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説教日:2003年9月28日 |
これまで創世記12章〜14章に記されていることにしたがってアブラハムの歩みについてお話ししてきました。これに続く15章1節には、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」 と記されています。これは、神である主がアブラハムにご自身がどのような方であるかを示してくださったことを記すものです。このように、主が、ご自身がどのような方であるかを示してくださることを主の自己啓示と言います。 主が、ご自身がどのような方であるかを私たちに示してくださるのは、ただ単に主についての情報を与えてくださるためのことではありません。主が私たちにご自身を示してくださった時には、ご自身を私たちにお与えになったと言うことができるのです。それは、主がその自己啓示によって示してくださっている、まさにそのような方として、私たちともにいてくださり、必要なお働きをなさっておられることを示してくださり、この後も必要なお働きをなさってくださることを約束してくださり、保証してくださるものです。 私たちはみことばに記されている神さまの自己啓示をとおして、神さまがどのような方であるかを知ることができます。それは私たちの血肉の力、生来の力によることではなく、御霊のお働きによることです。この御霊のお働きは「内的証明」と呼ばれますが、私たちの心を照らしてくださってみことばに記されていることを理解し悟ることができるようにしてくださるお働きです。私たちは暗やみの中でものを見ることができません。そこに光が射し込んできますと、見えなかったものが見えてきます。私たちのうちには私たちのうちにある罪のために霊的な暗やみがあります。そのために、神さまのことを理解し悟ることができません。神さまのみことばを聞いても、聞くには聞くが悟らずという状態にあります。御霊はそのような私たちの心に霊的な光を照らしてくださって、みことばを理解し悟ることができるようにしてくださっているのです。それで私たちは福音のみことばを理解し悟るようになり、神さまを知る者となりました。 このように神さまがみことばと御霊によってご自身を私たちに示してくださったということは、神さまがそこで示してくださった、まさにそのような方として、私たちとともにいてくださり、私たちのうちで、また私たちの間で働いていてくださるということを示してくださり、約束してくださり、保証してくださるものです。 これまでお話ししてきたアブラハムの歩みからもわかりますが、アブラハムは契約の神である主のみことばを信じて、それに従って自分の生まれ故郷と親族たちのいる所を後にしました。その後のアブラハムの歩みを支えたものは、アブラハムを召してくださった主ご自身でした。 もちろん、アブラハムも自分に与えられた召命に従って、委ねられた分を果たしています。その結果、わずかな手勢をもって強力な東の王たちの連合軍をも打ち破って、親族のロトを取り返しただけでなく、侵略者たちを約束の地から追い払いました。しかし、それはアブラハムの勇気や豪胆さといった、人としての優秀さではありません。それに先立って、アブラハムは飢饉の折りにエジプトに逃れたときにエジプトの人々を恐れて、妻であるサラを自分の妹であると偽ったほどです。そのアブラハムが、エジプトでの経験をとおして契約の神である主がどのような方であるかということを学んだことによって、主を信頼するようになりました。そして、東の王たちの強力な連合軍を追跡して、これを追い払ったのです。ですから、このすべては、アブラハムが主のみことばを受け止めて、受け止めたみことばにしたがった結果、主がそのアブラハムをとおして成し遂げてくださったものです。 このことは、遠い昔のお話ではなく、今の私たちにも当てはまることです。アブラハムの時代と私たちの時代には四千年の隔たりがあります。時代は変わり、人々も移り変わりました。けれども、ご自身の契約の民を支え続けてくださった主は変わることがない方です。先週お話ししましたように、私たちはアブラハムの時代をさらに越えて、人類の歴史の初めから変わらない恵みによってご自身の民を支え続けてくださり、約束してくださったことを実現してくださってきた主の恵みによって生かされており、支えられています。 たとえば、詩篇103篇15節〜18節には、 人の日は、草のよう。 野の花のように咲く。 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。 その場所すら、それを、知らない。 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、 主を恐れる者の上にある。 主の義はその子らの子に及び、 主の契約を守る者、 その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。 という告白と讃美が記されています。 これは一つの時代の聖徒の告白であり讃美です。けれども、 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、 主を恐れる者の上にある。 と言われていますように、それは、自分たちが人類の歴史全体を貫いて変わることがない契約の神である主の真実な恵みによって支えられて生きているということの告白です。 すべての時代の主の民は、主の契約の民であることと、主の真実な恵みによって支えられて生きていることにおいてつながっています。「最初の福音」を与えられたアダムからノア、アブラハム、モーセ、ダビデたちの時代を経て、御子イエス・キリストの血による新しい契約の時代の今日に至までの聖徒たちの歩みのすべてが、贖いの恵みという本質的に一つの恵みによって支えられています。私たちはこのような歴史を越えた主の契約の民の一体感、連帯感の中で、この時代を生きていますので、この時代において、 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、 主を恐れる者の上にある。 主の義はその子らの子に及び、 主の契約を守る者、 その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。 と告白し主を讃美するのです。 創世記15章1節に戻りますが、主はアブラハムに、 アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。 と言ってご自身を表わしてくださいました。 この主の自己啓示が与えられた状況については、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 と言われています。 「これらの出来事」は複数形ですので、どれか一つの出来事を指しているのではありません。より広くは、主がアブラハムに、12章1節〜3節に記されている、 あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束と召命を与えてくださったことから始まって、この15章1節に記されている時に至るまでの出来事を指しています。 それを簡単に復習しておきましょう。 12章1節〜3節に記されている約束と召命を受けたアブラハムは、主のみことばに従ってカナンの地に向けて出発しました。そして、カナンの地に来たときに、主がアブラハムに現われてくださって、その地をアブラハムの子孫に与えてくださると約束してくださいました。それで、アブラハムは、この地が主が示してくださった約束の地であるということを悟りました。しかし、アブラハムはカナンの地に自分の町を築くことはしませんでした。そこが主によって約束された地であるということで、その地の住民たちを追い出すようなこともしませんでした。アブラハムがしたのは、自分が行く先々で主のための祭壇を築いて主を礼拝したことです。 そのような歩みの中で、カナンの地に飢饉が襲ったのでエジプトに逃れた時に、エジプト人を恐れてサラを自分の妹であると言って偽りました。それによって、「最初の福音」をとおして約束されていた、「女の子孫」として来られる贖い主が、さらに「アブラハムの子孫」として来られるという、契約の神である主の救いのご計画が危機に瀕することになりました。 けれども、主は強い御手を延べてエジプトの王であるパロに警告をお与えになって、サラをアブラハムのもとに返してくださいました。これによって、アブラハムは主がエジプトの王パロをも支配しておられる方であるということ、そのような方として約束してくださったことを実現してくださる方であるということを実地に学びました。 これに続いて、アブラハムの信仰を試す試練がやって来ました。パロの贈り物を受けて財産が増えたアブラハムとおいのロトは一つの地域にともにいることができなくなりました。それで、双方のしもべたちの間にいさかいが起きた時に、アブラハムはロトと分かれて住むことを決断します。その際に、どこに住むかの選択権をおいであるロトに譲りました。すでに飢饉の怖さを味わっているロトは、ヨルダン川によって常に潤っていて、繁栄している町のある「ヨルダンの低地全体」を選び取りました。その結果アブラハムは、山地が多く雨が降らなければ乾いてしまって、再び飢饉が襲ってくる可能性のあるカナンの地に住むようになりました。アブラハムも飢饉の怖さを味わっていますが、アブラハムはロトの選択を受け入れています。それは、このことをとおしても、アブラハムの住むべき所はカナンの地であるということが明らかにされたということでもあります。 このようにして、アブラハムはおいのロトに対して年長者の権威を振りかざすことはありませんでしたし、ロトが豊かに潤っている「ヨルダンの低地全体」を選び取っても、その選択を尊重しています。これによって、アブラハムがこの世的な権力や富みに縛られていない自由な者であることが示されるようになりました。それは、すでにお話ししましたように、アブラハムの人となりが優れていたからということではなく、アブラハムが主を信じて、主にすべてのことをお委ねするようになったことの現われでした。 そのアブラハムに対して、主は、13章14節〜16節に記されている、 さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 という、約束の地とアブラハムの子孫に関する約束を与えてくださいました。そして、17節に記されている、 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。 ということばに示されている、約束の地における王的な権威を委ねてくださいました。 そして、このような王的な権威を委ねられたアブラハムに与えられた試練が、先ほども触れました、東の王たちの強力な連合軍が約束の地であるカナンの地に進入してきて、その地を略奪し、おいのロトとその財産も奪っていってしまったという出来事です。アブラハムは三百十八人のしもべを率いて、三人の盟約者の軍隊とともに東の王たちの連合軍を追跡して、これに夜襲をかけて打ち破り、ロトも含めて略奪されたすべてのものを奪い返しました。 東の王たちの連合軍をカナンの地から追い払って帰ってきたアブラハムを出迎えたのは、シャレムの王で「いと高き神の祭司」であるメルキゼデクとソドムの王ベラでした。アブラハムは自分が取り返したすべてのものの十分の一をメルキゼデクに与えました。その当時の文化の中では、戦いにおいて奪い取ったものは、それを奪い取った人のものになるという理解がありました。これによってアブラハムは、このすべてのことが自分に使命を授けてくださり、自分とともにいてくださって御業をなしてくださった主の恵みによることであったということを告白したのです。 その告白は口先だけのものではありませんでした。というのは、ソドムの王がアブラハムを富ませたのは自分だと言う可能性がありましたので、アブラハムは自分が取り返したものを自分のものとする権利を放棄しました。すべては主の恵みによることであると告白したアブラハムは、自分に与えられた主の恵みがソドムの王によって卑しめられることがあってはならないと考えたからです。 14章19節、20節に記されていますように、メルキゼデクは、 祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。 と言ってアブラハムを祝福しました。一方、21節に記されていますように、ソドムの王は、 人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。 と言いました。新改訳は丁寧に訳していますが、これは横柄でアブラハムを見下したことばです。 アブラハムを出迎えたメルキゼデクとソドムの王はまったく対照的な思いをもっていました。メルキゼデクは、このすべては「天と地を造られた方、いと高き神」の恵みによることであることを認めて、アブラハムを祝福し、アブラハムと心を合わせて「いと高き神」をたたえるためにアブラハムを出迎えました。一方、ソドムの王は、自分が失ったものを取り換えそうという動機からアブラハムを出迎えました。 ここには、アブラハムを、そして、私たちをも探るような対比が見られます。メルキゼデクがアブラハムに与えたのは「天と地を造られた方、いと高き神」の祝福です。一方、ソドムの王が与えたのは(とはいえ、それはもはやソドムの王のものではなくなっていたのですが)、ソドムの王が所有していた財産でした。ここには、この二つが相容れない状況になったときに、どちらを選ぶかという試練があったのです。メルキゼデクが与えた祝福は目に見えません。祝福の行為としては、一度語られて終わりです。これに対して、ソドムの王の所有物は目に見えますし、手元に残ります。このような選択を迫られたとき、アブラハムはメルキゼデクが与えた「天と地を造られた方、いと高き神」の祝福の方を選び取りました。 もちろん、この祝福はこの場限りのものではありません。後ほど詳しくお話ししますが、このメルキゼデクの祝福は、15章1節に記されている、 アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。 という主の自己啓示において語られた祝福のことばへとつながっていきます。 このようにして、ソドムの王は、アブラハムが取り返してきたソドムの住人と財産を再び手にしました。ゴモラの王がどうなったかは分かりませんが、仮に戦死していたとしたらその後継者が、やはり、アブラハムが取り返してきたものを所有するようになったと考えられます。 ソドムの王はアブラハムとメルキゼデクのやり取りの場にいて、二人のあかしを聞いています。それは、アブラハムがわずかな手勢と三人の盟約者の軍隊だけで、強力な東の王たちの連合軍を打ち破ったことの意味についてのあかしです。しかし、ソドムの王はアブラハムとメルキゼデクの告白にも、アブラハムが「天と地を造られた方、いと高き神」に対して真実であったことにもまったく関心がなく、どのようにして自分が失ったものを取り返すかということだけに心を砕いていました。そのようにして、ソドムの王は、自分の町が略奪されるという大変な試練の中で、メルキゼデクとアブラハムという二人の「信仰の巨人」のあかしに接したのに、自分に与えられた主を知る機会を無駄にしてしまいました。 この後、ソドムとゴモラは罪の腐敗の度合いを深めていって、ついに主の御前に罪の升目を満たすほどになり、主のさばきを招くに至ります。そのさばきの始まりを記している18章20節、21節には、 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」 と記されています。 これは文脈から判断して、アブラハムが9十9歳の時のことであると考えられます。それが、アブラハムが東の王たちの連合軍を追い払った時からどれほど経った時のことか、正確にはわかりません。しかし、アブラハムがカランを出たのがアブラハムが7十5歳の時でしたから、長く見積もっても二十数年の間のことです。 今から二十数年前といいますと、1980年ごろのことですから、ちょうど玉川上水キリスト教会が発足したころのことです。この国においても、この二十数年間にいろいろな問題がより深刻になってきたことが感じられます。その間にはバブル期のおごりもありました。バブル崩壊後にもそのおごりは残っています。そうではあっても、まだ、この国は主のあわれみと忍耐によって保たれています。しかし、ソドムとゴモラには、最終的には、5人の義人もいなくなってしまいました。ソドムに住んでいたロトとその妻と二人の娘を除いて、すべての者が主の御前に罪の升目を満たしてしまうほど腐敗し堕落してしまうに至ったということです。 ソドムとゴモラの罪が主の御前に罪の升目を満たすほどにまで深まっていったことには、少なくとも二つのことがからんでいると考えられます。 一つは、今お話ししましたソドムの王に見られる霊的な暗やみです。せっかく、侵略者による略奪という試練の中で、アブラハムをとおしてすべてのものが回復されたことの意味について、メルキゼデクとアブラハムのあかしに接したのに、その霊的な光に心を閉ざしてしまったことが、霊的な暗やみをよりいっそう深くしてしまったと考えられます。それは、ローマ人への手紙1章28節に、 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 と記されている、神さまのさばきの典型的な現われであると考えられます。 もう一つは、ソドムとゴモラが物質的に繁栄していたためにもたらされた、王を初めとする人々の高ぶりが、造り主である神さまに対する恐れを失わせたということです。 このことも、14章に記されているアブラハムとソドムの王のやり取りにかかわっていると考えられます。その時、もしソドムの王が高ぶってアブラハムを富ませたのは自分だと言うことがなかったとしたら、ソドムの王は多くの財産を失った状態であったことでしょう。そのことの中で、富のために高ぶる余裕もなくなり、もしかしたら、アブラハムとメルキゼデクをとおしてあかしされたことを考える可能性があったかもしれません。そうでなかったとしても、豊かさの中で高ぶることがもう少し押さえられて、そのように早く腐敗の道を突き進むことはなかったと考えられます。 いずれにしましても、ソドムの王にとっては、東の王たちの連合軍を打ち破ってすべてを取り戻して帰ってきたアブラハムを迎えた時が、生涯において最も重要な時であったことは確かです。その時に、神さまのあわれみによって、メルキゼデクとアブラハムという二人の「信仰の巨人」をとおして与えられた霊的な光に心を閉ざしてしまったことが、自らと自分の民を主のさばきを招く道に突き進ませる霊的な暗やみを深める結果をもたらしたのです。 詩篇95篇7節、8節には、 きょう、もし御声を聞くなら、 メリバでのときのように、 荒野のマサでの日のように、 あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 と記されています。ソドムの王は、主が与えてくださった霊的な光に対して心をかたくなにしてしまいました。 創世記15章1節には、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」 と記されていました。 主はアブラハムに、ご自身がアブラハムの「盾である」ということを示してくださいました。これは、主がアブラハムにとって「盾」となっていてくださったことを示してくださり、これからも「盾」としてアブラハムとともにいてくださるということを約束し、保証してくださったものです。 言うまでもなく、「盾」は戦いにおいて兵士を守るものです。また、「あなたの受ける報い」の「報い」(サーカール)は、この場合には「戦利品」か、雇われた兵士に対する「賃金」を指していると考えられています。さらに、主はアブラハムに「恐れるな。」と言われました。これらのことは、この主の自己啓示が戦いの中にあるアブラハムに対して与えられていることを示しています。その意味では、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 ということは、より直接的には、このすぐ前の14章に記されている、アブラハムが東の王たちの連合軍をカナンの地から追い払ったことを受けていると考えられます。 さらに、この「盾」ということば(マーゲーン)と、戦いから帰ってきたアブラハムを出迎えたメルキゼデクがアブラハムに言った、 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。 ということばの中の「渡された」ということば(ミゲーン)との間に語呂合わせがあります。このことは、メルキゼデクがアブラハムに語った、 祝福を受けよ。アブラム。 天と地を造られた方、いと高き神より。 あなたの手に、あなたの敵を渡された いと高き神に、誉れあれ。 という祝福と、主がアブラハムに現われて語ってくださった、 アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。 という祝福が深くつながっていることを示しています。 アブラハムの身になって考えてみますと、いくらあの時は東の王たちの連合軍を打ち破って、ロトを初めとして略奪されたものを取り返すことができたといっても、また、東の王たちの連合軍をカナンの地から追い払うことができたといっても、東の王たちの連合軍が体制を整えて再び攻め込んでこないとも限りません。あの時は夜襲をかけて彼らを打ち破ることができたけれども、次には、東の王たちの連合軍も警戒して、もうそのような手は使えないことでしょう。軍事的な力を見れば、自分たちがはるかに弱いものであることもはっきりしています。さらに、あの経験から、東の王たちの連合軍は、まずアブラハムたちを攻めてくるということも考えられます。 アブラハムは、自分がこのような厳しい状態にあることを自覚していたはずです。そのアブラハムに、契約の神である主が現われてくださって、 アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。 と語りかけてくださり、約束をもって保証してくださったのです。人の目には、あの時はたまたまうまくいったのだと写るかもしれません。しかし、メルキゼデクのことばで言いますと、あの時、 あなたの手に、あなたの敵を渡された(ミゲーンされた) 主は、この後もアブラハムのための「盾」(マーゲーン)となってくださるというのです。事実、東の王たちをも治めておられる主は、再び彼らの連合軍がアブラハムを攻めてくることがないようにしてくださいました。まさに、主はアブラハムの「盾」となっていてくださったのです。 そのことによって、カナンの地には平和がありました。先ほどお話ししました、ソドムの王は、主がこのようにアブラハムに与えてくださった約束によってもたらされた平和の中で、繁栄におごり、罪の腐敗の度合いを深めていって、主の御前に罪の升目を満たしてしまったのです。 一方、アブラハムは、あの東の王たちとの戦いにおいて示された主の恵みが卑しめられることがないようにと、戦いで獲得した戦利品を放棄してしまいました。主は、そのアブラハムに、 あなたの受ける報いは非常に大きい。 と言われました。 この「報い」が何を意味しているかが問題となります。はっきりしていることは、これが先にアブラハムが放棄したソドムの王やゴモラの王の所有物のような地上的な宝ではないということです。ペテロの手紙第一・1章18節のことばで言いますと、「銀や金のような朽ちる物」ではないということです。 これを、 あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 というアブラハムに与えられた約束と召命とのかかわりで見ますと、アブラハムの「報い」は、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐ相続人としてのアブラハムの子孫たちということになります。 事実、アブラハムは、 あなたの受ける報いは非常に大きい。 という主のことばを受けて、15章2節に記されていますように、 神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。 と問いかけています。アブラハムは相続人としてのアブラハムの子のことを問題にしています。 そして、これを受けて4節〜6節には、 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。 さらに、これを受けて新約聖書のガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されています。 アブラハムが受けた「報い」は、信仰によるアブラハムの子孫が、アブラハムが受け継いだ祝福にあずかって、神の子どもとしての確信のうちに、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになったことにあります。ですから、アブラハムが受けた「報い」は、自己中心的な所有欲を満たすものではありませんでした。むしろ、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束の実現にあったのです。それは、アブラハムにとっては、自分が肥え太ることではなく、自分の霊的な子孫たちが主との愛にある交わりのうちにいのちに満たされることであったのです。その意味で、私たちが神の子どもとしての確信を与えてくださる御霊のお働きによって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることは、主がアブラハムに、 あなたの受ける報いは非常に大きい。 と約束してくださったことの成就でもあります。 さらに言いますと、ガラテヤ人への手紙3章29節で、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と言われており、4章6節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われていますように、アブラハムもアブラハムの霊的な子孫である私たちも、神さまご自身を相続財産として受け継いでいます。そしてそれは、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということを意味しています。この意味での、神さまご自身を相続財産として受け継ぐということが、主がアブラハムに、 あなたの受ける報いは非常に大きい。 と言われたときの「報い」の中心です。 |
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