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説教日:2003年7月13日 |
神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことは創世記17章に記されていますが、それに先立って記されている15章1節〜6節を見てみたいと思います。そこには、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。 これはアブラハムがカナンの地に住んでいた時のことです。きょうお話しすることでは年代的なことに注目することになりますが、アブラハムは75歳の時に、父テラとともにいたカランを出て、カナンの地に向けて旅立ちました。それほどの高齢になっていましたが、11章30節に、 サライは不妊の女で、子どもがなかった。 と記されていますように、アブラハムには子どもが与えられていませんでした。このことが背景となって、この記事が記されています。 この記事そのについてお話しする前に、一つのことをお話しします。ご存知のように、この最後に記されている、 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 ということばは、新約聖書において何回か引用されています。ローマ人への手紙4章1節〜5節には、 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 と記されており、9節〜12節には、 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。 と記されています。 また、ガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 と記されています。 これらの個所では、人が神さまの御前に義と認められるのは律法の行ないによるのではなく、神さまを信じる信仰によるということを明らかにするために、アブラハムの事例を引いています。アブラハムは神さまの契約の民の地上的なひな型として選ばれたイスラエルの民の父祖です。そのアブラハムを通して示されたことが、アブラハムを父祖としてもつ主の民のあり方を示しています。それで、アブラハムが律法の行ないによってではなく、神さまの約束を信じた信仰によって義と認められたということは、ひとりアブラハムに限られたことではなく、アブラハムに与えられた契約において約束されていた祝福にあずかるように「すべての国民」の中から召された人々に当てはまることです。 ここでアブラハムのことは、人が義と認められるのは律法の行ないによらないで、神さまと神さまが与えてくださった約束を信じる信仰によるということとのかかわりで語られていますが、それは、パウロが問題として取り上げているのが、人は神さまの律法を行うことによって義と認められるというその当時の考え方であるからです。そのような考え方とそれに基づく生き方を広めていたのは、今日の用語ですが、「ユダヤ主義者」と呼ばれる人々です。パウロはこの人々の教えを取り扱うに当たって、ユダヤ人の血肉の父祖であるアブラハムの事例を取り上げて、アブラハムが義と認められたのは律法の行ないによらないで、神さまと神さまの約束を信じたことによるということを明らかにしているのです。 先ほど引用しました創世記15章1節〜6節に記されているアブラハムの事例から、人が義と認められるのは神さまと神さまの約束を信じる信仰によるということを知ることができます。けれども、そこに記されているのは、それ以上のことです。そこでアブラハムは自分の子孫に関する神さまの約束を与えられています。 そこでは、 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されていました。ここで、 彼は主を信じた。 ということは、天の星を見せて、 あなたの子孫はこのようになる。 と約束してくださった主を信じたということです。その場合、主を信じたということは、主が約束してくださったことを信じたということを意味しています。ローマ人への手紙4章16節〜22節に、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と記されているとおりです。 ですから、アブラハムが信仰によって義と認められたというときには、その信仰は具体的な神さまの約束を信じる信仰でした。そして、アブラハムはその約束にしたがって生きたのです。それを言い換えますと、その信仰は生きて働いていたということです。 そのことを記すヤコブの手紙2章20節〜23節には、 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 と記されています。また、26節には、 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。 と記されています。 これは一見すると、人が義と認められるのは、律法の行ないにはよらないで信仰によるというパウロの教えと矛盾するように見えます。けれども、先ほどお話ししましたように、パウロは、人は律法の行ないによって義と認められるという主張をする人々の問題を取り扱っています。これに対して、ヤコブは、2章19節に、 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 と記されていることから分かりますように、ただ伝えられた教えに同意しているという形で神さまを信じているというだけで、その生き方は変わらない人の信仰の問題を取り扱っています。その関心の違いがアブラハムの生涯において起こったことに対する見方の方向の違いとなっています。そうではあっても、二人の言うことには矛盾はありません。先ほど引用しましたパウロのことばに示されていますように、アブラハムが義とされたときの信仰は生きて働く信仰であり、それがアブラハムの生涯を通して働いていたという点では、ヤコブの言っていることと一致しています。ガラテヤ人への手紙5章6節に記されていますように、パウロは、 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。 と言っています。 ここでヤコブが言っている行ないとともに働く信仰については、後ほどもう少し触れます。 このように、アブラハムが信仰によって義と認められたときの信仰は、神さまが約束してくださったことを信じる信仰でした。そして、アブラハムの生涯はその神さまが約束してくださったことを信じる信仰によって導かれていました。 神さまがアブラハムに約束してくださったことは、アブラハムの子孫が天の星のように多くなるということです。このことだけを見ますと、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民が増え広がるということを意味しているように見えます。けれどもこれは、これに先立ってアブラハムが受けた神さまからの召命を背景として理解しなければなりません。そのアブラハムへの召命を記している、創世記12章1節〜3節には、 その後、主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、 わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、 あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。」 と記されています。このアブラハムへの召命のことばの結論部分に記されていますように、アブラハムは「地上のすべての民族」がアブラハムによって祝福を受けるようになるために召命を受けました。この後アブラハムに与えられたすべての約束は、最初の召命とともに与えられた、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という約束の光の下で理解されます。 けれども、これだけではなお、創世記15章に記されている、天の星を見上げるアブラハムに与えられた、 あなたの子孫はこのようになる。 という、主の約束は、アブラハムの血肉の子孫が地に増え広がるということ、そして、アブラハムの血肉の子孫たちが地に増え広がることによって、地に平和と繁栄がもたらされて、すべての民が祝福を受けることになるという、ユダヤ民族中心的な発想は払拭されません。 これに対しまして、神である主はアブラハムの生涯をとおして、そのような血肉を中心として主の約束を理解する理解の仕方を退けてゆかれます。簡単に、その筋道をたどってみましょう。 15章4節に記されていますように、主はアブラハムに、 その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 と言われました。これは、その前の2節に記されている、 神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。 というアブラハムの言葉を受けて語られたものです。ダマスコのエリエゼルはアブラハムに仕えていたしもべです。その当時の文化の中では、ある人に世継ぎの子、すなわち相続人となる子がない場合には、その家のしもべが相続人になることがありました。 この時、主は、アブラハムから生まれてくる者がアブラハムの世継ぎとなると言われました。すでにお話ししましたように、アブラハムはこの主のことばを信じました。けれども、アブラハムは主のみこころを十分に理解していたわけではありませんでした。これに続く16章1節、2節には、 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。 と記されています。 主は、アブラハムから生まれてくる者がアブラハムの世継ぎとなると言われました。けれどもアブラハムの妻であるサラは子を産むことができない身体でした。それでも、アブラハムとサラは、主のみことばにしたがって、アブラハムから産まれてくる子をもうけようとしました。そして、サラに仕えていたハガルによってアブラハムの子を産もうとしたのです。それは16章3節に、 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。 と記されており、16節に、 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。 と記されていることから分かりますように、アブラハムが85歳で、サラが75歳の時のことです。そして、次の年にハガルによるアブラハムの子であるイシマエルが生まれました。けれども、イシマエルは、主が約束されたアブラハムの子ではありませんでした。 このことを、先ほど引用しましたヤコブの、 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。 という教えにかかわらせて考えますとどうなるでしょうか。このようなアブラハムとサラの「行ない」も、少なくとも形としては、主の約束を信じているから、それを実現しようとしたものです。それなら、これはヤコブが言っている「行ない」によって働く信仰なのでしょうか。 そうではありません、この時アブラハムとサラは、 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 という主の約束を実現するために、主のみこころを求める代わりに、自分たちの考えにしたがって主のみこころを実現しようとしてしまったのです。この行ないは信仰から出た行ないではありません。主を信じる信仰は、初めから終わりまで主のみことばに耳を傾けます。主のみこころの結論が分かったから、後は自分たちの考えでそれを実現するというのは、信仰から出た行ないではありません。 主の時は、何と、イシマエルの誕生から13年後のことでした。17章1節〜8節には、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 わたしは、わたしの契約を、 わたしとあなたとの間に立てる。 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 と記されています。 ここに記されていますように、主がアブラハムに契約を与えてくださったのは、アブラハムが99歳、サラが89歳の時のことです。そして、同じ17章の15節、16節に、 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」 と記されていますように、サラをとおしてアブラハムの世継ぎの子を与えてくださると約束してくださいました。 この1年後に約束の子であるイサクが生まれましたから、主が、アブラハムに、 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 という15章4節に記されている約束を与えてくださってから、実際にアブラハムに約束の子が生まれるまでに、少なくとも15年の年月が過ぎていきました。アブラハムとサラがその約束を受けた後どれくらい経って、ハガルによって子をもうけようとしたか分かりませんので、正確な年月は分かりません。もし、その約束を受けてまもなくハガルによって子をもうけようとしたとしても、それからイサクが生まれるまでの間は15年ということになります。それで、人間的な考えからすれば、もはやアブラハムの子というようなことはまったく考えられない状態になっていました。主はそのようになるまで待っておられた上で、ご自身の契約をアブラハムに与えてくださいました。それは、アブラハムの子が血肉の力によって生まれるものではないことをお示しになるためでした。また、アブラハムとアブラハムの信仰にならう私たちに、主が約束してくださったことは主が必ず実現してくださる、しかも、主の方法によって実現してくださるということを示してくださるためのことでした。言い換えますと、このことをお示しになるために、主は、アブラハムに、 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 という約束をお与えになってなお、15年以上の年を待っておられたのです。主の忍耐を思わされます。同時に、主の時は、人間の思いを越えたものであるということも思わされます。そして、そのような主のお計らいの中で、アブラハムの信仰は確かなものとして育てられていったと考えられます。先ほど引用しました個所で、パウロが、 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と述べているアブラハムの姿は、「アブラハムは、およそ百歳になって」ということばから分かりますように、ハガルによって子をもうけようとした後に15年ほどの時を経て到達したアブラハムの姿です。 注目すべきことは、パウロが、この15年ほど後のアブラハムの信仰を指して、 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と述べていることです。15年ほど前にアブラハムが義と認められた時の信仰が、このアブラハムが99歳の時にも生きて働いていたということにほかなりません。このことは、アブラハム99歳の時の信仰のあり方を記している中で、 それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。 と言われて、最初に主の約束を信じた時のことが語られていることにも示されています。 ヤコブは、 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 と言って、創世記22章に記されている、アブラハムがイサクをささげたことを引用していました。 そのアブラハムの従順も、このようにして育まれた信仰から出たことでした。ヘブル人への手紙11章17節〜19節に、 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 と記されているとおりです。 この最後に出てくる、 これは型です。 と訳されていることば(エン・パラボレー)は、単純に「たとえて言えば」ということで、その部分は、 それで彼は、いわば、死者の中からイサクを取り戻したのです。 となるでしょうか。いずれにしましても、これは、先ほど引用しました、イサクの誕生に関するアブラハムの信仰のことを述べるパウロの、 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 という言葉と本質的に同じことを述べています。イサクの誕生の時まで育まれてきたアブラハムの生きて働く信仰が、イサクをささげた時にまでさらに育まれ続けて、生きて働いていたのです。 その意味で、ヤコブが、 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 と言っていることと、パウロが、 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と言っていることは、実質的に同じことを述べていると考えられます。 以前お話ししましたが、アブラハムがイサクをささげたとき、アブラハムはイサクとともに帰ってきましたが、そのイサクは元のイサクではありませんでした。アブラハムがイサクをささげたことによって、イサクは「主にささげられたもの」になりました。これによって、イサクはアブラハムの手を離れました。そのようにして、主のものとなったイサクが、新しい意味をもったイサクとして、改めてアブラハムに与えられたのです。この新しいイサクがアブラハムの子孫の地上的なひな型です。 このように、アブラハムの世継ぎである相続人としての意味をもった子孫が誰であるかということは、約束の子であり、「いわば、死者の中から取り戻した」と言われているイサクによってあかしされています。それは、主の恵みによって育まれた生きて働く信仰によって義と認められたアブラハムの信仰にならって生きる人こそが、真のアブラハムの世継ぎの子孫であるということを示しています。初めに引用しましたガラテヤ人への手紙3章6節、7節に、 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。 と記されていますとおりです。 この生きて働く信仰によるアブラハムの子孫こそ、父なる神さまご自身を相続財産として受け継ぐ相続人としての神の子どもです。そして、この神の子どもは、生きて働く信仰によって父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるのです。また、この信仰は主が約束してくださったことを信じることにおいて生きて働きます。私たちはこの信仰によって、主が約束してくださっている終わりの日における救いの完成を待ち望む「生ける望み」に生かされて歩むのです。 |
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