(第142回)


説教日:2003年9月21日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節では、父なる神さまが「ご自分の大きなあわれみのゆえに」私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださり、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつようにしてくださったと言われています。ここで言われている「生ける望み」をもつことと「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつことは同じことを別の面から述べたものです。
 この場合の「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は、神の子どもたちが受け継いでいる相続財産のことです。そして、私たちが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身です。神さまを相続財産としてもつということは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということを意味しています。この神の子どもである私たちが受け継いでる相続財産としての神さまとの愛にあるいのちの交わりは、すでに私たちの現実になっていますが、終わりの日のイエス・キリストの再臨によってまったきものとして完成します。私たちはそのことを待ち望んで生きていますので、私たちはその望みによって生かされています。また、この望みは神さまのみことばの約束に基づく望みですので「生ける望み」なのです。
 古い契約のもとでは、神の子どもが受け継ぐ相続財産のことはアブラハムに与えられた契約に示されています。アブラハムに与えられた契約では、地上のカナンの地が神の子どもが受け継ぐ相続財産を表わす地上的なひな型でした。しかし、アブラハムは地上のカナンの地を自分と自分の子孫が受け継ぐ相続財産であるとは考えていませんでした。ヘブル人への手紙11章8節〜10節に、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されているとおりです。これまで、このことにかかわることをアブラハムの生涯の記録に沿っていくつかのことをお話ししてきました。きょうも、それらのお話を踏まえて、お話を続けます。


 創世記は全体で十二の「見出し」に当たる文によって区分されます。その第一が1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

ということばですが、これが2章3節までの天地創造の御業の記事の見出しです。続く2章4節には、

これは天と地が創造されたときの経緯である。

と記されています。これが4章26節までの記事の見出しです。この「経緯」と訳されたことばはヘブル語のトーレードートということばです。創世記では、これ以下の部分は「これは何々のトーレードートである。」という十一の見出しによって区切られています。ですから、全体では十二の見出しがあることになります。このトーレードートということばは、見出しとして使われているときには、2章4節で「経緯」と訳されている以外は「歴史」と訳されています。そして、「歴史」と訳されている場合には、「これは何々のトーレードート」というときの「何々」は人になっています。この「これは何々(誰々)のトーレードート」という見出しによって導入されている記事は、その「何々(誰々)」の由来や起源を表わしているのではなく、その「何々(誰々)」の時代の時代状況や、その家族や子孫のことなどを記しています。
 これらの見出しによる区切りに注目しますと、アブラハムの生涯のことは、11章27節に記されている、

これはテラの歴史である。

という見出しから始まる部分に記されています。そして、この「テラの歴史」(テラのトーレードート)として記されている部分はアブラハムの死を記している25章11節まで続きます。創世記の中には、「これはアブラハムの歴史である。」という見出しによって導入される記事がありません。イスラエル民族の最初の父祖であり、信仰の父と称されるアブラハムの生涯は、父である「テラの歴史」の中に記されています。そして、テラのことは11章27節〜32節に記されているだけで、その後の12章1節〜25章11節には、アブラハムのことが記されています。
 これに対しまして、たとえば、ノアの場合は6章9節の、

これはノアの歴史である。

という見出しから始まっている記事があります。また、アブラハムの子であるイサクの場合には、25章19節に、

これはアブラハムの子イサクの歴史である。

という見出しがあり、ヤコブの場合には、37章2節に、

これはヤコブの歴史である。

という見出しがあります。
 このことを考えますと、「これはアブラハムの歴史である。」という見出しがなく、アブラハムの生涯が父である「テラの歴史」の中に記されていることは、意外に思われます。その思いはヨシュア記24章2節に、

ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。」

と記されているように、テラが偶像の神々に仕えていたということを考えますと、よりいっそう強くなります。
 けれども、改めて、このヨシュアをとおして語られた主のことばを見てみますと、2節〜4節には、

あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。

と記されています。
 ここでも、主は、アブラハム、イサク、ヤコブのことを語られるのに、アブラハムの父テラのことから語り始めておられます。これは、創世記において、アブラハムの生涯のことがアブラハムの父である「テラの歴史」の中に記されていることと一致しています。やはり、アブラハムの生涯のことがアブラハムの父である「テラの歴史」の中に記されていることには意味があるのではないかと思われます。
 このことは、信仰の父と称されるアブラハムが召命を受けた状況をしっかりと心に留めておくべきであることを示しています。主が語っておられますように、アブラハムの父テラは偶像の神々に仕えていました。アブラハムはそのテラに育てられ、七十五歳まではテラと行動を共にしていました。また、以前お話ししましたように、アブラハムの親族たちも偶像に仕えていました。ですから、アブラハムは理想的な環境で育ったので、契約の神である主ヤハウェを知るようになったのではなかったのです。
 「テラの歴史」は創世記11章27節から始まりますが、それに先立つ10節〜26節には、

これはセムの歴史である。

という見出しによって導入される、セムの子孫たちの歴史が記されています。これは、9章26節に記されている、

ほめたたえよ。セムの神、主を。

というノアの祝福のことばに表わされた祝福を受け継いでいるセムとその子孫の歴史です。それが26節に記されている、

テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ということばをもって終わります。
 これは、5章1節〜6章8節に記されている、アダムの子であるセツをとおしての子孫の系図の最後に登場してくるノアのことを記している5章32節に、

ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

と記されていることを思い起こさせます。ノアは「アダムの歴史の記録」の最後に記されている人物で、三人の息子を生んだと言われています。そして、テラも「セムの歴史」の最後に記されている人物で、やはり三人の息子を生んだと言われています。このような特徴ある記し方は「アダムの歴史の記録」と「セムの歴史」の中では、ノアとテラだけに見られることですので、二人は対比されていると考えられます。そして、この「アダムの歴史の記録」と「セムの歴史」をつなぎ合わせて見ますと、アダムからノアを経てアブラハムに至るまでの契約の神である主に対する信仰の継承の流れが見えてきます。
 ノアの場合には、アダムからノアに至るまでの間に、契約の神である主に対する信仰が継承されたことが示されています。それは、先週もお話ししましたように、3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」において約束されている「女の子孫」として来られる贖い主についての主の約束を信じる信仰を継承してきたということを意味しています。その意味で、創世記に記されている「歴史」(トーレードート)においては、子孫に期待を寄せるという方向性が示されています。たとえばノアの父であるレメクのことを記している5章28節、29節には、

レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」

と記されています。レメクは人間の罪の腐敗が進んで終末が近くなっている時代に生きることの労苦の中で、自分の子であるノアに望みを託しています。その根底には「女の子孫」として来られる贖い主についての主の約束を信じる信仰があると考えられます。また、アブラハムの場合にも、相続人であるアブラハムの子のことが中心主題になっています。
 このように、「女の子孫」として来られる贖い主についての主の約束を信じる信仰によって子孫に期待を寄せるという信仰の方向性からしますと、

ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。

ということには、希望の響きがあるわけです。
 事実、ノアに受け継がれた信仰は、ノアの三人の息子のうちのセムに受け継がれていきます。それを受けて10節〜26節には、

これはセムの歴史である。

という見出しによって導入される、セムの子孫たちの歴史が記されています。そして、それが26節に記されている、

テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ということばをもって終わります。
 その意味では、「セムの歴史」の最後に記されているテラは、「アダムの歴史の記録」の最後に記されているノアに比べられる位置にあるわけです。そして、「アダムの歴史の記録」の最後の部分である6章5節〜8節に、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

と記されていますように、ノアは人類の罪の腐敗が極限に達して、それまでの歴史の総決算の時を迎えるほどになった時代において、一人、契約の神である主ヤハウェを信じており、主の恵みにあずかっていました。
 ところが、セムに与えられた祝福を継承しているはずのセムの子孫を記している「セムの歴史」の最後に記されているテラは、主と主が与えてくださった「女の子孫」として来られる贖い主についての主の約束を信じる信仰を捨てて、偶像の神々に仕える者となっておりました。
 このことを考えますと、「セムの歴史」の最後に、

テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。

ということばは、アブラハムの誕生という希望の光を掲げるものですが、そのアブラハムの誕生は血肉の力によるのではなく、ただ主の恵みによることであることが分かります。
 この、テラをとおしてアブラハムを与えてくださり、アブラハムに主を信じる信仰を与えてくださった主の恵みは、「最初の福音」において「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださった主の真実に基づく恵みです。言い換えますと、「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださった主の真実が、信仰の父と称されるに至るアブラハムを生み出したということです。また、言うまでもないことですが、人類の罪の腐敗が極限に達して、それまでの歴史の総決算の時を迎えるほどになった時代において、なおもノアが主の恵みを信じるようになったことも、「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださった主の真実な恵みによることでした。
 このことは、そのまま私たちにも当てはまります。私たちが生まれて育った社会においては、造り主である神さまを信じている人々は多くはありません。ですから、多くの人々が主を信じている状況の中で、自然と主を信じることができるようになったわけではありません。さらに、主を礼拝することが人々の生き方の中心となっていて、たとえば、主の日には会社も商店もみな休みとなるようになっていて、何の葛藤もなく主を礼拝するための時間を取ることができるというわけでもありません。主を礼拝するための時間でも、覚悟をして区別して取っておかなければなりませんし、そのためにいろいろなことを捨てなければなりません。そうではあっても、私たちは主を礼拝することを外側からの強要や脅迫によってではなく、心の奥深くで喜びながら、自らの意志で選び取っています。その際に、いろいろなことを捨てることがあっても、それを惜しいと感じるわけではありません。
 そのような中で、ノアのように父母が主を信じる家庭において生まれて育ったことによって、信仰を継承した者もいます。また、アブラハムのように、父母が他の神々に仕えている家庭に生まれて育ったのに、主の不思議なお導きの下に、主を知り、主を信じるように導かれた者もいます。それがどのような状況であったとしても、私たちが今ここで主を私たちの造り主として、また贖い主として信じて、礼拝することができるようになっていることは、ただ主の一方的な愛から出ている恵みによっています。
 そして、この主の一方的な愛から出ている恵みは、人類の堕落の直後に「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださって、その約束を実現してくださった主の真実な恵みです。人類の堕落の直後に「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださって以来、変わることなく働いて、ノアに信仰を与え、アブラハムに信仰を与えてくださったのと同じ主の恵みです。私たちが受けている恵みは、主の契約の民を世々にわたって支え続けてきた主の恵みです。
 先週もお話ししましたように、アブラハムに与えられた、12章1節〜3節に記されている、

  あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束は、アブラハムという一個人をとおして「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるという「途方もない」約束でした。けれども、それは私たちがアブラハムという一個人を見ているために「途方もない約束」と感じられるだけであって、その約束を与えてくださった方が、主ヤハウェであられるということを中心にして考えますと、それは決して「途方もない約束」ではなかったのです。
 前にお話ししたことですが、主はモーセにご自身の御名を啓示してくださいました。それは、出エジプト記3章14節に記されているように、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名です。地上の世界においてどんなに時代が変わり人が移り変わっていっても、契約の神である主ご自身は決して変わりたもうことはありません。それは、ただ主が私たちとは無関係に変わりたもうことのない方として超然としておられるということではありません。もちろん、主はこの世界をお造りになる前から、永遠に変わることなく無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方です。しかし、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名を啓示してくださったのは、ただご自身が決して移り変わることのない方であることを示してくださっただけでなく、そのように移り変わることのない方として、約束してくださったことを必ず成し遂げてくださる真実な方であるということを示してくださるためでした。
 確かに、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名の啓示はモーセに与えられました。けれども、創世記12章1節に、

その後、主はアブラムに仰せられた。

と記されている中で契約の神である主ヤハウェの御名が用いられているのは、アブラハムに約束と召命をお与えになった主ヤハウェが、

わたしは、「わたしはある。」という者である。

という御名をもって呼ばれる方であり、そのような方としてアブラハムに約束と召命を与えてくださったということを示しています。
 ヤコブの手紙1章17節、18節には、

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

と記されています。ここで、

父には移り変わりや、移り行く影はありません。

と言われています。ここでも、そのことを挟むようにして、その前においては、

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。

と言われており、さらに、その後には、

父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

と言われています。これによって、父なる神さまに「移り変わりや、移り行く影」がないことが、私たちにとって豊かで確かな意味をもっていることが示されています。
 これまでヘブル人への手紙11章8節〜10節に記されている、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

というアブラハムの信仰の姿勢を記しているみことばを引用してきました。これに続く11節、12節には、サラの信仰のことが、

信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

と記されています。ここでは、サラについて、

彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた

と言われています。それは、またアブラハムの信仰でもありました。ローマ人への手紙4章19節〜21節に、

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

と記されているとおりです。
 アブラハムの子孫は、またサラの子孫でもあります。ガラテヤ人への手紙4章21節〜23節には、サラと召使いであったハガルを地上的なひな型として、

律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。

と記されており、さらに28節には、

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

と記されています。
 このように、アブラハムという一個人、あるいはアブラハムとサラという一つの夫婦をとおして「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになるという約束は、サラのように「約束してくださった方を真実な方」と信じる信仰、またアブラハムのように「神には約束されたことを成就する力があることを」信じる信仰の眼で見ますと、けっして「途方もない」約束ではないのです。
 そのことは、ノアの時代において、ノアとその家族以外はすべてが造り主である神さまの御前に背教してしまっており、暴虐が地を満たしてしまっているという状況になってしまった時に、主はノアをとおして「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を継承させてくださり、ノアをとおして人類の歴史を存続させてくださり、特に、救済の御業の歴史を継続してくださったということにも当てはまります。先ほど引用しました創世記6章章5節〜8節に記されている、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。

というみことばに記されていることを、ノアという一個人を中心として見ますと、もうどうしようもない状態になってしまっています。しかし、このことも、「最初の福音」において「女の子孫」として来られる贖い主についての約束を与えてくださった契約の神である主ヤハウェを中心として見ますと、決して、どうしようもない状態ではなかったのです。
 ヘブル人への手紙11章7節には、

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

と記されています。ノアとその家族以外はすべてが造り主である神さまの御前に背教してしまっている状況の中で、「神から警告を受けたとき」それを信じることができたのは、そして、きっとあざけりの的となってのことでしたでしょうが、かたくななまでに陸の上に箱船を作り続けたのも、主の真実な恵みによっています。
 これらのことは、私たちにも当てはまります。
 先ほど、私たちが契約の神である主を信じるようになったこと、そして、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストこそが「最初の福音」において約束されていた「女の子孫」として来られた贖い主であられることを信じていることは、私たちが置かれている状況を考えますと、ただ主の一方的な愛から出た恵みによることであるということをお話ししました。そのことを認めつつも、私たちはしばしば自分たちがあまりにも少数であることに意気消沈してしまうことがあります。そのような時、私たちのうちに、知らないうちにですが、血肉の力、数の力を当てにし、頼みとする発想が忍び込んでいる可能性があります。
 そのような時にこそ、私たちのうちに十字架の上で死んでくださったイエス・キリストこそが約束の贖い主であると信じる信仰を与えてくださった主の恵みが、人類の堕落の直後に「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださった主の真実に基づく恵みであるということを思い起こす必要があります。私たちの信仰は、真実な主のみことばに示されている約束に基づいています。
 ヘブル人への手紙11章1節では、私たちの信仰の特質について、

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と言われています。私は初めてこれを読んだときに戸惑いました。それは、このことばが何となく「念ずれば通ず。」というようなことを意味しているのではないかと感じられたからです。
 けれども、このことばはそのようなことを意味しているのではありません。すでにお話ししてきましたアブラハムやサラやノアの信仰から分かりますように、

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

というときの信仰は、契約の神である主の約束を信じる信仰であり、約束してくださった方は真実な方であり、必ずそれを実現してくださる力がある方であると信じる信仰です。そして、そのように信じた私たちに与えられる「保証」と「確信」の土台は、私たちの信仰そのものにではなく、主の約束にあるのです。
 これと同じような戸惑いは「信仰には力がある。」というようなことばを聞いたときにも感じたものです。しかし、正確には、私たちの信仰そのものに力があるのではありません。コリント人への手紙第一・2章4節、5節には、

そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

と記されています。これは、1章18節に記されている、

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

ということばから始まるパウロの一連の教えを受けて語られたものです。また1章23節、24節には、

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されています。力は私たちの信仰そのものにあるのではなく、神さまと神さまのみことばにあります。そして、私たちの信仰も神さまの御力に支えられています。
 私たちはこの世にあって少数者です。特に、この社会にあってはそう感じられます。けれども、私たちは契約の神である主の真実な約束を信じる信仰によって、主を中心として、この世界と私たちの歩みを見つめます。それは、全世界のすべてが背教してしまってノアとその家族だけが残されたような状況になっても、そのみことばを信じて箱船を造り続けたノアをとおして、救いの御業の歴史が継続していったことを、契約の主の真実さによることであると見るのと同じことです。また、アブラハムという一個人をとおして「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになったことを、契約の主の真実さによることであると見るのと同じことです。聖書に記されている人物のことだけを、契約の主の真実な恵の下ににあると見るのではなく、私たち自身がそれと同じ主の真実な恵の下にあると信じることが大切なのです。
 その私たちにも、「途方もない」と見える約束が与えられています。ローマ人への手紙8章19節〜22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。
 ここでは、神の子どもの出現が「被造物全体」の回復と栄光化による完成の鍵であるという、神さまの救いのご計画の広がりが示されています。血肉の力という点では私たちは少数者で力は限られています。そればかりか、たとえこの世界のすべての人が主を信じるようになったとしても、人間としての限界のために、「被造物全体」の回復と栄光化を生み出す力はありません。しかし、契約の神である主の約束という点では、私たちが少数者ではあっても、ここで神の子どもとして、造り主であり、贖い主であられる神さまを礼拝していることは、神さまの救いの御業において「被造物全体」が回復し栄光化されて完成することの鍵としての意味をもっているのです。
 ペテロの手紙第二・3章13節に、

しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

と記されていますように、私たちは栄光のキリストの再臨とともに完成する新しい天と新しい地を相続する者として召されています。栄光のキリストは、「被造物全体」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るという形で、新しい天と新しい地を完成してくださいます。そのようなみことばの約束の中で、神の子どもとしての私たちの存在は確かな意味をもっています。

 


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