(第149回)


説教日:2003年11月23日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 講壇交換と伝道集会で少し間が空いてしまいましたが、きょうも聖なるものであることについてのお話を続けます。
 ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまが大きなあわれみによって私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださったということが記されています。そこでは、それによって私たちが「生ける望」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつ者となったと言われています。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」の「資産」は相続財産のことです。相続財産を受け継ぐのは子としての身分をもっている者ですから、このことは、私たちが父なる神さまの子としての身分を与えられているということを意味しています。事実、ヨハネの手紙第一・3章1節に、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、―― 事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

と記されていますように、私たちはすでに神の子どもです。
 聖書は一貫して、神の子どもが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身であることを示しています。そして、神さまを相続財産として受け継ぐということは、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者となるということを意味しています。イエス・キリストは私たちの罪を贖ってくださるために十字にかかって死んでくださいました。そして、私たちを新しく復活のいのちによって生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださいました。
 このことは今から二千年前にイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださったことです。イエス・キリストは私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださって、死者の中からよみがえられた方として、今も生きておられます。父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださって、今日に至るまでご自身の民を罪と死の力から救い出し、父なる神さまとの愛にある交わりのうちに生かしてくださっています。
 私たちは、イエス・キリストが遣わしてくださった御霊のお働きによって、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって罪を赦していただいています。また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれて、神の子どもとしての身分を与えられています。そして、父なる神さまとの愛にある交わりに生きる者としていただいています。御霊はイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになります。今この時も私たちのうちに宿ってくださって、私たちを神の子どもとしての歩みに導いてくださっています。ローマ人への手紙8章14節〜16節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されているとおりです。ここで、

私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われていることは、父なる神さまのご臨在の御前において父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることの現われです。ですから、これが神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産の中心です。
 このような主の契約の民が受け継ぐ相続財産のことは、古い契約の下では、アブラハムに与えられた契約において約束されていました。
 主がアブラハムを召してくださったことを記している創世記12章1節〜3節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」

と記されています。アブラハムは、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束とともに主からの召命を受けました。ことから、アブラハムの歩みに沿っていくつかのことをお話ししてきました。それに続いて、アブラハムが召命を受けたことの歴史的な背景になっていることについて、いくつかのことをお話ししました。そして、天地創造の初めに人が神のかたちに造られて神さまのご臨在の御前に生きる者とされていたことについてお話ししました。きょうは、アブラハムが受けた召命の歴史的な背景についてもう少しお話しします。


 アブラハムはイスラエル民族の父祖です。けれども、先ほど引用しましたアブラハムに与えられた祝福と召命に示されていますように、アブラハムはその血肉の子孫であるイスラエルの民だけの祝福ではなく、イスラエルの民も含めた「地上のすべての民族」の祝福のために召されました。このアブラハムに与えられた祝福の約束の視野の広がりが、古い契約全体の根本的な意味を理解する上で大切なことです。また、このことをしっかりと見据えることによって初めて、アブラハムという一民族の父祖に与えられた祝福の約束と召命が、アブラハムの血肉の子孫とは別の民族に属している私たちに関係があることが理解できます。
 このアブラハムに与えられた祝福の約束と召命に続くアブラハムの生涯においては、アブラハムの子、アブラハムの相続人としての子のことが問題になってきます。そして、そのアブラハムの子に関する神である主の約束がアブラハムに与えられた時に、アブラハムはその主の約束のことばを信じて、義と認められています。
 創世記15章3節〜6節には、

さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。11章30節に、

サライは不妊の女で、子どもがなかった。

と記されていますように、サラが「不妊の女」であったために、アブラハムには子どもがありませんでした。そのアブラハムが先ほど引用しました祝福の約束と召命を受けたのが七十五歳の時でした。その時すでにサラが「不妊の女」であることは明らかになっていましたが、アブラハムは、

  わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。

という主の祝福と約束を信じて約束の地に向けて旅立ちました。それから約十年経って、先ほどの、

ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。

という主のみことばが与えられます。この時、アブラハムは主とそのみことばを信じて義と認められています。
 このことが、人は信仰によって義と認められるということの典例となっています。このことが示すように、人は信仰によって義と認められるというときの信仰は主を信じる信仰です。主を信じるということは、主が語ってくださったことを信じるということです。私たちは、主が語ってくださった福音のみことばを信じる信仰によって義と認められています。
 アブラハムは相続人としての子が与えられる約束を受け、その約束のことばを信じて義と認められました。しかし、実際にアブラハムに約束の子が産まれたのは、それからさらに約十五年経ってのこと、アブラハムが百歳の時、召命を受けて旅立ってから二十五年後のことです。
 これらのことから、アブラハムの子どもがどのような意味をもっているかということがうかがわれます。ローマ人への手紙4章16節〜22節には、

そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されています。ここに記されているように、アブラハムの子は、アブラハムの血肉の力によって生まれた者たちではありません。そうではなく、天と地をお造りになった神さまの御力によって新しく造られた者たちです。その中に私たちも含まれています。私たちもイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、神さまの御力によって新しく造られたアブラハムの子孫です。先ほど引用しましたローマ人への手紙4章16節〜22節に続く23節〜25節には、

しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

と記されています。また、ガラテヤ人への手紙3章6節、7節にも、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

と記されています。
 このアブラハムの子には、もう一つの意味があります。アブラハムに与えられた祝福の約束は、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という「地上のすべての民族」を包み込む祝福を約束するものです。アブラハムも含めてすべての人は神のかたちに造られており、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者として造られています。けれども、すべての人は神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているために、神さまとのいのちの交わりを失ってしまっています。アブラハムに与えられた祝福は、このことを背景として与えられています。それでこの祝福は、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるという祝福です。神さまはその祝福を実現してくださるためにアブラハムを召してくださったのです。
 実際に、すべての人は罪の性質を宿しており、この地上の生涯において罪を犯しています。そのために、聖なる神さまのご臨在の御前から退けられ、神さまの御怒りの下にあります。そのような状態にある人をもう一度新しく造り変えてくださって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためには、まず、その人の罪が完全に清算されなければなりません。ですから、神である主がアブラハムに、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という祝福の約束を与えてくださったことには、表には出てきていませんが、罪の贖いの備えがあるはずです。
 神さまの救いのご計画の流れの中にあっては、アブラハムに与えられた、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という祝福の約束は、アブラハムの子孫の中から約束の贖い主が生まれてくるということを意味していました。そのことは、創世記12章1節〜3節に記されている、契約の神である主がアブラハムに与えてくださった祝福と約束のことばだけからは分かりません。そのことは、最初の人アダムが造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、神である主が与えてくださった贖い主に関する約束とのつながりを踏まえて、アブラハムに与えられた祝福の約束を見たときに分かってくることです。
 最初の人アダムが神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、神である主は最初の女性エバを罪へと誘った「」に対するさばきを宣言されました。それを記している創世記3章14節、15節には、

  神である主は蛇に仰せられた。
  「おまえが、こんな事をしたので、
  おまえは、あらゆる家畜、
  あらゆる野の獣よりものろわれる。
  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。
  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 前にお話ししたことですが、これは「最初の福音」と呼ばれるものです。けれども、これは「」に対するさばきを宣言するものです。その「」に対するさばきの宣言が、神である主に罪を犯して御前に堕落してしまっている人間にとっては福音のみことばとなっています。
 この「」は単なる動物の蛇の能力を越えて、造り主である神さまの戒めに関してエバと対話をしています。ですから、この「」の背後に「」をとおして働いている人格的な存在があります。それは、非常に優れた御使いとして造られたのに、自らに与えられている栄光のゆえにおごり高ぶって、神さまに敵対するようになった悪魔とかサタンと呼ばれる存在です。サタンは神のかたちに造られてこの世界を治める使命を委ねられた人間を、造り主である神さまに対して罪を犯して背く者となるように誘いました。つまり、霊的な戦いにおいて人を自分の側につけて神さまに逆らう者となるように誘ったのです。もちろん、そのような意図を見せて誘ったのではありません。また、そのサタンの意図は今も人々の目から隠されています。サタンの戦略は初めから終わりまで欺くことにあります。サタンは自分以外のものを欺くだけではありません。誰よりもサタン自身が、自分は神のようになれるという思い込みによって自らを徹底的に欺いています。私たちはただみことばの光の下で、それを理解することができるようになったのです。
 サタンは、人を自分の側につけて神さまに逆らう者とする企てに成功しました。けれども神さまは、ここで、サタンが人を欺くために用いた「」を用いて、逆にサタンに対するさばきの宣言をしておられます。そして、まず、

  おまえは、一生、腹ばいで歩き、
  ちりを食べなければならない。

と宣言されました。ここで「ちりを食べる」ということは敗北するということを意味しています。ですから、これはサタンが仕掛けた霊的な戦いにおいてサタンが敗北することを示すものです。
 そして、それが具体的にどのように実現するかも示されています。それを示すのが、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

というみことばです。ここでは、神である主が「おまえの子孫」と呼ばれるサタンの霊的な子孫と「女の子孫」との間に「敵意」を置いて、二つ群れの間を引き裂くということから始まります。このサタンに対するさばきの宣言がなされた時には、サタンと人類は造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落したものとしてつながっていました。人は自らの血肉の力によってはそのつながりを断ち切ることはできませんが、神さまがそのつながりを断ち切られるというのです。それは、二つの群れの間に「敵意」を置いてくださることによると言われています。
 より具体的には、

  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われていますように、「」と呼ばれている「女の子孫」が「おまえ」と呼ばれているサタンの頭を踏み砕いて滅ぼしてしまうということです。この場合、「女の子孫」は集合名詞で、「女の子孫」として生まれてくる者の群れを指しています。その中に私たちも含まれているわけです。ローマ人への手紙16章20節に、

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

と記されているとおりです。
 同時に、この神である主が宣言されたサタンに対するさばきのことばからも、また、このさばきが宣言された状況からも、神である主が「敵意」を置いてくださることによって引き裂かれる二つの群れには、それぞれの「かしら」である存在があります。一方の群れのかしらは、言うまでもなく、「おまえ」と呼ばれているサタンです。ところが、もう一方の群れのかしらは「女の子孫」と呼ばれている方で、この時にはまだ歴史の舞台に登場してきていません。
 もちろん、私たちにとってはすでにその方は来てくださってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださっています。それによって、サタンに致命的な打撃を与えられました。黙示録12章7節〜10節に、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

と記されているとおりです。
 この人類の堕落の直後になされたサタンに対するさばきの宣言から、神である主の贖いの御業の歴史が始まっています。それで、神である主の贖いの御業の歴史は、神である主が「敵意」を置いてくださったことによって引き裂かれた二つの群れの間の霊的な戦いの様相を取ります。また、この後に示されるすべての約束は、この霊的な戦いの文脈の中でやがて神である主が遣わしてくださる、「女の子孫」として来られる贖い主につながっていきます。
 このことをアブラハムに与えられた祝福の約束と召命とのかかわりで見ますと、「女の子孫」として来られる贖い主は、アブラハムの子孫として来られるということになります。そして、このことは、アブラハムの子孫がどのようなものであるかを示す約束の子イサクによっても示されています。
 アブラハムが受けた最後の試練として記されているのは、主が約束の子であるイサクをささげるようにと命じられたことでした。創世記22章1節、2節には、

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

と記されています。アブラハムはこのような神である主の命令に従ってイサクを主にささげました。9節〜13節には、

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

と記されています。これも以前お話ししたことがありますが、ここで主が備えてくださった「雄羊」をイサクの代わりにささげたということは、アブラハムがイサクをささげたことを主が完遂してくださったということを意味しています。アブラハムはイサクをささげなかったのではなく、確かにイサクを主にささげたのです。それによって、イサクはもはやアブラハムのものではなくなり、主のものになりました。イサクは約束のことでした。アブラハムが百歳の時に「不妊の女」と言われているサラから生まれた子でした。そうではあっても、やはりアブラハムから出た子です。そのイサクが、この時まったく主にささげられて、主のものとなりました。アブラハムはそのようにして自分との血肉のつながりの断ち切れた「新しいイサク」を受け取ったのです。ヘブル人への手紙11章17節〜19節に、

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

と記されているとおりです。
 このようにして、イサクを地上的なひな型として示されているアブラハムの子孫は、アブラハムとの血肉のつながりによらない、主の一方的な恵みによって備えられたものであることが示されています。
 それと同時に、そのようにしてアブラハムが主に自分の子イサクをささげたことを受けて、主はアブラハムに最後の約束をしてくださいました。創世記22章15節〜18節には、

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

と記されています。
 ここでは、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と言われています。そして、

そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

と言われていますように、霊的な戦いにおける勝利が示されています。ここでも「あなたの子孫」は単数形で集合名詞で、アブラハムの子孫たちの群れを指しています。その中に私たちも含まれています。それと同時に、このアブラハムの子孫の群れにも、そのかしらである方がいます。それは、「女の子孫」またアブラハムの子孫として来てくださった贖い主イエス・キリストです。
 このように、アブラハムに与えられた「地上のすべての民族」を包み込む祝福の約束と召命は、創世記3章14節、15節に記されている「蛇」へのさばきの宣言から始まる神である主の贖いの御業の歴史の流れの中で与えられたものです。そして、それは基本的に霊的な戦いとしての意味をもっています。この霊的な戦いにおいては、これまでお話ししましたアブラハムの子がどのようなものであるかということから分かりますように、「女の子孫」またアブラハムの子孫の群れは、ひたすら神である主と主の約束のみことばを信じるのであって、血肉の力を頼みとするものではありません。私たちがアブラハムの信仰に倣うということは、ひたすら神である主と主の約束のみことばを信じるということに他なりません。また、アブラハムの生涯における何度かの失敗に見られるように、神さまの恵みと約束のみことばを見失って、血肉を頼みとしたとたんに、その道を踏み外してしまいます。霊的な戦いにおいては、イエス・キリストの十字架において現わされた神である主の恵みに満ちた栄光だけが、「女の子孫」またアブラハムの子孫の群れの拠り所です。
 コロサイ人への手紙2章9節〜15節には、

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と記されています。
 霊的な戦いと言いますとエクソシズムのような悪霊との対決が思い浮かぶかもしれません。しかし、それも霊的な戦いの一つの現われでしかありません。どのような形を取るとしても、霊的な戦いの本質を見失いますとサタンの欺きによって、見当違いの戦いをしてしまうことになります。
 父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおしてご自身の契約の民のために贖いの御業を成し遂げてくださった時に、霊的な戦いの勝利は決定的になりました。イエス・キリストの十字架においてサタンを初めとする暗やみの主権は崩壊しています。ですから、私たちが十字架の御許に結集することこそが、霊的な戦いにおける勝利の秘訣です。そして、実際に、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業が、御霊のお働きによって「地上のすべての民族」から召された主の民に当てはめられて、キリストのからだである教会が建て上げられていること、そして、私たちが神の子どもとしての身分において、父なる神さまを礼拝することを中心とした愛にあるいのちの交わりに生きていることこそが、霊的な戦いの勝利のしるしです。私たちがそのような神の子どもの自由の中に生きていることこそが、

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と言われていることの、最も明確で現実的な現われであるのです。

 


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