(第156回)


説教日:2004年2月1日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節に記されていますように、父なる神さまはご自身の大きなあわれみのゆえに、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせ、神の子どもが受け継ぐ相続財産を受け継がせてくださいました。この相続財産の中心は神さまご自身で、私たちが御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることにのうちに現実のこととなります。
 これまで、主の民に与えられている相続財産についての約束は、アブラハムに与えられた契約において与えられていますので、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命についてお話ししました。それに続いて、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命の歴史的な背景として、主の贖いの御業の歴史の初めまでさかのぼってお話ししました。主の贖いの御業の歴史は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に始まっています。
 創世記3章14節、15節には、

  神である主は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されています。
 これは、最初の女性であるエバを誘惑して神である主に背かせた「」に対する、神である主のさばきの宣言を記すものです。「」は神である主によって造られた生き物の一つであって、人格的な存在ではありません。その「」その「」をサタンとか悪魔とか呼ばれる人格的な存在が用いて人を誘惑したのです。それで神である主は、サタンが用いた「」をお用いになって、逆にサタンに対するさばきを宣言されました。
 そのさばきは、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていますように、「」と「女の子孫」と、サタンとその霊的な子孫の間に霊的な戦いが展開され、最終的には「女の子孫」がサタンに致命的な打撃を与えて勝利することによって執行されます。
 このように、「」と「女の子孫」が、神である主に敵対して働いているサタンとその霊的な子孫に敵対して立つようになるということは、「」と「女の子孫」が神である主の側に立つようになるということを意味しています。それは「」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、このサタンへのさばきのことばが「」と「女の子孫」の救いを約束する「最初の福音」となっています。


 神である主は、「」と「女の子孫」がサタンとその霊的な子孫に対して霊的な戦いを展開して、「女の子孫」がサタンの頭を踏み砕くという形でサタンに対するさばきを執行されるということを宣言されました。この霊的な戦いは、最初の人であるアダムとその妻であるエバの家庭において現実になりました。二人の間に最初に生まれたカインが、弟のアベルを殺してしまったのです。
 カインがアベルを殺すようになったことを記している創世記4章1節〜9節を見てみましょう。そこには、

 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 ここに記されているカインが弟のアベルを殺してしまったということは、先ほど引用いたしました3章14節、15節に記されている、神である主の「」の背後にあって働いているサタンに対するさばきのことばとのかかわりで理解しなければなりません。このようなことを言いますのは、ここに記されていることをそのような視点から理解しない人々もいるからです。その中には有名な学者たちもいます。
 創世記の記事の流れから言いますと、4章の初めにはカインとアベルのことが記されていますが、1節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されています。つまり4章の記事は、最初の人アダムとエバのことから記されています。そして、このアダムとエバことは、それに先立つ3章に記されています。ですから、4章に記されていることは3章に記されていることを受けていると考えるべきです。
 そして、1節に、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

と記されていることも、3章14節、15節に記されている神である主の「」の背後にあって働いているサタンに対するさばきのことばを反映しています。すでにお話ししたことを復習することになりますが、最初の子を産んだエバは「主によって」と言って、その子が産まれたことが主の恵みによることであることを告白しています。しかも、「ひとりの男子」ということば(イーシュ)は成人男子を表すことばで、エバはその子が成人となる時のことに思いを馳せています。これはエバが、カインが主のみことばに約束されている「女の子孫」ではないかと期待していたことを思わせます。また、エバは「私は ・・・・ 得た」と言っていますが、この「私は ・・・・ 得た」ということば(カニーティー)とカインという名前の間には語呂合わせがあります。ここでは、エバにとって、この子を得たことの意味の大きさというか、期待の大きさが、その名前に反映しています。
 このように、エバは「女の子孫」についての神である主の約束を信じて、その期待のもとに最初の男の子を産み、その信仰を告白する意味でカインと名前をつけました。しかし、そのようにして生まれたカインは、エバが期待していた「女の子孫」ではありませんでした。
 そのことは、カインがアベルを殺してしまうことにのうちに現われてくるのですが、その奥には一つの根本的な問題がありました。それは、先週お話ししましたように、カインが神である主の聖さに対するわきまえを欠いていたということです。神さまの聖さは、神さまが無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方であり、その豊かさのうちにこの世界とその中のすべてのものをお造りになって、真実にそれを支えておられる方であるということ、そして、それゆえに、神さまがご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを意味しています。
 ところが、8節、9節には、

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。ここに記されていることから分かることは、人のいない野に行けば、そこには神である主もいないと、カインが考えていたということです。
 確かに、カインは神である主の御前にささげ物を携えてきてそれをささげることをとおして主を礼拝をしています。そのささげ物は感謝や敬意や忠誠心を表わすためのものでした。その意味で、カインは主を神であると考えているのです。けれども、カインの神についての理解、カインの神観は罪がもたらす暗やみによって大きく狂ってしまっておりました。神である主は自分たちより大きな存在ではあるけれども、その存在は自分たち人間の住んでいるところに限られているというように理解していました。そして、主が、

あなたの弟アベルは、どこにいるのか。

と問いかけられたときには、

知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。

と応じています。主は見ておられなかったし、主にも分からないことがあると思っていればこそのことばです。
 神である主についてのこのような理解は、カイン自身のうちにあった罪の暗やみが神さまの聖さについてのわきまえを暗くしてしまったことによっています。そして、このような罪の暗やみの中に完全に閉じこめられてしまって、神さまの聖さに対するわきまえをまったく失ってしまっているものがいます。それが、あの「」の背後にいて働いていたサタンです。ヨハネの福音書8章44節の後半には、

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。サタンは「偽り者であり、また偽りの父である」と言われています。およそ偽りと言われるもので最も大きな偽り、偽りの中の偽りは、神さまの聖さを否定することです。神さまが無限、永遠、不変の豊かさに満ちたお方であり、その栄光において、すべての造られたものと絶対的に区別される方であるということを否定することです。この偽りがサタンのあらゆる偽りの根本にあります。
 神である主の聖さに対するわきまえを失ってしまっているという点で、カインはサタンと本質的に同じところに立ってしまっています。

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」にそって言いますと、サタンの霊的な子孫の側に立ってしまっているのです。
 ここで注意しなければならないのは、カインが特別な存在であるわけではないということです。というのは、ローマ人への手紙5章12節に、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と記されていますように、カインもアベルも含めて、すべての人が最初の人であるアダムにあって罪を犯して堕落した者として生まれ、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯しています。その根底には、神さまの聖さに対するわきまえを欠いているという、霊的な暗やみの本質的な特徴があります。それで、すべての人は、ローマ人への手紙1章18節〜23節に、

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されているような状態にあるのです。
 最後の23節で、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と言われていることの根底にあることは、すでに、カインが主のことを自分たち人間とあまり違わない存在であると考えていたことに見られることです。
 神のかたちに造られている人間のうちには、神さまに向かうという特質が植え付けられています。それは「神の観念」とか「宗教の種」とか「神への指向性」とか言われるものです。魚は卵からかえっても自分の親がどこにいるのかと探し回ることはありません。魚には「親の観念」がないからです。けれども、動物たちには「親の観念」が植え付けられてます。それで動物たちは、生まれた時から、何の学習をしなくても親とのかかわりで生きるようになります。神のかたちに造られている人間には「親の観念」が植え付けられているのはもちろんですが、それだけではなく、「神の観念」が植え付けられています。それで、どのような人間のうちにも、神に向かう性質があります。そのために、どのような人間のうちにも、自分が頼みとしてすがっているものがあります。それがその人にとっては「神」としての意味をもつようになっています。そのように、人間は心の奥底に「神の観念」を植え付けられているのですが、罪のために、神さまの聖さに対するわきまえを失ってしまっているので、

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と言われている状態にあるのです。
 神さまの聖さに対するわきまえを失ってしまっている人間は、礼拝をしなくなるのではありません。そうではなく、不変の栄光の神さまのみにささげられるべき礼拝において、神さま以外のものを神として礼拝しています。ですから、そのような礼拝においては、もっともひどい形で神さまの聖さが冒されているのです。カインのうちには、このような、神のかたちに造られている人間にとってもっとも深く恐ろしい問題の根があって、すでに芽を出していました。それはカインだけのことではなく、すべての人がアダムにあって堕落してしまったために、すべての人は、その神のかたちに造られている人間にとってもっとも深く恐ろしい問題の根を自らのうちに宿して生まれてきます。
 創世記4章1節に記されているカインの誕生の記事は、24節に記されているセツの誕生の記事と対応しています。カインがアベルを殺してしまった後のことですが、24節には、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

と記されています。
 ここに記されている「もうひとりの子」の「」ということば(ゼラ)は「女の子孫」の「子孫」を表わすことばです。しかも、この「セツ」という名前(シェート)と「神は私にもうひとりの子を授けられた」の「授けられた」ということば(シャート)の間には、やはり語呂合わせがあって、それが神さまの恵みによっているということがより明確に告白されています。
 カインの誕生の記事とセツの誕生の記事は、どちらも最初の人アダムがその妻であるエバを知ったということから始まり、エバが男の子を産み、その子に名前をつけています。しかも、エバはどちらの場合も「女の子孫」についての主の約束に対する信仰の告白としての名前をつけています。
 アベルという名前(ハーベル)は「息」とか「空しさ」を表わすものですから、エバは自分のすべての子どもに直接的に「女の子孫」についての約束にかかわる名前をつけたわけではないことが分かります。その意味で、カインの誕生とセツの誕生は特別な意味で対応しているわけです。
 また、14節には、アベルを殺した後のカインが、

ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。

と言ったことが記されています。このことからアダムの家に、カインとアベルの後にさらに子どもたちが生まれて、すでに育っていたことが分かります。その一人一人のことは記されていませんが、カインがアベルを殺してしまった後に生まれたセツの誕生のことは、特に、

アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

と記されています。このことも、カインの誕生とセツの誕生が対応しているということを意味しています。
 このカインの誕生の記事とセツの誕生の記事の対応関係はまた、二人の誕生における対比を示しています。
 一つは、言うまでもないことですが、エバが同じように主の約束とのかかわりにおいて期待して産んだ男の子でしたが、カインは「」の背後にあって働いているサタンから出た神さまと自分についての理解によって生きており、セツは「女の子孫」として来てくださる約束の贖い主への信仰に生きる者となったということです。
 さらに、それぞれの誕生に際してのエバの告白の内容にも、対比される点があります。最初の子であるカインを産んだときには、それは「主によって」のことであるということを告白しています。しかし、それと同時に「私は ・・・・ 得た」と言って、それが自分のしたことでもあるという思いが表わされています。これに対しまして、「セツ」という名前においては、神さまが授けてくださったということに思いを集めて、すべてが神さまの真実な恵みとあわれみによっているということを告白しています。
 このように、カインとセツの誕生の記事は対応しつつ対比の関係にありますが、カインの誕生とセツの誕生は同じ平面において比べられるものではありません。そこには、時間的な隔たりとともに、歴史的な意味の違いがあります。エバが、

カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。

と告白していますように、セツは「カインがアベルを殺し」て、主の御前を離れ去った後に生まれた子どもです。エバからしてみれば、自分が「女の子孫」についての主の約束を信じて、その信仰に基づく期待の下に産んだ子が、こともあろうにその弟を殺してしまうようなことになってしまったのです。そのような恐ろしい罪は、自分たちからカインが受け継いだものです。ですから、エバは、親としてこれ以上ない悲しみを味わわなければならない状態の中に、自分たちの罪の恐ろしさを思い知らされていたはずです。
 それだけではありません。17節には、

さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

と記されています。このカインの妻はどこから来たのかということが問題になります。もちろん、それはアダムとエバの子どもです。ですから、エバからしますと、自分の娘たちの中にアベルを殺したばかりか、その罪を悔い改めることもなく主の御前を離れ去っていってしまったカインを選んでついて行ってしまった子がいたのです。
 そのような中に、セツが生まれてきました。このような時に、母親はどのように感じるものなのでしょうか。おそらく、この子は一体どうなってしまうのだろうかという、不安でいっぱいになってしまうことでしょう。あるいは、もう主の約束は信じられないという絶望感に襲われてしまうかも知れません。しかし、実際には、エバの中にはより深い信仰が生み出されていました。その信仰によって、その子をセツと名づけ、

カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。

と告白しました。エバが置かれた状況を考えますと、これは尋常な告白ではありません。
 このことの中に、神である主の恵みが示されています。エバが告白していますように、セツが生まれたのは、まったく神さまの恵みとあわれみによることでした。それだけではありません。エバは、自分の産んだ子が同じ自分の子を殺してしまったという深い悲しみの中で自分たちの犯した罪の恐ろしさを受け止めています。そのような深い悲しみと自らの罪の自覚の中で身を低くする他はなかった時に、神である主はセツを授けてくださいました。エバが、なおも、

カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。

と告白することができたのも、神さまの恵みとあわれみによっています。エバはカインが生まれた後にも、アベルを初めとして子どもたちを産んでいます。それらの子どもたちの誕生にはそれとしての喜びがあったことでしょう。けれども、神である主の約束を信じて大きな期待をもって産んだ子が、こともあろうに弟を殺してしまったばかりか、その罪を悔い改めるこなく主の御前を離れ去っていってしまったうえに、娘の一人までもが、そのカインの生き方を受け入れてついていってしまったという、深い痛みと悲しみの中でセツが生まれてきたことをとおして、まったく新しい意味で主の恵みとあわれみを受け止めるようになったのだと考えられます。罪の暗やみをうちに宿している私たちには、そのような痛みと悲しみの中で初めて気がつく主の恵みとあわれみがあります。神である主は、どう見ても絶望するほかはない状況の中で、エバに、なおも「女の子孫」についての神である主の約束を信じる信仰を与えてくださったのです。
 これを霊的な戦いという観点から見ますと、カインがアベルを殺してしまったということは、サタンの側の勝利と見えます。事実、先週もお話ししましたように、カインの子孫の歴史は、やがてレメクにおいてサタンの高ぶりをむき出しに表現するようになる歴史でした。そして、やがてそれがノアの時代の終末的なさばきを招くに至る暴虐に満ちた世界を生み出していきます。
 カインに殺されたアベルは子どもがなく、アベルの子孫の歴史は造られませんでした。けれども、アベルが属していた「女の子孫」として来られる贖い主に対する信仰において結ばれている家族の歴史はセツの子孫の歴史として造られていきました。26節に、

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

と記されているとおりです。その歴史は、エバが告白しているとおり、ただただ主の恵みとあわれみによって与えられ、支えられた信仰の継承の歴史です。

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という神である主のみことばに示されていますように、霊的な戦いにおいては、アベルも私たちも個人として立っているのではありません。アベルも私たちも「女の子孫」として一体になっています。そして、「女の子孫」は誰も、自分で自分の義を立てているのではなく、主が約束してくださった「女の子孫」として来られる贖い主につなぎ合わされて、その方に対する信仰によって立っているのです。
 先ほどお話ししましたように、カインもアベルも含めて、すべての人が最初の人であるアダムにあって罪を犯して堕落した者として生まれ、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯しています。その根底には、神さまの聖さに対するわきまえを欠いているという、霊的な暗やみの本質的な特徴があります。神である主の恵みとあわれみは、そのような中で、「女の子孫」として来られる贖い主に対する信仰において結ばれている家族の歴史を造り出してくださり、支えてくださっているのです。
 このように、アベルを初めとする主の民は。「女の子孫」として来てくださった贖い主に結び合わされて、その贖いの恵みの中に、またその恵みによって生きています。ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。私たちは父なる神さまご自身を相続し、御子イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きています。それは私たちが御子イエス・キリストの血による新しい契約の共同体のうちにあるということです。私たちは今日執り行われる聖餐式をとおして、この交わりの恵みにあずかります。
 神である主の贖いの御業の歴史の初めに戻りますと、先週お話ししたとおり、カインからレメクに至る歴史の影響によって、全人類の歴史全体が終末的なさばきによって清算されなければならないような事態になりました。その時にも、この神である主の恵みとあわれみによって、ノアとその家族が残されました。
 このように、主の恵みとあわれみは、人間の目からはまったく絶望的と思われるような状況の中でも、約束してくださったことを実現してくださる形で表わされてきました。それは、ここにいる私たちを支えてくださっている恵みとあわれみでもあります。霊的な戦いにおける勝利は、ひたすらこの恵みとあわれみに信頼することのうちにあります。

 


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