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説教日:2003年12月28日 |
ここで神である主は「女」と「女の子孫」が、神である主が置かれる「敵意」をもって、サタンとサタンの霊的な子孫に立ち向かうようになること、そして、最終的に「女」と「女の子孫」が勝利するということをとおしてサタンに対するさばきを執行されることを示しておられます。そうしますと、ここに一つの疑問が生まれてきます。この疑問につきましては、前にお話ししたことがありますが、復習をかねて、改めて取り上げておきたいと思います。それは、神である主はどうしてこのような回りくどい方法によってサタンに対するさばきを執行されたのかという疑問です。この時、直ちにさばきを執行して、サタンを滅ぼしてしまってもよかったのではないでしょうか。そうすれば、この後サタンが働く余地はなくなるので、サタンの働きによってもたらされるさまざまな悲惨もなくなっていたのではないでしょうか。 しかし、この疑問は肝心なことを忘れています。それは、人間は神である主に対して罪を犯して御前に堕落し、神である主に逆らう者となってしまっているということです。この点で人間はサタンと一つになっています。それで、もし神である主がこの時に直ちにサタンに対するさばきを執行されたとしたら、罪を犯して神である主に逆らっている点でサタンと一つになっている人間も一緒にさばきを受けて滅ぼされなければならなかったということです。 そのような状態において神である主は、サタンをおさばきになるけれども、「女」と「女の子孫」はご自身の民としてお救いになるというみこころをお示しになりました。それが、「女」と「女の子孫」が、神である主が置かれる「敵意」をもって、サタンとその霊的な子孫に立ち向かい、「女の子孫」がサタンの頭を踏み砕くという形でサタンへのさばきを執行するということだったのです。 このように、神である主のサタンに対するさばきは、「女」と「女の子孫」の側と、サタンとサタンの霊的な子孫の側との間の霊的な戦いをとおして執行されることになりました。このことは、サタンに、さらに神である主に逆らう機会を与えることになりました。 みことばの示すところからは、サタンは非常に優れた御使いとして神さまによって造られたと考えられます。しかし、自分に与えられた栄光の豊かさに自ら欺かれて、自分が神のようになろうとしました。それは、神さまが存在と一つ一つの属性において無限、永遠、不変の栄光の主であられることをわきまえなくなってしまったことを意味しています。このようにして、サタンは神である主の聖さを冒す罪を犯して神さまの御前に堕落してしまいました。先々週お話ししましたように、サタンも一介の被造物でしかありません。そのサタンが、無限、永遠、不変の栄光の主に直接的に逆らうことはできません。それで、サタンは神である主の創造の御業にかかわるご計画の実現を阻止することによって神である主に逆らおうとしました。そして、神のかたちに造られて「歴史と文化を造る使命」を委ねられた人間を誘惑して、神である主に罪を犯させ御前に堕落させることによって、このもくろみを成功させました。 これに対して、創世記3章14節、15節に記されている、神である主のサタンに対するさばきが宣言されました。そして、それは「女」と「女の子孫」が、神である主が置かれる「敵意」をもって、サタンとその霊的な子孫に立ち向かい、「女の子孫」がサタンの頭を踏み砕くという形でサタンに対するさばきが執行されるということでした。 これに対してサタンは、神である主がお用いになる「女の子孫」を抹殺してしまえば、自分に対する神である主のさばきは実現しないことになると考えたようです。神である主はサタンに対するさばきを宣言されましたが、「女の子孫」が抹殺されてしまえば、神である主はそのさばきを実現できなくなってしまうということになってしまいます。これは、神さまが宣言されたことが実現しないということ、神さまのご計画がサタンによって阻止されるということ、そして、神さまにも実現できないことがあるということが示されるということで、神さまが知恵と力において無限、永遠、不変であることが否定されることになってしまいます。 このように、神である主は、サタンをさばきつつ「女」と「女の子孫」をご自身の民として回復されるために、「女」と「女の子孫」が神である主が置かれる「敵意」をもって、サタンとその霊的な子孫に立ち向かい、「女の子孫」がサタンの頭を踏み砕くという形でさばきを執行されるということを宣言されました。それは、サタンがさらに神である主に逆らって働く余地を残すことになりました。それで、サタンは「女の子孫」を抹殺することを図るようになったのです。 そのことが、最初の人であるアダムの家庭において現実になってしまいました。それは、すでにお話ししましたように、アダムとエバの家庭に最初に生まれたカインが弟のアベルを殺してしまったということでした。 このことが「最初の福音」において示されている霊的な戦いの現われであることは、ヨハネの手紙第一・3章11節、12節に示されています。そこには、 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 と記されています。 ここではカインについて、 彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 と言われています。これは、世間一般の考え方とは違います。世間一般の考え方は、「あの人は悪いことをしたから、悪い者だ」ということです。ですから、カインは兄弟を殺したので悪い者になったということになります。しかしヨハネは、カインは「悪い者から出た者」であるので、兄弟を殺したと言っています。この「悪い者」とは創世記3章に記されている「蛇」の背後にあって働いていたサタンのことで、ヨハネの手紙第一・3章では、8節で「悪魔」と呼ばれています。 カインが兄弟を殺した理由については、 自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 と言われています。この「自分の行ないは悪く」というときの「悪い」ということばは、形容詞のポネーロス(中性・複数形)です(ここでは「自分の行ないは悪く」の「行ない」が中性・複数形ですので、それを修飾する形容詞も中性・複数形になっています)。この「悪い」ということば(ポネーロス)に冠詞を付けて実体化すると、 彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 と言われているときの「悪い者」になります。ですから、カイン自身が「悪い者」から出ているので、その行ないも「悪い者」を映し出すということになっています。 これに対して、アベルについては「兄弟の行ないは正しかった」と言われています。この「正しい」ということば(形容詞ディカイオスの中性・複数形)は、信仰によって義と認められている者が「義である」ということを表わすときに用いられることばです。けれども、このヨハネの手紙第一・3章12節では、アベルの行ないのことを述べていますから、神さまの戒めにそっていることを表わしています。それと同時に、このアベルの行ないは、カインの行ないと対比されていることに注目しなければなりません。カインは「悪い者」から出ているので、その行ないが悪かったと言われていました。まずカイン自身の本性が「悪い者」から出ている状態にあったので、カインの行ないが悪かったということです。カインの行ないはカインの本性を表わしていました。それと同じように、アベルの行ないも、アベルの本性を表わしていたと考えなければなりません。 このことは、ヨハネの手紙第一・3章の文脈では、9節、10節で、 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 と言われていることとのつながりで理解されます。ちょうどカインが「悪い者」から出ているのでその行ないが悪かったように、アベルは「神から生まれたので」その行ないは「正しかった」ということです。 そして、ヨハネの手紙第一の中では、さらに、聖書全体が一貫して教えるところでは、人が「神から生まれた」のは、神さまが遣わしてくださった贖い主イエス・キリストに対する信仰によっています。それは、アベルの場合にも当てはまります。アベルが「神から生まれた」のは、約束の贖い主に対する信仰によっています。アベルにとって、その贖い主は、創世記3章14節、15節に記されている「最初の福音」において約束されている「女の子孫」として来てくださる贖い主でした。 このように、アダムの家庭に最初に生まれたカインが弟のアベルを殺してしまったことは、「最初の福音」に示されている霊的な戦いの現われでした。 新約聖書の中でこれと同じような霊的な戦いに触れる個所は他にもいくつかあります。 たとえば、同じヨハネが記している福音書では、アブラハムの約束の子孫である贖い主として来られたイエス・キリストと、アブラハムの血肉の子孫であることを誇りとし、頼みとしているユダヤ人とのやり取りを記している8章39節〜44節には、 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。 と記されています。 ユダヤ人は、 私たちの父はアブラハムです。 と主張しているように、確かにアブラハムの子孫です。けれどもそれは、血肉のつながりにおいてアブラハムとつながっているということです。同じヨハネの福音書の3章3節に記されているように、イエス・キリストは血肉においてはアブラハムの子孫であり、「ユダヤ人の指導者」でもあったニコデモに向かって、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 と言われました。 ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての人は血肉のつながりという点では、自らのうちに罪の性質を宿しており、罪の暗やみによって霊的な真理を知ることができない状態に生まれてきます。そして、実際の歩みの中で罪を犯してしまいます。その意味においては、神から離れ暗やみの主権者である悪魔との一体のうちにあります。エペソ人への手紙2章1節〜3節に、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されているとおりです。 しかし、これに続く4節〜6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されていますように、神さまはただ恵みによって、私たちを御子イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちの罪を赦してくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かしてくださいました。 これによって初めて、ニコデモも私たちも、栄光のキリストが恵みによって治めておられる神の御国を見ることができるようになりました。 ヨハネの福音書8章39節〜44節に記されているイエス・キリストのみことばを聞いているユダヤ人は、アブラハムの血肉の子孫であることを誇りとし、頼みとしていたために、アブラハムからさえも、罪の性質を受け継いでいるという事実に気づくことがありませんでした。アブラハムには、神である主の約束を信じて義と認められた「信仰の父」という、もう一つの面がありました。真のアブラハムの子孫は、アブラハムの信仰にならって、神である主の約束を信じる信仰によって義と認められる者のことです。 アブラハムとの血肉のつながりを誇りとし、それを頼みとしている状態にあるかぎり、その人々は、イエス・キリストが、 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。 と言っておられる状態にとどまることになります。そして、自ら福音のみことばに耳を傾けることをしないばかりか、福音の真理とそれを語る者を抹殺しようとしてしまいます。そして、実際にイエス・キリストを十字架につけて殺してしまうに至りました。 もちろん、これは運命的なことではありませんから、この人々の中から自らの罪の現実に気がついて神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださっている贖いの恵みに頼るようになる人が出てきた可能性は否定できません。そして、それは、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架につけて殺してしまった後のことで、父なる神さまの右に上げられたイエス・キリストが注いでくださった御霊のお働きによって、福音のみことばを悟るようになった結果であるということもありえます。ペンテコステ(聖霊降臨節)の日になされたペテロのあかしのことを記している使徒の働き2章36節〜39節には、 「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」 と記されています。 また、黙示録12章1節〜5節には、 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。 と記されています。 ここに記されている「ひとりの女」は、古い契約と新しい契約の下にあって「女の子孫」として来られる贖い主の約束を受け継いできた、神である主の契約の民の共同体を指していると考えられます。そして、ここには、「女の子孫」として来られる贖い主の到来と勝利が記されています。 その「女の子孫」として来られた贖い主の勝利のことは、これに続く7節〜9節に、 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と記されていることに示されています。 けれども霊的な戦いはこれで終りません。13節〜17節には、 自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。 と記されています。これは「女の子孫」として来られた贖い主の勝利を踏まえたうえで、なおも続けられていく霊的な戦いのことを述べています。これが新しい契約の共同体としての教会において、今日に至るまで展開されている霊的な戦いです。これは世の終わりの栄光のキリストの再臨の時まで続きます。 しかし、この霊的な戦いの大勢は、5節で、 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。 と言われていることによって、すでに決しています。 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においては、連合軍による「ノルマンディー上陸作戦」が成功したことが、その後の大勢を決定しました。これ以後ドイツ軍は敗走に敗走を重ねて全面降伏に至ります。この場合、「ノルマンディー上陸作戦」が成功した日のことを「ディー・ディ」(D-day)と呼びます。大勢を決する戦いに勝利した日ということです。そして、ドイツ軍が全面降伏した日のことを「ヴィー・ディ」(V-day)と呼びます。最終的に勝利した日ということです。 霊的な戦いにおいてもこれが当てはまります。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、ご自身の民の罪のための贖いを成し遂げてくださり、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたこと、そして、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことは、「ディー・ディ」における勝利です。そして、世の終わりに栄光のキリストが再臨されて、ご自身の義の尺度にしたがって生きている者と死んだ者をすべておさばきになり、悪魔とその霊的な子孫を滅ぼされることは、「ヴィー・ディ」における勝利に当たります。 この黙示録の伝えることによりますと、私たちは、霊的な戦いにおいて「ディー・ディ」の後の時代の「ヴィー・ディ」に至る歴史の流れの中で、霊的な戦いを戦っているということになります。大勢を決する戦いは終わり、敵は敗走を重ねているということになります。 しかし、それにしては、この世界の現実はどうでしょうか。二十世紀になって生まれた殉教者の数は、初代教会から十9世紀に至る間に生まれた殉教者すべての数より多かったと言われています。今も、世界の至る所で、父なる神さまと主イエス・キリストを信じているがために、そして、ただそれだけの理由のために迫害を受けている聖徒たちが苦しんでいます。一般のニュースではほとんど報じられていないのですが、社会的に不利な立場に置かれているだけでなく、住む所や集う所を失ってさまよっている聖徒たち、投獄されて拷問を受けている聖徒たち、そのようにして殺された聖徒たち、家族や指導者を殺され悲嘆に暮れる聖徒たちが、至る所に溢れています。これが「女の子孫の残りの者」の間に見られる現実です。これでは、とても、敵が敗走を重ねている霊的な戦いを戦っているようには見えないのではないかという疑問がわいてきます。 これに対して、私たちはこれが神である主が備えてくださった贖いの恵みを信じることをめぐる霊的な戦いであることを忘れてはなりません。これは血肉の力によっては戦うことができない戦いなのです。 振り返って、カインとアベルのことを考えてみましょう。アベルは主の恵みによって「神から生まれた者」となり、そのような者として、真実に神である主を礼拝していました。そして、そのことのゆえに、カインによって殺されてしまいました。これを血肉の戦いという観点から見れば、カインは暴力という血肉の力によって、アベルを亡き者にしたのですから、カインの勝利です。しかし、これを霊的な戦いという観点から見るとどうなるでしょうか。みことばはアベルの勝利であることを伝えています。このような区別を見極めることができるかどうかが、神である主の御前における歴史の理解にとって決定的に大切なことです。 私たちの目にはアベルが戦ったようには見えません。それは私たちが戦いというときにイメージするのが、対抗心や敵がい心、恨みや憎しみによって、血肉のぶつかり合いをする戦いであるからです。アベルはそのような血肉の戦いを戦ってはいません。アベルはカインに対して憎しみはおろか、対抗心さえももってはいませんでした。そのような憎しみや対抗心をもって対立することは、霊的な戦いにおいての敗北を意味しています。 霊的な戦いの勝利は「女の子孫」として来られて十字架にかかって死んでくださった贖い主によってもたらされますし、その方のうちにだけあります。私たちは信仰によってその方のうちに留まり、贖いの恵みによって生きることによって、その方の勝利にあずかるだけです。それ以外に霊的な戦いにおける勝利への道はありません。黙示録12章11節には、 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と記されています。やはり、 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 ということばに示されているように、この「兄弟たち」も血肉の力の暴虐によって痛めつけられ、殺されるという経験をしています。しかし、恵みによって自分たちを罪と死の力から贖い出してくださった「小羊の血」を頼みとし、その恵みを告白し続けることにおいて、悪魔に打ち勝っています。 私たちが「初めから人殺しであり、真理に立ってはいません」とあかしされている悪魔の欺きに欺かれて、血肉の力を頼みとして、教会や神の子どもとしての私たちの勝利を図ろうとするなら、そのとたんに霊的な戦いにおいて敗北したことになります。その血肉の力は暴力とは限りません。ねたみや恨みや憎しみなどをもって、心のうちで兄弟を傷つけ「殺す」こと、それをことばや行ないに表わして兄弟を押さえつけることなども血肉の戦いに他なりません。私たちが戦うべき霊的な戦いは、むしろ、ローマ人への手紙一二章二一節に、 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 と記されているような戦い方をすべき戦いです。 黙示録12章17節では、「女の子孫の残りの者」は「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と言われています。その「神の戒め」の中心は、私たちが神さまを礼拝することを中心とする、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。それこそが、「最初の福音」から始めて、神である主が私たちに約束してくださった恵みがもたらす永遠のいのちの本質です。そして、私たちはこの神さまとの愛にあるいのちの交わりを相続財産として受け継いでいるのです。 ですから、私たちは肉体的に生きるにしても死ぬにしても、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることによって、「女の子孫」による霊的な戦いにおける勝利をあかしすることになります。そして、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることは、私たちが信仰の家族の兄弟として互いに愛し合うことに現われてきます。ヨハネの手紙第一・5章1節、2節には、 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 と記されています。 霊的な戦いは、私たちが御子イエス・キリストの恵みによって、父なる神さまとのいのちの交わりに生きている神の子どもとして、互いに愛し合うことを中心として戦うべきものです。私たちはそのような愛のうちに生きることをとおして、「女の子孫」として来てくださって、ご自身の民のための贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストによる勝利をあかしします。 |
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