(第127回)


説教日:2003年6月1日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもこれまでのお話に続いて、ペテロの手紙第一・1章に記されていることに基づいて、私たちが聖なるものであることが、神の子どもである私たちに与えられている望みと関わっているということをお話しします。
 1章3節、4節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって、すでに犯してしまった罪ばかりでなく、これから犯すであろう罪も、すべてまた完全に贖っていただいています。ただ罪を赦していただいているというだけではありません。罪の性質を宿しており、実際に罪を犯す私たちが、御霊のお働きによってイエス・キリストと一つに結び合わされて、十字架につけられて死んでしまっているのです。また、私たちはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく造られ、新しく生まれています。私たちの古い人はイエス・キリストとともに十字架につけられて死んでしまいましたが、新しい人がイエス・キリストとともによみがえり、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者となりました。
 イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている私たちは、神の子どもとしていただいており、「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」をもつ者とされています。
 これまで、主の契約の民が受け継いでいる相続財産について、その中心は主ご自身である、ということをお話ししてきました。主の民が主ご自身を相続財産としてもつということは、主が主の民の間にご臨在してくださって、主の民が主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということを意味しています。父なる神さまはこのことを実現してくださるために、御子を遣わしてくださり、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。私たちは御子イエス・キリストの贖いをとおして神の子どもとされている者として、神さまご自身を相続財産として与えられています。
 それで、ヨハネの手紙第一・1章3節に、

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されていますように、私たちは御霊のお働きによって、父なる神さまおよび御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。
 先週は、これにはもう一つの面があるということもお話ししました。それは、申命記32章8節、9節に、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。

と記されていますように、主の契約の民は主の相続財産であるということです。そして、このことは、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。

ということとの関わりで語られていることですので、主がご自身の契約の民の間にご臨在されるということを意味しているということもお話ししました。そのことは、祭司の国として召されたイスラエルの中心にあった聖所で仕える祭司に関する戒めを記している出エジプト記28章と29章の結論部分に当たる29章45節、46節に、

わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。

と記されていますように、イスラエルの存在の意味の中心に関わることでもありました。
 さらに、主の契約の民に与えられている相続財産の中心は主ご自身であるけれども、その相続財産には、そこに主がご臨在してくださって、ご自身の契約の民が主との愛にあるいのちの交わりに生きる場所という意味合いもあるということ、そして、結論的に、それは神さまがお造りになったこの世界全体であるということもお話ししました。
 きょうは、このことを補足するお話をしたいと思います。それがどういうことであるか前もってお話ししますと、私たちが受け継いでいる相続財産が、神さまがお造りになったこの世界全体であるということは、私たち人間の手の届くかぎりのこの世界のことであると考えられがちです。けれども、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産は、私たちの手の届くこの世界―― 地上の世界、あるいは物質的な世界に限られているのではなく、今、私たちには手が届かない御使いたちも含めた神さまがお造りになったこの世界全体なのです。それがどのようなことであるのか、お話を進めていきたいと思います。
           *
 繰り返しお話ししていますように、イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、祭司の国として召されたのは、アブラハムに与えられた契約に基づくことです。そして、アブラハムに与えられた約束は、創世記12章3節に、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

と記されていますように、アブラハムによって「地上のすべての民族」が祝福を受けるようになることです。そして、このことは、創世記22章18節に記されていますが、アブラハムが約束の子であるイサクを主にささげたときにアブラハムに与えられた、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

という約束へとつながっていきます。
 神さまの啓示の全体の流れから見ますと、このアブラハムに与えられたアブラハムの子に関する約束には、いわば三重の意味の層があります。まず古い契約の枠の中では、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民が、地上的なひな型としての祭司の王国を形成して、主のご臨在の御前に仕えるようになったということです。そして、いちばん中心になっていることですが、アブラハムの子孫としての立場において人の性質を取って来られた無限、永遠、不変の栄光の神の御子が、十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして、ご自身の契約の民の贖いを成し遂げてくださったということです。そして、三番目の意味ですが、このことに基づいて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって御霊を受けて神の子どもとしていただいている私たちが、信仰によるアブラハムの子としての祝福を受けるようになり、新しい契約の祭司として、主の栄光のご臨在の御前において仕えるようになったということです。
 古い契約の下では、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されて、祭司の国として召されました。繰り返しの引用になりますが、出エジプト記19章19章5節、6節に、

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

と記されているとおりです。
 このように、イスラエルの民が祭司の国として召されたのは、「地のすべての国々」が祝福を受けるようになるためです。それは、イスラエルの民が出エジプトの贖いの御業をとおして示された主の一方的な愛と恵みと、主の栄光のご臨在が自分たちとともにあるということとをしっかりと受け止めて、「地のすべての国々」に身をもってあかしし、それを受け入れた「地のすべての国々」が祝福にあずかるようになることによって実現します。
 振り返って見てみますと、申命記32章8節、9節では、

  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。

というように、イスラエルの民が主の相続財産であるということを述べるのに先立って、
  いと高き方が、国々に、

  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。

というように、「国々の民」の相続地のことを述べています。このことも、イスラエルの民がアブラハムに与えられた契約に基づいて、「地のすべての国々」が祝福を受けるようになるために祭司の国として召されていることを踏まえているということが感じられます。
 このことは、古い契約の下にあった地上的なひな型であるイスラエルの民をとおして示されていました。そして、アブラハムの子として来てくださったイエス・キリストが十字架の上でいのちの血を流してくださったことによって贖いが実現しましたので、古い契約の地上的なひな型をとおして示されていた約束がすべて成就しています。これよって、「地のすべての国々」に属している私たちが、新しい契約の下での祭司の国として召されています。ペテロの手紙第一・2章4節、5節に、

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

と記されており、9節に、

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

と記されているとおりです。
 私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業をとおして、栄光の主のご臨在の御前で仕える新しい契約の祭司の国として召されています。新しい契約の下では、神さまがご臨在される聖所は私たちの外にある地上の建物ではなく、

主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。

と言われているとおり、主イエス・キリストに結び合わされている私たち自身が、栄光の主のご臨在される「霊の家」として築き上げられているのです。
 このことに基づいて、私たちは、私たちを

やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを

あかしするために召されています。それは、まず、

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

と言われていますように、私たち自身が贖いの御業にあずかって、礼拝を中心とする、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きているという現実がなければなりません。


 このようにイスラエルの民が祭司の国として召されていたことを念頭に置きますと、主がご臨在されるシナイ山の麓でイスラエルの民が金の子牛を作って、これを契約の神である主、ヤハウェと呼んで礼拝したときになされた、モーセの執り成しの中心が、このこと―― イスラエルの民が祭司の国として召されているということの自覚にあったということが分かります。
 すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださってシナイ山の麓まで導いてくださいました。そこでイスラエルの民が宿営しているときに、主はシナイ山にご臨在され、イスラエルの民と契約を結んでくださいました。このことの経緯が出エジプト記19章〜24章に記されています。そのことに基づいて、主はご自身がイスラエルの民の間にご臨在されるための聖所に関する戒めを与えてくださいました。主の契約の祝福の中心は、主がご自身の契約の民の間にご臨在してくださって、主の民が主とのいのちの交わりに生きるようになることにあります。その時、主はモーセにシナイ山に登るように命じられました。それでモーセはシナイ山に登って行って、主の栄光のご臨在の御前において、聖所に関する戒めを受け取るようになりました。それが25章〜31章に記されています。
 ところが、その時に、イスラエルの民は主の御前に背教してしまいました。32章1節〜6節には、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。このことは主の聖なる御怒りをひき起こしました。9節、10節には、

主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」

と記されています。
 これに対するモーセの執り成しを記している11節〜14節には、

しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。』と仰せられたのです。」すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

と記されています。
 この執り成しにおいて、モーセは主がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に訴えています。この時、主の御前に背教してしまったイスラエルの民自身には、主の聖なる御怒りを引き出すものしかありませんでした。それで、それでもイスラエルの民にどこか良いところがあるというような執り成しはできませんでした。それでモーセは、主の真実さの表われである主の契約の約束に訴えています。それと同時に、しかもそれに先立って、モーセは、

また、どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

と述べています。これは、エジプトを初めとして諸国の民の間で主ヤハウェの御名が侮られることがないようにということを訴えることです。それは、イスラエルの民の動向に対して諸国の民が注視していることを踏まえています。また、それは、諸国の民がこのことをどのように受け止めようと構わないと言ってすますことはできないということを意味しています。それで、イスラエルの民が諸国の民へのあかしとして立てられているということを意味しています。
 ここに記されていることは、モーセがまだシナイ山にいたときのことですが、シナイ山を下ってイスラエルの民の現実を目の当たりにしたときのことを記す25節には、

モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。

と記されています。
 この場合の「」は、イスラエルの民に敵対して立っているいる人々のことですが、必ずしも、この時、その人々がイスラエルの民の様子を見ていたわけではありません。出エジプトの際にあれだけのことがあったのですから、エジプトが秘かにスパイを送って偵察していたということも考えられます。それが先ほど引用しましたモーセの執り成しの祈りで、

どうしてエジプト人が「神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。」と言うようにされるのですか。

と言われていることに反映しているのかもしれませんが、定かではありません。いずれにしましても、これは、イスラエルの民の背教によってもたらされた現実が、イスラエルの民に敵対している民の間でさえ見られないほどの乱れであったことを意味しています。そのことをモーセは「敵の物笑いとなっている」と理解しているのです。このことも、モーセがイスラエルの民の存在の意味を諸国の民へのあかしのために立てられていることにあると理解していたことを示しています。この点については、後ほどさらにお話しします。
 そして、このことは、モーセが理解している祭司の国としてのあかしは、人から見られているかどうかにかかわらず、真実に主の御前を歩む姿をとおして立てられていくべきものであることを示しています。このことは御子イエス・キリストの血によって確立されている新しい契約の民である私たちに、より一層意味をもっていることです。というのは、エペソ人への手紙3章7節〜12節に、

私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

と記されていますように、私たちのあかしはただ人に対してなされるだけでなく「天にある支配と権威とに対して」もなされるものであるからです。また、このことと調和して、エペソ人への手紙6章12節には、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されています。
 3章8節、9節では、

すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

と言われていました。ユダヤ人であったパウロが「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え」るようになったというのです。この8節、9節に記されていることだけですと分かりにくいのですが、これに先立つ5節、6節に、

この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されていますように、パウロが「キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え」るようになったということ自体が「万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務め」でした。
 これは、これまでお話ししてきたことに照らして言いますと、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

というアブラハムに与えられた約束が実現しているということを意味しています。さらに、これはアブラハムに与えられた契約に基づいて祭司の国として召されたイスラエルの民のあかしをとおして地のすべての国々の民が祝福を受けるという神さまのご計画に沿ったことでした。
 ここでパウロは、この「奥義」のことを、

今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。

と述べるとともに、それが

万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義

であると述べています。この奥義には、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださって贖いの御業を成し遂げてくださって初めて明らかになったという面があるということです。
 その「奥義」のことは、イエス・キリストの血による新しい契約の民とされ、父なる神さまの子とされて御霊を与えられている私たちには自然に受け止められることです。それは、具体的には、先ほど引用しました3章6節に、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されています。
 私たちは、このことが御子イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下で明らかにされた「奥義」であるということに、「なんだ、そんなことか」というような思いをもつかもしれません。これまでお話してきたことから、それは古い契約の下でも示されていたのではないかという思いになります。けれども、私たちは、イエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって新しい契約の民、神の子どもとしていただいていますので、御霊を与えられています。それで、新しい契約の下で与えられた啓示の光と御霊のお導きの下で古い契約の下で与えられていた神さまの約束を見ています。そのために、古い契約の下にあった人々には分からなかったことが私たちには分かるということがあるのです。
 これとともに注目したいことがあります。
 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、地上のすべての国民が祝福を受けるようになるというアブラハムに与えられた約束は成就しています。ここでパウロは、そのことについて、

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

と述べています。ここで「天にある支配と権威」と言われているのは、エペソ人への手紙の中では、造り主である神さまに逆らって人類を罪へと誘ったばかりでなく、今も罪によって人々を滅びの道に縛りつけている、暗やみの世の主権者たちです。
 このことから、地上的なひな型としてのイスラエルの民が金の子牛を作って、これをヤハウェであるとして拝むことによって背教してしまったときに、モーセが、

敵の物笑いとなっているのを見た

と言われているときの「」の本体が見えてきます。それは地上的なひな型としては、イスラエルの民に敵対して立っている者たちのことでした。しかし、その本体の中心は「天にある支配と権威」だったのです。
 このことは、さらに、アブラハムに与えられた契約の約束が、御使いたちや悪霊たちをも含めた、宇宙大の意味をもっているということを明らかにするものです。アブラハムに与えられた契約の約束は、ただ地上のすべての国民が祝福を受けることにかかわっているだけではなく、天にあるものたちに対しても意味をもっているのです。もちろん、暗やみの主権者たちにとっては、それは、自分たちに対するさばきの時が近くなったということを意味しています。これによって、造られたすべてのものが、御子イエス・キリストにあって、造り主である神さまのみこころに沿って存在するようになります。最後に、このことに触れているコロサイ人への手紙1章19節、20節を見てみましょう。そこには、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。

 


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