(第147回)


説教日:2003年10月26日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節では、父なる神さまが私たちを、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつ者としてくださったと言われています。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」の「資産」は、相続財産のことです。この相続財産は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪をすべて贖っていただき、復活のいのちによって新しく生まれて、神の子どもとしての身分をいただいている私たちに与えられています。
 福音のみことばによりますと、神の子どもたちが受け継いでいる相続財産の中心は、神さまご自身です。父親の財産を相続するのは、その子どもです。その際に、ただ物質的な財産だけを相続するのではありません。その父の子であるということにかかわる特権のすべてを相続します。それは父とともに過ごした日々において父から受けたさまざまな影響をも含んでいます。そのような、父とともに歩むことによって受ける教えや訓練は、父が生きている時にすでに受け継いでいる相続財産です。その中でいちばん大切なものは、父がその子に示している愛です。その愛において父は自分自身を、その子に与えています。それが子が父から受ける最大の財産です。今日の物質主義的な発想の社会では、このような意味での相続財産は考えられないかもしれませんが、これに比べれば、物質的な財産は付録のようなものです。同じように、神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによって神の子どもとしていただいている私たちは、神さまご自身を相続財産として受け継いでいるのです。
 これまで、神の子どもが受け継いでいる相続財産のことは、古い契約の下ではアブラハムに与えられた契約において示されているということから、旧約聖書に記されているアブラハムの生涯に沿って、いくつかのことをお話ししてきました。そして、さらに、そのアブラハムが主から受けている祝福の約束と召命の背景になっていることをお話ししました。
 きょうは、先週お話ししました、神さまが、ご自身のかたちにお造りになった人に委ねてくださった権威についてのお話を補足したいと思います。


 先週お話ししたことの復習になりますが、創世記2章7節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されています。ここでは「」が「土地のちり」から形造られたと言われています。この場合、「」ということば(アーダーム)と「土地のちり」の「土地」ということば(アダーマー)の間に語呂合わせがあって、「」が「土地」と深く結び合っていることが示されています。そして、「土地のちり」の「ちり」は、ほこりやごみのことではなく、非常に細かい粒子を表わしています。
 また2章19節には、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されていまして、「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」も「」から形造られたことが記されています。この「」ということばは、「」がそこから形造られた「土地」と同じことば(アダーマー)です。このように、「」が「土地のちり」から形造られたということは、「」が神さまがお造りになったこの物質的な世界に属しているということを意味しています。この点は、天使たちと違います。天使たちも神さまがお造りになった存在ですが、天使たちには物質的な要素がありません。
 創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここでは、造り主である神さまが人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界とその中にあるすべてのものを治める使命をお委ねになったことが記されています。人がこのような使命を授けられたのは、人が神のかたちに造られているからです。
 2章4節以下の記事は、この点を踏まえたうえで記されています。ここでは、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界とその中のすべてのものを治める使命を委ねられた人間に焦点を当てています。そして、いわば造り主である神さまを代表してこの世界とその中にあるすべてのものを治める使命を委ねられた人間は、自分が従える「」や「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」とかけ離れた超然としたものではなく、それらと深く結び合っているものであることが示されているのです。先週お話ししましたように、ここに、神のかたちに造られて、神さまがお造りになったこの世界とその中のすべてのものを治める使命を委ねられた人間の権威が、どのようなものであるかが示されています。その権威は、自分に委ねられたものたちと深く結び合っていることを自覚して、それらの特性を生かすように仕えていくことによって行使されます。決して、自分に委ねられたものを力尽くで押さえつけ、それらを自分のために搾取するような権威ではありません。
 先ほど引用しました2章19節に、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されていますように、人が神さまから委ねられた権威を行使したことの最初の現われは、それぞれの生き物の名をつけることでした。人は、造り主である神さまがそれぞれの生き物に与えてくださった特質を発見して、その本質を表わす名をつけました。一般の社会でもそうですが、あるものに名をつけるということは権威を行使することです。それはまた、それぞれの生き物との関係を結ぶことで、これによって人はそれぞれの生き物と親しい交わりをするようになったのです。
 同時にこれは、18節に、

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

と記されており、20節に、

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

と記されていますように、神さまが人に「ふさわしい助け手」を与えてくださるためになされたことです。この「ふさわしい助け手」の「ふさわしい」(ネゲド)ということばは、この場合、「対応するもの」、「同等であって、十分なもの」を表わしています。人にとって他の生き物たちもそれなりの助け手でしたが、完全な意味で人に「対応する助け手」ではありませんでした。
 この「ふさわしい助け手」が誰であるかは、すでに1章27節で、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていて、同じく神のかたちに造られている女性であると明かされています。1章27節では、「男と女」が等しく神のかたちに造られているということが示されています。今日では当たり前のことに聞こえますが、これが記された時代においては、女性を男性と同等の存在とする点において、また、王家などの特殊な家系の者だけでなく、すべての人間が神のかたちに造られているとする点において、特異な教えであったのです。このことを踏まえたうえで、2章18節〜25節では、先に「」が造られ、つぎに「」が「『』からのもの」として造られたことが示されています。「男と女」は神のかたちであるという点からはまったく等しい存在です。そうであって初めて、「」は「ふさわしい助け手」でありえます。
 この場合の「助け手」は仕事の上での助けを与える「助け手」ではありません。神のかたちに造られて、神のかたちであることの本質にかかわる「助け手」です。2章22節、23節に記されていますように、人はこの「ふさわしい助け手」に出会って初めて、

  これこそ、今や、私の骨からの骨、
  私の肉からの肉。
  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。

と言われています愛の歌を歌うことができました。人は完全に自分に対応する存在に出会って初めて、神のかたちの本質的な特性である愛を十分に表現することができました。「ふさわしい助け手」は、この意味での「助け手」です。
 人が言った「これこそ、今や」ということばは、神のかたちとしての本質に属する愛を表現し、それを受け止めあう存在をやっと見出したという思いを表わしています。また、

  これを女と名づけよう。
  これは男から取られたのだから。

というときの「」ということば(イッシャー)と「」ということば(イーシュ)との間に語呂合わせがあって、二人が深く結び合っていることが示されています。
 この場合も、人は名をつけることによって、自分に委ねられた権威を行使しています。そして、これが、神のかたちに造られている人間に委ねられている権威を行使することの本来の姿を表わしています。神のかたちに造られている人間に委ねられている権威は愛に根差し、愛に導かれて、愛を表わすように行使されます。
 神のかたちに造られている人間に委ねられている権威が愛に根差しており、愛に導かれ、愛を表わすように行使されるということは、それが神さまの権威の特質だからです。この世界との関係での神さまの権威は、何よりもまず創造の御業において行使されています。それが神さまの権威の行使であるので、たとえば1章3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されていますように、神さまの権威に裏付けられたみことばによって、創造の御業がなされていったのです。
 このことを踏まえて、改めて1章26節に記されていることを見てみましょう。そこには、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。
 ここには、神さまが、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われたと記されています。ここでは「われわれ」という一人称の複数形が用いられています。それで、この「われわれ」が何を指すかが問題となります。これにつきましては、いろいろな機会にお話ししましたので、このことに関するすべての見方を取り上げることはいたしません。近年の福音派の学者たちの意見は、これは天使たちも含めた天の会議における決定であるということに傾いています。けれども、これにはいくつかの重大な問題があります。
 最大の問題は、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

というときの「われわれ」の中に天使たちも含まれるとすると、神のかたちに造られた人はまた、「天使のかたち」にも造られているということになります。そのようなことは聖書のみことばが示すところではありません。
 確かに、詩篇8篇5節には、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

と記されていますが、このギリシャ語訳である七十人訳では、

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

という部分は、

あなたは、人を、御使いたちよりいくらかしばらくの間劣るものとし、

となっています。そして、ヘブル人への手紙2章7節では、

  あなたは、彼を、
  御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
  彼に栄光と誉れの冠を与え、

というように、これが引用されています。それで、人は「御使いのかたち」にも造られていると言えるのではないかということになります。
 けれども、コリント人への手紙第一・6章3節に、

私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。

と記されていますように、神さまの最終的な目的から言いますと、神のかたちに造られている人間は最終的には御使いに優る栄光を与えられます。そして、それは今すでに実現しています。というのは、どのように優れた御使いであっても、父なる神さまに向かって、個人的にまた親しく「アバ、父。」と呼びかけることはできません。そのように、父なる神さまに向かって、最初に個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけたのは、ご自身が永遠の神の御子であられて、人の性質を取って来てくださったイエス・キリストです。そして、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっている私たちは、御子イエス・キリストと一つに結び合わされていることによって、神の子どもとしての身分を与えられており、御子の御霊を与えられています。そして、御子の御霊によって、父なる神さまに向かって親しくまた個人的に「アバ、父。」と呼びかけることができます。ローマ人への手紙8章14節、15節に、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されていますし、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているとおりです。
 このように、子としての身分を与えられ、その実質を生み出してくださる御子の御霊によって、父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけることのできる栄光を与えられたことによって、創造の御業によって人が神のかたちに造られたことが完成しています。それは神のかたちの栄光が充満な形で現わされるようになったということを意味しています。神のかたちの栄光には、もともとこのような充満な栄光に至るという意味での栄光化の可能性が含まれていました。しかし、御使いたちの栄光は一定していて、このような意味での栄光化の可能性は含まれていません。もし人間が天地創造の御業の初めに御使いたちのかたちに造られていたとしたら、このような充満な栄光に至るという意味での栄光化は考えられなくなってしまいます。
 また、聖書の中には天の会議において、神さまが御使いたちと話し合っておられる様子が記されています。けれども、それは、神さまの救いとさばきの御業の遂行に関してのことです。御使いたちは神さまの救いとさばきの御業の遂行に関して役割を与えられています。そのことは、みことばが示すところです。けれども、創造の御業に関しては、神さまが御使いと相談して創造の御業を遂行されたということは示されていません。
 さらに、神さまが御使いたちと話し合われたということは、そこに御使いたちの存在が記されていることによって初めて分かります。けれども、創造の御業の記事の中では御使いたちが出てきません。創造の御業の中では、1章2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されていて、最初に造り出されて、まだ「やみ」と「大いなる水」に覆われていた状態の「」に御霊がご臨在されていたことが示されています。
 これらのことから、神さまが、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われたときの「われわれ」は、神さまの人格が一つではなく複数あるということを示していると考えられます。もちろん、ここから直ちに神さまに御父、御子、御霊の三つの人格があるということ、すなわち三位一体の教理を引き出すことはできません。しかし、これは三位一体の教理と調和することです。後の啓示の光からすると、これは御父、御子、御霊の間の交わりによって決定されたことであったわけです。当然、その時、御父、御子、御霊の間に愛が通わされていたはずです。
 創造の御業の記事では、この1章26節で、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていますが、それに先立つ創造の御業においては、1章3節に記されている、

光よ。あれ。

という命令から始まる一連の命令のことばによってすべてのものが造り出されています。それが、この人を神のかたちにお造りになるときには、神さま御父、御子、御霊の間の交わりの中でその決定をし、御業を遂行されたのです。このことから、神さまが人を神のかたちにお造りになったのも、また、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配」する権威をお授けになったのも、神さまの愛の交わりの中でのことであり、その愛が神のかたちに造られようとしている人間にも向けられていたのです。
 このことが、2章7節において、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と言われていることに、より鮮明に表わされています。先週お話ししましたように、神さまは「土地のちり」で形造った人と向き合ってくださって、ご自身から出る「いのちの息」を吹き込んでくださいました。この後、人はこの「いのちの息」によって生きるものとなりました。この「いのちの息」は造り主である神さまが人と向き合って、これを吹き込んでくださったことを、絶えず人に思い起こさせるものです。
 呼吸をすることは、人間にとって飲み食いすることよりも基本的なことです。その人間の生存の最も基本的なことに造り主である神さまの愛といつくしみが込められています。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落することがなかったとしたら、人は呼吸することのうちに造り主である神さまの存在を感じ取るまでに、神さまが身を低くして自分に向き合ってくださっていることを覚えたことでしょう。これは、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれている私たちの現実になっています。
 すでにお話ししましたように、ほかの生き物たちも「」から形造られました。その点では人も同じです。また、

そこで、人は、生きものとなった。

と言われているときの「生きもの」ということば(ネフェシュ・ハィイヤー)は、ほかの生き物たちについても用いられることばです。けれども、人間の場合には、そのように造り主である神さまが人と顔と顔を合わせるようにして向き合ってくださり、ご自身の愛といつくしみをもって「いのちの息」を吹き込んでくださり、これによって示されている神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになったという点で、ほかの生き物たちと区別されます。
 これを「相続財産」という観点から見ますと、人は天地創造の初めに神のかたちに造られたときから、造り主である神さまご自身を「相続財産」として与えられていたということになります。
 このように、神さまがこの世界に対してご自身の権威を行使されたことの最初の現われである創造の御業において、神さまの権威は、神さまの本質的な特性である愛に根差しており、愛を表現するものでした。そして、このような神さまの権威の行使によって造られたこの世界においては、およそ権威というものは、神さまから委ねられるものです。それゆえに、また、この神さまがお造りになった世界においては、神さまの権威が映し出されなければなりません。その意味で、すべての権威は愛に根差しており、愛に導かれ、愛を表わす形で行使されなければなりません。愛がともなわない権威は腐敗した権威です。
 すでにお話ししましたように、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、人間の本性が腐敗してしまいました。それによって、神さまが人間に委ねてくださった権威も腐敗したものになってしまいました。それが、ノアの時代の大洪水によるさばきが執行される前の状態を記す6章11節、12節で、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と言われている状態を生み出してしまいました。
 先週は、このことを受けて、マルコの福音書10章42節〜45節に記されています、イエス・キリストの教えを引用しました。イエス・キリストは、栄光のキリストが治められる御国でほかの者よりも上に立ちたいという思いから、お互いの間で争っていた弟子たちに向かって、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

とお教えになりました。
 言うまでもなく、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

というのは、この世で「みなに仕える者」になると、天国では皆の上に立つようになるということではありません。愛をもって「みなに仕える者」になることにおいて、神のかたちに造られている人間に委ねられた権威の本来の姿が表わされます。それによって、愛に根差し、愛を表わす神さまの権威が映し出されるのです。この世においても天国においても、権威はそのように愛に根差し、愛を表わすものなのです。
 ここでイエス・キリストは、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と言われました。このことは、権威の問題と切り離して考えることはできません。言い換えますと、イエス・キリストが十字架に付けられて殺されたことは、イエス・キリストの贖い主としての権威の行使であったということです。罪の自己中心性によって歪められた権威になれてしまっている目には、とてもそのようには見えません。けれども、十字架の死が贖い主としての権威の行使であったことは、ヨハネの福音書10章18節に記されている、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

という、イエス・キリストのみことばに示されているところです。イエス・キリストは、

わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

と言われて、ご自身の権威が父なる神さまから委ねられたものであることを示されました。そして、その権威は、11節に記されています、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

というみことばのとおり、また、先ほどの、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というみことばのとおり、私たちの罪を贖うための贖いの代価として、ご自身のいのちをお捨てになったことにおいて行使されているというのです。
 私たちそれぞれには、これと同じ権威が委ねられています。それで、イエス・キリストは、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

と教えてくださったのです。
 また、ガラテヤ人への手紙5章13節、14節には、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

と記されています。これは、ガラテヤ人への手紙の文脈の中では、先ほど引用しました4章6節で、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と言われていることを受けています。ここで、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。

と言われているときの自由は、神の子どもとしての自由です。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いにあずかって神のかたちの栄光と尊厳性を回復していただいている神の子どもとしての自由と権威を委ねられています。そして、この神の子どもとしての自由と権威のどちらも「愛をもって互いに仕え」ることにおいて現実のものになります。
 これに続く15節には、

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

と記されています。ここでは、野生の動物が死闘を繰り広げることを表わすときのことばが用いられていると言われています。ここで警告されていることは、相手を滅ぼしてでも自分を立てようとすることで、神の子どもとしての自由と権威を腐敗させて、暗やみの主権者の腐敗した権威を表現してしまうことです。暗やみの主権者の主権に縛られているところでは、お互いに自分を中心として相手を蹴落とそうとします。その結果、主がご自身のいのちをもって回復してくださった交わりを損なってしまいます。しかし、神の子どもとして、御子イエス・キリストの十字架の死において示された愛に根差した権威に倣うことは、私たちの間に愛において互いに仕え合うことによる一致を生み出します。

 


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