒野の試みの中で、サタンはイエス・キリストから受けるたった一回の礼拝と引き換えに、この世から手を引くと提案したと考えています。それで、もしイエス・キリストが一度だけサタンを礼拝すれば、この世でのサタンの働きはなくなり平和な世界がやって来たはずである。そうすれば世々の教会に対する迫害はなくなり、それによる苦しみもなかったはずであるというのです。そして、それでもイエス・キリストがサタンを礼拝しなかったのは、神さまにのみ礼拝をささげることが、それほど重要なことであったからであるというのです。 しかし、ことはそのように単純なものではありません。私としましては、このようなことは仮のこととしてもお話ししたくはありませんが、お話のために申しますと、仮にイエス・キリストがサタンを礼拝していたとしたらどうなっていたでしょうか。そのとたんに、「女」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に展開されている霊的な戦いにおいて、サタンとその霊的な子孫が勝利します。そうなりますと、罪によってもたらされた堕落と腐敗が徹底的な形で現われるようになる他はありません。もしそのようになった後で、なおも歴史が続くとすれば、その歴史はサタンの支配を徹底的に表わすようになります。そして、ノアの時代の洪水によるさばきをもたらした時の暴虐に満ちた世界の状態をはるかにしのぐ暴虐が満ちた状態が地を覆うことになったでしょう。そして、すべてのものが神さまの聖なる御怒りのうちに滅び去ったはずです。 ですから、仮にイエス・キリストが一度だけでもサタンを礼拝していたとしたら、神である主に対して罪を犯して堕落していた主の民を贖い出して主の御前に回復する贖いの御業の歴史は挫折して終わってしまっていたはずです。私たちの主イエス・キリストは、そのような重大な意味をもっている試みに会われて、勝利されたのです。 話をカインのことに戻しますと、カインが神である主の聖さに対するわきまえていなかったということは、主が無限、永遠、不変の栄光の主であられ、それゆえに、自分たち神さまによって造られた者とは絶対的に区別される方であるということをわきまえていなかったということですが、これは、カインがサタンから出た偽りに欺かれていたということを意味しています。 カインの前にはエバが、この偽りに欺かれてしまいました。エバが、人間と神さまとの間にある違いは善悪の知識の木から取って食べることによって乗り越えられるというサタンの教えを信じてしまったのは、神さまと自分たちの間にある絶対的な区別を見失っていたからに他なりません。また、エバの誘いに乗ってその木から取って食べたアダムにも同じ問題がありました。しかし、その偽りに最初に欺かれたのは、アダムとエバではなく、サタン自身です。サタンは人を欺く前に、自分自身が偽りによって欺かれています。しかも、徹底的に欺かれています。それで、最初に神さまによって栄光ある御使いとして造られたときの栄光と尊厳を失ってしまっているのです。 私たちは食べ物などをとおして、ひとたび何かが腐り始めると、その腐敗はどんどん進んでしまうことを知っています。サタンが自らの偽りに欺かれているというのは、そのような腐敗がサタンのうちに生じただけでなく、サタンのうちで進んでいって、ついにはサタン自身が腐敗しきってしまったということです。その腐敗をもたらした根本原因が、自分をお造りになった造り主である神さまの聖さに対するわきまえを欠いてしまっていることにあります。 「女」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に霊的な戦いが展開されているというときのサタンの霊的な子孫が誰であるかということが問題となりますが、それは創世記の記事の中では、悪霊たちのことではありません。むしろ、それは、自らのうちに罪の性質を宿す者として生まれてきて、実際に罪を犯す人間のことです。その意味では、人類の堕落の後には、すべての人がサタンの霊的な子孫の特質をもって生まれてきます。それで、実際には、誰が「女の子孫」でありえるかということの方が問題となります。もちろん、それは、神である主が約束してくださった「女の子孫」として来られる贖い主を信じる信仰によって義と認められ、恵みによって罪をきよめられて、御霊のお働きによって新しく生まれる者たちのことです。 これは、ヨハネの手紙第一・3章9節〜12節に、 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 と記されていることにそっています。 ここでは「神から出た者」と「悪い者から出た者」との対比が兄弟を愛することに現われてくると言われていますが、その根本には、神さまの聖さに対するわきまえがあって、それがその人の生き方を導いているかどうか、という問題があります。神さまは無限に豊かな方であって、その豊かな愛と恵みをもってこの世界と私たちをお造りになり、真実に支えてくださり、導いてくださっています。特に、人類の堕落の後には、その愛と恵みは約束の贖い主の贖いの御業をとおして表わされています。そうであるので、私たちのうちにも愛が与えられていて、私たちは互いに愛し合うのです。そのように、私たちが互いに愛し合うことも、神さまの聖さをわきまえることに根差しています。言い換えますと、神さまの聖さをわきまえていることが、私たちの生き方を決定しているのです。これに対して、私たちもかつてはそのような者でしたが、「悪い者から出た者」は、自らの罪の暗やみのために、サタンから出た根本的な偽りに欺かれて、神さまの聖さに対するわきまえを失ってしまっています。 「女」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に展開されている霊的な戦いにおいて、根本的な争点となっているのは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。サタンとその霊的な子孫は、自らのうちにある罪の暗やみのために、サタンから出た偽りに欺かれて、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを否定します。その否定の仕方にはいろいろな形があります。「神はいない」という立場を取るものもありますし、神だから自分たちより大きくて力がある存在ではあるけれども、自分たちと同じこの世界に住んでいるもので、自分たちとの違いは程度の差であるとするものもあります。いずれにしましても、サタンとその霊的な子孫は、自らのうちにある罪の暗やみのために、サタンから出た偽りに欺かれて、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを否定します。それで、霊とまことによって神さまを礼拝することはありません。 これに対して、「女」と「女の子孫」は神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを告白します。あらゆる点において無限に豊かな神さまが、その豊かな愛と恵みによって、この世界と私たちを造ってくださり、真実に支えてくださっているので、この世界は豊かな世界であり、私たちも恵みに包まれているということを告白します。その告白のもっとも確かな現われが、神さまの聖さをわきまえて礼拝することです。カインとアベルがささげたささげ物は、本来そのような礼拝における告白としての意味をもったものでした。ただカインは形としては礼拝をしていますが、その意味を理解してはいなかったのです。 また、「女」と「女の子孫」は、無限、永遠、不変の栄光の神である主を畏れ敬います。主が無限、永遠、不変の栄光の神であられるので主を畏れるということは、サタンの偽りに欺かれないための最も確かな道です。それで、箴言1章7節には、 主を恐れることは知識の初めである。 と記されています。主が無限の豊かさに満ちた方であって、私たちをその豊かな愛と恵みによって満たしてくださっているということは、私たちのうちに主に対する感謝に満ちた畏れを生み出します。 このように、カインは無限、永遠、不変の栄光の神である主の聖さに対するわきまえのないままで、形としては主のご臨在の御前に近づいて、主を礼拝していました。問題はカイン自身のうちにあったのです。それで、カインのささげ物は受け入れられませんでした。それなのに、カインは自分とそのささげ物が受け入れられなかったことに対して、激しい怒りを噴出させています。それは、カインが自分のうちに問題があると考えないで、主の側に問題があると考えたことの現われです。主がアベルとそのそなえ物を受け入れたのに、自分と自分のそなえ物は受け入れてくれなかったのは、主のえこひいきによることであると感じたということでしょう。問題は自分にあるのではなく、自分はむしろ傷つけられた被害者であるという感じ方です。そして、自分を傷つけたという点では、主もアベルも同罪であるというような感じ方があって、そこから、自分の手の届くアベルに手をかけて殺してしまったということでしょう。 この時カインはまだアベルを殺してはいませんが、問題は自分の中ではなく、主の側にあると考えていたカインに対して、主はあくまでも主、ヤハウェとしてご自身を示してくださっています。契約の神として、無限に身を低くしてカインに向き合ってくださり、カインに語りかけてくださっています。この時、主は、外側からの威嚇によってカインを屈服させるということをしてはおられません。実際、具体的なことは改めてお話ししますが、 なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。 というみことばの全体が、いわば積み上げていくという形で、カインが自らのうちにある問題を自覚するようになるように導いていくという目的で貫かれています。 このこととの関連で、一つのことに注意しておきたいと思います。このような主の語りかけにもかかわらず、結果的には、カインはこの主のみことばを踏みにじってしまい、アベルを殺してしまいます。そのようなこともあって、私たちは、カインが主の聖さに対するわきまえを失っているのであれば、主の「すごさ」を示してカインを威嚇し、屈服させたほうが効果があるのではないかと考えがちです。けれども、それは主が血肉の手段に訴えるということであって、霊的な戦いにおいては敗北を意味しています。 実際、そのようなことによっては、カイン自身を変えることはできません。カインが主の威嚇を恐れ、恐怖感に打ちのめされて屈服したとしても、それで無限、永遠、不変の栄光の神である主の聖さに対するわきまえがカインのうちに生まれてくることはありません。ただ、主は自分より上の力がある存在で、自分はそのような存在に屈服させられたと感じるだけでしょう。主と自分の違いを程度の差であると考える点では変わることがありません。 この世の宗教学の立場では、宗教の根底には「聖なるもの」への自覚があるとされています。そのような宗教学の立場からは、そのようにしてカインが威嚇されて、恐れの念をもてば、カインのうちに「聖なるもの」への自覚が生じたということになるでしょう。けれども、それは主の聖さに対するわきまえではありません。むしろそれは、何か「得体のしれないもの」を恐れる恐れに基づく「区別されたもの」への自覚であって、その自覚自体に罪のやみとゆがみがあります。カインに当てはめて言いますと、それまで自分に親しく語りかけてくれていたものが、にわかに豹変して自分を威嚇するようになったと感じるだけでしょう。主の聖さをわきまえて主を畏れることは、「得体のしれないもの」をわけもなく恐れることとはまったく違うことです。 無限、永遠、不変の栄光の神である主の聖さに対するわきまえは、私たちが主の無限、永遠、不変の豊かさからあふれ出てくる愛と恵みに触れ、それによって生かされていて初めて、私たちのものとなります。その主の愛と恵みは、天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きる者としてくださったことに表われていました。そして、人が主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、何よりもまず、「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださったことに表われています。ですから、主の聖さをわきまえることは「得体のしれないもの」をわけもなく恐れることとは違います。 主の聖さをわきまえることは、御霊のお働きによって、何よりもまず自らのうちに罪があることを恐れるようになることから始まります。それは「得体のしれないもの」に対するわけもわからない恐怖ではなく、自分のうちにある罪が主の御前に恐るべきものであるという自覚です。御霊がそのような罪の自覚を与えてくださったのであれば、それは決してそこで終わらないで、主が備えてくださっている贖いの恵みに頼ることへと進みます。 実際、私たちは、その御霊のお働きに導いていただいて、自分のうちにある罪を自覚し、主のみことばにあかしされている「女の子孫」として来てくださった贖い主を信じるようになりました。それによって、贖い主が成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりに生きる者としていただきました。そのようにして、真の意味で、神さまを無限、永遠、不変の栄光の主として礼拝することができるようになりました。 主は、古い契約の下ではありましたが、カインをこのような恵みのうちに導いてくださるために、ご自身の身を無限に低くされて、親しくカインに語りかけてくださっておられます。カインは自らのうちにある罪を認めて主の御前に悔い改め、主のそなえてくださっている贖い主の約束に自分を委ねるように招かれていたのです。カインが主のみことばによって導かれて、自分の罪を認めていたとしたら、内側から変わっていったはずです。それは威嚇を受けて屈服したというのとはまったく違っています。カインが主の聖さをわきまえて、主を礼拝する者となるためには、このようなことが必要でした。 しかし、実際には、カインはこの主の無限のへりくだりを誤解して主を侮っていたために、自らのうちにある罪の現実に気がつくことができませんでした。そうであれば、問題は自分のうちにではなく主とアベルの方ににあって、自分は主とアベルに傷つけられた被害者であると考え続けるほかはなくなってしまいます。そして、実際に、それによって、アベルを亡き者にし、ついには主の御前を離れ去っていってしまいました。人間の罪がもたらす暗やみと、そこに生まれる偽りの深さが感じられます。 私たちのうちにも、それと同じような罪の深い暗やみがありました。そのような私たちを、主が愛と恵みによって贖い主の御業にあずからせてくださいました。そして、私たちの罪をきよめ、私たちのうちに真理の光をともしてくださいました。それによって私たちは主との愛にあるいのちの交わりのうちに生かされています。 |
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