(第153回)


説教日:2004年1月4日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまがご自身の大きなあわれみのゆえに、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつ者としてくださったということが記されています。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産のことです。聖書の教えるところでは、神の子どもたちが受け継ぐ相続財産はまことに豊かなものですが、その中心は神さまご自身です。より具体的には、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることです。
 古い契約の下においては、主の民に与えられている相続財産についての約束は、アブラハムに与えられた契約において示されています。それで、これまで、アブラハムの生涯をたどって、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命についてお話ししました。続いて、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命の歴史的な背景として、アブラハムに至るまでの主の贖いの御業の歴史をさかのぼってお話ししました。そして、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に神である主が与えてくださった、一般に「最初の福音」と呼ばれる主のみことばにまでさかのぼっていきました。
 「最初の福音」は創世記3章14節、15節に、

  神である主は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。」

と記されています。これは、

  神である主は蛇に仰せられた。

と言われているように、神である主が、最初の女性であるエバを誘惑してご自身に背かせた「」へのさばきを宣言されたことを記しています。
 繰り返しになりますが、「」は神である主によって造られた生き物の一つであって、人格的な存在ではありません。その「」が神さまの戒めをめぐって人を誘惑したのは、その「」の背後にサタンとか悪魔とか呼ばれる人格的な存在があって働いていたからです。神である主は、サタンが用いた「」をお用いになって、逆にサタンに対するさばきを宣言されました。そこには、サタンが人を誘惑するために用いた「」が、サタンへのさばきを表わすのにぴったりのものであったという、強烈な皮肉があります。
 この時、人間は神である主に対して罪を犯して御前に堕落し、神である主に逆らう者となってしまいました。この点で人間はサタンと一つになってしまっています。しかし、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。

というみことばに示されていますように、神である主は、罪によってサタンと一つになって神である主に逆らう者となってしまった「」と「女の子孫」と、「おまえ」と呼ばれているサタンとその霊的な子孫との間に「敵意」を置いてくださいます。それによって、「」と「女の子孫」が神である主が置かれる「敵意」をもって、サタンとその霊的な子孫に立ち向かうようになります。これは霊的な戦いですが、

  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていますように、「女の子孫」がサタンに致命的な打撃を加えて勝利することをもって終わります。
 「」と「女の子孫」が、神である主に敵対して働いているサタンとその霊的な子孫に敵対して立つようになるということは、「」と「女の子孫」が神である主の側に立つようになるということを意味しています。それは「」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、このサタンへのさばきのことばが「」と「女の子孫」の救いを約束する「最初の福音」となっているのです。


 神である主は、「」と「女の子孫」がサタンとその霊的な子孫との間に霊的な戦いを展開して、「女の子孫」がサタンの頭を踏み砕くという形でサタンに対するさばきを執行されるということを宣言されました。この霊的な戦いは、最初の人であるアダムの家庭において現実になり、最初に生まれたカインは弟のアベルを殺してしまいました。
 カインがアベルを殺すようになった経緯を記している創世記4章1節〜7節には、

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

と記されています。
 ここには、カインとアベルが神である主にささげ物をささげたことが記されています。このようにささげ物をささげることは神である主を礼拝することの中でなされることです。「最初の福音」において示された霊的な戦いは、まさに、神である主を礼拝することにおいて最もはっきりと現われてきます。今日は、このこととの関連で、すでにいろいろな形でお話ししたことを補足しながらですが、いくつかのことをお話ししたいと思います。
 その一つは、神である主を礼拝することは神である主の聖さをわきまえることに基づいているということです。
 天の礼拝を記している黙示録4章8節には、主の御座の前に仕えている4つの生き物が、

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。

という賛美をもって神である主の聖さを告白し、永遠の主であられる神さまを讚えていることが記されています。そして、これに応答するように、11節には、御座の御前で仕えている二十四人の長老が、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という賛美をもって、造り主である神さまを讚えていることが記されています。
 神である主はご自身のみこころによって、天と地とその中のすべてのものをお造りになり、それぞれをその特質にしたがって生かし、支えておられます。神である主が天地創造の御業によってこの世界のすべてのものをお造りになったということは、この世界のすべてのものは神である主から出たものであるということです。そうであるからといって、神である主ご自身から何かが失われたということはありません。また、神さまはお造りになったすべてのものを所有しておられます。そうであるからといって、神である主ご自身の豊かさに何かが加わったということはありません。
 神である主は無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられます。言い換えますと、永遠に変わることなく無限の豊かさに満ちておられるということです。そして、ご自身の豊かさによって、お造りになったすべてのものを満たしてくださっています。このように、ご自身で無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神である主と、神である主によって支えていただいているものの間には絶対的な区別があります。この神である主と神である主によって作られたものの間にある絶対的な区別が、神さまの聖さの本質です。私たちは神である主の聖さをわきまえて、神である主を礼拝いたします。また、神さまの聖さをわきまえないままで、神さまを礼拝することはできません。
 カインには、この点において決定的な欠けがありました。カインがアベルを殺したことを記している創世記4章8節、9節には、

しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

と記されています。
 カインは人目につかない「」に行けば、そこには神である主の目もないと考えています。カインには神である主は人間とあまり違わない存在としか映っていませんでした。それは神である主が無限に身を低くされて、カインに親しく語りかけてくださっておられることを、カインが誤解したためであると考えられます。その誤解は、カイン自身のうちにあった罪の暗やみによってもたらされたものです。
 これと同じことは詩篇50篇21節にも記されています。17節から見てみますと、そこには、

  おまえは戒めを憎み、
  わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。
  おまえは盗人に会うと、これとくみし、
  姦通する者と親しくする。
  おまえの口は悪を放ち、
  おまえの舌は欺きを仕組んでいる。
  おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、
  おのれの母の子をそしる。
  こういうことをおまえはしてきたが、
  わたしは黙っていた。
  わたしがおまえと等しい者だと
  おまえは、思っていたのだ。
  わたしはおまえを責める。
  おまえの目の前でこれを並べ立てる。

と記されています。
 ここでは罪の暗やみのために自ら欺かれてしまっている人間の姿が記されています。私たち人間はすべて罪の性質を自分のうちに宿しているために、その罪を思いとことばと行ないにおいて現わしてしまいます。それに対して、神である主は限りない忍耐を示してくださっています。ところが、心が罪のやみに閉ざされてしまっている者は、神である主の忍耐を誤解して、神である主は秘かな悪を見ておられないとか、見てはいるが何もできないとか、悪を仕方がないものであると考えておられるとか、さまざまな捉え方をしてしまいます。その結果、その人は、神である主も自分たちとあまり違わない存在であるという思いをもつようになってしまいます。これによって、その人は神である主の聖さに対するわきまえを失い、その人のうちでは、ますます罪の暗やみが深くなっていってしまいます。
 カインのうちにはこのような罪の暗やみがもたらす問題がありました。
 すでにお話ししたことですが、ここに記されているカインのささげ物の問題は、それが動物の血によるいけにえではなかったことにあるのではありません。カインは「地の作物から主へのささげ物を持って来た」のですが、そのこと自体には問題はありません。というのは、ここで用いられているカインとアベルがささげた物を表わす「ささげ物」ということば(ミンハー)は広い意味での「貢ぎ物」を表わしていて、基本的に、主権の下にある者が主権者に対して敬意を表わしてささげるものだからです。それは、穀物のささげものでもよかったのです。この「ささげ物」は、神である主がご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中から、ご自身がお造りになったこの世界を満たしてくださっているので、この世界が実り豊かでいのちに満ちた世界として保たれていることを認めた者が、そのことへの感謝の告白としてささげる物です。神である主がご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中から、ご自身がお造りになったこの世界を満たしてくださっているので、地を耕す者は豊かな刈り入れをし、家畜を飼う者は新しいいのちを増し加えられるのです。
 ですから、このささげ物をささげるときには、その人の中に神である主があらゆる点において無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられて、その豊かさの中から、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを満たしてくださっているということに対するわきまえがなければなりません。創世記4節後半と5節前半において、

主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

と言われていますように、主はただささげ物をご覧になったのではなく、まずアベルその人とカインその人をご覧になっておられます。そして、それとの関連で、それぞれのささげ物をご覧になっておられます。ささげ物において主がまずご覧になるのはささげ物をする人自身です。
 このこととともに、私たちがわきまえておきたいことは、私たちがささげ物をささげるのは、主に必要があって、それを私たちが満たすためではないということです。主はご自身で無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる方です。何者かによって何かを満たしてもらう必要はありません。むしろ、その無限、永遠、不変の豊かさの中からお造りになったすべてのものを満たしてくださっておられる方です。そして、主は、ご自身がお造りになったすべてのものを所有しておられます。
 詩篇50篇7節〜13節には、

  聞け。わが民よ。わたしは語ろう。
  イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。
  わたしは神、あなたの神である。
  いけにえのことで、あなたを責めるのではない。
  あなたの全焼のいけにえは、
  いつも、わたしの前にある。
  わたしは、あなたの家から、
  若い雄牛を取り上げはしない。
  あなたの囲いから、雄やぎをも。
  森のすべての獣は、わたしのもの、
  千の丘の家畜らも。
  わたしは、山の鳥も残らず知っている。
  野に群がるものもわたしのものだ。
  わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。
  世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
  わたしが雄牛の肉を食べ、
  雄やぎの血を飲むだろうか。

と記されています。
 ここでは、神さまがご自身のことを、

わたしは神、あなたの神である。

として示してくださっています。神さまは契約によって、ご自身の民の神となってくださいました。その神さまがご自身の民の礼拝をおさばきになっておられます。この場合、

  いけにえのことで、あなたを責めるのではない。
  あなたの全焼のいけにえは、
  いつも、わたしの前にある。

と言われているように、主の神殿においてささげられるように定められているいけにえはいつもささげられていました。この世の考え方では、神がそつなく自分の世話をしてくれる者たちをさばくというようなことはありません。けれども、主はご自身の民がささげるささげ物を受け入れられませんでした。その理由は、イスラエルの民が主にささげものをささげることの意味をわきまえていなかったことにあります。

  森のすべての獣は、わたしのもの、
  千の丘の家畜らも。
  わたしは、山の鳥も残らず知っている。
  野に群がるものもわたしのものだ。
  わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。
  世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
  わたしが雄牛の肉を食べ、
  雄やぎの血を飲むだろうか。

というみことばから、イスラエルの民は自分たちが主のために食べ物をお供えしていると考えて、いけにえをささげていたことが分かります。どうしてそう考えたかというと、それはそのような考え方が、イスラエルの民が身を置いていた古代オリエントの社会において一般的な考え方であったからです。このような考え方は古代オリエントだけでなく、罪によって神さまの聖さを見失ってしまった人間の社会において共通する考え方です。罪によって神さまの聖さを見失ってしまった人間の社会においては、人間が神々の必要を満たしてあげて、その報いとしての御利益を受けるという考え方の下にささげ物がささげられているのです。
 けれども、神さまがイスラエルの民にいけにえに関する戒めを与えてくださったのは、ご自身に必要があって、それを満たすようにイスラエルの民に要求してのことではありません。むしろ、契約の神である主に対して罪を犯して御前に堕落し、罪と死の力に捕らえられてしまっているイスラエルの民の罪を贖ってくださり、イスラエルの民をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためでした。そのささげ物は主の必要のためではなく、イスラエルの民の必要を満たしてくださるためのものでした。
 言うまでもなく、この地上の建物としての神殿においてささげられていたいけにえは、やがて神である主が備えてくださるまことの罪の贖いのためのいけにえを指し示す地上的なひな型でした。その本体は、人の性質をお取りになって来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったことにあります。地上の建物としての神殿でささげられていたいけにえが神である主のためのものではなく、主の契約の民のための備えであったことは、旧約聖書の律法を読めば分かります。けれども、そのことは、それらのいけにえの本体であるイエス・キリストの十字架の死においてこの上なくはっきりとしてきます。
 ですから、イスラエルの民は、そのような神である主の恵みによる備えを信じる信仰と感謝をもっていけにえをささげるべきでした。この詩篇50篇では、続く14節、15節において、

  感謝のいけにえを神にささげよ。
  あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
  苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
  わたしはあなたを助け出そう。
  あなたはわたしをあがめよう。

と記されています。神さまが一方的な恵みによって、自分たちの罪を贖ってくださり、死と滅びの中から贖い出して、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださるために必要な備えをしてくださるということを信じる信仰とともに、「感謝のいけにえ」をささげるのです。その人は神さまを信じて神さまに対して真実であろうとします。そして、苦難の時にはその恵みの主に信頼します。
 また、これに続く51篇16節、17節を見てみますと、そこには、

  たとい私がささげても、
  まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
  全焼のいけにえを、望まれません。
  神へのいけにえは、砕かれたたましい。
  砕かれた、悔いた心。
  神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と記されています。
 神である主が律法の中で定めてくださったいけにえは、主の契約の民のために備えられています。主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまい、死の力に捕らえられ、滅びに至る道を歩んでいるご自身の民の贖いのために備えられています。そうであれば、そのいけにえをささげることにおいて大切なことは、自分には神である主が備えてくださったいけにえが必要であることを認めることです。具体的には、それは、自分自身の罪の現実に身を低くして、罪を悔い改めることとに現われてきます。

  神へのいけにえは、砕かれたたましい。
  砕かれた、悔いた心。

というみことばは、そのようなことを表わしています。
 16節、17節で、

  たとい私がささげても、
  まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
  全焼のいけにえを、望まれません。
  神へのいけにえは、砕かれたたましい。
  砕かれた、悔いた心。
  神よ。あなたは、それをさげすまれません。

というのは、聖書の中にしばしば見られる対比をともなう表現の仕方です。ここで言われているのは、神さまにいけにえをささげることにおいて最も大切な「砕かれたたましい」、「砕かれた、悔いた心」がともなっていない「いけにえ」、「全焼のいけにえ」は、決して神さまに喜ばれることはないということです。そのようないけにえは、むしろ、神さまの聖なる御怒りを引き起こします。というのは、そのようないけにえは、先ほどお話ししたように、神に必要があって、人間が神の必要を満たしてあげるという、その当時の文化の一般的な発想に基づくものであって、神さまの聖さを否定するものだからです。
 御子イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下にある私たちは、もはやいけにえをささげることはありません。それは地上的なひな型として与えられていたいけにえの本体である御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが実現しているからです。古い契約の下でささげられていたいけにえが表わしていた主の民のための罪の贖いが、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられているからです。ヘブル人への手紙10章14節〜18節に、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

と記されているとおりです。
 もはや罪のためのいけにえをささげる必要はなくなったという点では、新しい契約の下にある私たちは、古い契約の下にあった主の民と違っています。けれども、自分には神である主が備えてくださっている罪の贖いが必要であるということを心から認めること、そして、その主の備えを信じてそれに頼ることは、古い契約の下にある主の民にとっても、新しい契約の下にある主の民にとっても同じです。私たちも、古い契約の下にあった聖徒たちと同じように、自分自身の罪の現実に身を低くし、「砕かれたたましい」、「砕かれた、悔いた心」をもって、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかります。
 ここで勘違いしてはならないのは、私たちが自分自身の罪の現実に身を低くすることや、「砕かれたたましい」、「砕かれた、悔いた心」をもつことがよしとされて、私たちの罪が赦されるのではないということです。本当に自分の罪の現実に気がついて身を低くしている者は、自分が身を低くしたり、「砕かれたたましい」、「砕かれた、悔いた心」をもっていることを立派なことだとは思いません。自分自身の罪の現実に身を低くすることや、「砕かれたたましい」、「砕かれた、悔いた心」をもつことは、罪を認めたことの最も自然な現われであって、それ以上のものではありません。私たちは、自分の罪の現実に打ちのめされて、たましいが砕かれ、罪を悔いるので、神である主が一方的な恵みによって備えてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが必要であることを心から認めますし、その贖いにだけ頼るのです。
 このように、神である主へのささげ物には、いくつかの意味があります。神さまが天地創造の御業によってこの世界をお造りになって、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中からお造りになったすべてのものを満たしていてくださること、それゆえに、この世界においては豊かな実が結ばれ、豊かないのちが育まれていることを認めて、感謝とともに、その賜物の実をささげるささげ物があります。それは、神さまの天地創造の御業とそれを支えてくださっている御業とかかわっていますので、天地創造の初めから今日に至るまで続いていますし、この後もずっと続きます。
 それとともに、人類が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、神である主は、ご自身の契約をとおして、ご自身の民の罪を贖ってくださるための備えをしてくださいました。そして、動物のいけにえをささげることをとおして、その罪の贖いのための備えが、ヘブル人への手紙9章22節に、

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

と記されている原則に沿ったものであることを示してくださいました。そして、古い契約の下では、動物のいけにえをささげ続けることによって、まだ約束された罪の完全な贖いは実現していないこと、したがって、約束された罪の完全な贖いの実現を待ち望むべきことがあかしされていたのです。
 御子イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下にある私たちは、もはや罪の贖いのためのいけにえはささげません。そうではあっても、自分の罪の現実に心を砕かれて、主が備えてくださっている罪の贖いを信じ頼ります。その点は、古い契約の下にあった聖徒たちと同じです。
 ささげ物をささげるにしても、また、神さまが備えてくださった完全ないけにえである御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかるにしても、一貫しているのは、神さまの一方的な恵みによる備えに対する私たちの理解と、その理解に基づく信仰が大切であるということです。このことはカインとアベルのささげ物にも、そのまま当てはまることです。ヘブル人への手紙11章4節に、

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

とあかしされているように、アベルはこの信仰によって主にささげ物をささげました。そうであれば、カインに欠けていたものは神さまの恵みに対する理解と、それに基づく信仰であったはずです。
 私たちは週ごとに神である主を礼拝するときに、献金という形でささげ物をささげます。その際に、決して欠いてはならないのは、主の一方的な恵みによる備えに対するわきまえと、そのわきまえに基づく信仰です。この年も、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるために備えられている贖いに対する信頼と、ご自身の無限、永遠、不変の豊かさの中から、この世界のすべてのものを満たしてくださっておられる主の愛と恵みに対する感謝とをもって、ささげ物をささげたいと思います。

 


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