![]() |
説教日:2003年7月20日 |
神の子どもたちが相続財産を受け継ぐことが終末的なことであるということは、地上的なひな型においてではありますが、すでに古い契約の中で示されていたことです。きょうは、このことについてお話ししたいと思います。 繰り返しお話ししていますように、古い契約の中では、アブラハムに与えられた契約が、相続財産と相続人にかかわる契約です。古い契約は地上的なひな型をとおして、やがて来たるべきまことの贖い主によって実現する贖いの恵みと祝福をあかししています。このアブラハムに与えられた契約においては、カナンの地がアブラハムの子孫に与えられた相続財産として約束されています。主がアブラハムに語られたことばを記している創世記17章7節、8節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 と記されているとおりです。 主がアブラハムに約束されたカナンの地にアブラハムの子孫が入るようになったことも、やはり、ひな型としての意味をもっていました。そして、それは、主がこの世の歴史を区切られるという意味での「終わりの時」を、地上的なひな型の形で表わしていました。 そのことを、アブラハムに与えられた約束とのかかわりで見てみましょう。先週は創世記15章1節〜6節に記されている、アブラハムが主と主が約束してくださったことを信じて義と認められた、ということについてお話ししましたが、これに続く7節〜21節には、次のように記されています。 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。 エジプトの川から、 あの大川、ユーフラテス川まで。 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」 ここでは、主がアブラハムとアブラハムの子孫にカナンの地を与えてくださることを約束してくださったことが記されています。 アブラハムが「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を二つに切り分けたことは、そこに記されてはいませんが、主に命じられたことにしたがってのことです。これはその当時の文化の中で契約が結ばれたときの状況を反映しています。契約を結ぶ者たちは、契約を結ぶに当たって、そのように二つに切り分けた生き物の間を通りました。それによって、もしその契約に違反したなら、契約の証人である神が契約の呪いとしてのさばきを下して、契約に違反した者は、この切り裂かれた生き物のようになるということを表わしていました。つまりこれは、これから死を制裁とした誓約がなされることを表わしています。 そして、12節では、 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。 と言われています。この「深い眠り」は、最初の女性の創造を記している2章21節で、 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 と言われているときの「深い眠り」と同じで、そこに主の特別な働きかけがあったことを示しています。そして、「ひどい暗黒の恐怖」は、一般に、そこでアブラハムに語られたこと、特にアブラハムの子孫が他国で奴隷となって苦しむことにかかわっていると考えられています。ただ、ここでアブラハムに語られたことの中心はアブラハムの子孫の苦難のことではなく、アブラハムの子孫が最終的にカナンの地を所有するようになるということです。その意味では、この「ひどい暗黒の恐怖」は、神である主のご臨在に触れたこと自体によってもたらされたものであるとも考えられます。その場合、これは神である主の自己啓示としての意味をもっていますので、主がアブラハムの子孫を奴隷とするエジプトや、カナンの地の住民たちをおさばきになる方であることをお示しになっているということによっていると思われます。このように考えることは、後ほどお話しすることと調和しています。 また、17節で、 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。 と言われているときの「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は、神の栄光の顕現(セオファニー)で、そこに神である主のご臨在があることを表わしています。 注目すべきことに、ここでは、神である主だけが二つに切り分けられた生き物たちの間を通り過ぎました。これによって、このときアブラハムに約束されたことは、神である主がご自身の存在に賭けて実現してくださるということを示してくださったのです。アブラハムに求められていることは、このように主が約束してくださったことを信じることです。 アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになることについては、16節で、 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 と言われています。この「四代目の者たち」というのは、13節に記されている、 あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。 という主のことばを受けています。この四百年は一世代を百年とすることは今日の発想からはおかしいと思われますが、その当時には人の一生としては百十年を理想とするというような発想があったようです。50章22節、26節では、ヨセフはその百十歳で死んだと言われています。 アブラハムの子孫を奴隷とするようになる国とは、ここでは明らかにされていませんが、エジプトのことです。アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになることには、通らなければならない段階があることが示されています。それは、アブラハムの子孫が地上的なひな型として示している主の契約の民が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっており、暗やみの圧制の下で奴隷化されてしまっているという現実を表わしています。そのような暗やみの地からの圧制からの解放ということを経なければ、真の贖いはあり得ないわけです。 これは、アブラハムの子孫が他国すなわちエジプトの奴隷となってから4百年後、「四代目の者たち」が奴隷の地から贖い出されてカナンの地に帰ってきて、この地を所有するようになるという預言と約束のことばです。しかし、これはただそのことだけを預言的に約束するだけではなく、 それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。 という主のことばに示されていますように、アブラハムの子孫がカナンの地に帰ってくることは、カナンの地を罪で満たすようになる民に対するさばきとしての意味をもっているということが示されています。ここで「エモリ人」は、その後の19節〜21節において挙げられている10の民族を代表していると考えられます。 このことは、主の贖いの御業には救いとさばきの二つの面があることを受けています。それは、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されることにおいても見られます。13節、14節に記されていますように、主はアブラハムに、 あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。 と言われました。主は、アブラハムの子孫を奴隷の身分から贖い出してくださる時に、アブラハムの子孫を奴隷としている民をおさばきになると言われました。そして、さらに、アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになる時には、その地を罪で満たしている民をおさばきになるというのです。 このように、アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになることは、アブラハムの子孫だけの問題ではなく、その時までにカナンの地を罪によって満たすようになるカナンの地の住民たちに対するさばきとしての意味をもっています。その意味で、アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになることは、終末的な意味をもったことです。アブラハムの血肉の子孫がカナンの地を所有するようになることは、アブラハムの信仰にならう、アブラハムの霊的な子孫が相続財産を受け継ぐようになることを、地上的なひな型として示しています。そして、ここで、アブラハムの子孫が相続財産を所有するようになることは、終末的な意味をもっていることが示されています。 この場合、カナンの地に住んでいた民はアブラハムの子孫を奴隷としていたわけではありません。イスラエルの民がエジプトの奴隷として苦しんでいた間に、それらの民はそこから離れたカナンの地に住んでいました。それらの民がさばきを受けるのは、その民たち自身の罪のためです。このことは、主が全世界の主として、全世界の民をおさばきになる方であるということをあかしするものです。その意味でも、アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになることは、一つの民族の終末ということで終わらないで、全世界の終末ということを指し示しています。 そのことは18節〜21節に記されている、 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。 エジプトの川から、 あの大川、ユーフラテス川まで。 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」 という主のことばの中で、カナンの地の住民の名をを挙げる前に、 エジプトの川から、 あの大川、ユーフラテス川まで。 というように、その当時のオリエント世界全体を表わすことばが用いられていることにも表われています。 また、このことは、さらに、アブラハムの血肉の子孫がカナンの地を所有するようになることが、アブラハムの信仰にならうアブラハムの霊的な子孫が全世界を受け継ぐということを指し示す、古い契約の地上的なひな型であるということを示しています。そのことを受けて、パウロはローマ人への手紙4章13節〜16節で、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 と述べています。 13節では、アブラハムとアブラハムの信仰にならうアブラハムの子孫に与えられたのは、「世界の相続人となるという約束」であったと言われています。アブラハムの血肉の子孫がカナンの地を所有するようになることは、アブラハムの信仰にならうアブラハムの霊的な子孫が全世界を相続するようになることを指し示す地上的なひな型でした。 このように、約束の贖い主としてきてくださった御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとしていただいている私たちが受け継ぐ相続財産は、終末の日になされる全世界のさばきと深くかかわっています。ペテロの手紙第二・3章10節〜13節に、 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 と記されているとおりです。 この世の人々にとっては、もしそのようなことがあれば最も恐るべきことである世の終わりは、神の子どもにとっては心から待ち望んでいる日であるのです。 私たちが相続財産を受け継ぐということは、世の終わりの栄光のキリストの再臨の時に完全な形で実現することです。それで、私たちはその完全な実現を待ち望んでいます。それは、その時に「私たちの天下」が来るからではありません。そうではなく、私たちの受け継いでいる相続財産の中心が父なる神さまご自身であり、私たちが御子イエス・キリストにあって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることであるからです。この御子イエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、神の子どもである私たちの受け継いでいる相続財産の中心です。そして、それは終わりの日に完全な形で実現しますので、私たちはそれを切に待ち望んでいます。この意味で、ペテロの手紙第一・1章3節、4節に記されている「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない」相続財産は一つのものであるのです。 これまでお話ししてきたこととのかかわりで、ヘブル人への手紙6章13節〜20節に記されていることを見てみましょう。そこには、 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、 と記されています。 ここで、 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 と言われていることは、アブラハムがその子イサクをささげた時のことを記している創世記22章15節〜18節に、 それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 と記されていることを受けています。 それは先週お話ししましたように、15章1節〜6節に記されているアブラハムが主と主の約束を信じて義と認められたときの信仰が生きて働く信仰であり、その信仰によって、主のみこころにしたがってイサクを主にささげたという意味をもっていました。その意味では、 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 ということは、アブラハムの子孫に関する約束を受けて、それを信じて義と認められてからイサクをささげるに至るまでのアブラハムの信仰の歩みを指していると考えることもできます。先週お話ししましたように、約束を与えられてから15年以上の時が経って、やっと約束の子であるイサクが生まれました。まさに、 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 ということばがそのまま当てはまります。 けれども、ヘブル人への手紙の著者が、 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 と言っていることの中心は、その後、さらにイサクがある程度の年齢になってから、アブラハムは主のみことばにしたがってイサクをささげた時のことです。アブラハムがその子イサクをささげたことがどういう意味であるかは、先週も引用しました11章17節〜19節に記されていることの光で理解する必要があります。そこには、 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されています。 詳しい説明は省きますが、この時、アブラハムはイサクを主にささげました。主が雄羊を備えてくださったのは、イサクをささげなくてもよいという意味ではなく、アブラハムがイサクをささげたことを、その雄羊をささげることによって完遂させてくださったという意味です。それで、イサクはアブラハムの血肉のつながりの子ではなくなり、主のものとなりました。アブラハムは、その主のものとなったイサクを新しく与えられたのです。アブラハムについて、 彼は、いわば、死者の中からイサクを取り戻したのです。 と言われているとおりです。これが、6章15節で、 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 と言われていることの中心でしょう。 6章に戻りますが、17節には、 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。 と記されています。すでにお話ししましたように、アブラハムの子孫についての約束を与えてくださった時に、主は一方的な誓いによってそれを保証してくださいました。アブラハムにはその約束を信じることが求められただけです。それで、アブラハムは生きて働く信仰によって歩み続けました。そして、ついに約束のものを得ました。 このことを受けて、18節では、 それは、変えることのできない二つの事がらによって、 と言われています。 ここで「変えることのできない二つの事がら」というのは、神である主が約束してくださったということと、さらに、それを誓いをもって保証してくださったということです。主が約束してくださったというだけでも確かなことですが、それをさらに誓約によって補強してくださったというのです。これ以上確かなことはありません。それで、 神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。 と注釈されています。 そして、このことが、続いて、 前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。 と言われていますように、私たちの「前に置かれている望みを捕える」ことと深く結びつけられています。私たちの望みは、契約の神である主ご自身の約束と、それを保証する誓いによって支えられているのです。 ここでは「のがれて来た私たち」と言われていますが、これは、11章38節で、 この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。 と言われていることや、13章13節、14節に、 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。 と記されていることに沿っていると考えられます。私たちはこの世から逃れて主の御許に行くのです。 私たちは神である主の約束と、それを保証してくださる誓いによって支えられている「生ける望み」によって生かされています。そして、6章に帰りますが、そこでは、続く19節、20節に、 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。 と記されています。普通に読んでいきますと、ここに記されていることばは、何となく場違いな感じがします。アブラハムの話に出エジプトの時代を思わせる「幕の内側にはいる」ということが出てくることが唐突な感じがします。しかし、このことには意味があります。 ことばの問題ですが、19節で、 またこの望みは幕の内側にはいるのです。 と言われていることは分かりにくい気がします。これは、20節で、イエス・キリストが「私たちの先駆けとして」すでにお入りになっておられると言われている「幕の内側にはいる」望みのことを述べています。この「幕の内側」は地上的なひな型としての聖所の奥の至聖所を表わしています。言うまでもなく、これは地上の聖所の表象で表わされたもので、9章24節に、 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 と記されていますように、イエス・キリストが入られた「天そのもの」を指しています。そこでイエス・キリストは、父なる神さまの右の座に着座して、大祭司のお働きをしておられます。これによって、私たちは私たちの大祭司であられるイエス・キリストをとおして、父なる神さまのご臨在の御前に近づくことができます。そして、礼拝を中心として、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかることができます。 これらのことを踏まえて6章13節〜20節に記されていることを全体として見てみますと、ここでは、神である主がアブラハムに約束してくださり、さらに誓いをもって保証してくださったことは、最終的に、私たちがすでにイエス・キリストが「私たちの先駆けとして」お入りになっている天にあるまことの聖所に入ることによって実現するということが示されていること分かります。それを地上的なひな型としてのアブラハムの子孫に当てはめて言いますと、アブラハムの子孫がカナンの地を所有するようになるということの中心は、そこにおいて主の神殿が建てられ、アブラハムの子孫が主のご臨在を中心として生きるようになるということにありました。ですから、アブラハムに与えられた約束の話の最後に、信仰によるアブラハムの子孫が、天にあるまことの聖所に入る話が出てくることは、決して唐突なことではなく、むしろ主のみこころに沿ったことであるのです。 今私たちは、私たちの大祭司であられるイエス・キリストの御名によって、天にあるまことの聖所に入って、父なる神さまとの充満な愛にあるいのちの交わりにあずかるというに望みよって生きています。そして、この望みは、神である主の約束と誓約という二重の保証の上に立っている「生ける望み」であるのです。 |
![]() |
||