(第154回)


説教日:2004年1月18日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節~21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまが大きなあわれみのゆえに、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつ者としてくださったということが記されています。この場合の「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産のことで、その中心は父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。
 神の子どもが受け継ぐ相続財産に関する約束は、古い契約の下では、アブラハムに与えられた契約のうちに示されています。それで、これまで、まず、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命についてアブラハムの生涯の出来事をたどりながらお話ししました。そして、そのアブラハムに与えられた祝福の約束と召命を、それに先立ってなされた神である主の贖いの御業の歴史の流れの中で考えてみました。
 神である主の贖いの御業の歴史は、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後から始まっています。創世記3章には、最初の人アダムにある人類の堕落の経緯が記されています。そして、14節、15節には、人を罪へと誘った「」へのさばきの宣言が記されています。それは、

  おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

というものです。この「」へのこのさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。
 「最初の福音」が神である主に敵対して人を罪へと誘った「」に対するさばきの宣言であったということに、この「最初の福音」から始まる神である主の贖いの御業は霊的な戦いとして展開されることが示されています。それは「おまえ」と呼ばれている「」とその霊的な子孫と、「」とその霊的な子孫との間の霊的な戦いです。
 すでにお話ししたとおり、最初の人であるアダムとエバはこの「最初の福音」を信じたと考えられます。しかし、その二人の息子であるカインとアベルは、霊的な戦いにおいて、お互いに別の世界に属していたことが現われてきました。そして、そのことは、神である主の御前にささげものをささげるという礼拝において、はっきりと現われてきました。
 カインが弟アベルを殺したことは、単なる兄弟間の骨肉の争いというものではありません。これは「最初の福音」に示されている霊的な戦いという観点から理解しなければならない出来事です。繰り返しお話ししていますように、霊的な戦いは血肉の戦いではありません。「」とその霊的な子孫は、主の民が霊的な戦いを血肉の戦いのように考えて、血肉に頼るようにと誘います。もし私たちがそれに欺かれたり、自らの思い違いによって、血肉と頼みとして血肉の戦いをしてしまいますと、霊的な戦いにおいては敗北を喫してしまいます。この霊的な戦いと血肉の戦いの区別ができるかどうかは、私たちの生き方の方向を決定づけるような重さをもっています。それで、今日はこのことに関して、これまでお話ししたことを振り返りながら、改めて確認しておきたいと思います。


 霊的な戦いといいますと、エクソシズムに見られるような悪霊との直接的な対決を思い起こします。確かに、エペソ人への手紙6章12節、13節に、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

と記されていますように、霊的な戦いは血肉との戦いではありません。けれども、それは、悪霊が追い出されるかどうかをめぐる戦いであるわけではありません。早い話が、カインとアベルの出来事においては、悪霊は表立って登場してきません。
 また、すでに何回かお話ししたことがありますが、マタイの福音書7章22節、23節には、

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここには、「その日」と言われている終わりの日のさばきの時のことが記されています。ですから、この時には、「最初の福音」において、

  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と予告されていたことが、最終的な形で実現しているわけです。この終わりの日に、イエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と呼びかける人々の中に、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。

と言われるようになる人々がいるということが記されています。イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言われるのは、イエス・キリストがその人々の存在を知らないとか、その人々がどのようなことをなした人々であるかを知らないということではありません。
 本来、イエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と呼びかける人々は、イエス・キリストのしもべです。そこに、主としもべの関係がなければなりません。それは、父親と子どもの関係があって初めて、子どもは父親に向かって「お父さん」と呼びかけることができるのと同じことです。ですから、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言われる人々は、イエス・キリストと主としもべの関係にない人々です。イエス・キリストはその人々をご自身のしもべとしては知らないと言っておられるのです。
 ここでは、その人々の中に、

私たちは ・・・・あなたの名によって悪霊を追い出し ・・・・ たではありませんか。

と訴える人々がいると言われています。この場合の「悪霊」は複数形ですので、この人々は「悪霊たち」を追い出したのです。これは霊的な戦いにおける勝利のように思えます。そうしますと、この人々は霊的な戦いに勝利したのに、主イエス・キリストの民ではなかったということでしょうか。
 もちろん、そのようなことではありません。霊的な戦いにおける勝利の最終的な現われは、悪霊が追い出されたかどうかにあるわけではありません。霊的な戦いは突き詰めていきますと、「最初の福音」に示されている神である主のみこころをめぐる戦いです。神である主に対して罪を犯し御前に堕落して死と滅びへの道を歩んでいた者たちが、「最初の福音」に約束されている「女の子孫」として来られる贖い主を信じる信仰によって、死と滅びの中から救い出されて、神である主とのいのちの交わりのうちに生きるようになることをめぐる戦いです。私たちが霊的な戦いにおいて勝利することの核心は、私たちが「女の子孫」として来てくださった贖い主を信じる信仰によって、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに回復されていることにあります。言い換えますと、私たちが主の贖いの御業にあずかって、主との契約関係に入れられることによって、私たちと御子イエス・キリストの間に主としもべの関係が成り立っていなければならないということです。
 このように、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」に示されている霊的な戦いの勝利は、「女の子孫」として来てくださった贖い主が成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、その方との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていることに現われてきます。
 ペテロの手紙第一・1章3節、4節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されていることは、私たちが贖い主であるイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者となっていることを示しています。繰り返しになりますが、ここに記されている、神の子どもが受け継いでいる相続財産の中心は、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのことです。この意味では、これは、霊的な戦いという観点から言いますと、「女の子孫」が勝利していることの現われです。また、それは、私たちが「女の子孫」として来てくださった贖い主との結びつきによって、霊的な戦いに勝利しているということを意味しています。
 これに対しまして、イエス・キリストが、

わたしはあなたがたを全然知らない。

と言われる人々は、御子イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことがない人々です。それで、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの中に生きていない人々です。そのような人々でも、イエス・キリストに向かって、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と言っていますように、イエス・キリストを「主」と呼び、イエス・キリストの御名によって働き、自分の目にも人の目にも「大きな業」としか思えない業をなすことができるのです。しかも、イエス・キリストが、

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。

と言われるように、それは決して例外的なことではないのです。それは、このような主の御名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇跡をたくさん行なう人々が多いというだけでなく、この人々に代表されるような考え方をする人々が多いことを意味しています。
 すでにお話ししましたように、この人々は、イエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と呼びかけていますから、また、イエス・キリストの御名によって働いていますから、自分ではイエス・キリストのしもべであると思っています。けれども、イエス・キリストはこの人々をご自身のしもべとして迎え入れてはおられませんでした。この人々の問題は、この人々が自分のなした働きを根拠として、自分が主イエス・キリストの民であると考えていることにあります。人がイエス・キリストのものになることは、「女の子孫」として来てくださった御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いに、信仰によってあずかることによるほかはありません。言い換えますと、父なる神さまが備えてくださった贖い主とその方が成し遂げてくださった贖いの御業を信じる信仰だけが、私たちを父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくれます。この福音のうちに示されている救いの恵みを信じて、この恵みのうちに留まることだけが、私たちが天の御国において父なる神さまと御子イエス・キリストとのいのちの交わりに生きる道ですし、霊的な戦いにおける勝利を現実のものにする道です。
 このこととの関連で考えておきたいことがあります。先ほどはマタイの福音書7章22節、23節に記されているイエス・キリストのみことばを引用しましたが、それに先立つ21節には、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

というイエス・キリストのみことばが記されています。
 天の御国に入るためには、父なる神さまのみこころを行なわなければならないのではないでしょうか。それは、ここでイエス・キリストが言われるように、そのとおりです。そうしますと、人は行ないによって救われるということになるのではないでしょうか。
 これにつきましては、父なる神さまのみこころが単数で表わされていて、一つのまとまりをもっているということ、そして、そのみこころには全体を一つにまとめる中心があるということをわきまえる必要があります。そして、その中心は「最初の福音」に示されています。言い換えますと、「女の子孫」として来てくださった御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いに、信仰によってあずかることが父なる神さまのみこころを全体的にまとめている中心なのです。
 ヨハネの福音書6章38節~40節には、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

と記されています。また、これに先立つ27節~29節には、

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

と記されています。ここで、人々が、

私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。

と言うときの「神のわざ」は複数形ですが、イエス・キリストが、

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。

と言われたときの「神のわざ」は単数形です。「神のわざ」も一つのまとまりをもっていて、すべては「神が遣わした者を信じること」に集約するのです。
 父なる神さまのみこころを行なうことの中心、また土台は、「女の子孫」として来てくださった御子イエス・キリストを信じて、永遠のいのちをもつようになること、すなわち父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることです。このことを欠いていては、イエス・キリストが、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と言われるときの「天におられるわたしの父のみこころを行なう」ことは現実にはなりません。
 このことを踏まえたうえで、さらに考えておきたいことがあります。
 エペソ人への手紙2章4節~9節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されています。
 ここでは、私たちが救われたということは、父なる神さまが「罪過の中に死んでいた ・・・・ 私たちをキリストとともに生かし」てくださったことであり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて」くださったということだと言われています。私たちはともすると神さまの救いを漠然としたもの、遠い先のことと考えてしまいます。しかし、ここでは、神さまの救いは、このように具体的かつ積極的で、豊かな内容と実質を伴ったことであること、しかも、この救いはすでに私たちに与えられていて、私たちの現実となっていることが示されています。5節で、

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

と言われているときの「救われた」ということは完了時制で表わされていて、過去になされたことの結果が現在まで続いているということを示しています。
 そして、父なる神さまがそのようにしてくださったのは、「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ」であると言われています。これは、神さまが私たちを救ってくださったことの動機や理由を表わしています。ここでは、ただ単に「愛のゆえに」というだけでなく、「大きな愛のゆえに」と言われていて、愛が強調されているうえに、さらに「私たちを愛してくださった」ということばを重ねて、父なる神さまの愛を強調しています。
 さらに、父なる神さまが私たちを救ってくださったのはご自身の恵みによっていること、そして、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によっていることが示されています。また、この救いは神さまからの賜物であって、私たちの行ないに対する報いとして与えられるものではないということも示されています。
 父なる神さまのみこころを行なうことは、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みによって供えられている賜物としての救いを、信じて受け取ることに集約されます。それは決して、父なる神さまのみこころを行なうことに対する報いではありません。それは恵みによって与えられる賜物を受け取ることです。私たちは機械的なものではなく、自由な意志を与えられている人格的なものです。それで、神さまからの賜物を退けることもできます。そして、それを受け取ることを拒否すれば、救いは私たちのものにはなりません。
 このことが示された後で、続く10節に、

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と記されています。
 ここでは、救われた者がなす行ないのことが記されています。順序としては、まず、父なる神さまが「罪過の中に死んでいた ・・・・ 私たちをキリストとともに生かし」てくださり、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて」くださったということがあります。その後に、そのようにして救われた私たちの行ないのことが述べられているのです。ですから、決して行ないによって救われるのではありません。ここでは、行ないによらず、恵みによって救われた私たちの、救われた後の行ないのことが述べられているのです。
 よく、神さまの恵みによって救われた者は、救いに対する感謝によって良い行ないをすると言われています。これは間違いではないのですが、十分な説明ではありません。私たちが救われたのはただ恵みによっているが、救われた後には感謝のしるしとして、行ないをもって「お返し」をするというようなことになりかねません。私たちはそのような「お返し」をすることはできません。私たちが良い行ないをするようになるのも神さまの恵みによることです。私たちは初めから終わりまで救いの恵みの中で生きるのです。
 10節では、まず、いちばん奥にあることが明らかにされています。それは、恵みによって救われた者はイエス・キリストにあって新しく造られた者であるということです。言うまでもなく、イエス・キリストにあって新しく造られることは、父なる神さまの一方的な愛と恵みによる御業であって、私たち人間の力によることではありません。私たちはただその御業にあずかって新しく造られ、新しく生まれただけです。そして、新しく造られ、新しく生まれた私たちは生きています。生きている人格的なものです。それで、私たちは、

良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

と言われています。
 この「良い行ない」は、私たち人間の目から見た良い行ないのことではありません。神さまの御前に「良い行ない」と認められる「良い行ない」のことです。それは神さまへの愛から出たもので、神さまのみこころにかなった行ないです。けれども、罪によって神さまの御前に堕落してしまっている人間は、神さまを神として敬うことも愛することもありません。そのような人間が行ないによって救いを獲得することはできません。むしろ、そのような状態の人間自身が、神さまの御怒りの下にあります。
 そのように、神さまの御前に堕落してしまっている人間は、自分の行ないによっては救いを獲得することはできません。けれども、マタイの福音書7章22節、23節に記されているイエス・キリストの教えにあるように、このことを忘れて、自分の行ないによって救いを獲得することができると考えて、実際に、神さまの御前に自分の行ないを積み上げて救いを獲得しようとする人々が多いのです。それは、父なる神さまが備えてくださり、「女の子孫」として来てくださった御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に、恵みのゆえに信仰によってあずかることとは違う道によって、救いにあずかろうとすることです。それは、霊的な戦いにおいては敗北に至ることを意味しています。
 エペソ人への手紙2章10節では、恵みのゆえに信仰によって救われた私たちは、イエス・キリストにあって新しく造られた神さまの作品であると言われた後に、

神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と言われています。これは、神さまの愛と恵みによってイエス・キリストにあって救われた私たちの「良い行ない」が神さまから出ているということを示しています。
 これがどのようなことを意味しているかということについてはいろいろな意見があります。今それをご紹介する余裕はありませんので、結論的なことをお話しします。
 ここでは神さまの新しい創造の御業のことが記されています。神さまの創造の御業についてのみことばの教えは一貫しています。神さまは最初の天地創造の御業において、この世界を素晴らしい作品としてお造りになりました。ある人々は、ちょうど時計職人が時計を作ってねじを巻くと(今日のことばでは電池を入れると)、時計は自動的に動き出すので、時計職人は何もしなくてもいいのと同じように、神さまがこの世界をお造りになった後は、この世界は自動的に動いていると考えています。けれども、コロサイ人への手紙1章15節~17節には、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と記されています。また、ヘブル人への手紙1章3節には、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。万物は御子によって造られただけでなく、御子にあって造られ、御子によって支えられ、導かれています。この世界には法則があります。それは、御子の真実な支えを私たちが観察して法則として捉えたものです。ですから、法則がこの世界を動かしているのではなく、御子が真実な御手をもってこの世界を支え導いてくださっているのです。
 このことは、御子イエス・キリストにあって新しく造られた私たちにも当てはまります。神さまは私たちをご自身の作品としてお造りになって、後は私たちが自動的に生きるようにされたのではありません。私たちを御子イエス・キリストにある者としてお造りになり、御子イエス・キリストによって支えられ、御子イエス・キリストに導かれて生きるものとして新しくお造りになったのです。御子が御霊によって支えてくださり、導いてくださるので、私たちは神の子どもとして生きることができます。
 ですから、私たちが神さまの作品として御子イエス・キリストにあって新しく造られたことを時計にたとえるのは適切ではありません。むしろ、それは、ヨハネの福音書15章5節に記されている、

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、枝がまことのぶどうの木に接ぎ木されたことにたとえられます。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たちは、ちょうど枝がぶどうの木につながって生きるように、イエス・キリストにつながってその復活のいのちによって生かされています。そのイエス・キリストの復活のいのちは私たちのうちに「良い行ない」を生み出してくださるいのちです。
 ですから、私たちは恵みによって救われたことへの感謝として「良い行ない」をするのですが、それはイエス・キリストの復活のいのちが生み出してくださるものです。言い換えますと、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださっている御霊が私たちのうちに「良い行ない」を生み出してくださるのです。イエス・キリストの、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

という教えの中の「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」については、このようなことを背景にして理解すべきです。
 このように、私たちは、父なる神さまの「大きな愛のゆえに」、恵みによって救われ、イエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストにあって新しく造られた神さまの作品です。その私たちは、

良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

このことの出発点は、エペソ人への手紙1章3節~5節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されている父なる神さまの「永遠のみこころ」としての永遠の聖定にあります。そして、これは続く6節に、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていますように、神さまの「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」のことです。
 先ほど引用しました、2章4節~7節を見てみますと、そこには、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

と記されていました。
 この7節では、

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

と言われていて、私たちが父なる神さまの「大きな愛のゆえに」、御子イエス・キリストにある恵みによって救われたことの目的が示されています。この、

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

ということは、1章6節に記されている、

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

ということと呼応しています。
 このように、私たちが父なる神さまの愛のゆえに、イエス・キリストにある恵みによって救われていることの最終的な目的は、父なる神さまの「恵みの栄光が、ほめたたえられる」ことにあります。それは、具体的には、私たちが神さまを礼拝することの中で現実になることです。これを今お話ししていることとのかかわりで言いますと、霊的な戦いの勝利の最終的な現われは、私たちが礼拝において父なる神さまの「恵みの栄光」をほめたたえるようになることにあります。

 


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