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説教日:2003年11月2日 |
神さまの天地創造の御業において造り出されたこの世界の最初の状態を記している創世記1章2節には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、イザヤ書45章18節では、神さまのことが、 天を創造した方、すなわち神、 地を形造り、これを仕上げた方、 すなわちこれを堅く立てられた方、 これを形のないものに創造せず、 人の住みかに、これを形造られた方 と呼ばれています。この「形のないもの」と訳されていることばが、創世記1章2節で、 地は形がなく、何もなかった。 と言われているときの「形がなく」ということばと同じことば(名詞・トーフー)です。イザヤ書45章18節では、「形のないもの」は、その後の「人の住みか」と対比されています。創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事では、全体の見出しに当たる1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われて、この宇宙のすべてのものが神さまの創造の御業によって造り出されたことが宣言されています。そして、2節に記されている、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 ということばによって、創造の御業の記事の焦点が私たちの住んでいるこの「地」に合わせられていることが示されています。もちろん、神さまはこの宇宙のすべてを造り出す御業を遂行しておられるのですが、その宇宙全体にわたる御業の具体的な様子には触れないで、その関心をもっぱらこの「地」に注いでいるのです。しかも、この創造の御業の記事は、この「地」に住んでいて、「地」にある者の視点から見た神さまの創造の御業をを記しています。 そのような創造の御業の記事の初めに、私たちが住んでいるこの世界がまだ「形がなく、何もなかった」と言われている状態の時、すでに、 神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。神さまは存在においても栄光においても無限、永遠、不変の方です。この150億光年の彼方に広がっていると言われている宇宙を無限に越えた方でありつつ、この宇宙のどこにでもおられます。創造の御業においては、そのような方として、この広大な宇宙のすべてのものをお造りになっておられます。また摂理の御業においては、そのような方として、この宇宙のすべてのものを支え、すべての事象を導いておられます。そのような意味で、神さまがこの世界のどこにでもおられるということを、神さまの「遍在」と呼びます。けれども、創世記1章2節で、 神の霊は水の上を動いていた。 と記されているのは、そのような意味での神さまの遍在のことではありません。ここでは、神さまが特別な意味でそこにご臨在しておられたことを記しています。 神さまは、この世界を「人の住みか」にお造りになるために、まず、ご自身が御霊によってここにご臨在してくださいました。これによって、この世界をご自身がご臨在される世界として聖別してくださったのです。この世界は「人の住みか」として整えられるに先立って、造り主である神さまが御霊によってご臨在される世界であったのです。言い換えますと、この世界は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがお住まいになる世界であるのです。そのことは天地創造の初めから変わっていません。それで、預言者イザヤの時代においても、イザヤ書66章1節、2節に記されていますように、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 と言われています。 また、このことは、私たちの生き方に深くかかわっています。マタイの福音書5章33節〜35節に記されていますように、イエス・キリストはこのイザヤをとおして語られた主のみことばを背景として、 さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。 と教えておられます。この教えはさらに続いていて、35節後半〜37節において、 エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 と記されています。 これはどういうことかと言いますと、23章16節〜22節には、 忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、こう言う。「だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。 という、律法学者やパリサイ人に対する糾弾したイエス・キリストのみことばが記されています。 この例に見られますように、その当時、あるものを指して誓ったときには果たさなければならないが、別のものを指して誓ったときには果たさなければならないわけではないというような教えがあったために、誓いが乱用されて、人を欺くために用いられることさえあったようです。イエス・キリストは、この世界のどのようなものを指して誓ったとしても、その誓いが造り主である神さまと無関係になることはあり得ないということを示しておられます。それは、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになって、今もそれを支えておられるからです。 さらに、エレミヤ書23章23節、24節には、 わたしは近くにいれば、神なのか。 遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れた所に身を隠したら、 わたしは彼を見ることができないのか。 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。 と記されています。これも、この世界に主がご臨在しておられることを示しています。これは、その前後を見ると分かりますように、偽預言者たちの活動とのかかわりで語られた主のみことばです。この世界は「人の住みか」である前に、あるいは「人の住みか」である以上に、神さまがお住まいになる世界です。この世界は神さまがお住まいになる世界として、天地創造の初めから聖別されています。ですから、人がこの世界のどこにおいて何を語るにしても、その人は神さまのご臨在の御前において語っています。偽預言者がどんなに巧妙に偽りを語って人を完全に欺いても、そのことは神さまのご臨在の御前で起こっています。 ですから、イエス・キリストが、 だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 と教えておられるように、神さまのご臨在の御前にある者として、「はい。」と言えば、それは「はい。」を意味していて、それ以外ではないというのが、真実な者のあり方です。そのうえにさらに誓いを必要としているというのは、そこに、「はい。」と言っても、そうではないかも知れないというような不信があるからです。イエス・キリストは神の子どもたちの間では、そのようなお互いに対する不信に基づく誓いをしてはならないと教えておられます。それは、神の子どもたちの間では、お互いに対して常に真実であるということの上に成り立つことです。 ただし、神さまが誓われた例や、結婚の誓約に見られるように、相互不信に基づくのではなく、真実な者としての確かな決意を伝える誓いがあります。主は、どのような誓いもすべて否定しておられるのではありません。 このように、神さまは創造の御業によってこの世界を「人の住みか」にお造りになりましたが、それに先立って、ご自身がご臨在される世界として聖別されました。そのことが、この世界に生きる私たちの生き方に決定的な意味をもっています。神さまはこの世界をご自身がご臨在される世界として聖別されたのですが、それは何によりも、神のかたちに造られている人間をご自身の御前に生きるものとして聖別されるためのことでした。 ペテロの手紙第一・1章15節、16節には、 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 と記されています。ここではレビ記19章2節の、 あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。 というみことばが引用されていますが、それは、天地創造の初めからの神さまの基本的なみこころを示しています。その神さまの基本的なみこころは、私たちが常に神さまのご臨在の御前において、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるということです。 このようなみこころを背景にして、1章3節に、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と記されていますように、この世界にご臨在された神さまは、ご臨在の御許から発せられる一連のみことばによって、この世界を「人の住みか」として整えてゆかれました。 それは、同時に、造り主である神さまのご臨在の御許からあふれ出る豊かさに満ちた世界、ここに神である主がご臨在しておられることを映し出す世界として整えてくださることでもありました。それで、詩篇19篇1節〜4節では、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、 夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、 その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、 そのことばは、地の果てまで届いた。 と歌われており、ローマ人への手紙1章20節では、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 とあかしされているのです。 ここで大切なことは、神さまがこの世界を「人の住みか」としてお造りになったことと、ご自身がご臨在される世界としてお造りになったことは矛盾することではなく、むしろ、一つのことの裏表であるということです。本来、「人の住みか」とは、造り主である神さまご自身がご臨在される所のことです。そして、神さまのご臨在が豊かに映し出されている所のことです。詩篇84篇1節〜4節には、 万軍の主。あなたのお住まいは なんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 雀さえも、住みかを見つけました。 つばめも、ひなを入れる巣、 あなたの祭壇を見つけました。 万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。 あなたの家に住む人たちは。 彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 と記されています。これは地上的なひな型である地上の神殿の表象を用いて表わされていますが、神である主がご臨在される所こそが、主の民の住まうべき所であるということを示しています。 先週と先々週引用しました創世記2章7節に記されている、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 というみことばは、擬人化による表現で神である主の御業を記しています。それは、これまでお話ししてきたこととのかかわりで見ますと、ご自身がお住まいになるように聖別されたこの世界にご臨在される主の御業です。神さまが、この世界を「人の住みか」である前に、ご自身がお住まいになる世界としてお造りになったということは、このように、人と顔と顔を合わせるようにして親しく向き合ってくださるためのことであったのです。 神である主がご臨在される所こそが、主の民の住まうべき所であるということはまた、黙示録21章1節〜4節に、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されていることにも見られます。 ここには、世の終わりの栄光のキリストの再臨によって完成する新しい天と新しい地の様子が記されています。私たちの間では、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いによって、すでに神である主と主の民の間の愛にあるいのちの交わりが回復しています。この交わりは、栄光のキリストの再臨から始まるご臨在によって、充満な栄光に満ちたものとして完成します。それが、新しい天と新しい地において実現します。この新しい天と新しい地においては、 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 と言われていますように、私たちは、神さまのご臨在の至近において住まうようになります。ここでは、 神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み と言われていて、神さまが私たちとともにいてくださることが示されています。私たちが神さまのご臨在の御前に近づくためには、それに先立って、神さまが私たちの間にご臨在してくださらなければなりません。この世界が「人の住みか」である前に神さまがご臨在される世界であるのは、そのことを反映しています。 このように、この世界は何よりもまず神さまがご臨在される世界であり、それが「人の住みか」として整えられているという点では、天地創造の初めから、世の終わりの完成に至るまで一貫しています。 この新しい天と新しい地は、栄光のキリストの再臨によってもたらされるものです。それは父なる神さまが栄光のキリストにあって再創造されるものです。さらに、この新しい天と新しい地は、父なる神さまが栄光のキリストにあって充満な栄光のうちにがご臨在されるのにふさわしい栄光に満ちた世界です。 このような新しい天と新しい地が造り出されることに先立って、黙示録20章11節には、 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 と記されています。 これは、父なる神さまが栄光のキリストにあって、また栄光のキリストをとおして、最終的なさばきを執行される時のことです。そのような意味をもった栄光の主のご臨在の御前には、古い天も古い地も溶け去ってしまうということです。いま私たちが住んでいるこの世界は、充満な栄光のうちに再臨される栄光のキリストのご臨在と、栄光のキリストにある父なる神さまのご臨在に耐えることができないのです。 その理由は、すでに繰り返しお話ししたことです。創世記1章26節〜28節に記されていますように、天地創造の初めに神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界と、その中に住むすべてのものを治める使命をお与えになりました。神のかたちに造られた人間は、神さまがご臨在されるこの世界において、見えない神さまを代表し、現わす存在です。神のかたちに造られた人間は、自分に委ねられたすべてのものを治めるだけではありません。自分に委ねられたすべてのものを代表して造り主である神さまのご臨在の御前に立って、神さまを礼拝します。この世界のすべてのものは神さまの御手によって支えられています。しかし、造り主である神さまを礼拝するという点では、神さまがお造りになったすべてのものは、神のかたちに造られている人間を接点として、造り主である神さまとつながっています。みことばには、全被造物が造り主である神さまを礼拝していることが示されています。そして、その中心に、神のかたちに造られている人間の礼拝があります。いまここで私たちが造り主である神さまを礼拝していることには、全被造物にわたる礼拝の中心としての意味があります。その人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、被造物全体は虚無に服してしまいました。本来、全被造物が造り主である神さまに対する礼拝にかかわっていますが、その全被造物にわたる礼拝が損なわれてしまったのです。 そのような状態にある被造物が回復されるのも、神のかたちに造られている人間が回復されることにあずかってのことです。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されているとおりです。 神のかたちに造られている人間が回復されたのは、父なる神さまのさばきが執行されて、神さまの義が立てられ、聖さが取り戻されることによっています。神さまの義の尺度にしたがっての罪の清算がなければ、回復もありません。それは人間自身が自らの力によって実現したことではなく、永遠の神の御子が人の性質を取って来てくださって、十字架の上で私たちの身代わりとなって父なる神さまのさばきを余すところなく受けてくださったことによっています。 繰り返しになりますが、 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 と言われているのは、最終的なさばきを執行するために、栄光のキリストにあって充満な栄光のうちにご臨在される父なる神さまのご臨在の御前に、古い天と古い地が跡形もなくなってしまったということです。 しかし、それで終わるのではありません。古い天と古い地は、神さまの再創造のお働きによって回復され、完成します。ヨハネの福音書1章1節〜3節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。最初の天地創造の御業は、父なる神さまが御子にあって、また御子によって遂行されたものです。それと同じように、新しい天と新しい地を創造する御業も、父なる神さまが栄光のキリストにあって、また栄光のキリストによって遂行されます。 実は、この新しい天と新しい地を創造される父なる神さまの御業は、ある意味で、すでに始まっています。それは、父なる神さまのみこころにしたがって十字架にかかって死なれた御子イエス・キリストを、父なる神さまが死者の中からよみがえらせてくださったことによって始まっています。イエス・キリストの復活のからだは、いまのこの世界に属するからだではなく、新しい天と新しい地に属するからだです。 イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、新しい天と新しい地の歴史の初めを画する出来事です。そのイエス・キリストの復活のからだは、人の性質を取ってこられたときのイエス・キリストのからだが栄光化されたものです。そこにはつながりがあります。それと同じように、新しい天と新しい地も、古い天と古い地がイエス・キリストの贖いの御業に基づく再創造のお働きによって回復し、栄光あるものにされることによって出現します。 テモテへの手紙第一・2章5節、6節には、 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 と記されています。イエス・キリストはまことの神としては、父なる神さまと本質と栄光において等しい神です。まことの人としては、私たちと同じ人の性質をお取りになった方です。イエス・キリストは、そのような方として、唯一の「神と人との間の仲介者」であられます。それで、イエス・キリストは父なる神さまと一つであられ、父なる神さまは御子イエス・キリストにあってこの世界にご臨在されます。また、イエス・キリストは私たちと一つとなってくださいました。私たちと一つとなってくださって、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださいました。 この意味で、死者の中からよみがえられた栄光のキリストには二つの面があります。 一つの面は、栄光のキリストがおられるところには父なる神さまも充満な栄光においてご臨在されるということです。終わりの日の栄光のキリストの再臨は、父なる神さまの充満な栄光におけるご臨在でもあります。マタイの福音書16章27節には、 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。 というイエス・キリストのみことばが記されています。これはイエス・キリストと父なる神さまが救いとさばきの御業において常に一つであられるということによっています。 もう一つの面は、イエス・キリストは私たちご自身の民と一つとなるために、人の性質を取って来てくださったということです。そのように私たちと一つとなってくださって、私たちの身代わりになって十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださいました。それで、私たちは私たちと一つとなってくださったイエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっています。このことによって、イエス・キリストのおられる所には、私たちもいるようになりました。エペソ人への手紙2章4節〜6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。 イエス・キリストの復活のからだは、新しい天と新しい地に属するからだです。それは私たちとの一体性ということから見ますと、私たち主の民のよみがえりの初穂としての意味をもっています。コリント人への手紙第一・15章20節に、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 と記されているとおりです。また、ピリピ人への手紙3章20節、21節には、 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 と記されています。 このように、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、新しい天と新しい地に属するものが歴史の現実となっているということを意味しています。そして栄光のキリストがご臨在される所には、父なる神さまの充満な栄光のご臨在があるので、今は栄光のキリストは父なる神さまの御許にとどまっておられます。今のこの天と地は、栄光のキリストにある父なる神さまの充満な栄光のご臨在に耐えることができないために、もし栄光のキリストにある父なる神さまの充満な栄光のご臨在がここにあれば、この世界の歴史が終わってしまうからです。しかし、終わりの日には栄光のキリストが再臨されます。それは、父なる神さまが充満な栄光においてご臨在されることでもあります。 栄光のキリストにあってご臨在される父なる神さまは、栄光のキリストにあって、また栄光のキリストによって新しい天と新しい地を創造してくださいます。それは栄光のキリストと栄光のキリストにある父なる神さまの充満な栄光に満ちたご臨在のある世界です。その意味でこれは、最初の天地創造の御業によって造り出された世界が完成することです。 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 と言われているのは、私たち主の民が栄光のキリストのご臨在と栄光のキリストにある父なる神さまの充満な栄光に満ちたご臨在の御許に住むようになるということを意味しています。その時、私たちは栄光のキリストにあって父なる神さまとの充満な栄光にあるいのちの交わりにあずかります。これこそが、私たちが受け継いでいる相続財産の最終的に完成することです。 その最終的な完成に至る歴史は、すでにイエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって始まっています。最後に、そのことを踏まえてペテロの手紙第一・1章3節、4節に記されているみことばを読んでみましょう。 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 |
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