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説教日:2003年6月15日 |
先週は、天地創造の初めに神さまがこの世界を、何よりもまず、ご自身が御霊によってご臨在される世界としてお造りになったということをお話ししました。そのことの繰り返しになりますが、創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは、1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事の「見出し文」に当たります。これによって、私たちの目に見えるものも見えないものも含めて、この世界のすべてのものが神さまの創造の御業によって造り出されたものであるということが示されています。 これに続く2節においては、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われています。この2節では、神さまの創造の御業を記す記事の視点が、私たちの住んでいるこの「地」に移っています。これ以後の創造の御業の記事は「地」にある者の目線でとらえた神さまの創造の御業を記しています。これによって、神さまは、私たちに、私たちが住んでいるこの世界が神さまの創造の御業によって造られた世界であることを示してくださいました。それも、ただ単にこの世界が神さまの創造の御業によって造り出された世界であるということだけではありません。そのことだけでしたら、1節の、 初めに、神が天と地を創造した。 ということばだけで伝えることができます。神さまはそれとともに、この世界がどのような意味をもった世界として造られているかということも受け止めることができるようにしてくださったのです。そして、そのことの第一のこととして、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 というみことばをとおして、この世界がまだ形をなしていなかったときにすでに、造り主である神さまご自身が御霊によってこの世界にご臨在してくださっていたということが示されています。言うまでもなく、2節に記されているこの世界の最初の状態は、神さまが創造の御業において造り出されたものです。 そして、続く3節に、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 と記されていますように、そのご臨在の御許から発せられる、 光よ。あれ。 というみことばから始まる一連のみことばをもって、この世界を、やがて神のかたちに造られるようになる人の住み処として整えていってくださったのです。 その意味で、この世界は人や生き物たちの住み処である前に、造り主である神さまご自身が御霊によってご臨在される世界としての意味をもっていました。このことは、この世界は何よりもまず造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもった世界として造られているということを意味しています。 このように、神さまは、この世界をまずご自身がご臨在してくださる世界としてお造りになりました。そして、そのような意味をもった世界に神のかたちに造られている人間を住まわせてくださいました。これは、神さまがご自身がご臨在されるこの世界を神のかたちに造られている人間に相続財産として受け継がせてくださったということを意味しています。そして、これは、さらに、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまのご臨在の御前に生きるもの、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして造られているということを意味しています。 私たちは、「神殿」と言いますと、まず人が神のために建てた建物を思い浮かべます。そして、比喩的に、この世界も神殿としての意味をもっている、と言われているというように考えます。しかし、それは私たちの理解の仕方の順序であって、実際の事柄の順序はそういうことではありません。私たちが生まれて育ったこの世界では、神殿は人が神のために建てた建物として建てられており、私たちはそれに馴染んでいるので、私たちには神殿はそのようなものであるという発想があるのです。けれども、みことばは神さまが宿りたもうまことの神殿は、何よりも、神さまが創造の御業をとおしてお造りになったこの世界であるということを示しています。 すでにいろいろな機会にお話ししましたが、聖書の中には、このことを示すみことばがあちこちに記されています。その代表的なみことばはイザヤ書66章1節、2節に、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。」 と記されているみことばです。 これは、使徒の働き7章に記されていますが、古い契約の下での地上的なひな型として建てられたエルサレム神殿の意味をめぐって、ユダヤ人たちにあかしをしたステパノのあかしの中で引用されているみことばです。使徒の働き7章48節〜50節には、 しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。 「主は言われる。 天はわたしの王座、 地はわたしの足の足台である。 あなたがたは、どのような家を わたしのために建てようとするのか。 わたしの休む所とは、どこか。 わたしの手が、これらのものを みな、造ったのではないか。」 と記されています。 造り主である神さまは、人の手によって作られた建物としての神殿にはお住まいにはなりません。エルサレム神殿がどんなに壮大なものであっても、そのこと自体が造り主である神さまの栄光に何かを付け加えることはありません。また、そのことのゆえに神さまがそこに宿ってくださるということもありません。地上的なひな型としての神殿は、神さまがそれをとおして私たちに、神さまがご臨在される所はどのような所であるかということを示してくださるために与えてくださったものです。それは、そこに神さまがお住まいになる「神の家」ではなく、本当の「神の家」がどのようなものであるかを説明するための模型です。 地上的なひな型としての神殿が示していたことをまとめておきますと、地上的なひな型としての神殿には、いくつかの仕切りがありました。神さまのご臨在の場として仕切られていたのは、聖所です。その聖所を仕切る仕切りには神さまのご臨在があることを表示し、その聖さと栄光を守っている生き物であるケルビムがありました。幕屋の場合にはその仕切りの垂れ幕にケルビムが織り出され、神殿の場合にはその壁にケルビムの彫刻がありました。そのいちばん奥には、神さまのご臨在がある場所を示している至聖所がありました。その聖所と至聖所の仕切りには、幕屋の場合には、ケルビムを織り出した垂れ幕がありました。また、神殿の場合には、少し分かりにくいのですが、ケルビムを刻んだ扉(列王記第一・6章31節、32節)とケルビムのある垂れ幕(歴代誌第二・3章14節)があったようです。至聖所には契約の箱が置かれていました。その契約の箱の上蓋の両端には翼を広げた二つのケルビムがありました。神さまはそのケルビムの間にご臨在されました。 これらの仕切りによって、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、神さまの聖なる栄光のご臨在の御前から退けられてしまっているという現実が示されています。そして、罪ある人間がそのままで神さまの聖なる栄光のご臨在の御前に近づくなら、さばきを受けて滅ぼされてしまうということが示されています。その意味でこれは創世記3章24節に、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と記されている人間の状況を示しています。 聖所の前には祭壇があって、そこでいけにえのとしての動物がささげられました。それによって、いけにえの血によって罪がきよめられるということが示されていました。至聖所の前の聖所には、祭司が入って仕えましたが、至聖所には年に一度、大贖罪の日に大祭司が入って主のご臨在の御前に立つことができるだけでした。これによって、古い契約の下では、まだ罪の贖いが成し遂げられていないということと、そうではあっても、主の聖なる栄光のご臨在の御前にいたる道は残されているということが示されていました。 このようにして、地上の幕屋や神殿は古い契約の下でのひな型として、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているという現実を映し出してあかししています。それと同時に、いのちの血が流されることによって罪が贖われることによって、人は神さまの聖なる栄光のご臨在の御前に立つことができるということと、古い契約の下でのひな型である神殿で繰り返しささげられていた動物のいけにえでは、神のかたちに造られている人間の罪を贖うことができないということも示されていました。ヘブル人への手紙10章1節〜4節に、 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。 と記されているとおりです。 この地上的なひな型によって示されていることはすべて、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださったことによって成就し、私たちの現実となっています。これによって、私たちの間では地上的な建物としての神殿はなくなってしまいました。 いま私たちは新しい会堂の建設を始めていますが、これは私たちが主の御名によって集って、ともに心を合わせて造り主である神さまを礼拝するための集いの場であって、神さまがご臨在してくださるための神殿ではありません。私たちが御子イエス・キリストの御名によって集って礼拝をささげるときに神さまは御霊によって私たちの間にご臨在してくださいます。それは、神さまが私たちの間にご臨在してくださるということであって、建物としての会堂にご臨在してくださるということではありません。 話を元に戻しますと、地上的なひな型として建てられたエルサレム神殿は、確かに、神さまのみこころにしたがって建てられました。神さまはそれを、ご自身の御名を置いてくださる所として受け入れてくださいました。しかし、それはあくまでも古い契約の下での地上的なひな型として建てられたものです。神さまはそれをとおして、やがて神さまが与えてくださるまことの神殿のことを教えてくださり、約束してくださっていたのです。ですから、神さまの契約の民は、地上的なひな型であるエルサレム神殿そのものを頼みとしてはならず、エルサレム神殿をとおして神さまが指し示してくださっている約束の贖い主を信じて罪の贖いにあずかり、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるべきだったのです。それが、エルサレム神殿を与えてくださった神さまのみこころでした。 ステパノのあかしは、エルサレム神殿そのものを誇りとして、それが自分たちの国にあることを頼みとしているユダヤ人に対して、エルサレム神殿そのものは古い契約の下で与えられた地上的なひな型としての限界があることを明らかにしようとしています。それはエルサレム神殿そのものを真の主の神殿であると考えているユダヤ人にとっては、神殿を冒涜することと聞こえたのです。 ステパノが引用している預言者イザヤのことばは、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。」 というものでした。 これは、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 という主のみことばに示されていますように、神さまがお造りになった天と地が、神さまのご臨在される所であるということを示しています。そして、 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。 という主のみことばは、地上のエルサレム神殿そのものは、それが人の目にどんなに壮大なものであっても、天地の造り主である神さまにとっては、その壮大さや華麗さ自体は意味をもっていないことを示しています。 すでにお話ししましたように、エルサレム神殿は地上的なひな型として、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっているので、神さまの聖なる栄光のご臨在の御前から退けられてしまっているという現実を教えています。主の神殿が示している自分たちの罪の現実を認めて、御前に身を低くすることが、神殿を与えてくださった神さまのみこころです。それとともに、エルサレム神殿は神さまが備えてくださる贖いの血が流されることによって主の民の罪が贖われ、主とのいのちの交わりが回復されるようになることもあかししていました。それで、神さまのみこころは、ご自身の民が自分たちの罪の現実に対して身を低くするとともに、この神さまが備えてくださる贖いを信頼するようになることにあります。それが、 わたしが目を留める者は、 へりくだって心砕かれ、 わたしのことばにおののく者だ。 という主のみことばの意味するところです。 ところが、実際には、イスラエルの民は、自分たちに主の神殿が与えられているということで、自らを誇ることになってしまいました。そして、人の目から見た神殿の壮大さや華麗さに惑わされて、建物としての神殿そのものを頼みとすることになってしまいました。これが、イエス・キリストがその地上の生涯において、いわゆる「宮きよめ」と言われることなどをとおして、繰り返し告発されたことです。そして、ステパノが自らのいのちを省みることなく、大胆な告発をもってあかししたことでした。 神である主がご自身の民に神殿を与えてくださったのは、人類が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったためのことです。もし人類が神さまに対して罪を犯して御前に堕落することがなかったとしたら、造り主である神さまと神のかたちに造られている人間を隔てるものはなかったので、神さまのご臨在をどこかに囲い込むような必要はなかったばかりか、そのようなことをしてはならなかったはずです。それで、建物としての神殿は必要がなかったはずです。神さまがお造りになったこの世界自体が神さまがご臨在される神殿としての意味をもっていますので、神のかたちに造られている人間は、この世界のどこにおいても、そこにご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができたはずです。 このことを踏まえたうえでお話しするのですが、無限、永遠、不変の栄光の御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださって、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださったことによって、地上的なひな型としての神殿があかししていたことはすべて成就しました。それで、ひな型としての神殿は必要でなくなりました。実質的には、私たちと神さまとの間を隔てていた罪が取り除かれたので、私たちは自由にまた大胆に神さまのご臨在の御前に近づくことができるようになりました。ヘブル人への手紙10章19節、20節に、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 と記されているとおりです。 イエス・キリストが地上においてメシヤとしてのお働きをしておられたときに、サマリヤ人の女性が、地上の神殿をめぐって、ゲリジム山にあるサマリヤ神殿かシオンの丘にあるエルサレム神殿か、どちらが本当の主の神殿であるかと問いかけました。これに対して、イエス・キリストは、地上的なひな型としての神殿があかししていた贖いの成就によって、地上的なひな型としての神殿がその役割を終える時が来ているということをお教えになりました。そのことを記しているヨハネの福音書4章19節〜24節には、 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 と記されています。 イエス・キリストが、 父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 と言われたことは、主が預言者イザヤをとおして、 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 と言われたことを思い起こさせます。これによって、神さまが「真の礼拝者たち」を求めておられるということ、そして、「真の礼拝者たちが霊とまことによって」父なる神さまを礼拝するところに、神さまの「いこいの場」があるということが示されています。 イエス・キリストがサマリヤ人の女性に語られた、 あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 ・・・・ 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。 という教えは、エルサレム神殿が古い契約の下において地上的なひな型として与えられたものであること、そして、その地上的なひな型をとおしてあかしされていたことはすべてイエス・キリストによって成就するということの上にたって語られたものです。 けれども、それだけではこのイエス・キリストの教えは成り立ちません。それだけでは、地上的なひな型である神殿はその役割を終えるようになるということが示されるだけで、それでは、どこで造り主である神さまへの礼拝がささげられるのか、ということは示されません。このイエス・キリストの教えはさらに、神さまがお造りになったこの世界が何よりもまず神さまご自身がご臨在される神殿としての意味をもった世界として造られているということ、そして、それゆえに、本来は、この世界のどこにおいても、そこにご臨在してくださる神さまを礼拝することができるということの上に立って語られています。 言い換えますと、父なる神さまがイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちの罪を贖ってくださったことによって、私たちは神さまの創造の御業によって神のかたちに造られている人間としての本来の姿を回復していただいているのです。 先程コリント人への手紙第二・5章17節〜19節に記されているみことばとの関連でお話ししましたように、このことは、私たちの罪が贖われて私たちが罪を赦されたということで終わるものではありません。それは、さらに、神さまとの関係が本来の関係に回復されているということ、それゆえに、私たちが神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとなっているということを意味しています。そして、それは、神さまがこの世界をご自身のご臨在される世界としてお造りになって、そこに神のかたちにお造りになった人間を住まわせてくださったことに表わされているみこころが実現しているということです。 |
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