(第138回)


説教日:2003年8月17日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうも、ペテロの手紙第一・1章に記されていることとのかかわりで、私たちが聖なるものであることが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとされている私たちに与えられている望みとかかわっているということについてお話しします。
 3節、4節に記されていますように、父なる神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちの罪を贖い、私たちを新しく生まれさせてくださいました。それによって私たちは神の子どもとしての身分を与えられ、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつようになりました。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は神の子どもたちが受け継いでいる相続財産のことで、その中心は神さまご自身です。そして、神さまを相続財産としてもつということは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということを意味しています。
 これまで、古い契約のもとでは、神の子どもが受け継ぐ相続財産のことはアブラハムに与えられた契約に示されていますので、アブラハムに与えられた契約をとおして示されている相続財産についてお話ししてきました。アブラハムに与えられた契約では、地上のカナンの地が神の子どもが受け継ぐ相続財産を表わす地上的なひな型でした。これに対しまして、ヘブル人への手紙11章8節〜10節には、

信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されています。ここでは、カナンの地に関する約束を受けていたアブラハムは、地上のカナンの地を自分と自分の子孫が受け継ぐ相続財産であるとは考えていなかったと言われています。きょうも、このことをアブラハムの生涯の記録に沿ってお話しします。


 これまでお話ししたことの復習ですが、創世記15章7節には、主がカナンの地にいるアブラハムに、

わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。

と言われたことが記されています。主はアブラハムをカルデヤのウルから導き出されたと言われました。ところが、11章31節には、

テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。

と記されています。アブラハムがウルを出たのは、父テラがカナンの地に行こうとしてカルデヤのウルを出たのに従ってのことでした。テラはカナンに行く途中のカランに、死ぬまで住み着いてしまいました。それは、ヨシュア記24章2節に、

ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。』」

と記されていますように、テラは偶像の神々に仕えていたことによっていると考えられます。ウルとカランはともに月の神スィンを中心として成り立っている町でした。何らかの理由でウルを出たテラは、それで月の神スィンへの執着を断ち切ったわけではなく、ウルと同じ月の神を中心にしているカランに住み着いてしまったと考えられます。
 これに対しまして、先ほど引用しました15章7節で主がアブラハムをウルから連れ出されたと言われていることから、アブラハムは、形としては父テラに従ってウルを出たのですが、主ヤハウェを信じる者として月の神スィンという偶像を中心にして成り立っているウルを出るべきであるという自覚のもとにウルを出たと考えられます。
 けれども、そのアブラハムもテラが死ぬまでカランに留まっていました。テラがカランで死んだ後、12章1節〜3節に、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」

と記されていますように、主は「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになるという約束をお与えになって、アブラハムを召してくださいました。
 これを受けて続く4節には、

アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。

と記されています。このことから分かりますように、アブラハムは七十五歳になるまで父テラとともに行動しました。それは、アブラハムが父テラを敬って、最後までテラを支えていたからであると考えられます。
 このように言いますと、何となく保守的な道徳の臭いがいたします。確かに、そのように年長者に従うことは、その当時の文化の中では、当然のことと考えられていました。アブラハムもその当時の文化の中で当然のこととされていた考え方に従って父テラに従っていたように見えます。
 けれども、この点に関しては、もう一つの重大な事実があります。それは、すでにお話ししましたロトとの関係のあり方です。ロトはアブラハムの末の弟ハランの息子で、アブラハムとともにカナンに来ました。しかし、やがてお互いの家畜の数が多いために、いざこざが起こるようになりました。それを避けるために、アブラハムはお互いが別れて住むことを提案しました。13章8節〜11節には、

そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

と記されています。
 ここに記されていますように、アブラハムはお互いが別れた後にどこに住むかの選択権を、自分のおいであるロトに譲りました。それでロトは一目見て分かるほどに豊かに潤っており、繁栄していた町のある「ヨルダンの低地全体」を選び取りました。もしアブラハムの考え方が年長者の権威の序列に縛られていたのであれば、自分に選択権があることは当然のことと考え、自分が好む所を選んで、ロトに別のところに住むように言っていたことでしょう。しかし、アブラハムはロトに選択権を譲っています。
 このように、アブラハムは一方で父テラを敬い、テラに従いました。それは、テラが父であったということによっています。これだけですと、アブラハムも年長者の権威の序列という発想による道徳観に従って生きていたようにも見えます。しかし、その一方で、アブラハムはおいのロトに年長者の権威を振りかざすことなく、ロトの考えを尊重しています。このことのうちに、アブラハムが年長者の権威の序列という発想から自由であったことが現われています。そして、このことから、アブラハムは年長者の権威の序列という発想をもっていたために父テラに従ったのではなく、そのような発想から自由なものとして父テラを敬っていたので、最後までテラに従っていたのだと考えられます。
 それではどうして、アブラハムはその当時の文化の中で一般的な年長者の権威の序列という発想から自由になることができたのでしょうか。そのことについての直接的な説明を聖書の中から見つけることはできません。しかし、それは、アブラハムが主ヤハウェを信じていたために、この世の価値観から自由であったことと関係があると考えられます。言い換えますと、主が恵みによってアブラハムのうちにそのような自由を生み出してくださっていたということです。それで、アブラハムは主ヤハウェを信じる者として、たとえ自分が生まれて育った町であっても、またそこに親族たちが住んでいても、偶像を中心として成り立っているウルやカランから出てくることができました。また、カナンの地においてロトと別れて住むようになった時も、この世の尺度から見て豊かに潤って繁栄している町のある所に住もうという思いからも自由でした。それで、自分のおいのロトを尊重し、ロトの願いを優先させることができたのだと考えられます。
 ヘブル人への手紙11章9節、10節に、

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と記されていることは、そのようなアブラハムの自由と深くかかわっているわけです。そして、主はそのようにこの世の価値観、特に権威主義的な価値観から自由であったアブラハムによって「地上のすべての民族」が祝福を受けるというみこころを示してくださったのです。このことについては、後ほどもう少しお話しします。
 このようなお話によって、皆さんに圧力を加えることは絶対にしたくないことですが、大切なことだと思いますのでお話ししますと、玉川上水キリスト教会が設立されてから二十数年が経ちます。その間に教会員の数が劇的に増えたわけではありませんが、いろいろな面で経済的な必要は増しました。いちばん大きな負担は、牧師である私の子どもたちが大きくなったということでしょう。そのような中で、兄弟姉妹たちが、ご自分たちの生活のための備えを削って献げ続けてこられました。また、さまざまな困難な中にある方々を、ひそかに支え続けてこられた兄弟姉妹方もいらっしゃいます。私が知らないこともまだまだあることでしょう。それは必ずしも金額の大小のことではありません。
 現実には、主に献げればその報いとして祝福を受けて商売がうまくいくとか、生活が潤ういうようなことが囁かれることもありますが、私たちの間ではそのような声を聞いたことはありません。実際、どなたかが事業に成功して、大もうけをしたというようなことはありませんでした。また、私も含めて長老のどなたかが、あるいは会計担当者が、教会の必要のためのお祈りを要請したことはありましたが、圧力を加えたことは一度もありません。
 それでは、何が兄弟姉妹たちを動かしていたのでしょうか。兄弟姉妹の一人一人によって、いろいろなことが考えられるでしょうが、そのいちばん奥にあるものは同じだと考えています。それは、主がその恵みによってアブラハムのうちに生み出してくださった自由を、兄弟姉妹たちのうちにも生み出してくださっているからであるということです。その自由の中で、利己的な計算もなく、ただ主を愛し、主を信頼して主がご自身のからだである教会を建て上げてくださることに参与することとして献げてこられたということです。もちろん、そこにいろいろな意味での揺れがあったかもしれません。しかし、最終的に落ち着くところはそのような、主への愛によってということであるのではないでしょうか。
 このようなお話をしたのは、そのような献げものをごく自然のこととしておられて、ご自身のうちに主が生み出してくださっている自由があるということに気づいておられない兄弟姉妹がおられるかもしれないからです。そのような自由こそ、神の子どもに与えられた祝福です。繰り返しになりますが、私はこのことでどなたにも圧力を加えたくはありません。けれども、この神の子どもの自由には気づいてほしいと思います。そして、主の恵みに対する感謝をもって、栄光を主にお返ししていただきたいと思います。
 そして、そのように主の恵みに対する感謝をもって、栄光を主にお返しする私たちの礼拝は、神の子どもとしての生涯をとおしてささげられます。主への礼拝は神の子どもとしての自由の中で、利己的な計算を離れ、主を愛し、主を信頼してささげられるものです。このように主への愛によって礼拝することができることこそが、神の子どもとしての私たちの受けている最大の祝福です。この、主への礼拝は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる新しい天と新しい地においても絶えることなくささげられます。
 前にも引用したことがありますが、アブラハムがロトと別れた後のことを記す13章14節〜18節には、

ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

と記されています。
 ここでは、改めてカナンの地に関する約束がアブラハムに与えられたことが記されています。それまでは、アブラハムに約束が与えられたとしても、それはロトをも含めた大家族に与えられた約束であるとも取れました。それが、この時はロトとの区別においてアブラハムに約束が与えられたのです。
 ここで注目したいのは、17節に記されている、

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

という主のことばです。この、

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。

ということには、王たちが自分の領土を治める権威を象徴的に示すためにその領土を見回ったという、その当時の文化的な背景があります。その意味で、これは王的な権威を表わすものです。けれども、アブラハムの場合は、

わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

という主のことばに示されていますように、アブラハム自身は最終的な権威者ではありません。アブラハムは主の権威に服するものとして、そして、主から遣わされた者としての権威において、カナンの地を「縦と横に歩き回」ったのです。それで、18節に、

そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

と記されていますように、アブラハムは主のご臨在を中心として、主の御前を歩んだのです。
 このように、アブラハムは主のことばに従って、カナンの地において主から王的な権威を委ねられた者として歩むようになりました。このこととのかかわりで大切なことは、主から王的な権威を委ねられたアブラハムは、これまでお話ししてきましたように、この世の権威の序列の基盤である年長者の序列という発想から自由であったということです。もちろん、それは、主ヤハウェの恵みによってアブラハムに与えられた自由です。アブラハムは、おいのロトに対して自分の権威を振りかざすことはしませんでした。また、見た目の豊かさに潤っている所を自分の住み処としたいというような思いからも自由でした。主はこのようなアブラハムに、王的な権威を委ねてくださったのです。
 このようにアブラハムに王的な権威が委ねられたことが、アブラハムが社会的には目下のロトを尊重したことにかかわっていることは、ここに記されている主のことばにも示されています。14節後半と15節に記されていますように、主はアブラハムに、

さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

と言われました。この、

さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

ということばは、先ほど引用しました9節に記されている、

全地はあなたの前にあるではないか。

というアブラハムがロトに言ったことばと実質的に同じことを示しています。どちらも、自分の目の前にある全地を見渡すことを促しています。また、

さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

という主のことばの「目を上げて」と「見渡しなさい」ということばは、10節で、

ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、

と言われているときの「目を上げて」と「見渡すと」ということばを反映しています。そして、

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

という主のことばの「あなたが見渡しているこの地全部」ということばも、アブラハムがロトに言った、

全地はあなたの前にあるではないか。

ということばを反映しています。ことばの上では、主がアブラハムに言われた「あなたが見渡しているこの地全部」の「この地全部」ということば(コール・ハーアーレツ)は、アブラハムがロトに言った「全地はあなたの前にあるではないか。」の「全地」と同じことばです。
 このように見ますと、主がアブラハムに、

さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

と約束してくださったことは、アブラハムがロトに、

全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。

と言って、おいのロトに選択権を譲って、自分が住むべき地を選び取らせたことを反映しています。これによって、主はアブラハムに王的な権威を委ねてくださったことが、アブラハムがおいのロトを尊重して、どこに住むべきかの選択権を譲ったこと、そのようにして、アブラハムが権威主義的な発想から自由なものであることが明らかになったことを受けていることを示してくださったのです。
 これは、アブラハムがよいことをしたので、主がそれに報いてくださったというように理解すべきことではありません。むしろ、主の御前では、王的な権威を委ねられている者は、この世の価値観、特に権力の序列の上に立とうとすることから自由な者でなければならないのです。そして、そのことに沿って、主は恵みによってアブラハムをこの世の価値観、特に権力の序列の上に立とうとすることから自由な者としてくださっていたのです。主は、このロトとのやり取りをとおして、実際にアブラハムがそのような自由をもっている者であることを示してくださって、その上で、

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

というように、王的な権威を委ねてくださったというように理解すべきことです。これを言い換えますと、主はご自身の一方的な恵みによって私たちを御国を受け継ぐ者としてくださり、実際に、御国を受け継いでいる者の実質も生み出してくださるということです。そして、アブラハムはそのような恵みにあずかっていたので、実際に、おいであるロトを尊重したということです。
 そのことを踏まえて、この後、主がアブラハムに与えてくださった契約のことばを見てみましょう。17章4節〜8節には、

  わたしは、この、わたしの契約を
  あなたと結ぶ。
  あなたは多くの国民の父となる。
  あなたの名は、
  もう、アブラムと呼んではならない。
  あなたの名はアブラハムとなる。
  わたしが、あなたを多くの国民の
  父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

という主のことばが記されています。
 ここで主はアブラハムに、

あなたから、王たちが出て来よう。

と言われました。
 これまでお話ししてきたことを考え合わせますと、このアブラハムから出てくる王たちが、主ヤハウェの恵みによって、アブラハムに与えられたのと同じ自由を与えていただいている王たちであるということは、改めて説明するまでもないことと思います。
 実際、アブラハムの子孫であるイスラエルの民が主の力強い御手によってエジプトの奴隷の身分から解放された後、紆余曲折を経て、カナンの地に入るに当たって与えられた戒めの中に、王に関する戒めがあります。それを記している申命記17章14節〜20節には、

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、「回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。」と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。「二度とこの道を帰ってはならない。」と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。

と記されています。
 ここでは、イスラエルにおいては主が同胞の中からお選びになった者が王として立てられなければならないこと、そして、王は同胞の上に高ぶることがなく、主のしもべとして主の御教えに従わなければならないことが記されています。これは、主ヤハウェの恵みによって自らのうちに自由を与えていただいている王たちのことにほかなりません。
 ただし、実際には、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの王たちは、必ずしもそのような自由をもって民を治める王ではありませんでした。真に自由をもってご自身の民を治めておられるのは、アブラハムのまことの子孫として来られた御子イエス・キリストです。
 私たちは主が恵みによってアブラハムのうちに生み出してくださった自由のことを考えてきました。アブラハムに自由を与えてくださった主は絶対的な自由をもっておられます。ピリピ人への手紙2章6節〜8節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されていますように、無限、永遠、不変の栄光の主は、ご自身の絶対的な自由において、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていた私たちを贖ってくださるために「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」、十字架にかかって死んでくださったのです。これが、主がアブラハムによって「地上のすべての民族」が祝福を受けると約束してくださったことの最終的な成就なのです。
 私たちは、神さまは絶対者だから絶対的な自由をもっておられると考えています。しかし、これだけですと哲学的な思弁でしかありません。私たちは、神さまの絶対的な自由がもっとも豊かで栄光に満ちた形で示されたのは、御子イエス・キリストの十字架においてであるということを見失ってはなりませんし、御子イエス・キリストの十字架を離れて神さまの絶対的な自由を考えてはならないのです。
 先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章6節〜8節に続く9節〜11節には、

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。そのようにして栄光をお受けになった私たちの主は、この世的な権力構造の中のいちばん上にお立ちになったのではありません。そのようなものからまったく自由な方としての栄光をお受けになったのです。
 この方はご自身の民を権力によって縛るのではなく、真理によって自由にしてくださいます。ヨハネの福音書8章31節、32節に、

そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

と記されているとおりです。私たちはご自身を空しくされて十字架にかかってくださった栄光の主の自由にあずかって、利己的な計算を離れ、ただ主を愛し、主を信頼して主を礼拝する者としていただいています。
 終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる救いの完成と新しい天と新しい地のことを記している黙示録22章1節〜5節には、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

と記されています。
 ここに記されている「神と小羊との御座」がある「」こそ、ヘブル人への手紙でアブラハムについて、

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と言われていた「堅い基礎の上に建てられた都」ですね。
 ここには、天地創造の初めに神さまが、ご自身のかたちにお造りになった人間をご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためにご臨在されたエデンの園が、さらに豊かないのちの祝福に溢れた所として完成することが記されています。そして、主の契約の民が「神と小羊との御座」の御前にあって、「神と小羊」との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていることが示されています。それは、

彼らは永遠に王である。

ということばで結ばれています。新しい天と新しい地においても、神の子どもたちは王的な権威を委ねられています。神さまがお造りになったものを神の子どもの自由において治めるように委ねられるのです。その王的な権威は、この時にはすでに過ぎ去っているこの世の権威のように権力の序列の上に立って、その下にあるものたちを支配し搾取するような権威ではありません。
 そのことは、まことのアブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストが、十字架の死に至るまでのご自身の生涯をもって示してくださったことでもあります。この世的な権力の序列の上に立とうとした弟子たちに向かって語られたイエス・キリストの教えを記している、マルコの福音書10章42節〜45節には、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と記されています。
 無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられるイエス・キリストは、ご自身の民である私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びの道から救い出してくださるために十字架にかかって死んでくださいました。そして、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、死者の中からよみがえってくださいました。この栄光のキリストが真理の御霊によって治めておられる愛と恵みに満ちている御国こそ、

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

と言われているアブラハムが求めていたものであり、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産です。

 


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