(第141回)


説教日:2003年9月14日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 ペテロの手紙第一・1章3節、4節には、父なる神さまが「ご自分の大きなあわれみのゆえに」私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちを新しく生まれさせてくださったこと、それによって、私たちが神の子どもとしての身分を与えられ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつようになったことが示されています。
 ここで言われている「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産のことです。そして、この神の子どもが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身です。私たちが神さまを相続財産として受け継いでいるということは、私たちが神の子どもとして父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者となっているということを意味しています。
 古い契約のもとでは、神の子どもが受け継ぐ相続財産のことはアブラハムに与えられた契約に示されています。アブラハムに与えられた契約では、地上のカナンの地が神の子どもが受け継ぐ相続財産を表わす地上的なひな型でした。けれども、カナンの地に関する約束を受けていたアブラハムは、地上のカナンの地を自分と自分の子孫が受け継ぐ相続財産であるとは考えていませんでした。ヘブル人への手紙11章8節〜10節に、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されているとおりです。これまでこのことをアブラハムの生涯の記録に沿ってお話ししてきました。きょうもそのお話を続けます。


 創世記15章7節に記されていますように、主は、カナンの地にいるアブラハムに、

わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。

と言われました。主はアブラハムをカルデヤのウルから「連れ出し」てくださり、カナンの地に導き入れてくださいました。アブラハムへの約束と召命を記している創世記12章1節〜3節には、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」

と記されています。
 この約束と召命を受けたアブラハムは、ヘブル人への手紙11章8節のことばで言いますと、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」そして、創世記12章7節に、

そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

と記されていますように、カナンの地に来たアブラハムに、そのカナンの地がアブラハムの子孫に与えられる約束の地であるということを示してくださいました。それで、アブラハムはその地に留まるようになりました。
 その約束の地においてアブラハムは、その地が主から自分に与えられているということで、その地の住民を追い出して自分の国を建てるようなことはしませんでした。ヘブル人への手紙11章9節に、

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

とあかしされていますように、アブラハムはその地において「天幕生活をし」、「他国人のようにして住み」ました。
 約束の地でアブラハムがしたことは、行く先々で主のための祭壇を築き、主を礼拝することを中心とした生活をすることでした。このことのうちに、アブラハムが求めていたのは地上のカナンの地を自分のものとして所有することではなく、主を礼拝することを中心とした、主との愛にあるいのちの交わりに生きることであったことが表わされています。アブラハムにとって約束の地は、主を礼拝することを中心とした、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるために与えられた場所であったのです。
 ここで改めて、アブラハムに与えられた、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束について考えてみましょう。
 考えてみますと、この約束は「途方もない約束」です。アブラハムという一個人をとおして地上のすべての民族が主からの祝福を受けるようになるというのです。私たちはそのことの結果を知っている者として、後から振り返って見ていますので、この約束を信じて召命に従うことは当然のことのように思われます。けれども、初めてこの約束と召命を受けたアブラハムの立場に立ってみますと、この約束を信じて召命に従うことは、とても大変なことであったはずです。アブラハムがこのような主の召しを受け止めることができたのは、主の恵みによることであり、御霊のお働きによることでした。
 アブラハムに与えられた

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束は、地理的には全世界のすべての民族を視野に入れていますし、歴史的には人類が最初の人アダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の歴史全体を視野に入れています。
 アブラハムに与えられた約束が、歴史的に人類が最初の人アダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の歴史全体を視野に入れているということについては、疑問をもたれる方がおられるかもしれません。この約束がアブラハムの時代の後のすべての歴史を視野に入れているということであれば、問題にはならないでしょうが、アダムからアブラハムまでの時代も視野に入っているということは問題であると感じられるかもしれません。このことは、後ほどお話しすることとかかわっていますので、少し説明させていただきます。

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束は、22章18節に記されている、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という主のアブラハムに対する約束に至ります。これがアブラハムに与えられた最後の約束です。そして、実際に、アブラハムの子孫として来られた約束の贖い主であられる御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業をとおして、地上のすべての民族が祝福を受けるようになりました。ガラテヤ人への手紙3章7節、8節に、

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

と記されており、13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されているとおりです。
 けれども、このガラテヤ人への手紙に記されているみことばは、新しい契約の下にある異邦人たちが、アブラハムの子として来てくださった御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、アブラハムに約束された祝福を受けているということを示しています。それは、この手紙が新約聖書の時代の異邦人であるガラテヤの諸教会の問題を取り扱っていることによっています。確かに、新約聖書の時代の異邦人だけでなく、今日の私たちまでもが、アブラハムの子として来てくださった御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、アブラハムに約束された祝福を受けています。このことは、古い契約のもとでアブラハムに与えられた契約の約束が御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして成就し、その祝福が私たちに当てはめられているということを意味しています。
 このように、古い契約の下でアブラハムに与えられた契約の約束は、御子イエス・キリストが十字架において流された血による新しい契約において成就しており、その祝福が私たちに当てはめられています。その意味では、アブラハムに与えられた契約は、やがて来たるべき贖い主によってもたらされる祝福をあかししているという点で、歴史の将来を指し示すという基本的な特質をもっています。
 その点をしっかりと押さえたうえでのことですが、アダムからアブラハムに至るまでの歴史においても、神である主が与えてくださった贖い主についての約束を信じて、その信仰によって義と認められていた聖徒たちがいました。言うまでもなくその約束は、創世記3章15節に記されている、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、最初の人アダムとアダムにある人類を罪にいざなって堕落へと導いた「蛇」の背後にある存在に対するさばきのことばにおいて示されたものです。これは一般に「最初の福音」と呼ばれます。これ以後の時代の人々は、この「最初の福音」すなわち「女の子孫」として来られる贖い主による救いの約束を信じる信仰によって義とされています。この「最初の福音」は、「女の子孫」として来られた御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によって成就しています。それで、アダムからアブラハムまでの時代の聖徒たちが罪と死の力から贖い出されるのは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業によっています。言い換えますと、アダムからアブラハムまでの時代の聖徒たちを含めて、古い契約の下で与えられた贖い主に関する約束を信じた聖徒たちも、終わりの日には栄光のうちによみがえります。それは、その人々も、私たちと同じく、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかってのことです。
 このように、アブラハムに与えられた、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束は、「最初の福音」において約束された「女の子孫」として来られる贖い主が、さらに、アブラハムの子孫として来られるということを示しているのです。いわば、「最初の福音」において約束された「女の子孫」として来られる贖い主のことが、より詳しく示されているということです。その意味で、アブラハムに与えられた約束は、アブラハムの後の時代の人々だけでなく、「最初の福音」とのかかわりで、アダムからアブラハムまでの時代の人々にとっても意味をもっているわけです。言い換えますと、アブラハムに与えられた約束は人類がアダムにあって堕落してしまった後の歴史全体を視野に入れているということです。
 ただし、今お話ししたことは、私たちが見て取ることができることであって、必ずしも、アブラハムがそのすべてを見通していたということではありません。私たちは、神さまの救いの御業が御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成就しており、その救いの御業の歴史の全体像を記している聖書のみことばを与えられている時代に生きています。それで、私たちはみことばの光の下に、神さまの救いの御業の歴史の全体像を見ることができます。けれども、それはアブラハムが地上にいた時には見通すことのできないことでした。
 いずれにしましても、アブラハムは地上のすべての民族がアブラハムという一個の人間によって祝福を受けるようになるという「途方もない」約束を信じました。そのことが、具体的にどのように実現していくかということまでは分からなかったでしょうが、主の約束を信じるということがアブラハムの信仰の基本的な姿勢でした。また、それゆえに、アブラハムは主の召命に応えて、生まれ故郷と親族のいる所を後にして、主が示してくださる所に向かって旅立って行き、カナンの地にまでやって来て、主を礼拝することを中心とする生活を始めました。
 先週は、このような歩みを始めたアブラハムにいくつかの試練がやってきたことをお話ししました。
 最初の試練はカナンの地にひどい飢饉があったために、難を逃れるためにエジプトに下って行った時のことです。その時、アブラハムはエジプト人を恐れて、妻のサラは自分の妹であることにしました。12章11節〜13節には、

彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

と記されています。アブラハムは、妻であるサラを他の者に渡してでも自分の身を守ろうとしています。
 そして、14節〜16節には、

アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

と記されています。サラはパロの宮廷に召し入れられ、パロはアブラハムに「羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだ」を与えました。これは、実際に、アブラハムが恐れとともに予想したように事が運んでいってしまったということを示しています。
 このことに対して、主は介入してくださいました。続く17節〜20節には、

しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

と記されています。
 先週お話ししましたように、これは、パロに何らかの非があるために、主がパロをおさばきになったというように考える必要はありません。むしろ、この場合には、主がパロに、このことで罪を犯さないように警告をお与えになったのだと考えられます。もしパロがその警告に耳を傾けなかったとしたら、主のさばきに遭うことになったでしょう。しかし、パロは直ちに主の警告を受け入れ、アブラハムとサラを丁寧に送り返しています。
 主はこのことをとおして、アブラハムにご自身がエジプトの王パロをも御手に収めて支配しておられるということを示してくださいました。また、主はそのような方として、たとえアブラハムがエジプトに下らなければならないような事態になったとしても、変わることなくアブラハムとともにいてくださり、みこころを実現してくださるということを、実際の経験をとおして示してくださったのです。
 先週は、アブラハムはこの経験から主の御手のお働きの確かさを学んだことによって、実際に、主に信頼するようになったと考えられるということをお話ししました。簡単な補足を加えながら、復習したいと思います。
 13章1節〜4節にはエジプトを出たアブラハムのことが、

それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

と記されています。
 ここに記されていることから、アブラハムが激しい飢饉を避けるためにエジプトに下った時に、ロトも一緒に下って行ったことが分かります。ロトも激しい飢饉を経験していたのです。そして、パロからの贈り物を手にしてエジプトを出てきたアブラハムは、財産が非常に増えていました。2節に、

アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

と記されているとおりです。それはロトにも当てはまる可能性があります。しかし、アブラハムは、4節に、

そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

と記されているとおり、文字通り原点に戻って、主を礼拝することを中心とする生活を始めました。
 そこに次の試練がやって来ました。続く5節〜7節には、

アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。

と記されています。
 このようにして、おいのロトと別れなければならない状況になったときに、アブラハムは、どこに住むかの選択権をロトに譲りました。それで、ロトはヨルダン川によって常に潤っていて、繁栄している町のある「ヨルダンの低地全体」を選び取って、そこに住むようになりました。10節には、

ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

と記されています。ここで「ヨルダンの低地全体」が潤っている様子が、、ロトの目には「主の園のように」というだけでなく「エジプトの地のように」見えたと言われています。このことは、激しい飢饉を経験しているロトのうちに、もう山地が多く雨が降らなければ乾いてしまうカナンの地に住むことはこりごりだ、という思いがあるためのことだと思われます。
 これに対して、アブラハムはロトの決定を受け入れて、カナンの地に住むようになりました。アブラハムもカナンの地において激しい飢饉を経験しています。カナンの地は再びそのような飢饉が襲ってくる危険のある所でした。けれども、アブラハムはロトの選択を尊重し、自分がカナンの地に住むことを受け入れました。いわば、ロトの選択をとおしてカナンの地がアブラハムの住むべき地となったのです。アブラハムとしては、このことのうちにも、12章7節に、

そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

と記されている主の約束の確かさを実感していたのではないでしょうか。
 いずれにしましても、これによって、アブラハムがこの世の権力の序列の基礎にある年長者の権威の序列に縛られていない、自由な者であることが示されるようになりました。また、地上的な富への執着からも自由な者であることが示されるようになりました。これは、ただ単にアブラハムが無欲な者であったということではありません。アブラハムはパロからの贈り物を受け取り、それを携えてエジプトから帰ってきました。アブラハムは地上的な富に執着しませんでしたが、それをどうでもいいものとは考えていなかったのです。主が自分に委ねてくださったものはしっかりと受け止めて、主の御名のために用いたと考えられます。アブラハムがこの世の権力や地上の富への執着から自由な者であったのは、主の御手のお働きの確かさを実地に経験して学んだことによって、主に信頼してすべてを主にお委ねした結果です。
 このことを受けて、13章17節に記されていますように、主はアブラハムに、

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

と言われました。すでにお話ししましたように、これは、主がアブラハムに王的な権威を授けてくださったということを意味しています。主はこの世の権力や地上の富への執着から自由な者となっているアブラハムに、カナンの地において主の契約のしもべとして生きるようになるために、王的な権威を委ねてくださいました。
 主から王的な権威を委ねられたアブラハムに、さらにもう一つの試練がやって来ます。14章に記されていますように、ケドルラオメルを中心とする東の王の連合軍がカナンに侵略してきて、カナンの王たちの連合軍を打ち破って、カナンの地を略奪し、おいのロトを虜にして連れていってしまうという出来事が起こりました。その時、アブラハムは自分のしもべ三百十八人と、盟約者である「アネルとエシュコルとマムレ」の軍隊をもって、東の王たちの連合軍を追撃し、夜襲をかけて打ち破り、カナンの地から追い払いました。そして、おいのロトを初めすべてのものを取り返しました。
 この時アブラハムに三百十八人のしもべがいましたが、その中には、12章16節に、

パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

と記されていますように、パロから与えられたしもべたちが含まれています。このことのうちにも、主の摂理的な御手のお働きが感じられます。また、先程もお話ししましたように、アブラハムが主から委ねられた地上的な財産をしっかりと受け止めたことが、ここで生きているわけです。
 その時、アブラハムは戦いから帰ってきたアブラハムを出迎えたサレムの王であり「いと高き神の祭司」であるメルキゼデクに取り返したものの十分の一をささげました。これによって、主の御名によってこの戦いを展開したこと、そして、自分たちの作戦が成功して、ロトとその財産を含めて略奪されたものを取り返すことができたことは主の恵みによることであることを告白したのです。
 その当時、戦いにおいて敵の手から奪ったものは、奪った人のものになるという一般的な理解がありました。それで、アブラハムが取り返したものは、アブラハムのものになっていました。けれども、ソドムの王が「アブラハムを富ませたのは自分だ」と言う可能性がありましたので、アブラハムは自分が取り返したもののすべてを放棄しました。それによって、アブラハムに示された主の恵みと、すべては主の恵みによるというアブラハムの信仰の告白が傷つけられることがないようにしたのです。
 このようにして、激しい飢饉のためにエジプトに下らなければならないという試練をとおして、アブラハムは、主の御手のお働きの確かさを経験しました。そして、それに続く試練をとおして、主の御手に信頼して生きることによって自由な者となっていることを表わすようになりました。そのアブラハムはさらに、主から王的な権威を委ねられるようになり、実際に、主の御名によってそれを行使しました。
 これらのことを、先ほどの、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

というアブラハムへの約束とのかかわりで見てみますと、いくつかのことが見えてきます。
 第一に、アブラハムは、エジプトでの出来事をとおして、主がエジプトの王パロをも御手のうちに収めて支配しておられるということを経験的に学びました。確かに、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束は、アブラハムという一個の人間が地上のすべての民族が祝福を受けるようになるために用いられるという「途方もない」約束です。しかし、それはアブラハムという一個人を見たときに「途方もない」約束であると感じられるだけのことです。この約束をしてくださった主は、エジプトの王であるパロも含めて、地上のすべての民族を御手のうちに収めておられる主であられます。この約束を、約束してくださった方が主であられるということから見ますと、この約束は決して「途方もない」約束ではないのです。
 第二に、すでにお話ししましたように、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

というアブラハムに与えられた約束は、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束に至ります。そして、このアブラハムの子孫によって「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」という約束は、「最初の福音」において示されていた「女の子孫」として来られる贖い主の約束を受けて、「女の子孫」として来られる贖い主は、アブラハムの子孫として来られるということを示すものでもありました。
 この約束の啓示の歴史的な流れを踏まえたうえでお話しするのですが、アブラハムがカナンの地を襲った激しい飢饉による難を逃れるためにエジプトに下った時に、エジプト人を恐れて、妻のサラを自分の妹であると偽ったことは、単なる偽りではありませんでした。それは、先週もお話ししましたように、サラを他の人に渡してしまうような可能性を開く偽りでした。そして、実際に、サラはエジプトの王であるパロの宮廷に召し入れられてしまいました。しかし、これは、アブラハムとサラの夫婦関係の危機ということにとどまりません。神である主の救いの御業の歴史において、「女の子孫」として来られる贖い主は、さらにアブラハムの子孫として来られるという、主の救いのご計画が損なわれてしまう危機に瀕していたのです。ですから、この時、主が介入してくださって、パロの家に災いを下して、サラをアブラハムに戻してくださったことは、「最初の福音」において「女の子孫」として来られる贖い主を約束してくださった主の真実な御手によることであったのです。
 第三に、「最初の福音」は、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、最初の人アダムとアダムにある人類を罪にいざなって堕落へと導いた「蛇」の背後にある存在に対するさばきのことばにおいて示されました。「女の子孫」として来られる贖い主は、最初の人アダムとアダムにある人類を罪にいざなって堕落へと導いた「蛇」の背後にある存在との霊的な戦いを戦う方です。その意味で、この方は王的な権威をもった方です。コロサイ人への手紙1章13節、14節では、実際に「女の子孫」として来られた贖い主のことが、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

とあかしされています。
 この暗やみの主権は、自らを神の位置に据えようとして堕落したもので、人間の世界に限らず、およそ権力あるものの序列のいちばん上に立って、その権力の下にあるものを、偽りによって押さえつけ縛りつけようとしています。暗やみの主権の偽りの中心は、この暗やみの主権があたかも真の主権であるかのように見せかけることです。それによって、暗やみの主権は自分を神の位置に据えてしまうのです。普通ですと、サタンの偽りの中心は「神はいない」とすることにあると考えられることでしょう。しかし、それでは自分を神の位置に据えることもできません。それで、サタンは「神はいる、それは自分である」とするわけです。その意味で、これは「神はいない」とする偽りよりも巧妙な偽りです。
 このような暗やみの主権はまことの主権者であられる神である主から委ねられた本来の権威が、罪によって腐敗してしまったことによって生まれてきました。このような腐敗した権力によってもたらされるのは、さらなる罪の暗やみと罪がもたらす死と滅びに対する恐れです。御子イエス・キリストは私たちをこのような暗やみの主権から解放してくださいました。そのことは、先ほど引用しました、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

というみことばに示されています。また、ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 これに対して、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束を受けたアブラハムは、主から王的な権威を委ねられました。それは、主の御手の確かさに信頼することによって、この世の権力の序列の上に立って支配しようとする権力への執着からまったく自由な者にされたアブラハムに委ねられた王的な権威です。これによって、「女の子孫」として来られ、アブラハムの子孫として来られる贖い主の王的な権威が、この世の権力の序列のどこかに位置づけられるのではなく、この世の権力とは本質的に違った権威であるということがあかしされるようになりました。
 事実、この方の権威は、マルコの福音書10章42節〜45節に記されている、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、ご自身の民の贖いのために、ご自身のいのちをもお捨てになったことに最もはっきり現われている恵みとまことに満ちた権威です。
 キリストのからだである教会においては、このような、この世の権力とは本質的に区別される、栄光のキリストの恵みとまことに満ちた権威があかしされなければなりません。それは、主の恵みによってアブラハムに与えられたのと同じ神の子どもとしての自由において、互いに愛し合うことによって、私たちの間に実現します。ガラテヤ人への手紙5章13節、14節に、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

と記されているとおりです。

 


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