(第131回)


説教日:2003年6月29日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 今日もペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づきまして、私たちが聖なるものであるべきことが、私たちに与えられている望みとかかわっているということについてお話しします。
 3節、4節に記されていますように、私たちは父なる神さまの「大きなあわれみのゆえに」、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。そして、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を与えられています。この「資産」は、新しく生まれて神の子どもとされている者たちが相続しているる相続財産のことです。そして、この場合は、私たちが「生ける望み」を与えられていることと、相続財産を与えられていることは、同じことを別の面から述べたものであると考えられます。
 私たちに与えられている望みが「生ける望み」であるのは、この望みが単なる願望としての望みではなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりに基づいている望みであるからです。また私たちに与えられている相続財産が「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」であるのは、この相続財産が、この世とともに過ぎゆくものではなく、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって現実のものとなった新しい天と新しい地に属する相続財産であるからです。
 そして、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が切り離しがたく結びつけられているのは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」がすでにイエス・キリストの死者の中からのよみがえりとともに私たちの現実となっているけれども、その完成は世の終わりのイエス・キリストの再臨の日を待たなければならないからです。ですから、私たちが「生ける望み」のうちに生きているのは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に、私たちが「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を完全に受け継ぐようになるからです。


 繰り返しお話ししてきましたが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からのよみがえりによる新しいいのちにあずかって神の子どもとしていただいている私たちが受け継いでいる相続財産の中心は神さまご自身です。そして、私たちが神さまご自身を相続財産として受け継いでいるということは、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者とされているということを意味しています。子どもがある人を父として持っているということは、その父の子どもであるということから生まれてくるあらゆる特権を享受しているということを意味しています。そのすべての特権の中心は、その人に向かって「お父さん」と呼んだり、その人のことを「私のお父さん」と呼ぶことができるということにあります。
 私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることは、父なる神さまが永遠の聖定において定めてくださったことです。エペソ人への手紙1章3節〜5節に、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されているとおりです。
 けれども、この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは真空の中で実現することではありません。神さまはこの永遠の聖定において定めてくださった祝福を実現してくださるために、天地創造の御業を遂行されました。これまでお話ししてきましたように、神さまはこの世界を、何よりもまずご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもつ世界としてお造りになりました。神さまが造り出されたこの世界の最初の状態を記している創世記1章2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されていますように、神さまは、私たちが住んでいるこの世界が「地は形がなく、何もなかった」ときに、すでに、御霊によってご臨在しておられました。そして、3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されていますように、そのご臨在の御許から発せられた一連のみことばによって、この世界を人の住み処として整えてくださいました。その上で、26節〜28節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおり、人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの地と、そこに住むすべての生き物たちを治める使命をお委ねになりました。
 これは、神さまが自身のご臨在される「神殿」としての意味をもっているこの世界を、神のかたちに造られている人間に相続財産として受け継がせてくださったということを意味しています。この世界は、神さまが創造の御業によって造り出された世界として、神さまのものです。また、神さまご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっている世界として、神さまのものです。それが、そのような神さまのものであるという意味を失うことなく、神のかたちに造られている人間に相続財産として与えられているのです。
 ですから、1章28節に記されている、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、一般に「文化命令」として知られている戒めは、人の住み処として造られているこの世界を委ねられたということですが、それ以上に、またそれに先立って、何よりも造り主である神さまご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもっているこの世界を委ねられたということです。
 それで、この世界を相続している人は、この世界で、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができます。そして、この神さまとの愛にあるいのちの交わりは、私たちが神さまのご臨在の御前に出でて、神さまを礼拝することから始まります。
 繰り返し引用していますイザヤ書66章1節、2節には、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。」

と記されています。ここにあかしされていますように、神さまは天を王座とし、地を足台として、この世界にご臨在しておられます。それで、私たちはこの地に住んでいるものとして神さまを礼拝していますが、天をその王座とし、地を足台としておられる方を礼拝しています。その意味では、私たちの礼拝は地上においてなされますが、地上だけの事柄ではないのです。
 詩篇148篇1節〜14節には、

  ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。
  いと高き所で主をほめたたえよ。
  主をほめたたえよ。すべての御使いよ。
  主をほめたたえよ。主の万軍よ。
  主をほめたたえよ。日よ。月よ。
  主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。
  主をほめたたえよ。天の天よ。
  天の上にある水よ。
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。
  主が命じて、彼らが造られた。
  主は彼らを、世々限りなく立てられた。
  主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。
  地において主をほめたたえよ。
  海の巨獣よ。すべての淵よ。
  火よ。雹よ。雪よ。煙よ。
  みことばを行なうあらしよ。
  山々よ。すべての丘よ。
  実のなる木よ。すべての杉よ。
  獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。
  翼のある鳥よ。
  地の王たちよ。すべての国民よ。
  君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。
  若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。
  彼らに主の名をほめたたえさせよ。
  主の御名だけがあがめられ、
  その威光は地と天の上にあるからだ。
  主は、その民の角を上げられた。
  主の聖徒たち、主の近くにいる民、
  イスラエルの子らの賛美を。
  ハレルヤ。

と記されています。
 これは、主の贖いによって神のかたちの栄光を回復された主の民の礼拝における賛美です。その賛美の中で、地上に存在する山や丘、そこにある植物や、地に生息する生き物、自然現象、そしてすべての人だけでなく、御使いや天体など天にあるものに向かって、造り主である神さまへの礼拝を呼びかけています。このことは、主の民の礼拝が自分たちの住んでいる地上のものにかかわるだけでなく、それを越えて、御使いたちやすべての天体を包み込んだ礼拝であるということを示しています。そればかりでなく、その宇宙大の礼拝の中心に、神のかたちに造られている人間がいるのです。
 このことを、いまお話ししていることに合わせて言いますと、神の子どもとしての私たちが受け継いでる相続財産は、このような宇宙大の礼拝がなされる「神殿」としての意味をもつこの世界であるということになります。
 このように、この世界は何よりもまず造り主である神さまご自身がご臨在される「神殿」としての意味をもった世界であり、それを神のかたちに造られている人間が相続財産として受け継いでいます。そして、このことは、主の民がその礼拝において、御使いや天体など天にあるものや、地にあるすべてのものにむけて、造り主である神さまへの礼拝を呼びかけていることに現われています。
 このような宇宙大の礼拝があるということは、黙示録に繰り返し記されています。その最初の記述は4章、5章にあります。最初の記述は詳しいもので、後の記述はこれを踏まえて記されています。4章2節〜11節には、

たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と記されています。さらに、5章11節〜14節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

と記されています。
 いまお話ししていることとのかかわりでの問題は、ここに出てくる「二十四人の長老たち」が誰であるかということです。これにはさまざまな見方がありますが、代表的なものとしては、この「二十四人の長老たち」は天使的な存在であるというものと、主の民の代表としての長老であるというものがあります。ここでは、その当時の黙示文学的な背景をどう考えるかということについてお話しする余裕がありませんが、「二十四人の長老たち」が誰であるかということは、正典としての聖書に記されていることから十分に判断できると思います。
 この「二十四人の長老たち」は「金の冠を頭に」かぶって、栄光の主の御座のまわりにある「二十四の座」に着いている王的な存在であり、御座の前で礼拝をささげる祭司的な存在です。また、7章13節〜17節に、

長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

と記されていることを見ますと、「二十四人の長老たち」は預言者的な存在でもあることが分かります。
 聖書の中では、そのように預言者的で、王的な祭司としての栄光を与えられている存在は、栄光のキリストとともによみがえっている神の子どもです。エペソ人への手紙2章4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されているとおりです。
 聖書には、御使いが王的な祭司であるという思想はありません。確かに、御使いたちは主が歴史を支配されることにかかわっています。たとえば、列王記第一・22章19節、20節には、

すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。」

と記されています。けれども、ここに記されている御使いたちは、主とともに座に着いて歴史を治めているわけではありません。ここでは、

主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っている

と言われていますが、これは御使いたちが仕えるものの立場にあることを意味しています。これと調和して、ヘブル人への手紙1章14節には、

御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

と記されています。ですから、御使いたちは栄光のキリストとともに座に着いて治める王的な存在ではありません。
 またヘブル人への手紙2章5節〜10節には、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
  「人間が何者だというので、
  これをみこころに留められるのでしょう。
  人の子が何者だというので、
  これを顧みられるのでしょう。
  あなたは、彼を、
  御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
  彼に栄光と誉れの冠を与え、
  万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 すでにいろいろな機会にお話ししましたので、詳しい説明は省きますが、ここでは、神さまはこの「後の世」を御使いたちにではなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって栄光を受けた神の子どもたちに従わせられたということが示されています。これも、御使いたちはイエス・キリストとともに治める王的な存在ではないことを意味しています。また、これは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれている私たちが、「後の世」すなわち終わりの日の栄光のキリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地を相続財産として相続するということに当たります。
 このこととの関連で注意したいのですが、黙示録に出てくる「四つの生き物」は、主の御座の最も近くで仕えている天使的な存在ですし、「二十四人の長老たち」とともに栄光の主の御前で礼拝をしています。けれども、そこには「四つの生き物」が座する座はありません。
 これらのことから、黙示録に記されている天上の礼拝に出てくる「二十四人の長老たち」は、天使的な存在ではなく、主の民を代表している存在であると考えられます。
 このように、黙示録に記されている天上の礼拝においては、御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、死者の中からのよみがえりにあずかって栄光を受けて、天においてキリストとともに座に着いている神の子どもたちは「二十四人の長老たち」によって代表されています。そして、その礼拝の中心にいて神さまを礼拝しています。
 先に引用しました黙示録4章9節〜11節には、

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

と記されていました。
 「二十四人の長老たち」によって代表されている神の子どもたちは、「後の世」を相続財産として相続すると者として、栄光のキリストとともに座に着いて治める者ですが、いっさいの栄光を父なる神さまと御子イエス・キリストに帰しています。神の子どもたちは父なる神さまと御子イエス・キリストを真っ先に礼拝するものとして、神さまがお造りになったこの世界と、その完成である「後の世」すなわち栄光のキリストの再臨によってもたらされる新しい天と新しい地を治めるものであるのです。
 これらのことから分かりますように、私たちが今ここで御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかって造り主である神さまを礼拝していることには、二つの意味があります。
 一つは、歴史の初めにかかわることです。
 この世界は造り主である神さまがご臨在する「神殿」としての意味をもつ世界として造られています。しかし、この世界を相続財産として与えられ、これを治める使命を委ねられている人間が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、この世界には虚無が入り込んできました。神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているこの世界に虚無が入り込んできたことによって、この世界でささげられる礼拝が空しいものになってしまいました。造り主である神さまへの礼拝が止んでしまったばかりか、神ならぬ偶像が拝まれるようになってしまったのです。
 今ここで私たちがささげている礼拝は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業によって、神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているこの世界に、造り主である神さまを礼拝する礼拝が回復されているということをあかしするものです。そのあかしは、神さまの御前でのあかしでありつつ、前にお話ししました暗やみの主権者たちへのあかしでもあります。
 もう一つは、歴史の終わりにかかわることです。
 私たちが今ここでささげている礼拝は、御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかって造り主である神さまを礼拝するものです。けれども、神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているこの世界には、今なお虚無がはびこっています。そして、人を惑わす暗やみの力も働いています。しかし、そのすべては栄光のキリストの再臨の日に清算されます。そして、この世界は、栄光のキリストの来臨とともに、神さまの充満な栄光のご臨在のある世界として完成します。その日には、黙示録に記されている天上の礼拝が、新しい天と新しい地の現実となります。
 これまでお話ししてきたことから分かりますように、栄光のキリストの再臨によって新しい天と新しい地が造り出されるということは、ただこの世界が再創造されるというだけのことではありません。新しい天と新しい地は、最初の創造の御業によって造り出された「神殿」としての意味をもった世界が完成するものです。ですから、そこに父なる神さまと御子イエス・キリストが御霊の充満な栄光のうちにご臨在されることがなければ、新しい天と新しい地の完成はありません。それと同じように、そこで御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって栄光あるものによみがえる主の民が礼拝するようになることがなければ、新しい天と新しい地の完成はありません。このことは、今ここで私たちが御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きにあずかって、父なる神さまを礼拝していることが、新しい天と新しい地の完成に深くかかわっていることを意味しています。
 このように、今ここで私たちがささげている礼拝は、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いによって、本来の姿が回復されている礼拝であるとともに、栄光のキリストの再臨によって最終的に完成する新しい天と新しい地における礼拝につながっていく礼拝であるのです。私たちはその最終的な完成を待ち望む「生ける望み」の中で造り主である神さまに礼拝をささげています。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「聖なるものであること」
(第130回)へ戻る

「聖なるものであること」
(第132回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church