(第128回)


説教日:2003年6月8日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 今日もペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、私たちが聖なるものであることが、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いにあずかって神の子どもとしていただいている私たちに与えられている望みと関わっているということについてのお話を続けます。
 1章3節、4節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。
 父なる神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」、私たちを御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを新しく生まれさせてくださいました。これによって私たちをご自身の子どもとしてくださり、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」をもつ者としてくださいました。
 これまで繰り返しお話ししてきましたように、この「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」の中心は契約の神である主ご自身であり、私たちが神さまのご臨在の御許に住んで、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることにあります。きょうは、このことをこれまでお話ししてきたこととは、少し別の角度からお話ししたいと思います。


 そのためにまず注目したいのは、天地創造の御業によって造り出されたこの世界の最初の状態のことです。前にお話ししたことですが、創世記1章1節の、

初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事全体の「見出し文」に当たります。これによって、およそこの世界に存在するすべてのものは、見えるものも見えないものもすべて、神さまが創造の御業によってお造りになったものである、ということが宣言されています。
 これに続く2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。この2節は「さて地は」という形で始まっていて、2節からは、創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っていることが示されています。その意味で、2節以下では、私たちが住んでいる「」からの視点から見た、神さまの天地創造の御業の展開が記されています。それは、この創造の御業の記事が私たちへの啓示であるからです。いわば、私たち人間の目線、しかも、これが最初に記された時代の人々の目線に合わせて、神さまの創造の御業が記されているということです。
 この2節では、いまだ

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった。

という状態にあったとき、すでに、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。私たちが住んでいる「」が何の形もなしていなかったときに、すでに神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたというのです。そして、3節に記されている、

光よ。あれ。

という、ご臨在の御許から発せられたみことばから始まる一連のみことばによって、この「」を、やがて神のかたちに造られるようになる人の住み家に造り上げてゆかれたのです。「」が人の住み家に造られたということについては、イザヤ書45章18節に、

  天を創造した方、すなわち神、
  地を形造り、これを仕上げた方、
  すなわちこれを堅く立てられた方、
  これを形のないものに創造せず、
  人の住みかに、これを形造られた方、
  まことに、この主がこう仰せられる。

と記されています。
 私たちが住んでいるこの世界は、まことに豊かな世界です。私たちの目には無数とも思える生き物の生息があり、それを育む豊かな環境があります。けれども、この豊かさは、神さまが創造の御業によってこの世界を造り出されたときの豊かさをそのまま保っているのではありません。
 ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われていることから分かりますように、この世界を委ねられた人類の堕落によって、この世界には虚無が入り込んできています。このことは、また、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった最初の人に告げられたさばきのことばを記している創世記3章17節、18節に、

  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。」

と記されていることからも分かります。
 このように、この「」には人間の罪による堕落の結果、その堕落を思い起こさせる虚無と不毛な状態が入り込んできています。しかし、そのような状態であってもなお、私たちが見ているとおり、この世界には無数とも思える生き物が、それぞれのいのちの営みを展開しています。そして、それを支えるために豊かな環境が造り主である神さまの御手によって保たれてきました。そうであれば、神さまが最初にお造りになったときの状態のこの世界の豊かさは、いったいどれほどのものであったのだろうかと思わないではいられません。
 このような、神さまがお造りになった世界の豊かさには、確かな意味があります。詩篇36篇7節〜9節には、

  神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。
  人の子らは御翼の陰に身を避けます。
  彼らはあなたの家の豊かさを
  心ゆくまで飲むでしょう。
  あなたの楽しみの流れを、
  あなたは彼らに飲ませなさいます。
  いのちの泉はあなたにあり、
  私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。

と記されています。また、詩篇65篇9節〜13節には、

  あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
  これを大いに豊かにされます。
  神の川は水で満ちています。
  あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
  彼らの穀物を作ってくださいます。
  地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
  夕立で地を柔らかにし、
  その生長を祝福されます。
  あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
  あなたの通られた跡には
  あぶらがしたたっています。
  荒野の牧場はしたたり、
  もろもろの丘も喜びをまとっています。
  牧草地は羊の群れを着、
  もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
  人々は喜び叫んでいます。
  まことに、歌を歌っています。

と記されています。
 これらのみことばは、この世界に与えられている豊かさは神さまのご臨在の御許から溢れ出てきている豊かさであるということを示しています。神さまは、私たちが住んでいるこの世界を豊かな世界としてお造りになりました。それは神さまご自身のご臨在がここにあるということを映し出し、あかしすることであるのです。
 天地創造の初めに、無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられる神さまは、御霊によっていまだ形をなしていないこの世界にご臨在されました。そして、そのご臨在の御許から溢れ出てくる豊かさによって、この世界を満たしてくださいました。それが天地創造の御業の記事に記されている一連の創造のみことばによって、この世界を人の住み家として整えてゆかれた御業として展開していったのです。
 このように、私たちが住んでいるこの世界は人の住み家として造られているのですが、それに先立って、造り主である神さまがご臨在される世界として造り出されていました。そして、神さまは、この世界をご自身のご臨在の御許から溢れ出てくる豊かさによって満たされている世界としてお造りになり、これを人の住み家として整えてくださいました。このことは、神のかたちに造られている人間は、初めから、神さまのご臨在の御前に生きるものとして造られているということを意味しています。
 そして、神のかたちに造られている人間は神さまのご臨在の御前に生きるものとして造られているということは、みことばが一貫してあかししているところです。そのことは何よりも、天地創造の初めに、神さまがお造りになったエデンの園に神さまがご臨在され、そこに神のかたちに造られた人を住まわせてくださったことに現われています。
 創世記2章7節、8節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されています。そして、続く9節に、

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

と記されていますように、そこでは「いのちの木」によって表わされており、保証されていた、神である主のご臨在の御前におけるいのちの交わりがありました。
 さらに、10節〜14節に、

一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

と記されていますように、この神である主のご臨在の御許からの豊かさが溢れ出て、全地が潤されていました。
 このように、造り主である神さまのご臨在の御前に生きること、そして、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることが、神のかたちに造られている人間に与えられたいのちの本質であり、そのように生きることが神のかたちに造られている人間の本来の姿でした。これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、このように神さまご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることが、神のかたちに造られている人間が受け継いでいる「相続財産」の中心です。そして、神さまが初めからご臨在してくださっているこの世界が、神のかたちに造られている人間が受け継いでいる「相続財産」であるのです。
 神さまは贖いの御業をとおして、ご自身の民のために、神のかたちに造られている人間の本来のあり方を回復してくださることを約束してくださいました。それが、一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約―― 私たちは「救済の契約」あるいは「贖いの契約」と呼んでいますが、その契約をとおして約束されています。それで、神さまの契約の祝福の中心が、神である主がご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、主の契約の民が主のご臨在の御許で生きるようになることにあるのです。
 いろいろな機会にお話ししてきましたが、主の契約の祝福は、レビ記26章11節、12節に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

というみことばによってまとめられます。ここには二つのことが記されています。とはいえ、この二つは一つのことの裏表であって、互いに切り離すことはできません。
 その一つは、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

というみことばに示されていることです。契約の神である主がご自身の民の間にご臨在してくださって、ともに歩んでくださるということです。
 もう一つは、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

というみことばに示されていることです。一般に、このみことばが主の契約をまとめるみことばである、と考えられています。これは私たちと神さまとの関係が、お互いに「私の神」、「私の民」と呼び合う関係となるということを意味しています。これこそが、主の契約の民の相続財産の中心は主ご自身である、ということの根底にあることです。そして、先々週と先週お話ししました、主の相続財産はご自身の契約の民であるということの根底にあることでもあります。
 これと同じことは、この数週間のお話の中で引用してきました、出エジプトの贖いの御業の目的を記している出エジプト記29章45節、46節に記されている、

わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。

という主のみことばにも示されています。
 これらのみことばに示されている主の契約の祝福は、さらにインマヌエル(神さまは私たちとともにおられます。)という約束の救い主の預言されていた御名によってまとめられます。そして、それは、イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章22節、23節に、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されており、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているとおり、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださったことによって成就しています。
 主の契約の祝福の中心と主の契約の民の相続財産の中心は同じで、主を自分の神として、主のご臨在の御前に生きることにあります。古い契約の下にあって、このことの実現を追い求めている人々の告白が詩篇に記されていますので、そのうちのいくつかを見てみましょう。
 27篇4節には、

  私は一つのことを主に願った。
  私はそれを求めている。
  私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
  主の麗しさを仰ぎ見、
  その宮で、思いにふける、そのために。

と記されています。また、61篇3節、4節には、

  まことに、あなたは私の避け所、
  敵に対して強いやぐらです。
  私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、
  御翼の陰に、身を避けたいのです。

と記されています。65篇4節には、

  幸いなことよ。
  あなたが選び、近寄せられた人、
  あなたの大庭に住むその人は。
  私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の
  良いもので満ち足りるでしょう。

と記されています。さらに、84篇1節〜4節には、

  万軍の主。あなたのお住まいは
  なんと、慕わしいことでしょう。
  私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
  絶え入るばかりです。
  私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
  雀さえも、住みかを見つけました。
  つばめも、ひなを入れる巣、
  あなたの祭壇を見つけました。
  万軍の主。私の王、私の神よ。
  なんと幸いなことでしょう。
  あなたの家に住む人たちは。
  彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。

と記されていますし、10節には、

  まことに、あなたの大庭にいる一日は
  千日にまさります。
  私は悪の天幕に住むよりは
  むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

と記されています。そして、92篇12節〜15節には、

  正しい者は、なつめやしの木のように栄え、
  レバノンの杉のように育ちます。
  彼らは、主の家に植えられ、
  私たちの神の大庭で栄えます。
  彼らは年老いてもなお、実を実らせ、
  みずみずしく、おい茂っていましょう。
  こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。

と記されています。
 他にもありますが、これで十分でしょう。
 これらのみことばにおいては、古い契約の下にあった聖徒たちが主のご臨在の御許に住まい、主との愛にあるいのちの交わりに生きることを心から慕い求めていたということをあかししています。そして、このように、古い契約の下にあった聖徒たちが慕い求めていたことは、やはり、イエス・キリストによって私たちの現実となっています。
 イエス・キリストは十字架につけられる前の日の夜に、弟子たちに、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いが完成することによってもたらされる祝福のことを、いろいろな角度から教えてくださいました。その教えはヨハネの福音書14章〜16章に記されています。その教えの中で、イエス・キリストが最初に言われたことを記している14章1節〜3節には、

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

と記されています。
 ここでイエス・キリストは、ご自身が十字架につけられて殺され、弟子たちのもとから去って行かれることの意味を明らかにしておられます。問題は、3節において、

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

と言われていることの意味です。「また来て」というのはいつのことなのかということです。これについてはいろいろな意見がありますが、ここでは、

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。

ということとのかかわりで、世の終わりにイエス・キリストが再び来てくださることを述べていると考えられます。公生涯の最後の夜の教えにおいてイエス・キリストは、まず第一のこととして、私たちの救いの最終的な完成のことを語ってくださったのです。
 これは、これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって神の子どもとされている私たちが受け継いでいる相続財産の最終的な完成のことに他なりません。そして、天地創造の初めに、神さまがこの世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになって、神のかたちに造られている人間を住まわせてくださったこと、そして、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださったことの最終的な完成に他なりません。
 このように、イエス・キリストは、まずご自身の贖いの御業の最終的な完成の姿を示してくださったうえで、それに続いて、その完成にいたるまでの道筋においてご自身の民に与えてくださる祝福を明らかにしてくださっています。そのように最終的な完成への途上において与えられる祝福は、イエス・キリストが、十字架の死をもってご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださってから、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられて、ご自身を弟子たちに現わしてくださること、そして、父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださることによって、私たちを父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるということです。
 14章16節〜20節には、

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

と記されています。これもまた、ご自身の民を神さまのご臨在の御許に住まわせてくださることの一つの形に他なりません。また、その後の23節には、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

というイエス・キリストのみことばが記されています。
 14章1節に記されていますように、イエス・キリストはこの教えにの冒頭において、弟子たちに向かって、

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

と言っておられます。イエス・キリストは、夜が明ければ、ご自身が十字架につけられるようになるという状況にありました。そのことをご存知であられてなお、ご自身の苦しみのことよりは、弟子たちが味わうであろう混乱を思いやってくださっています。そして、確かな土台の上に立った慰めと励ましに満ちた教えを与えてくださっています。
 このようなイエス・キリストの御思いに触れますと、先ほど引用しました、主のご臨在の御許に住まうことを慕い求めて歌われた詩篇のことばが、改めて思い出されます。そこで引用しましたことばの前後に記されていることを見てみますと、それらの歌は、84篇を除いて、すべて敵に囲まれている状況や、心がしなえてしまっている状態、自らの咎に圧倒されている状態などの、試練と苦しみの中で歌われたものであることが分かります。たとえば、27篇4節には、

  私は一つのことを主に願った。
  私はそれを求めている。
  私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
  主の麗しさを仰ぎ見、
  その宮で、思いにふける、そのために。

と記されていました。これに続く5節、6節には、

  それは、主が、
  悩みの日に私を隠れ場に隠し、
  その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
  岩の上に私を上げてくださるからだ。
  今、私のかしらは、
  私を取り囲む敵の上に高く上げられる。

と記されています。
 イエス・キリストの地上の生涯の最後の日には、イエス・キリストの弟子たちも、自分たちが従ってきたイエス・キリストが十字架につけられて殺されてしまうという衝撃に、自分たちの外からの試練だけでなく、自分たちの信じてきたことが根底から揺らされてしまうという、内からの試練によって試されることになります。そのような弟子たちに向かって、イエス・キリストは、ご自身が十字架につけられて殺されることが、古い契約のもとにあった聖徒たちが、さまざまな苦しみの中にあって切に慕い求めていた、主のご臨在の御許に住まうということを実現してくださるためのものであることを明らかにしてくださったのです。
 先ほどは詩篇65篇4節も引用しましたが、それをその前の3節から続けて引用しますと、そこには、

  咎が私を圧倒しています。
  しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を
  赦してくださいます。
  幸いなことよ。
  あなたが選び、近寄せられた人、
  あなたの大庭に住むその人は。
  私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の
  良いもので満ち足りるでしょう。

と記されています。
 これは、まさに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、私たちの現実となっています。私たちはなおも自らの内に罪の性質を宿していますので、罪を犯し続け、自らの咎によって圧倒されてしまいます。しかし、イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、その罪をみな贖ってくださっています。そして、私たちの咎をすべて赦してくださっています。この贖いの恵みに包まれていますので、私たちは主のご臨在の御許に住まうことを許されています。詩篇の記者が、

  幸いなことよ。
  あなたが選び、近寄せられた人、
  あなたの大庭に住むその人は。

と告白していることは、確かに、私たちの現実となっているのです。

 


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