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説教日:2003年12月7日 |
3章1節には、 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 と記されています。 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。 と言われていますように、ここに出てくる「蛇」は、神さまがお造りになった生き物です。けれども、 あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。 というように、単なる生き物の限界を越えて、神である主が人に与えられた善悪の知識の木に関する戒めについてエバと話をしています。それで、この「蛇」の背後に人格的な存在がいて、その人格的な存在が「蛇」を用いてエバを誘惑したと考えられます。この人格的な存在は悪魔とかサタンとか呼ばれる存在です。サタンは神さまによって優れた御使いとして造られたのですが、自分に与えれらているの栄光のゆえに高ぶって、自らを神の位置に据えようとして、神さまの聖さを冒して御前に堕落してしまったと考えられます。 先週お話ししましたように、カインはサタンと同じように神である主の聖さに対するわきまえを失って、神である主を自分たちとあまり違わない存在であると考えていました。そのために神さまに対する畏れを欠いていただけでなく、自分を立てるために兄弟アベルを殺害しました。その点に、カインがサタンの霊的な子孫であることが現われています。ヨハネの手紙第一・3章12節には、 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 と記されています。 このことを心に留めて、すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、サタンが、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを見失ってしまったことの根底にあることについて、まとめておきましょう。 一介の被造物であるサタンは、無限、永遠、不変の栄光の主に直接的に逆らうことはできません。 聖なるものであることについてのこれまでのお話の中で繰り返しお話ししてきましたが、最も優れた御使いであっても、また、世の終わりの救いの完成のときには、御使いよりも栄光ある者とされる神の子どもたちであっても、どのような被造物も神さまの無限、永遠、不変の栄光に直接的に触れることはできません。それはたとえて言えば、私たち人間が直接的に太陽に触れることができないようなものです。太陽の中心の温度は二千万度に達し、その外層を取り巻くガスであるコロナの温度は約百万度、そして、表面温度でも六千度であると言われています。私たちはそのような太陽に直に触れることはできません。それどころか、いま私たちがある所から太陽に向かってその半分も近づかないうちに、私たちは焼き尽くされてしまうことでしょう。 これは単なるたとえですが、このたとえでも十分ではないくらいに、どのような被造物も無限、永遠、不変の栄光の神さまに直接的に触れることはできません。私たちには気が遠くなるほどに広大な宇宙であっても、神さまの無限、永遠、不変の栄光に直接的に触れるなら、一瞬たりとも存在することはできません。 そのような無限、永遠、不変の栄光の神さまが創造の御業を遂行なさり、今も摂理の御業を遂行しておられます。それなのに、この世界は焼き尽くされないで、今ここに見るとおりに存在しています。それは、創造の御業と摂理の御業を遂行されるに当たって、三位一体の神さまのそれぞれが「役割分担」をされたからです。 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する立場に立たれました。父なる神さまはそのような方として、無限、永遠、不変の栄光をそのまま現わしておられるとともに、創造の御業と摂理の御業にかかわるご計画を永遠の前からお立てになっておられます。 御子は父なる神さまの永遠のご計画すなわち永遠の聖定にしたがって創造の御業を遂行され、今日に至るまで摂理の御業を遂行しておられます。そのために、御子はご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠してこの世界と私たちに接してくださっています。もし御子がご自身の無限、永遠、不変の栄光をそのままこの世界に現わされたとしたら、この世界は造られたとたんに御子の無限、永遠、不変の栄光によって焼き尽くされてしまいます。御子はその栄光をお隠しになって創造の御業を遂行され、摂理の御業を遂行しておられます。 そして、御霊は御子が遂行された創造の御業と御子が遂行しておられる摂理の御業を、この世界の現実として生み出しておられます。御子がみことばを発せられると、それがそのみことばのとおりに実現するのは御霊のお働きによることです。御霊も無限、永遠、不変の栄光の神さまですが、その栄光を隠して、この世界にご臨在されて、お働きになっておられます。 ですから、三位一体の神さまのお働きは、御子が父なる神さまの永遠のご計画すなわち永遠の聖定によるみこころにしたがってみことばを発せられると、御霊がそのみことばをこの世界の現実としてくださるという形で遂行されます。これは、創造の御業と摂理の御業についてだけでなく、贖いの御業についてもそのまま当てはまります。むしろ、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間の「役割分担」は、御子が人の性質を取って来てくださるほどに身を低くされて成し遂げられた贖いの御業の場合の方が、私たちにとっては分かりやすいと言えます。 このように神さまは、無限、永遠、不変の栄光を隠してくださる御子にあってこの世界と私たちに接してくださいます。そのように神さまが御子にあって限りなく身を低くしてくださって、ご自身を現わしてくださっているので、この世界は神さまの御手によって保たれているのです。また、このように神さまが限りなく身を低くして、造られたこの世界に接してくださり、御使いや神のかたちに造られている人間の目線に合わせてご自身を示してくださるので、私たちは神さまを知ることができます。この世界と私たちは神さまが御子にあって無限に身を低くしてくださっていることによって造り出され、支えられ、満たされているのです。 ところが、このような神さまの無限のへりくだりがあるので、優れた御使いとして造られたサタンは、、神さまは自分とあまり変わらない存在であると考え、自分も神のようになろうとして神さまに対して高ぶってしまいました。これは、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられ、造られたすべてのものと絶対的に区別されるということをわきまえないで、神さまの聖さを冒すことです。サタンは神さまの聖さを冒す罪を犯して、御前に堕落してしまったと考えられます。 創世記3章4節、5節には、 あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。 という、サタンが「蛇」をとおしてエバに言ったことばが記されています。このことばは、そのように神さまの聖さを冒しているサタンの罪を反映しています。「あなたがたは神のようになる」というサタンのことばを受け入れた人のうちには、神さまの聖さに対するわきまえはありません。そのようにして神さまの聖さを冒し、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間は、神さまを侮ったり、神ならぬものを神としたり、あわよくば自分が神の位置に立とうとしてしまいます。これが、先週お話ししたカインの神観、神さまについての理解の問題の根源です。 一介の被造物であって、無限、永遠、不変の栄光の神さまに直接的に逆らうことはできないサタンは、神さまが明確なご計画の下にこの世界をお造りになったということにかかわって、神さまのご計画の実現を阻もうとしています。もしこの世界の歴史が自分の思う方向に動いていくなら、自分がこの世を支配し動かす者であることを示すことになるという思いから、神さまに逆らっているのです。この世の支配者たちが、自分がこの世界を動かす者となろうとすることのうちに、このようなサタンから出た思いが働いています。 このようなサタンの働きは、具体的にどういうことでしょうか。創世記1章27節、28節には、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを治める使命をお委ねになりました。 ここに記されている神のかたちに造られている人間に委ねられた使命は一般に「文化命令」と呼ばれます。私はむしろこれは、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 というみことばに示されていますように、この使命が歴史的に継承されて積み上げられていって目的に至るという意味で、「歴史を造る命令」と呼んだほうがいいと考えています。言うまでもなく、歴史を造ることの中には文化的な活動をすることが含まれています。ただこの呼び方は一般的ではありませんので、「歴史を造る命令」といっても何のことか分からないと言われそうです。それで「歴史と文化を造る使命」と呼んだりしています。 この「歴史と文化を造る使命」は、造り主である神さまの御前に歴史と文化を造ることを意味しています。それによって、造り主である神さまのご栄光がより豊かに映し出されるようになるためです。そのような意味での歴史と文化を造ることの中心は、造り主である神さまを礼拝すること、神さまを天と地とその中のすべてのものの造り主として礼拝することにあります。歴史と文化が造られるということは意味のあるものが造り出され、目的に向かって進んでいくということを意味しています。神さまを礼拝するということを離れては、真に意味のあるものが造り出されたとは言えません。文化的な活動が受け継がれて歴史となっていくときに、それが一つの歴史としての一貫性をもつのは、そこに一貫したものが本質として流れているからです。真の歴史は造り主である神さまを礼拝することにおいて一貫している歴史のことです。 人は神のかたちに造られているものとして、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という神さまの祝福のみことばにしたがって地を従え、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」を支配するように召されています。この使命を果たすことは、すでにお話ししましたように、地を耕し、自分に委ねられた生き物たちに名をつけて、それらの生き物と親しい関係を作り上げることから始まっていました。まず、自分に委ねられた地と生き物たちに働きかけて、一つ一つをよく知ることから始まっています。それは、その一つ一つが神さまの御手の作品であることを踏まえて、そこに込められている神さまの知恵と力と愛といつくしみを汲み取って、その栄光を神さまにお返しすることを目的としています。それは造り主である神さまに対する礼拝として現われてきます。 このような使命を与えられている人間自身は、造り主である神さまご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして、神のかたちに造られています。神のかたちに造られている人間はそのように神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとして、「歴史と文化を造る使命」を委ねられています。「歴史と文化を造る使命」を果たす前に、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものであるのです。そして、その神さまとの愛にあるいのちの交わりの中心が礼拝なのです。 サタンはこのような使命を委ねられている人間を造り主である神さまに背かせることによって、神さまの創造の御業におけるご計画を挫折させようとしました。そのようなもくろみの下に、「蛇」を用いて最初の女性であるエバを誘惑して成功しました。そして、次にはエバがアダムを誘うという形で、アダムが神である主に背くようになりました。 造り主である神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった「歴史と文化を造る使命」は、人が神である主を礼拝することを中心として果たされていくものです。人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまったということは、何よりも、人が神である主を礼拝することがなくなってしまったということを意味しています。造り主である神さまを礼拝することのない歴史は、もはや造り主である神さまの御前に歴史としての意味をもたなくなってしまっています。それこそがサタンの狙っているところであるわけです。 このことから、先週お話ししました、カインとアベルが神である主の御前にどのような者であるかということが、神である主を礼拝することにおいて現われてきたということが理解できます。カインは神である主にささげものをささげることにおいて礼拝の形を取っています。けれども、カイン自身のうちには神さまの聖さに対するわきまえがありませんでした。そのために、神さまへの礼拝の本質を欠いてしまっていました。 このように、霊的な戦いは神さまの聖さについてのわきまえにかかわるものです。それは礼拝において端的に表われてきます。それで、このような観点から、私たちのささげている礼拝の意味についてお話ししたいと思います。 礼拝といいますと、人間が神さまにささげるものであるというイメージがあります。けれども、それは私たちの目に見える形がそうであるというだけのことです。また、そのようなイメージは、いのちのない偶像を拝む人間の礼拝の姿から生まれているかもしれません。しかし、天と地とその中のすべてのものをお造りになった神さまは生きておられます。生きておられる神さまを礼拝することは、一方的なことではありません。私たちが神さまを礼拝するのに先だって、神さまが私たちに働きかけてくださらなければ、私たちは神さまを礼拝することはできません。 そのことは私たちの礼拝にも現われています。私たちは私たちの大祭司であられる御子イエス・キリストに連なる祭司として神さまを礼拝します。それで、私たちは御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きに支えられ、御霊に導かれて、父なる神さまを礼拝をいたします。それは、私たちの礼拝が三位一体の神さまのお働きによるものであることを意味しています。そして、これは私たちの大祭司であられる御子イエス・キリストを中心とした礼拝であるという意味で、キリスト中心の礼拝でもあるのです。 私たちの感覚では私たちが礼拝をささげているだけのように感じられるかもしれませんが、私たちが神さまのご臨在の御前に近づくためには、神さまが私たちの間にご臨在してくださらなければなりません。そして、このご臨在は、無限、永遠、不変の栄光の父なる神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった創造の御業と贖いの御業に基づいて、御霊によって私たちの間にご臨在してくださるものです。 ヨハネの福音書4章23節、24節には、 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 という、イエス・キリストがサマリヤ人の女性に語られたみことばが記されています。「真の礼拝者たち」は「霊とまことによって」父なる神さまに礼拝をささげます。この「霊とまことによって」ということがどういうことか問題となります。新改訳の「霊とまことによって」ということばは、礼拝する人の内側の姿勢のことを言っているような気がしないでもありません。けれども、この「霊とまことによって」ということは、そのような個人の内側の姿勢ということではないと思われます。 イエス・キリストは、まず、 神は霊です。 と言われてから、 それで、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 と言われました。ですから、「霊とまことによって」というときの「霊」は、 神は霊です。 ということとの結びつきで理解しなければなりません。 その、 神は霊です。 ということは、「霊」ということば(プニューマ)に定冠詞がないために、しばしば、神さまも一個の霊であり、神さま以外にも御使いたちのように霊である存在があるというように理解されています。けれども、神さまは無限、永遠、不変の霊であられて、そのほかの霊的な存在と並べて比べることはできません。ここでは「霊」ということばが最初にあって強調されていて、神さまの本質的な特性が「霊」であるということを示しています。それで、 神は霊です。 ということとのかかわりで理解される「霊とまことによって」の「霊」は御霊のことであると考えられます。 またここでは、神さまが霊であられることが、私たちの礼拝にとって決定的な意味をもっているということを示しています。神さまは霊ですから、礼拝する者は神さまの御霊によって導かれて礼拝しなければ、神さまを礼拝することはできないということです。 パウロは、古い契約の礼典であった割礼のことに触れて、いるピリピ人への手紙3章3節において、 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。 と述べています。ここでは、地上的なひな型である割礼が意味していたことを明らかにしています。ここに示されていますように、真の礼拝者の共同体においては「神の御霊によって」神さまを礼拝します。その礼拝は「神の御霊によって」導かれているのです。 ここでパウロは、さらに、 キリスト・イエスを誇り、 とも言っています。この「誇る」ということば(カウカオマイ)には、それを拠り所としているという意味合いがあります。それは、これが、これに続く「人間的なものを頼みにしない」ということと対比されていることからも分かります。ここでは、イエス・キリストが、私たちが救われて神さまの御前に生きていることの拠り所であるので、イエス・キリストを誇っていると言われているわけです。 礼拝を中心とする神さまとのいのちの交わりは御霊に導かれて現実のものとなります。私たちがそのように神さまとのいのちの交わりに生きることができる根拠はイエス・キリストであり、私たちはイエス・キリストを頼みとして神さまの御前に生きているのです。 ヨハネの福音書4章24節で、 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 と言われているときの「まこと」(アレーセイア)は「真理」を表わしています。同じヨハネの福音書14章6節には、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 というイエス・キリストの教えが記されています。私たちが父なる神さまのご臨在の御許に近づいていのちの交わりに生きるための唯一の土台と道は「真理」であられるイエス・キリストです。 このようなことから、イエス・キリストが、 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 と言われたときの「霊とまこと」は、御霊と御子イエス・キリストを指していると考えられます。ですから、ここで言われている礼拝も、御霊に導かれて、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまを礼拝する礼拝であるということになります。 ヨハネの福音書では、御子イエス・キリストは、すべてのものをお造りになって支えておられる永遠のことばであられ、真理そのものであられます。それで、イエス・キリストが語られたことばは「真理」です。それで、イエス・キリストの御名によってということと、真理のみことばによってということは、実質的に同じことになります。私たちは祈りにおいて「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」と言います。真にイエス・キリストの御名による祈りは、真理のみことばの枠の中にある祈りのことです。いずれにしましても、この「霊とまことによって」神さまを礼拝するということは、御霊の導きによって、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまを礼拝するということですが、それは、御霊と真理のみことばによって神さまを礼拝するということでもありす。 このように理解しますと、 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。 というイエス・キリストの教えで、そのような「時」が来ており、「今がその時」であるといることが理解できます。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時」が来ているのは、イエス・キリストが来ておられるからです。イエス・キリストが「真の礼拝者たち」を生み出し、「真の礼拝者たち」を御霊と真理のみことばによって、父なる神さまを礼拝するように導いてくださる方です。 このイエス・キリストの教えを、文脈から見てみましょう。これに先立って記されている19節〜22節を見てみますと、そこには、 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 と記されています。 ここでサマリヤ人の女性は地上の建物としての神殿のことを問題としています。彼女の言う「この山」とはサマリヤ神殿があったゲリジム山のことです。そして「エルサレム」はエルサレム神殿のある所です。つまり、このサマリヤ人の女性はサマリヤ神殿とエルサレム神殿のどちらが神さまを礼拝するのにふさわしい場所であるかを問うているのです。それに対するイエス・キリストのお答えは、 あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 というものでした。 すでに繰り返しお話ししてきましたように、人の手による建物としての神殿は、古い契約の下で用いられた地上的なひな型、今日のことばで言いますと視聴覚教材でした。神さまがお住まいになる神殿はヨハネの福音書の文脈の中では、イエス・キリストの復活のからだです。エルサレム神殿をめぐるイエス・キリストとユダヤ当局者のやり取りを記している2章19節〜22節に、 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 と記されているとおりです。 イエス・キリストの復活のからだこそが神さまがご臨在される神殿の本体です。ですから、「真の礼拝者たち」は真の神殿であるイエス・キリストの復活のからだに連なる者として、「霊とまことによって」父なる神さまを礼拝します。 エペソ人への手紙1章23節には、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは栄光のキリストのことですが、ここでは、栄光のキリストが御霊によってご自身のからだである教会に宿っていてくださると言われています。これが古い契約の下で人の手によって建てられた建物としての神殿が指し示していた、神である主の宿りたもう神殿の本体です。そして、この栄光のキリストのからだである教会においては、ここに宿っておられる御霊が、栄光のキリストの御名によって、父なる神さまを礼拝するように、私たちを導いてくださいます。 すでにお話ししましたように、神さまの贖いの御業の歴史は、神のかたちに造られて「歴史と文化を造る使命」を委ねられた人を誘惑して、神である主の背かせたサタンに対するさばきの宣言から始まっています。そのことを踏まえて、私たちが連なっている教会がキリストのからだであり、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」であることを記しているエペソ人への手紙1章23節に先立つ20節〜22節には、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と記されています。 以前お話ししたところですので、結論だけを申しますと、20節、21節で、 天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・高く置かれました。 というのは、栄光のキリストが父なる神さまの「右の座」に着座されたことに触れていますので、詩篇110篇1節に記されている、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 というみことばを背景として語られています。それで、この「すべての支配、権威、権力、主権」は霊的な戦いにおいて神である主に敵対するサタンを頂点とする暗やみの力を意味しています。つまり、ここでは「最初の福音」において「女の子孫」として来られた贖い主が、「おまえ」と呼ばれているサタンの頭を踏み砕いたことが記されているのです。 また、22節で、 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、 と言われていることは、詩篇8篇6節の、 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばを背景として語られています。ですからこれは、「女の子孫」として来られた贖い主が、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた「歴史と文化を造る使命」を成就しておられることを示しています。 このようにして、「女の子孫」として来られた贖い主は、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、神さまの天地創造の御業の目的を実現してくださっています。それが、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われていますように、栄光のキリストが御霊によって、私たちの間に宿ってくださっていることに現われているのです。それで、私たちは、今ここでしているように、栄光のキリストが御霊によって宿ってくださっている教会において、父なる神さまを礼拝しています。それによって、「女の子孫」として来られた贖い主が、十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、父なる神さまの天地創造の御業の目的を実現してくださっていることがあかしされているのです。霊的な戦いの勝利は、神の子どもたちが「霊とまことによって」父なる神さまを礼拝していることに最もはっきりと現われています。 |
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