きょうも聖なるものであることについてのお話を続けます。
ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまがご自身のあわれみのゆえに、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださったと言われています。そして、その結果、私たちは「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつ者となったと言われています。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産のことです。聖書の中では神の子どもたちが受け継ぐ相続財産の中心は、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。私たちはまた、神さまとのいのちの交わりにともなうあらゆる祝福、神さまとのいのちの交わりの場としての新しい天と新しい地なども相続財産として受け継いでいます。
これまで、古い契約の下においては、主の民に与えられている相続財産についての約束はアブラハムに与えられた契約において示されていますので、アブラハムに与えられた契約についてお話ししました。まず、アブラハムの生涯をたどってアブラハムに与えられた祝福の約束と召命についてお話ししました。続いて、アブラハムに与えられた祝福の約束と召命の歴史的な背景として、アブラハムに先立つ主の贖いの御業の歴史をさかのぼってお話ししました。そして、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に神である主が与えてくださった、一般に「最初の福音」と呼ばれる主のみことばにまでさかのぼっていきました。
「最初の福音」は創世記3章14節、15節に、
おまえが、こんな事をしたので、
おまえは、あらゆる家畜、
あらゆる野の獣よりものろわれる。
おまえは、一生、腹ばいで歩き、
ちりを食べなければならない。
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されています。
これは、最初の女性であるエバを誘惑した「蛇」に対するさばきの宣言でした。ここに出てくる「蛇」は神さまがお造りになった生き物ですが、単なる生き物の限界を越えて神である主が人に与えられた戒めについてエバと話をしています。それで、この「蛇」の背後に人格的な存在がいて、その人格的な存在が「蛇」を用いてエバを誘惑したことが分かります。それは悪魔とかサタンとか呼ばれる存在です。サタンは「蛇」を用いて巧みにエバを誘惑してまんまと成功しました。ところが神である主は、その同じ「蛇」を用いて、サタンの敗北とサタンへのさばきを宣言されました。
よく、ここで神である主が、
おまえは、一生、腹ばいで歩き、
ちりを食べなければならない。
と言われているので、それまで「蛇」は立っていたというようなことまで考えられました。それで、そのような絵が描かれたこともあります。しかし1章25節に、
神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
と記されていますように「地のすべてのはうもの」は初めからはうものとして造られていました。神さまはそれを「よし」とご覧になりました。ですから、はう生き物たちがはうこと自体はのろいの姿ではありません。「蛇」は初めから腹ばいで歩いていたと考えられます。それが、サタンの敗北を表わすために用いられたのです。まさにサタンが用いたものが、そのままサタンへのさばきを表わすのにうってつけのものであったのです。このことによって、神である主のご計画とさばきがサタンの思いとはかりごとをはるかに超えたものであることが象徴的に示されています。
先週もお話ししましたように、人は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、サタンと一つになってしまいました。けれども、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
と言われていますように、神である主が「蛇」の背後にある存在と「女」の間に「敵意」を置いてくださって双方の間を引き裂かれます。そして、それは歴史をとおして「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫と「女の子孫」と呼ばれている者たちにまで続いていきます。これは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」が神である主に敵対しているサタンと敵対するようになるということですから、「女」と「女の子孫」が神である主の側に立つようになるということを意味しています。それが、「女」と「女の子孫」にとっての救いを意味しています。その救いは、「女の子孫」について、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と言われていますように、「女の子孫」として来られる贖い主によって成し遂げられます。
このようにして、神である主の一方的な恵みによる救いが、サタンへのさばきの宣言という形において明らかにされました。これによって、主の贖いの御業の歴史が始まっていますが、それは霊的な戦いという大きな枠組みの中で展開されています。そして、先週お話しましたように、主は、その霊的な戦いという大きな枠組みの中で、アブラハムに祝福の約束と召命を与えてくださいました。
*
「女の子孫」に関する約束を与えられたアダムとエバに最初に生まれたのはカインでした。4章1節には、
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。
と記されています。これは「女の子孫」として来られる約束の贖い主に対する信仰の告白です。エバは「ひとりの男子」と言いましたが、これは成人男子を表わすことば(イーシュ)です。「ひとりの」というのはこのことばが単数であることによっています。このことばが男の赤ちゃんを表わす例はありません。一般には、ここでエバが用いたことば(イーシュ)が2章23節に記されている、
これこそ、今や、私の骨からの骨、
私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。
これは男から取られたのだから。
というアダムのことばにおいて用いられている「男」ということばと同じことばですので、そのアダムのことばとの対比で理解されています。アダムが「女」は「男」から取られたことを述べているのに対して、エバは「男」は「女」から生まれるということを示しているというのです。
けれども、エバが、
私は、主によってひとりの男子を得た。
と言ったときに、「男」は「女」から生まれるというようなことを意識していたというようなことを考えることには無理があります。「男」が「女」から生まれるということは、すでに、「女の子孫」に関する約束や、3章16節に記されている、
わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。
というエバに対するさばきのことばから明らかでした。
ついでに申しますと、このエバに対することばはさばきの宣言ですが、これを15節に記されている「蛇」へのさばきのことばに示されている「女の子孫」に関する約束とのかかわりで見ますと、そこに恵みが示されています。なぜなら、このエバに対して語られたことばには、確かに、「女の子孫」が生まれてくることが示されているからです。
4章に記されているカインとアベルのことは、3章15節に記されている「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫と「女の子孫」と呼ばれている者たちの間の霊的な戦いという観点から記されています。このことから、
私は、主によってひとりの男子を得た。
というエバのことばは、「女の子孫」に関する神である主の約束を踏まえていると考えられます。実際、4章25節には、
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
と記されています。このエバの言う「もうひとりの子」の「子」ということば(ゼラァ)は「女の子孫」の「子孫」と同じことばです。エバは「女の子孫」に関する神である主の約束とのかかわりでセツの誕生を受け止めています。それはカインの誕生の時も同じであったと考えられます。
カインが誕生した時、エバはカインが成人するときの姿を考えていたことがうかがわれます。その意味では、エバが、
私は、主によってひとりの男子を得た。
というエバのことばには、カインが、主が約束してくださった「女の子孫」なのではないかという期待が込められています。カインが成人となって「蛇」の頭を踏み砕くようになることへの期待があったということです。
しかし、実際には、カインはそのような者ではありませんでした。アダムとエバには続いてアベルが生まれました。ご存知のように、カインは弟アベルを野に誘い出して、そこで殺してしまいます。「女の子孫」に関する主の約束を信じたアダムとエバの家族に、霊的な戦いにおける「敵意」が現われてきてしまいました。そのきっかけとなったことを記している4章2節〜7節には、
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
と記されています。
カインの問題は一体何だったのでしょうか。
2節には、
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
と記されています。ある人々は羊を飼うことの方が土を耕すことよりも主に喜ばれることであると考えていますが、そのように考えることはできません。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落する前のことを記している2章15節には、
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
と記されています。それは、1章28節に記されている、
生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
という造り主である神さまが委ねてくださった使命を果たすことです。また、堕落後のことを記している3章23節には、
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
と記されています。土を耕すことは神である主が人に委ねてくださった務めです。それは人類の堕落の後にも続いている大切な務めです。カインは、アダムの長子として、父アダムがしていた務めを引き継いだのだと考えられます。ですから、このことからカインの問題をくみ取ることはできません。
4章3節〜5節前半には、
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
と記されています。
アベルのささげものを記している最後の部分で、新改訳は、
それも自分自身で、持って来た。
と訳しています。この「それも自分自身で」と訳されたことば(ガム・フー)は「彼もまた」と訳されることばです。これを「それも自分自身で」と訳してしまうと、カインは自分でそのささげ物を持ってこなかったということになってしまいます。このことばからそこまでの意味をくみ取ることには無理があります。それで、4節は、
一方アベルであるが、彼もまた彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た。
というようになります。
ここで問題になるのは、主がアベルのささげ物を受け入れてくださったが、カインのささげ物は受け入れてくださらなかったのはどうしてかということです。
しばしば、カインのささげ物が穀物のささげ物であって、いけにえとしての血を流すささげ物ではなかったからであると説明されます。けれどもここで「ささげ物」と訳されていることば(ミンハー)は、一般的なささげ物を指すことばで、社会的な地位において上位の者に対する敬意や服従の思いなどを表わすためにささげられたものです。それは穀物でも家畜でもありえました。ですから、カインが穀物のささげ物をささげたこと自体には問題がありません。
カインのささげ物の問題としては、二つのことが考えられますが、それは一つのことの裏表のように、密接につながっています。
4節後半と5節前半には、
主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
と記されています。ここで主がご覧になったのはカインとアベルがささげたささげ物だけではなかったことが示されています。「アベルとそのささげ物とに」と訳された部分は直訳調に訳しますと「アベルに、そして彼のささげ物に」となります。「カインとそのささげ物には」と訳されている部分もまったく同じで、「カインには、そして彼のささげ物には」となります。主はまずアベルその人とカインその人をご覧になったのです。このことから、問題はカイン自身の中にあったことが分かります。
その問題はカインのささげ物に現われていました。カインの場合は、
カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
と記されています。しかし、アベルの場合は、
アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た。
と記されています。そして、先ほどの「一方アベルであるが、彼もまた」という4節の書き出しの部分からも分かりますように、ここでは、カインのささげ物とアベルのささげ物が対比されています。その対比の中で、アベルは羊の初子の中の最良のものをささげたと言われています、けれども、カインはただ「地の作物」のある物をささげたと言われているだけです。
後のイスラエルの民に与えられた律法においては、人や家畜の初子と穀物の初穂は主のものとして、主にささげるようになっていました。もちろん、人の初子の場合にはその贖いをしました。(民数記3章40節〜51節)それは、単なる規定上のことではなく、初子や初穂が全体を代表するものであるという理解があってのことです。つまり、初子や初穂を主にささげることは、その年に生まれた人や家畜や、その年の収穫はすべて神である主の祝福によって与えられたものであり、主からの賜物であるということを告白するものであったのです。
それで、聖書の最初の読者であるイスラエルの民が、
アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを持って来た。
ということを聞いたときには、そこにアベルの信仰告白があることをくみ取ったはずです。
しかし、カインのささげ物についての記述からは、そのような意味をくみ取ることができません。カインは、父アダムが毎年していたこととして、いわばアダムの家の習慣となっていたことにしたがってささげ物をささげただけだったのでしょう。アベルが主にささげ物をささげることの意味を理解していたということは、どこかでその意味を教えられていたということです。それで、カインもアベルもアダムから、主にささげ物をささげることの意味を教えられていたと考えられます。そして、カインはその意味を心に留めず、アベルはその意味を心に留めていたと考えられます。
このようなことを受けて、ヘブル人への手紙11章4節には、
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
と記されています。
主がカインとそのささげ物に目を留めてくださらなかった時のことを記す創世記4章5節には、
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
と記されています。
カインはどうして「ひどく怒り、顔を伏せた」のでしょうか。もちろん、アベルとアベルのささげた物は受け入れられたのに、自分と自分のささげた物が受け入れられなかったからです。今日のことばで言うと、ひどく傷つけられたということでしょうか。このことで、自分が被害者であると感じていたようです。それは自分と自分のささげた物を受け入れてくれなかった主に対する怒りですが、この怒りの結果、アベルを殺すに至ったことを考えますと、その主に対する怒りがアベルにも向けられていることが分かります。つまり、カインにとってはアベルは主と一つであったのです。ここに霊的な戦いの様相が見て取れます。そしてこのことは、ヨハネの福音書15章18節、19節に記されている、
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
というイエス・キリストのみことばを思い起こさせます。
このカインの激しい怒りには、深い根があります。それは、カインが主にささげ物をささげることの意味を理解していなかったということです。すでにお話ししましたように、主にささげ物をささげることは、信仰告白としての意味をもっています。創世記1章11節、12節に、
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
と記されていますように、天地創造の初めに神さまは、人や生き物たちをお造りになる前に、人や生き物たちの生存に必要な穀物や果樹を地から芽生えさせてくださいました。また、それに先立って、水分の蒸発によって雲が生じて雨が降るようになるための大気の循環のシステムを整えてくださっています。天の上にある水と天の下にある水を分けられたと言われていることです。そのようにして、造り主である神さまはすべてのいのちを支えてくださっています。
カインが土を耕していたことは、まさにそのことを実感する機会となったはずです。土を耕すことは、人や生き物たちの生存に必要な穀物や果樹を地から芽生えさせてくださった神さまの御業を引き継ぐことでもあります。もしカインが自分の土を耕す働きを造り主である神さまの御業と結びつけて理解していたとしたら、その働きの実としての収穫が神さまからの賜物であることを受け止めることができたことでしょう。そして、そのことを告白するためのささげ物をささげることができたことでしょう。
しかも、それは神さまの天地創造の御業を考えたときのことです。カインもアベルも父アダムにあって造り主である神さまの御前に堕落しています。カインもアベルも罪ある者として生まれてきて、罪を犯し続けています。それでも、神さまは真実にその年の賜物をカインにもアベルにも与えてくださいました。もしカインが自分のうちに罪の性質があり、その現われとしての罪を犯してきた者であることを認めていたなら、そのような自分をなおも支え続けてくださり、その年の収穫を与えてくださったことを、心からの感謝とともなるささげ物をもって告白することができたはずです。
しかし、先ほど引用しましたヘブル人への手紙11章4節のみことばからも分かりますように、カインはそのような意味での信仰による告白としてのささげ物をしたのではなかったのです。
このことには、さらに深い根があると思われます。創世記4章8節、9節には、
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
と記されています。
ここには、カインが弟のアベルを殺したときの様子が記されています。ここに記されていることにはいろいろな問題がありますが、いまお話ししていることに関係があることだけを取り上げたいと思います。その点で注目したいのはカインの神観です。カインは神さまのことをどのように理解していたのでしょうか。8節で、
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
と言われていることは、カインが神さまのことをどのように考えていたかを如実に物語っています。カインは人のいない「野」に行けばそこには神もいないと考えています。また、9節に、
主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
と記されていることは、アベルの死体を地に埋めて隠せば神さまの目からも隠れていると考えていたということを示しています。カインにとって、神さまは自分たち人間とそれほど変わらない存在でしかありませんでした。とても、自分の心の奥底にある思いまでも見通しておられる方であるとは思えませんでした。
カインが神さまのことをこのように考えた理由は、カインのうちにある罪の暗やみのせいです。それとともに、神さまが実を低くしてカインに親しく現われてくださっていたためでもあると思われます。主はカインに、
あなたの弟アベルは、どこにいるのか。
と問いかけられました。これは、3章9節に記されているように、人が神である主に対して罪を犯した直後に、主が、
あなたは、どこにいるのか。
と問いかけられたことと同じ意味をもっています。どちらも、罪を犯した者に罪を認めて告白する機会を与えてくださるための問いかけです。これに対してカインは、
知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。
と答えました。主の問いかけを聞いたカインは、そのようなみこころを受け止めるどころか、逆に、「やはり、主は見ていなかったし、分かっていないのだ」と考えたようです。
神さまのことを自分とあまり違わない存在であるとする理解は、あの「蛇」の背後にいて働いていたサタンの理解です。カインは神さまのことを自分とあまり違わないと考える点で、サタンと一致しています。カインは神さまが天地の造り主であられ、自分たちは神さまによって造られたものであり、神さまの御手によって支えられているものであるということを認めませんでした。言い換えますと、カインは神さまの聖さをわきまえていなかったのです。
このように、カインは、神さまが天地の造り主であり、カイン自身を含めて、お造りになったすべてのものを支えておられる方であるとは信じていませんでした。それで、その年の収穫が神さまの祝福によるものであるとは思えなかったのです。形としてはささげ物をしています。父アダムから教えられたことにしたがってのことでしょうし、小さいときからの習慣にしたがってのことであったのでしょう。しかし、そのことの意味はまったく変質してしまっています。
それで、主はカインとカインのささげ物をお受けになりませんでした。そして、4章6節、7節に記されている、
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
というみことばに示されていますように、主はカインに自分自身を主との関係において見直すように迫ってくださったのです。しかし、カインは神さまの聖さをわきまえていなかった自分の罪を認めて、神さまに対する理解を変える代わりに、ひそかにアベルを殺してしまいます。それは、神さまが受け入れたアベルを殺したということで、神さまに対する復讐としての意味をもっています。
このようにして、霊的な戦いの歴史は始まりました。その根底には、神さまについての理解の問題があります。霊的な戦いには神さまの聖さに対するわきまえが深くかかわっているのです。
|