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説教日:2004年1月25日 |
創世記4章1節〜7節には、 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 と記されています。 ここには、カインとアベルが主へのささげ物を持ってきたことと、主はアベルとそのささげ物を受け入れてくださったけれども、カインとそのささげ物は受け入れてくださらなかったということが記されています。 すでにお話ししましたように、ここで、カインのささげ物もアベルのささげ物も、基本的に敬意や感謝や忠誠心を表わすためのささげ物を表わすことば(ミンハー)で表わされています。このささげ物は、今日の私たちが神さまがお造りになったこの世界で、神さまが与えてくださったさまざまな能力や賜物を用いて、それぞれの働きをし、それぞれがその働きの実を携えて神さまの御前にいたって神さまを礼拝し、いっさいが神さまの御手の賜物と支えと導きによっていることを感謝とともに告白することに当たります。 私たちが家庭、会社、学校など、どこでどのような働きをするにしても、それは神さまが与えてくださっている能力と賜物と機会を用いてのことです。それで、そのことへの感謝をともなう告白が、私たちのささげている礼拝において表わされます。その意味で、私たちがこの世でなすすべてのことは、神さまへの礼拝につながっています。もちろん、自らのうちに罪を宿す私たちが神さまの御前に近づくことができるためには、神さまが備えてくださった贖い主による罪の贖いにあずかって、罪をきよめていただいていなければなりません。私たちはその贖いの恵みの上に立って、神さまのご臨在の御前に出でて、感謝とともなる告白をもって自分自身と働きの実としてのささげ物を神さまにおささげします。 ここでカインとアベルがささげたささげ物のこのような意味からしますと、カインが「地の作物」からのささげ物をささげたこと自体には問題はありませんでした。問題は、それが血を流す動物のいけにえでなかったからいけないというような、ささげ物の種類にあったのではなく、ささげ物をささげたカイン自身のうちにありました。 カインとアベルが主の御前にささげ物を持ってきてささげたということは、カインとアベルの中に、そのようにすべきであるという理解があったということを意味しています。それは、父であるアダムから教えられたことで、アダムの子どもとして育っていく過程の中で、いわば実地に教えられたと考えられます。そのように育ってきたカインとアベルがそれぞれ独立して、自分の考えにしたがって主にささげ物をささげる段になったとき、カインの中に問題が生じてきたのであると考えられます。 それが具体的にどのような問題であったかは、はっきりと記されてはいません。けれども、すでにお話ししたことですが、カインのうちにあった問題の根底にあるものは分かります。8節、9節には、 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」 と記されています。ここに記されていることから、カインは、人のいない野原に行けば、そこには主もおられないと考えていたことが分かります。カインは、主は自分たち人間とあまり違わない存在であると感じていたわけです。これは、今お話ししていることとのかかわりでいいますと、カインには神である主の聖さに対するわきまえがなかったということを意味しています。 私たちがささげている礼拝がどのようなものであるかということは、私たちが神さまをどのような方であると信じているかによって決まります。そして、神さまを礼拝することにとって最も大切なことは、神さまの聖さに対するわきまえです。神さまの聖さは、神さまが無限、永遠、不変の豊かさに満ちた方であり、その豊かさのうちにこの世界とその中のすべてのものをお造りになって、真実にそれを支えておられる方であるということ、そして、それゆえに、神さまがご自身がお造りになったすべてのものと絶対的に区別される方であるということを意味しています。このような神さまの聖さをわきまえないで礼拝することは、神さまの聖さを冒すことになります。 それは、これまでお話ししてきた霊的な戦いにおいて、「蛇」の背後にあって働いていた暗やみの主権者の考えに従うことに他なりません。暗やみの主権者であるサタンの考え方を明確に反映しているものとしてバビロンの王のことを記している、イザヤ書14章12節〜15節には、 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 しかし、あなたはよみに落とされ、 穴の底に落とされる。 と記されています。 このバビロンの王のように、自ら神のようになろうとして、神さまの御前に高ぶることも、カインのように、神である主が自分たち人間とあまり変わらない存在であると考えて、神である主を侮ることも、神である主の聖さを冒す点においては同じです。創世記4章に記されているカインとその子孫の歴史を見てみますと、最初に、カインは主が自分たち人間とあまり違わない存在と考えていました。しかし、その考えが子孫に受け継がれていくにしたがって、自らを神の位置に据えようとする傾向が深くなっていったことが見て取れます。そのことは、カインの子孫の系図の流れの過程に記されているのではありませんが、23節、24節に、 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」 と記されていますように、アダムからカインを経て七代目のレメクに至って、高ぶりが徹底したものになっていることから分かります。 このレメクのことばは自らが積み上げた暴力に訴えて、徹底的な復讐を加えていく姿勢を示しています。22節には、 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。 と記されていて、レメクの二人の妻のうちツィラが産んだトバル・カインが武器を生産してレメクの帝国を強固にしたことがうかがえます。そして、 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。 というレメクのことばは、14節、15節に、 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。 と記されていることを受けています。カインは、アベルの兄弟が自分に復讐することがないようにしてくださるという、主からの保証を受け取ってから、主の御前を去っていきました。その意味では、まだ主を頼みとしていました。けれども、レメクは主がカインに与えてくださった保証をあざ笑っています。 創世記の構造では、このアダムからカインを経てレメクに至る歴史が先に述べられていて分かりにくいのですが、このアダムからカインを経てレメクに至る歴史が、5章に記されているアダムからセツを経てノアに至る歴史と並行関係にあります。創世記の記事は「女の子孫」として来られる贖い主を信じる者の信仰の継承に焦点を合わせて記されていますので、その背景となっているアダムからカインを経てレメクに至る歴史が先に延べられているのです。ですですから、レメクの存在は、6章11節、12節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されている、ノアの時代の大洪水によるさばきが執行される前の暴虐に満ちた世界を生み出す元凶となっています。それは、これまでの人類の歴史の中でただ一度だけ、人類の歴史全体を清算する終末的なさばきを招くに至ったほどに、徹底的に人間の罪がむき出しになった時でした。 けれども、イザヤが述べているバビロンの王の高ぶりは、バビロンにさばきをもたらすものではありましたが、それによって人類全体の歴史が清算されるというほどのものではありませんでした。その意味では、レメクの高ぶりは、バビロンの王の高ぶりをはるかにしのぐものであったと考えられます。そして、それは、霊的な戦いにおいては、「蛇」とその霊的な子孫が勝利したとも見える時でもありました。このすべての始まりは、カインが主の聖さに対するわきまえを失ってしまったことから始まっています。 もちろん、これはさらにカインの両親であるアダムとエバが神である主に罪を犯して御前に堕落したことにまでさかのぼることができます。3章1節〜6節には、 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 と記されています。 このときエバにどのような問題があったかということについては、十数年前に祈祷会でかなり詳しくお話ししましたが、今はそれをお話しする余裕はありません。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、エバのうちにはいろいろな問題があるのですが、その根本には神である主の聖さに対するわきまえが欠けているという現実があります。「蛇」は、 あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。 と言ってエバを誘惑しました。「蛇」は、神さまと人間の違いは「善悪の知識の木」を食べることによって克服されてしまう、というような途方もないことを言っているのですが、エバはそれをおかしいと感じませんでした。神である主の聖さに対するわきまえがあれば、それはとんでもないことだということがすぐに分かったはずです。けれども、 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。 と記されています。そのように言われて、エバが改めてその木を見ると、その木の実は自分たちを神のようにする木のように見えたというのです。これは、エバのうちから主の聖さに対するわきまえが失われてしまっていたことの現われに他なりません。 これはまだ人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落する前のことです。自らのうちに罪を宿していなかった人の中で、神である主の聖さに対するわきまえが失われてしまっていたという現実が、この「蛇」をとおしての誘惑によって明らかになってしまったのです。どうして、エバが神である主の聖さに対するわきまえを失ってしまったのかということが問題となります。これは、神である主が限りなく身を低くして、親しく人とその妻に語りかけてくださり、二人がご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるようにしてくださっていたことを、二人が誤解したためであると考えられます。神である主の無限のへりくだりを誤解して、神である主は自分たちとあまり違わない方だと考えるようになってしまったということです。 私たちが犯すどのような罪も、神である主に対して犯すものです。私たちの犯す罪には水平の関係という面と垂直の関係という面があります。垂直の関係というのは、罪はすべて神である主に対して犯すものであるということです。水平の関係というのは、私たちは罪を犯したときに、人を傷つけたり、人に危害を加えたり、損害を与えたりすることがあるということです。たとえそれが秘かな憎しみや怒りのように、私たちの心の中だけで起こったことで、人には具体的な傷や危害や損害を与えなかったとしても、それは神である主に対する罪であるということは変わりがありません。もちろん、罪にも、重い罪と軽い罪の区別はあります。いずれにしましても、私たちが犯す罪はすべて神である主に対して犯すものですが、その罪の根本的な源、すべての罪の根は、私たちが神である主の聖さに対するわきまえを失ってしまうことにあります。 先ほど引用しましたイザヤ書14章12節〜15節に記されているみことばから、サタンの堕落の始まりは高ぶりにあると言われています。それはそのとおりですが、そのサタンの高ぶりにはさらに根があります。それは、サタンが神である主の聖さをわきまえなくなったことです。 これはカインの問題にも当てはまります。それがいつからのことかは分かりませんが、カインが父アダムから独立して、自分で主の御前にささげ物をささげるようになったときには、主を自分たち人間とあまり違わない存在であると考えていました。そして、そのように主の聖さに対するわきまえを欠いたままに、主を礼拝し、礼拝の中でささげものをささげています。主の聖さをわきまえないということは、礼拝にとって本質的なことがないままに礼拝をするということを意味しています。そのようなことが根底にあるので、それが具体的に礼拝の仕方にも現われてきたと考えられます。それで、アベルのささげ物の場合には、 彼の羊の初子の中から、それも最良のものを ・・・・ 持って来た。 と言われているのに、カインのささげ物の場合には、ただ、 地の作物から主へのささげ物を持って来た。 と言われているように、ささげ物そのものの選び方にも違いが出てきていたのだと考えられます。 ですから、カインは、主を礼拝して、主にささげ物をささげているのですが、その根本にある考え方は、主も自分たちとあまり違わない存在であるという、「蛇」の背後にあって働いていたサタンから出たものでした。そのような考えに基づく礼拝は、神さまをあがめる形を取っていながら、神さまの聖さを冒すものです。これが、主がカインとカインのささげ物を受け入れてくださらなかったことのいちばん奥にある理由であったと考えられます。 創世記4章5節の後半には、 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 と記されています。ここでは、「カインはひどく怒り」というのは「それはカインに対してひどく燃えた。」というような言い方で、「怒り」ということばはありませんが、カインのうちに激しい怒りが燃え上がったことを示しています。他だし、このような言い方が特に珍しい言い方であるわけではありません。このカインのうちに燃え上がった怒りは外側にも現れてきて、「カインは ・・・・ 顔を伏せた」と言われています。これは「そして、彼の顔が落ちた」というような言い方で表わされています。 「カインはひどく怒り」ということも「顔を伏せた」ということも、それらがカインに対して起こったというような形で表わされています。それはおそらく、この時カインに起こったことはカイン自身の意識を越えた、普段は深いところに潜んでいたものが一気に噴き出してきたという感じを伝えるものであると思われます。それまで、このような形で怒りが噴き出すというようなことはなかったために、カイン自身も気がついていなかったものが、主の御前においてあらわになったということでしょう。「顔を伏せた」ということは、主から顔を背けたということを示しています。これはうちに燃え上がった怒りを外に表わしたものと思われますが、同時に、その激しい怒りに自分自身が戸惑って、それを悟られたくなくて顔を伏せたという可能性もあります。いずれにしましても、これは向き合っている相手との関係が正常ではない状態にあることのしるしです。 カインの中から、カイン自身も気がついていなかったであろう反応が噴き出てきたことは、カインが自分の問題に気がつくために必要なことでした。それで、主はそのような状態にあるカインに語りかけてくださいました。6節、7節には、 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 と記されています。 ここでは「そこで、主は」というように、カインに語りかけておられる方が契約の神である主ヤハウェであると紹介されています。これは、主がご自身の身を低くしてカインに向き合ってくださり、親しく語りかけてくださっていることを示すものです。しかも、ここに記されている主のことばは、カインをさばくことばではありません。そうではなく、カインを再びご自身の御前に立たせてくださるために、カインを諭し導いてくださっていることばです。けれども、それは、決して、今日の助言者に見られがちな、甘やかしのことばをかけることではありません。カインの問題をはっきりと指摘して、カインがそれと取り組まなくてはならないことを示している厳しいことばです。とはいえ、これは必ずしも、主がいきなり厳しいことばを語られたということではありません。みことばは要点をずばりと記していますが、カインを諭すために必要な過程を経てから、ちょうどよいときに厳しいことばを語られたということは十分考えられます。いずれにしましても、主はカインにとって必要なことは、それが厳しいことばであっても、きちんとお伝えになったのです。 この厳しいことばは、ここで急に語られたのではなく、主がカインとそのささげ物を受け入れてくださらなかったことから始まっています。そうしますと、主がカインとそのささげ物を受け入れてくださらなかったことは、それが受け入れられないものであったからなのですが、その時すでに、主はカインを、ご自身との本来のあり方に導いてくださろうとしておられたと考えられます。 私たちも罪を犯した者に対する主の恵みとともに、その恵みのうちにある厳しさを見据えておかなければなりません。その厳しさは、私たちをご自身の御前に立たせてくださる恵みの現われです。ヘブル人への手紙12章5節、6節には、 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。 主の懲らしめを軽んじてはならない。 主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、 受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである。」 と記されており、10節には、 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 と記されています。 創世記4章6節、7節に記されている主がカインに語られたことばについては、改めてお話ししたいと思いますが、カインは、このような主のことばに込められたみこころを踏みにじってしまいます。カインをご自身との関係において本来の状態に導こうとされた主のみこころを受け入れませんでした。そのことによって、かえって、カインは自分のうちにある憤りにしたがって突き進むようになります。それがアベルを殺すことに発展し、さらには最終的に主の御前から去っていくことになります。 このすべての過程の中で、カインは自分の罪を一度も、またほんの少しでも認めたことはありませんでした。このことの根底にあったものが何であったかは、すでにお話ししたとおりです。カインのうちで、神である主の聖さへのわきまえが失われてしまっていたということです。 私たちは今、神である主の御前に出でて礼拝をささげています。これは父なる神さまの愛によって備えられ、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの恵みにあずかってのことです。私たちは、この父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みのゆえに、神さまの聖さに対するわきまえを失ってしまうでしょうか。私たちはむしろ、これまで繰り返しお話ししてきましたように、この神さまの愛が無限、永遠、不変の愛であり、御子イエス・キリストの恵みが無限、永遠、不変の恵みであることのうちに、神さまの聖さの中心があるということを、しっかりとわきまえたいと思います。そして、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みだけを拠り所として歩み続けることをとおして、神さまの聖さをあかししたいと思います。 |
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