(第132回)


説教日:2003年7月6日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、私たちが聖なるものであることが、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとされている私たちに与えられている望みとかかわっているということについてお話しします。
 3節、4節には、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。
 父なる神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって私たちを新しく生まれさせてくださいました。それによって私たちに「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を与えてくださいました。この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」は神の子どもたちが受け継いでいる相続財産のことです。そして、この私たちが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身で、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。


 神さまは私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるために、いろいろなことを備えてくださっていますが、最も基本的なこととして二つのことをしてくださっています。一つは、人間を神のかたちにお造りになったということです。そして、もう一つは、神さまがこの世界をご自身のご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界としてお造りになって、ここにご臨在してくださるともに、これを神のかたちに造られている人間が住まうべき所としてくださったということです。
 私たちが神のかたちに造られているということは、私たちのたましいが神のかたちであるというように、私たちの一部が神のかたちであるとか、私たちの中に神のかたちがあるということではありません。そうではなく、肉体と霊魂から成り立っている私たち自身が、神のかたちに造られており、神のかたちであるということです。ただし神のかたちには中心があります。それは神のかたちに造られている私たちが人格的な存在であることにあります。
 私たちが神のかたちとして人格的な存在であるということは、私たちが造り主である神さまの人格的な特性を映し出すものであるということを意味しています。そして、神さまの人格的な特性の本質は愛です。三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間には、無限、永遠、不変の愛の通わしがあります。御父、御子、御霊の間に無限の愛が永遠に変わることなく通わされているのです。それで、神さまはこの愛のうちに完全に充足しておられます。神さまはこの完全な充足のうちにあってこの世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになり、実際に、ここにご臨在しておられます。これは、ご自身の無限、永遠、不変の愛をもってご自身がお造りになった世界を満たしてくださるためです。
 そのような意味をもっている創造の御業によって、私たちは神のかたちに造られています。そして、神さまの人格的な特性である愛を映し出すものとして人格的な存在に造られています。神さまがご自身の無限、永遠、不変の愛をもってこの世界とその中のすべてのものを包んでくださるとき、それが一方通行のことではなく、その神さまの愛を受け止めて、愛をもって神さまに応答する存在がこの世界に造り出されました。それが神のかたちに造られている人間です。それで、神のかたちに造られている人間のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることにあります。そして、その神さまとの愛にあるいのちの交わりの第一の現われが、神さまのご臨在の御前に近づいて神さまを礼拝することです。
 神さまは私たち人間を神のかたちにお造りになって、ご自身の人格的な特性である愛を与えてくださいました。それで、神のかたちとしての人間の人格的な特性は愛なのです。そして、その愛は何よりもまず神さまのご臨在の御前に近づいて神さまを礼拝することに現われてきます。それで、私たちの神さまへの礼拝は私たちの神さまに対する愛を表わすことです。礼拝は神さまに対する愛によってなされます。しかし、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、この礼拝は歪められてしまいました。先週は、その歪みが、造り主である神さまご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもつものとして造られたこの世界から、造り主である神さまへの礼拝が失われてしまったばかりか、神ならぬ偶像が持ち込まれて、それが拝まれるようになってしまっていることに現われている、ということをお話ししました。そのような、歪められた礼拝においては、礼拝は神を動かすための方法とされてしまっています。何らかの御利益を手に入れるために礼拝をするというように、礼拝が人間の自己中心的な欲求を満たすために利用されてしまっているのです。しかし、本来の礼拝は、神さまを愛する愛に包まれ愛に導かれてなされるものです。聖書では神さまと私たちの関係は夫と妻の関係や、父と子の関係にたとえられています。どのような関係であっても、人が誰かを愛しているときには、自分の愛している人自身が大切であり、その人がいることが自分の喜びとなります。私たちが神さまを礼拝するときには、神さまご自身が大切になり、神さまが私たちの心の喜びとなっているはずです。天地創造の初めに人が神のかたちに造られたとき、人は造り主である神さまをそのような愛において礼拝する者として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖っていただき新しく生まれています。それによって、神のかたちの本来の姿を回復していただいていますし、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者としていただいています。これによって、私たちの礼拝は、礼拝の本来の姿を回復しています。そして、このような礼拝を中心とする神さまとの愛にあるいのちの交わりこそが、神のかたちに造られている者としての私たちの永遠のいのちです。
 愛は何よりも造り主である神さまの本質的な特性です。そして、神さまには機械的・本能的なものはありません。それで、愛は本能的・機械的に生まれてくるものではなく、自由な意志をもった人格が、自分の意志で生み出すものです。神さまの本質的な特性が愛であるように、神のかたちに造られている私たちの本質的な特性は愛です。私たちは愛を本質的な特性とする神のかたちに造られているので、自由な意志をもつ人格的な存在として造られています。この順序は大切です。たまたま人間が人格的な存在で自由な意志をもっていたので、その人間から愛が生み出されたというのではなく、神さまが人間を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったので、人間は自由な意志をもつ人格的な存在であるということです。
 神のかたちに造られている私たちに与えられている自由な意志は、風に揺らぐ葦のように、ただいたずらに揺れるものではありません。外からの刺激に対して反応するだけのものであれば、それは人格的な自由の現われではありません。私たちの意志が自由なものであるのは、その意志が神のかたちとしての私たちの本質的な特性である愛によって働くからです。そのような愛に導かれて、私たちは神さまを礼拝します。その礼拝において私たちは神さまが造り主であられ、自分たちは被造物であるということを告白します。神さまと私たちの間には絶対的な区別があることを告白します。それはただ口で告白するというだけのことではなく、自由な意志を与えられている人格的な存在として、思いとことばと行ないのすべてを傾けての礼拝をもって告白するのです。そして、その礼拝が神さまに対する愛に導かれています。
 しかし、それだけでは一方通行です。このような私たちの礼拝は、さらに大きな神さまの愛に包まれ、神さまの愛に導かれています。天地創造の御業の初めに、神さまはこの世界をご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもった世界としてお造りになって、この世界にご臨在されました。それは、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものをご自身のご臨在の御許からあふれ出る豊かさによって満たしてくださるためでした。そのようなことが、神さまの特別な意味でのご臨在の場所であったエデンの園のことを記している創世記2章10節〜14節に、

一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

と記されていることに示されています。
 神さまはこの世界をご自身のご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界としてお造りになって、この世界にご臨在しておられます。そして、それはご自身のご臨在の御許からあふれ出る豊かさによって、この世界のすべてのものを満たしてくださるためでした。言うまでもなく、そのすべてが、神さまの愛によってなされています。三位一体の神さまは、御父、御子、御霊の間に通わされている無限、永遠、不変の愛のうちに充足しておられます。神さまはそのまったき充足にあって天地創造の御業を遂行されました。創造の御業において神さまは、ご自身の愛を造られたこの世界に表わされるのです。神のかたちに造られている人間はこの神さまの愛を受け止めます。それで、詩篇104篇10節〜13節に記されていますように、

  主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
  野のすべての獣に飲ませられます。
  野ろばも渇きをいやします。
  そのかたわらには空の鳥が住み、
  枝の間でさえずっています。
  主はその高殿から山々に水を注ぎ、
  地はあなたのみわざの実によって
  満ち足りています。

と告白します。そして、96篇11節、12節に、

  天は喜び、地は、こおどりし、
  海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
  野とその中にあるものはみな、喜び勇め。
  そのとき、森の木々もみな、
  主の御前で、喜び歌おう。

と記されていますように、礼拝においてこの世界にあるものたちの存在の喜びを造り主である神さまの御前に表わすように呼びかけます。
 その意味で、先週もお話ししましたが、神のかたちに造られている人間は、神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもつものとして造られているこの世界に置かれた王的な祭司であるのです。自らが宇宙大の礼拝の先頭に立って造り主である神さまを礼拝します。そして、その礼拝において、神さまの愛を受け止めます。
 このように、神さまは、神のかたちに造られている私たちがご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることができるようにと、この世界をご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界としてお造りになりました。そして、天地創造の御業の初めからこの世界にご臨在されて、神のかたちに造られている人間をご自身のご臨在の御前に生きるものとしてくださいました。そのことは、少し前にお話ししましたように、神さまが特別な意味でご臨在されるためにお造りになったエデンの園に人を住まわせてくださったことに示されています。
 このエデンの園については、創世記2章7節〜9節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

と記されています。
 エデンの園が神さまの特別な意味でのご臨在の場所であったことは、その中央に「いのちの木」が生えていたことに示されています。この「いのちの木」については、一般に礼典としての(サクラメンタルな)意味をもっている木であると理解されています。礼典としての(サクラメンタルな)意味をもっているものというのは少し分かりにくいかもしれませんが、私たちにとっては洗礼と聖餐です。
 話が少しそれますが、きょうは月の第一主日ですので聖餐式を執り行います。そのこととの関連もありますのでお話ししておきますと、あるものが礼典としての意味をもっているとされるためには、いくつかの条件があります。一つには、そのあるものが見えない神さまのご臨在とそのご臨在にともなう恵みを表示しているということです。さらに、それとともに、神さまがご自身のご臨在にともなう恵みを私たちに与えてくださるために、それを用いてくださっているということです。
 それで、礼典としての意味をもったものはただ見えない神さまの存在とお働き、知恵と力、愛と恵みなどを示しているだけではありません。神さまの存在とお働き、知恵と力、愛と恵みなどを示しているというだけであれば、神さまがお造りになったすべてのものが、それらを示しています。詩篇19篇1節に、

  天は神の栄光を語り告げ、
  大空は御手のわざを告げ知らせる。

と記されていますし、ローマ人への手紙1章20節には、

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる

と記されています。
 実際、このようなことから、神さまの天地創造の御業やそれによって造られたもののすべてが礼典的(サクラメンタル)な意味をもったものであると主張する神学者がいるほどです。確かに、神さまがお造りになったすべてのものは、造り主である神さまの存在や、知恵と力と真実な愛と恵みを表わし、あかししていますが、それで神さまがお造りになったすべてのものが礼典的な意味をもったものであると言うことはできません。
 礼典としての意味をもったものは、見えない神さまのご臨在を表示し、そのご臨在にともなういのちの恵みを私たちに与えてくださるために、神さまが備えてくださっている恵みの手段です。それで、私たちが、神さまがそれを備えてくださったことを信じてそれにあずかるときに、そこに御霊によってご臨在してくださる神さまが、恵みによって私たちをご自身とのいのちの交わりの祝福の中に生かしてくださるのです。
 繰り返しになりますが、私たちにとって礼典としての意味をもったものは洗礼と聖餐です。それは見えない神さまのご臨在と、そのご臨在にともなう恵みを見える形で表示しているというだけでなく、実際に私たちが信仰をもってそれにあずかるときに、そこにご臨在される栄光のキリストの御霊が働いてくださって、私たちが贖いの恵みにあずかるようにしてくださるのです。
 この洗礼と聖餐はイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、契約の主であられるイエス・キリストが与えてくださったものです。私たちが福音のみことばの中に示されている約束を信じてこれにあずかるとき、イエス・キリストが御霊によって、贖いの恵みを与えてくださいます。これに対しまして、エデンの園の中央に生えていた「いのちの木」は贖いの恵みを伝えるものではありません。「いのちの木」が備えられたのは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落するようになる前のことです。人が罪を犯すようになる前には、罪の贖いは必要ではありませんでした。
 この「いのちの木」も、一般に、礼典としての意味をもったものであると考えられています。そうしますと、礼典としての意味をもったものは、贖いの恵みだけにかかわるものではないわけです。礼典としての意味をもったものは、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときに、初めから与えられていた恵みにもかかわっていて、見えない神さまのご臨在とそのご臨在にともなう恵みを表示し、約束してていたのです。
 天地創造の御業の初めから神のかたちに造られている人間に与えられていた恵みの場合も、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後に贖い主であるイエス・キリストを通して与えられた贖いの恵みの場合も、それによってもたらされる祝福は同じです。それは、契約の神である主との愛のあるいのちの交わりという祝福です。礼典としての意味をもったものは、この契約の神である主のご臨在と、そのご臨在にともなう祝福としての、主ご自身との愛にあるいのちの交わりをもたらす恵みを表示し約束しています。そして、その約束を信じてこれにあずかる者に、その恵みを伝え、その人を神である主との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださいます。その際に、その恵みをもって私たちを神である主とのいのちの交わりに生かしてくださるのは、「いのちの木」や洗礼の水や聖餐のパンそのものではなく、そこにご臨在してくださる御霊であり、栄光のキリストの御霊です。
 このように、エデンの園の中央に生えていた「いのちの木」は、見えない神さまのご臨在がそこにあることを表示し、そのご臨在にともなういのちの祝福を約束していました。それで、人が主のご臨在を信じてその木から取って食べるときに、御霊が、人を主との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださいました。
 そうしますと、ここに一つの問題が浮かんできます。神さまはこの世界をご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっている世界としてお造りになりました。そして、天地創造の初めから、御霊によってこの世界にご臨在されました。さらに、そのご臨在の御許からあふれ出る豊かさによって造られたすべてのものを満たしてくださっておられます。そうであれば、どうして神さまのご臨在の場としてのエデンの園が設けられたのでしょうか。
 これを地上的なひな型としてのエルサレム神殿に当てはめて説明することはできません。確かに、エルサレム神殿には神さまのご臨在の場としての聖所がありました。主は、そのいちばん奥の至聖所にあった契約の箱の上蓋の両端にあったケルビムの間にご臨在されることを示されました。しかし、それは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった結果、神さまのご臨在の御前から退けられてしまったためのことです。人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、神さまはケルビムを刻んだ壁によって仕切られた聖所のさらに奥の、ケルビムを織り出した垂れ幕によって聖所からも仕切られた至聖所にご臨在されることを示されました。それによって、罪を犯して堕落した人間は、そのままでは神さまの栄光のご臨在の御前に近づくことはできないということを表示していたのです。
 そのように、エルサレム神殿は、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯したために、神さまのご臨在の御許から追放された状態にあるということをあかししている地上的なひな型です。それで、天地創造の初めに神さまがエデンに園を設けて、そこに神のかたちに造られた人を置かれたことは、エルサレム神殿の至聖所の存在に当てはめて説明することはできません。
 さらに、以前お話ししたことですが、エデンの園に関してはもう一つの問題があります。それは、エデンの園が神さまのご臨在の場であるとすると―― 実際、そうなのですが、そうしますと、創世記1章28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまのみことば、すなわち、文化命令・歴史を造る命令に従って、人が地に増え広がっていきますと、エデンの園では狭すぎて、そこに住めなくなってしまう人々が出てくることになったのではないでしょうか。
 これは実際には起こらなかったことを仮定していますので、十分な答えが出せるわけではありません。けれども答えの方向は考えることができます。この問題の解決の鍵は、神さまのご臨在は一律なものではないということにあります。
 神さまは生きておられる人格的な方です。それで、ご自身のご意志にしたがってあるものに特別に心を注がれることがあります。神さまのご臨在は、神さまが特別な意味で心を注いでいてくださることにたとえられます。神さまはご自身がお造りになったすべてのものに心を注いでいてくださいます。そして、それは造られたそれぞれのものにとっては十分なものです。けれども、造られたすべてのものが同じように、神さまの愛と恵みに満ちたお心遣いを受け止めることができるわけではありません。私たち人間の場合にも、ある人が金魚を飼っていたとします。その人がいくらその金魚に心を注いでも、金魚にはその人の心遣いを受け止めるだけの力はありません。それで、その人の金魚に対する心遣いには限界があることになります。きちんとえさをやり、適当な時に水を換えてあげるというようなこと以上のことはできません。それはその人の心が冷たいからではなく、金魚にはそれ以上のものを受け止めて応えることができないからです。それは、たとえ無限、永遠、不変の愛に満ちておられる神さまが金魚を省みてくださっているといっても、同じことです。金魚には神さまの愛と恵みを、愛と恵みとして受け止める力はありません。そのように、神さまの愛と恵みは無限、永遠、不変の豊かさに満ちていますが、造られたものの側に限界があるために、神さまはご自身の愛と恵みを十分に表わすことができないということがあるのです。
 神さまは神のかたちに造られている人間に特別に心を注いでくださって、豊かな愛と恵みを示してくださっています。それは、人間が愛を本質的な特性とする神のかたちに造られており、自由な意志をもつ人格的なものとして、神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答することができるものであるからです。
 神さまが人をそのようなものにお造りになったのは、人にご自身の愛をこの上なく豊に注いでくださるためです。その意味で、神さまは神のかたちに造られている人間には特別に心を注いでくださっており、愛と恵みをもって人とともにいてくださいます。そのように、神さまが特別な意味で心を注いでくださって、神のかたちに造られている人間とともにいてくださることが、神さまのご臨在です。それは、神さまが、広く「神殿」としての意味をもっているこの世界にご臨在されるということより、はるかに豊かな意味をもち、いのちの祝福にあふれたご臨在です。神さまはそのことを示してくださるためにエデンの園を設け、その中央に「いのちの木」を生えさせてくださって、神のかたちにお造りになった人をそこに置いてくださったのです。
 ですから、エデンの園は、神さまが愛と恵みに満ちた方として特別な意味でご臨在してくださっていることを表わすためのものであって、エデンの園がなければ神さまが特別な意味でご臨在することができないということではありません。新しい天と新しい地のことを記している黙示録21章3節、4節には、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されています。ここで「幕屋」の表象によって表わされている神さまのご臨在は「人とともにある」のであって、この世界のどこかに固定されているのではありません。それで、人々が文化命令・歴史を造る命令に従ってエデンの園を出て地を満たしたとしても、神さまのご臨在と、そのご臨在にともなういのちの祝福は、その人々にともなっていったはずです。そのようにして、神のかたちに造られている人が、造り主である神さまの戒めにしたがって地を満たしていくときに、全地が特別な意味で神さまのご臨在されるところとなっていき、そこに神さまのご臨在にともなう豊かな祝福があふれ出るようになっていたことでしょう。そして、愛によって造り主である神さまを礼拝する礼拝が、全地を満たしていったことでしょう。いわば、それは「世界のエデン化」とでもいうべきことです。
 実際、そのようなことは、主の贖いの恵みによって主のご臨在の御許に住まう者となった主の契約の民の間に実現していることです。詩篇84篇5節、6節には、

  なんと幸いなことでしょう。
  その力が、あなたにあり、
  その心の中にシオンへの大路のある人は。
  彼らは涙の谷を過ぎるときも、
  そこを泉のわく所とします。
  初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

と記されています。
 このことは、確かに私たちの間に実現しています。ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために贖いを成し遂げてくださった契約の主であられるイエス・キリストは、その豊かないのちの祝福をもって私たちとともにいてくださいます。そして、その約束と保証のもとに、新しい形での文化命令・歴史を造る命令を与えてくださいました。マタイの福音書28章18節〜20節に、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されているとおりです。新しい契約の民である私たちは、栄光のキリストによって遣わされています。それは栄光のキリストのご臨在の御許から遣わされることですが、決して、栄光のキリストのご臨在の御許から離れていくことではありません。むしろ、私たちが遣わされていく所に、栄光のキリストのご臨在がともなってくださって、そこに贖いの恵みによる祝福をあふれさせてくださるのです。
 私たちはきょう栄光のキリストが備えてくださった聖餐にあずかります。これは、私たちの目には見えないけれども、栄光のキリストが私たちとともにいてくださることを礼典として(サクラメンタルに)表示しています。それで、私たちがイエス・キリストの約束を信じてこれにあずかるときに、栄光のキリストは御霊によってここにご臨在してくださって、贖いの恵みによるいのちの祝福を与えてくださいます。

 


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