(第130回)


説教日:2003年6月22日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、私たちが聖なるものであることが、私たちに与えられている望みと深くかかわっているということについてお話しします。まず、これまでお話ししてきたことを簡単に補足しながら復習してから、さらにお話を続けます。
 1章3節〜5節に記されていますように、私たちは父なる神さまの「大きなあわれみのゆえに」、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。そして、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を与えられています。この場合の「資産」は、神の子どもが受け継いでいる相続財産のことです。そして、この相続財産の中心は神さまご自身であり、私たちはそれを受け継いでるものとして、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。
 このことは、今すでに私たちの現実になっていますが、その最終的な完成は世の終わりのイエス・キリストの再臨の日を待たなければなりません。そして、このこととのかかわりで、私たちには「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」が与えられているという、いわば終末論的な側面があります。
 世の終わりのイエス・キリストの再臨の日における完成を待つということは、ある人々にとっては、当てのないものを漠然として待つという意味での希望に過ぎないと感じられます。もしこれが人の言い伝えや憶測に基づくものであれば、私たちの生き方はいわば幻想の上に立った空しいものというほかはありません。イエス・キリストの復活について述べているコリント人への手紙第一・15章19節に、

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

と記されているとおりです。
 けれども、私たちに与えられている望みは「生ける望み」であって、人の言い伝えや憶測に基づく「単なる希望」ではありません。それは、私たちの望みにかかわるすべてが、無限、永遠、不変の栄光の父なる神さまから出ているからです。父なる神さまは永遠の前からの「大きなあわれみ」によって私たちをご自身の子としてくださり、御前に聖く傷のないものとしてくださるように定めてくださっています。エペソ人への手紙1章4節、5節に、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されているとおりです。
 神さまは、このことを実行に移してくださいました。これまでお話ししてきましたように、天地創造の御業によって、この世界を何よりもまずご自身がご臨在される神殿としての意味をもつ世界としてお造りになりました。そして、人を神のかたちにお造りになって、ご自身がご臨在されるこの世界に住まわせてくださいました。これは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」として立たせてくださるためであり、「ご自分の子」として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるためでした。
 さらに、人が神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後にも、私たちを「御前で聖く、傷のない者」として立たせてくださり、「ご自分の子」として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるという永遠の前からのみこころに沿って、御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださいました。そして、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださり、新しく生まれさせて神の子どもとしての身分を与えてくださいました。
 ですから、私たちは神さまのみことばのあかしにしたがって、創造の御業と贖いの御業を通して実現されている父なる神さまの永遠の前からのみこころを信じています。また、父なる神さまの永遠の前からのみこころは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることであるということを信じているのです。
 このように、神さまは天地創造の御業によって、この世界を、何よりもまずご自身がご臨在される神殿としての意味をもった世界としてお造りになりました。そして、ご自身がご臨在しておられるこの世界に、神のかたちに造られた人間を住まわせてくださいました。それは、父なる神さまの永遠の前からのご計画にしたがって、私たちが父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる者となるためです。そして、このことが、これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、私たちは神さまがお造りになったこの世界、しかも、ご自身がご臨在される神殿としての意味をもっているこの世界を相続財産として相続しているということです。
 その意味で、神の子どもたちが受け継いでいる相続財産は、神さまの救いの御業の歴史の中のある時になって急に考え出されたものではありません。それは、天地創造の初めから神のかたちに造られている人間に与えられていたものです。そしてそれは、さらに、私たちを「御前で聖く、傷のない者」として立たせてくださり、「ご自分の子」として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださるという、父なる神さまの永遠の前からのみこころのうちにあったものです。また、神さまの贖いの御業は創造の御業によって実現したことを回復してくださるための御業であって、これが新しい相続財産を生み出したのではありません。


 繰り返しになりますが、この世界が神さまがご臨在される神殿としての意味をもった世界として造られていることを示している代表的なみことばは、イザヤ書66章1節、2節に記されている、

  主はこう仰せられる。
  「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
  わたしのために、あなたがたの建てる家は、
  いったいどこにあるのか。
  わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
  これらすべては、わたしの手が造ったもの、
  これらすべてはわたしのものだ。
  ―― 主の御告げ。――
  わたしが目を留める者は、
  へりくだって心砕かれ、
  わたしのことばにおののく者だ。」

というみことばです。
 ここでは、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

と言われています。言うまでもなく、これは主がご自身のことを、一人の人が天に座し、その足が地に置かれているという形の擬人化によって表わしておられるものです。これによって、主はご自身がお造りになった天と地にご臨在しておられること、それゆえにこの天と地は主がご臨在される神殿としての意味をもっていることが示されています。
 このことは、マタイの福音書5章33節〜37節に記されている、

さらにまた、昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

というイエス・キリストの教えでも踏まえられています。
 すぐに分かりますように、

天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

という教えは、イザヤ書66章1節に記されています、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

という主のみことばを踏まえています。
 このイエス・キリストの教えは、この前後に記されているほかの教えと同じく、その当時の律法の教師であるラビたちの教えの歪みを指摘して、主の律法の本来の意味を明らかにしています。

昔の人々に、「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

というイエス・キリストのことばは、その律法の教師たち、すなわち律法学者たちの教えをまとめたものです。マルコの福音書7章8節に、

あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。

と記されていますように、イエス・キリストは、この律法の教師たちの教えを「人間の言い伝え」と呼んで「神の戒め」と対比しておられます。
 誓いについての戒めの代表的なものですが、レビ記19章12節には、

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

と記されています。
 この戒めは偽って誓うことを禁じています。これが禁止の戒めであるのは、自らのうちに罪を宿している人間のうちにそのような傾向があるばかりが、実際に偽りの誓いが生み出されているからです。偽りの誓いは、誓いを隠れみのにして自らのうちにある偽りを隠すためになされます。
 言うまでもなく、このような主の律法が明らかにする私たちの罪の現実は、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって贖っていただくほかはありません。その贖いの恵みに包まれることによって、主の律法の積極的な側面が現実的な意味をもってきます。
 この戒めは、積極的には、主の契約の民に、真実な主を自分たちの神としているものとして、真実であることを求めています。これに先立つ11節に、

盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。

と記されていることから分かりますように、この戒めはこれとして独立しているのではなく、主の契約の民が常に真実であるべきことを当然の前提としていて、その真実であることを集約的に現わすこととして、主の御名によって誓う時に真実であることが考えられているのです。
 さらに、この戒めには―― というより主のすべての戒めには、より広い背景があります。それは、人が神のかたちに造られているということです。神のかたちに造られている人間は造り主である神さまの聖なる属性を映し出すものとして造られています。そして、真実であることも神さまの聖なる属性の一つです。それで、およそ人が誓うということは、真実な神さまのかたちに造られているものとして誓うことであるのです。その意味で、その人がそのことを自覚しているかいないかにかかわりなく、また、造り主である神さまの御名を挙げるか挙げないかにもかかわりなく、誓いはすべて神さまの真実さにかけて誓うことであり、偽り誓うことは真実な神さまの御名をけがすことになります。
 イエス・キリストは、

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。

と言われました。そして、その戒めの意味を、

だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

と教えておられます。これによってイエス・キリストは、私たちに常に真実であることを求めておられます。私たちが「はい」と言ったら、それは「はい」ということであって、そこに偽りがないことを示すために、さらに誓いをしたりする必要がない―― それほどに真実であることを求めておられるのです。この教えでは、主の契約の民が常に史実であり、主の御名による誓いにおいては、その真実であることが集約されて表現されるということの、常に真実であるという基本的なあり方のほうを前面に打ち出して強調しています。
 ところが、

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

という主の戒めをそのように理解しないで、

わたしの名によって、偽って誓ってはならない。

という戒めの「わたしの名によって」ということばを、この戒めを限定するものとして理解するとどうなるでしょうか。そこには、主の御名によって誓うときには偽ってはならない、というような理解が生まれてきます。そして、主の御名によって誓うときには偽ってはならないというのであれば、主の御名によって誓わないときには、まったくとは言わないまでも、ある程度それが果たされないことがあっても仕方がないというような理解が出てくるのです。そこから、何によって誓うかによって、それを果たすべき責任の重さが変わってくるというような考え方が生まれてきます。イエス・キリストが、

すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

と教えておられるのは、主の御名によって誓うことよりは果たすべき責任が軽いとされていた、天を指しての誓い、地を指しての誓い、エルサレムを指しての誓い、自分の頭を指しての誓いを取り上げているのです。ここでは、誓ったことを果たすべき責任の重さの順に取り上げられているように思われます。そして、イエス・キリストは、このどれを取ってみても、みな造り主である神さまとかかわりのないものはなく、すべて神さまの御名にかかわっているということを示しておられます。
 誓いに関するラビたちの教えのことは、さらに、律法学者、パリサイ人たちに対するイエス・キリストの糾弾のことばを記しているマタイの福音書の23章16節〜22節に、

忌わしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、こう言う。「だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

と記されています。

だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。

という教えや、

だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。

というような教えがどこから生み出されたかは、もうお話しする必要もないと思います。
 マタイの福音書5章34節〜36節に記されている、

すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

という教えに出てくる最初の二つは、

天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。

というものです。これは、先ほども言いましたように、イザヤ書66章1節に記されている、

  天はわたしの王座、地はわたしの足台。

という主のみことばを踏まえています。
 この世界は神さまが創造の御業によってお造りになったものです。その意味で、この世界は神さまのものです。しかし、この世界が神さまのものであるということはそれ以上のことです。神さまはこの世界をお造りになって、それをご自身の作品として外から眺めておられるのではありません。神さまはご自身がお造りになったこの世界にご臨在しておられるのです。ですから、天という広がりとさまざまな天体がある壮大な宇宙があるというだけではありません。さらには、物理的な天を超えた御使いたちの住む所としての天があるというだけでもありません。天は何よりも無限、永遠、不変の栄光に満ちた方が座しておられる所であるのです。また、地という広がりとさまざまな生きものたちが生息する世界があるというだけではありません。地には、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方が、これを足台としてご臨在しておられます。このことが天にとっても地にとっても本質的なことで、最も大きな意味をもっています。このような意味をもっている天や地を指して誓うときには、そこにご臨在しておられる方を別にして誓うことはできません。それで、天や地を指して誓うことは、同時に、そこにご臨在しておられる方をも指して誓うことを意味しています。先ほど引用しましたマタイの福音書23章22節に記されているイエス・キリストの教えにおいて、、

天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

と言われているとおりです。
 また、先ほどのイエス・キリストの教えの最後は、

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

となっています。これは、私たちの社会で言われる「首をかけてもいい」というようなことに当たります。もし自分の言っていることが偽りだったら、死をもって償うというような意味になります。それは、本当は命懸けのことです。けれども、そのようなことが、軽々しく語られ、結果的に偽りをごまかすための誓いに用いられてしまっているのです。
 しかし、この場合、イエス・キリストはいのちにかかわる「」ではなく、いのちにはかかわらない「一本の髪の毛」のことを取り上げておられます。何も「」という大切な器官でなくても、そこに生えている一本の髪の毛の色さえも、人は変えることはできません。その色を決め、時にそれを変えられるのは神さまです。その意味で、髪の毛の一本でさえ神さまの御手によって支えられているのです。それは、天地創造の初めから、この世界にご臨在されて、無限、永遠、不変の栄光のご臨在の御許からあふれ出てくる豊かさによって造られたこの世界とその中のすべてのものを満たしてくださっている神さまの御手によっています。その意味では、髪の毛一本を指して誓ったとしても、それは造り主である神さまを離れての誓いにはなりえないのです。
 ここでイエス・キリストが取り上げておられることの問題は、このようなわきまえがないままに、天や地を指して誓うことが、いい加減な誓いのために用いられるようになってしまっていることです。これに対しまして、先ほど引用しましたレビ記19章12節に記されている、

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

という戒めでは、主の御名による誓いを隠れみのにして偽りを言って、主の契約の民の隣り人を欺いてはならないと言われています。この二つのことは、どちらも誓いを隠れみのにして隣り人を欺くという点は同じですが、この二つには重大な違いがあります。

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

という主の戒めに背く人は、自分が主に背いていることを、どこかで自覚しています。けれども、天や地を指して誓いながら、天あるいは地を指して誓っただけだから、その誓いをどうしても果たさなければならないわけではないというように考えている人は、自分が主の戒めに背いているということを自覚していません。なぜなら、そのような責任をともなわない誓いがあるということが、律法の教師によって教えられているからです。しかも主の御名によって誓うのではない誓いの責任はより軽いものであるというような教えは、主の律法の戒めから引き出された教えであるということになっているのです。
 このような誓いをすることは、主の律法の戒めに背いたということとは違います。先ほども言いましたように、人が主の律法の戒めに背いたときには、その人のうちに罪の自覚が生じます。もちろん、そのような偽りを繰り返しながら、罪の自覚もなくなっていってしまうということもありますが、それはまた別の問題です。これに対して、律法学者たちの教えにしたがって主の御名にはよらない誓いをする人は、その誓いを守らなくてもよいということになっていますので、初めから罪の自覚がもてなくなってしまいます。
 そればかりでなく、ある人が主の戒めに背いて偽りの誓いをする場合には、主の戒めそのものは、そこに厳然としてあります。それで、偽りの誓いをした人は主の戒めに背いたということがはっきりするわけです。けれども、イエス・キリストが問題としておられる律法学者たちの教えでは、主の律法そのものがねじ曲げられてしまっています。そのために偽りの誓い、いい加減な誓いにも「律法のお墨付き」が与えられているという話になってしまいます。これは、主の戒めに背いて偽りの誓いをすることより、さらに深刻な問題であり、主の聖さの表われの一つである律法そのものを汚すことであり、主の御名を汚すことになります。そして、そのような歪められた教えにしたがって生きることによって、真実であるということが本質的に歪められてまい、結果的に、自らの神のかたちとしての栄光と尊厳性が、内側から損なわれてしまうことになります。
 ここに記されている、私たちが真実であるべきであることについての教えの中で、イエス・キリストは、人が神のかたちに造られていることには触れておられません。それは、ここでイエス・キリストが取り上げておられる具体的な問題が誓いの乱用にあるからです。人が神のかたちに造られていることには、当然の大前提として踏まえられています。
 このことを踏まえたうえでのことですが、イエス・キリストは、私たちが真実であるべきであることについての教えの中で、私たちがただ単に造り主である神さまがお造りになった世界に住んでいるというだけでなく、造り主である神さまご自身がご臨在しておられる世界に住んでいるということ、そして、無限、永遠、不変の栄光のご臨在の御許からあふれ出てくる豊かさによって満たしていてくださる世界に住んでいるということを突き詰めておられます。そして、そこから掘り起こすように、誓いの乱用の問題を明らかにして、真実であるべきことを教えておられます。
 これは、私たちが真実であるべきであるということにかかわるだけではありません。私たちが相続財産として受け継いでいるこの世界が、何よりも造り主である神さまがご臨在しておられる世界であるということ、そして、私たちはこの神さまのご臨在される世界で、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きているということが、私たちのあり方と生き方を根本的なところから決めています。そのあり方と生き方の一つの表われが、神さまに対しても隣り人に対しても真実であるということです。

 


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