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説教日:2003年10月19日 |
天地創造の初めに、神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。そして、ご自身がご臨在されるエデンの園に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださいました。そこを耕して守っていくようになりました。2章7節〜9節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 と記されています。 ここでは、神である主は人を「土地のちり」から形造られたと言われています。この「ちり」は地面の表面のチリか、臼などで挽いた細かい粉を表わします。「土地のちり」の「土地」ということば(アダーマー)は「人」ということば(アーダーム)との語呂合わせになっていて、「人」と「土地」が深い関係にあることが示されています。このことは、15節で、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と言われているように、人がエデンの園の土地を耕すようになったことへとつながっています。 1章28節には、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。ここには、造り主である神さまがご自身のかたちにお造になった人間を祝福して、使命を授けてくださったことが記されています。神のかたちに造られている人間が地に増え広がって地を満たすとともに、「地を従えよ。」と命じられています。これは神さまから権威を委ねられたことを意味しています。その具体的な現われが、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 ということでした。 人は「土地のちり」から形造られたものとして、「土地」と深く結びあっています。神さまが「地を従えよ。」と言われたときの「地」(ハー・アレツ)は大地のことで、そこに「土地」があるわけです。「地」には、そのほか山や野原、川や谷などもあります。この「地」を従えることの最初の現われは、そこにある「土地」を耕し、造り主である神さまが「土地」に与えてくださった植物を芽生えさせそれを育む力を有効に活用することでした。今日用いられているのとは少し意味合いが違いますが、「土地」を神さまのみこころに沿って生かすということです。 また、19節には、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と記されています。 ここで、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき と言われているときの「土」は、人が「土地のちり」から形造られたというときの「土地」と同じことば(アダーマー)で表わされています。ここに「土地のちり」から形造られた人と、「土地」から形造られた「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」とのつながりが示されています。人は、このように、「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」とのつながりのうちにある者として、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を授けられています。これも、神さまが神のかたちに造られている人間に授けてくださった権威を行使することを意味しています。 そして、人がその造り主である神さまから委ねられた使命を果たしていることの最初の現われが、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 ということにありました。名をつけることは、権威を行使することを意味しています。また、その名は、それぞれの生き物の本質的な特徴を表わすものです。人は、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を授けられている者として、その権威を行使しているわけです。そして、それぞれの生き物の本質的な特徴を見て取って、それをその名をもって表わしています。 このことは、それに先立つ18節において、 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 と記されており、20節に、 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 と記されていることを受けてのことです。このことから分かることは、人が神のかたちに造られて、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を委ねられているものとしての権威を行使して「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた」ということは、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」を自分に委ねられたものとしてよく知るようになったということを意味しています。しかも、それは「ふさわしい助け手」の存在を求めてのことでしたから、それらの生きものたちと親しい関係が確立されたことを意味しています。 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 ということは、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた」ことによって、どんなに「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」と親しくなったとしても、そこに「ふさわしい助け手」はいなかったということです。 また、親しくなった「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」がどんなに多くても、一人の「ふさわしい助け手」に代えることはできないということを意味しています。 23節に記されていますように、人は「ふさわしい助け手」に出会ったとき、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という愛の歌を歌いました。神のかたちに造られている人間の本質は人格的な存在であることにあります。その人格の特性の中心は愛です。人は愛を特性とする人格的な存在です。その愛をもって「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」に接しましたが、その愛をすべて受け止めて応えるるものはいませんでした。人は「ふさわしい助け手」に出会って初めて、自分の愛がそのまま受け止められて応えが帰ってきたことを経験したのです。 この出会いから二人は結び合い、家庭を築きました。そして、これが社会の最小単位となって、ここから、子どもたちが生まれて親子関係が生じ、さらに子どもたちが増え広がってさまざまな社会関係が生まれてくるようになります。本来は、それによって、最初の人とその妻の出会いにおいて現わされた愛が広がっていくはずでした。しかし、実際には、最初の人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その愛が罪の自己中心性によって腐敗してしまいました。 いずれにしましても、神のかたちに造られた人が、自分に委ねられた、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命を果たすことは、同じく「土地」から形造られたものとしてのつながりを覚えつつ、親しい関係を確立することから始まっています。 このように、7節で、 神である主は、土地のちりで人を形造り と言われていることは、人が、自分がそこから形造られた「土地」や、同じくそこから形造られた「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」と結びついていることの土台となっています。 人は、自分がそこから形造られた「土地」や、同じくそこから形造られた「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」と深く結ばれています。そのようなものとして、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福とともに、造り主である神さまから使命を委ねられています。それは、神のかたちの本質的な特性である愛において、自分に委ねられたすべてのものを生かしていくことを意味していました。これが神のかたちに造られている者に委ねられた権威を行使することの根本にあることです。 しかし、人が神である主の戒めに背いて罪を犯して御前に堕落してしまったとき、このすべてが歪められてしまいました。神である主が人に語られたさばきのことばを記す3章17節〜19節には、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と記されています。 17節では、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 と言われています。この「土地」は、人が「土地のちり」から形造られたというときの「土地」と同じことばです。「土地のちり」をもって形造られた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまい、律法ののろいの下にあるようになったとき、「土地」も人との結びつきによってのろわれたものとなってしまいました。これは、ただ単に人が「土地のちり」をもって形造られたものとして「土地」とつながっているというだけでなく、神のかたちに造られているものとして、「地を従えよ。」という使命を委ねられていることによっています。そして、それは「地」に当てはまるだけでなく、神さまが人に委ねられたすべてのものに当てはまります。 このことを受けて、ローマ人への手紙8章19節〜21節には、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されています。 神のかたちに造られて神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまい、律法ののろいの下にあるようになったとき、被造物も人との結びつきによってのろわれたものとなって「虚無に服し」ました。これは、もし神のかたちに造られて神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられている人が、造り主である神さまの御前に回復されるなら、被造物も「滅びの束縛から解放され」ることになるということを意味しています。そして、パウロは、そのことがすでに、神の子どもたちの出現によって始まっているということを示しています。 創世記2章7節では、さらに、 神である主は・・・その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われています。 ここでは神のかたちに造られている人間の独自性が示されているのですが、ここでも人間と他の生き物たちとの共通性が見て取れます。 ここでは「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」と言われていますが、ノアの時代になされた大洪水によるさばきのことを記している7章15節には、 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。 と記されています。ここで「いのちの息のあるすべての肉なるもの」というのは、地の上に生きているすべての生き物のことです。その生き物たちにも「いのちの息」があると言われています。この場合の「息」(ルーアハ)と2章7節で、 神である主は・・・その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 と言われているときの「息」(ネシャーマー)はことばが違いますが、同義語として同じものを表わしています。 また2章7節では、 そこで、人は、生きものとなった。 と言われていますが、この「生きもの」ということば(ネフェシュ・ハィヤー)は人間以外の生き物を表わすときにも用いられます。たとえば、いのちあるものの創造を記している1章20節には、 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。 と記されています。また、地上の生き物の創造を記している24節には、 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。 と記されています。このどちらの「生き物」も、2章7節で、 そこで、人は、生きものとなった。 と言われているときの「生きもの」と同じことばで表わされています。 このように、2章7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることは、人が、そこから形造られた「土地」や同じく「土地」から形造られたすべての生き物と深く結びついていることを表わしています。 そうしますと、ここでは人と、そのほかの生き物との間の違いは表わされていないのかという疑問が生まれてきますが、ここではその違いが表わされています。それは、神である主が人をお造りになったときには、ご自身が人の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ということです。ここでは、神である主は擬人化的な表現で表わされています。神である主は「陶器師」のイメージでご自身を啓示してくださっています。このような擬人化した表現自体が、神である主がご自身の身を低くして人に近づいてくださっていることの現われです。そのような形でご自身を表わしてくださっている神である主が、親しく人と向き合ってくださって、「鼻にいのちの息を吹き込まれた」というのです。擬人化的な表現をそのまま用いますと、神さまは人の「鼻にいのちの息を吹き込まれ」るために、人と向き合ってくださり、ご自身の息をためて、それを人の鼻に吹き込んでくださったわけです。これによって人は、神である主が吹き込んでくださった「いのちの息」によって生きるものとなりました。それは、まさに、人が神さまと向き合って、息を合わせるような近さと親しさにおいて生きるものであるということを意味しています。 このようにして始まった神さまとのいのちの交わりは、9節に、 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 と記されている中に示されている「いのちの木」によって表示され、保証されていました。「いのちの木」は、人の目には見えないけれども、神である主が確かにそこにご臨在してくださって、人をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっていることを表示し、保証しています。人が「いのちの木」によって表わされている神である主のみこころを信じて「いのちの木」から取って食べるときに、そこにご臨在される神である主が、人をいのちの祝福で満たしてくださるのです。それによって、人は見えない神である主のご臨在に触れて、ご臨在の御許から溢れてくる愛と恵みに満たされていたと考えられます。これは、今日、私たちが聖礼典としての主の晩餐に、信仰によってあずかるときに、そこにご臨在してくださる栄光のキリストとの愛にあるいのちの交わりにあずかることを基にして考えることです。 この神である主との愛にあるいのちの交わりは、先ほどの「ふさわしい助け手」との出会いと交わりと矛盾するものではありません。18節に、 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 と記されており、22節に、 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 と記されていますように、人とその「ふさわしい助け手」は神である主によって出会っています。言い換えますと、それぞれが神のかたちに造られていて、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きているものとして出会って、お互いに愛し合うものであったのです。 先ほど触れましたように、人は「ふさわしい助け手」と出会ったときに、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という愛の歌を歌いました。 これは、愛の歌ですが、同時に、人が神である主から委ねられた権威によって名をつけたことでもありました。このことにおいてこそ、人が権威を行使することの本来の姿が現われています。神である主が神のかたちに造られている人間に委ねてくださった権威は、愛に裏付けられ、愛によって導かれるものであるのです。それが本来の権威の姿です。しかし、実際には、先ほども触れましたように、最初の人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その愛が罪の自己中心性によって腐敗してしまいました。そのために、神である主が人に委ねてくださった権威も、罪の自己中心性によって歪められてしまっています。このことを受けて、イエス・キリストは、マルコの福音書10章42節〜45節に記されていますように、 あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と教えておられます。 大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代の状況を記すものとして、先週は創世記6章5節、6節に記されていることを取り上げましたが、同じく大洪水によるさばきが執行される前のノアの時代の状況を記している11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 ここでは「地」ということば(ハー・アーレツ)が4回用いられていて、「地」に対する関心が強調されています。普通ですと、このような場合には、最初に「地」ということばが用いられて、その後は代名詞が用いられるのですが、ここでは「地」ということばが4回ともそのまま用いられています。 11節では、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 と言われています。この「神の前に」ということは大切なことです。その当時の人々は「神はいない」という根本的な信念の下に生きていました。自分たちが神さまの御前に歩んでいるという意識はありませんでした。しかし、「地」は造り主である神さまの御前にあるものです。そして、この「地」に住む者は造り主である神さまの御前に歩んでいるのです。造り主である神さまとの関係を離れては「地」は「地」としての意味を失います。なぜなら、1章9節、10節に、 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。 と記されていますように、「かわいた所」を水の中から出現させて、これに「地」という名をお付けになって、「地」としての意味を与えてくださり、そのようなものとして保っていてくださるのは造り主である神さまであるからです。 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 ということは、そのような造り主である神さまの御業に示されているみこころを踏みにじることであるのです。 ここで、 地は、神の前に堕落し、 と言われているときの「堕落し」ということば(シャーハト)は、腐敗し堕落することとともに、破壊することも表わします。そして、ここでの関心は「地」にあります。それで、ここでは、「地」に住んでいる者たちが腐敗し堕落していたということとともに、「地」そのものが破壊され荒廃してしまっていることを表わしていると考えられます。 これに続いて、 地は、暴虐で満ちていた。 と言われています。これは、1章28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されている、造り主である神さまが祝福とともに神のかたちに造られている人間に委ねてくださった使命が、この上なく腐敗し。歪められた形で実現してしまっていることを示しています。すでにお話ししましたように、この使命は愛において果たされるものです。けれども、実際には人々は「暴虐」で「地」を満たしてしまいました。 このことを踏まえて、6章13節には、 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 と記されています。そして、そのとおりに、大洪水によるさばきを執行されました。 すでにお話ししましたように、大洪水によるさばきの後の歴史におきましても、ニムロデの帝国の出現とともに、人類はこれと同じように主の終末的なさばきを招くに至る道を突き進み始めました。その権力は腐敗して暗やみの主権者をほうふつさせるものとなってしまっておりました。それによって、再び、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 と言われるに至る道を突き進み始めたのですが、主の直接的な介入によって、その流れは阻止されました。それがバベルでの出来事で、主が全地のことばを混乱させて、人々を散らされたのです。 これらすべてのことを振り返って見てみますと、初めに触れましたように、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、人に委ねてくださった、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という使命に伴う権威の問題が一貫してかかわっています。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人に委ねられている権威も腐敗してしまいました。それによって、人は神である主のさばきによって滅びを刈り取るに至る歴史を造ってしまいます。そのような歴史の流れが神である主のあわれみにより、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって押しとどめられて、歴史は保たれてきました。 アブラハムは、このような人類の歴史の現実の中で祝福の約束と召命を受けました。そのことを考えますと、主の恵みによる導きの下に、アブラハムがこの世の権力や富から自由な者となったときに、13章17節に、 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。 と記されているように、約束の地であるカナンにかかわる権威を委ねられたことには意味があります。それは、アブラハムの祝福を受け継ぐ者たちの間に本来の権威が回復されるということを意味しています。そのことが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとしていただいている私たちの間に実現しています。私たちは神の子どもとしての自由の中で互いに愛し合い、仕え合うことによって、天地創造の御業の初めに神さまがご自身のかたちにお造りになった人に委ねてくださった権威を行使しているのです。それがどのようなことであるかを示してくださっているイエス・キリストの教えをもう一度お読みいたします。 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 |
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