(第126回)


説教日:2003年5月25日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることにしたがって、私たちが聖なるものであることが、神の子どもである私たちに与えられている望みとかかわっているということについてお話しします。
 繰り返しになりますが、3節、4節に記されていますように、神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」、私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。言うまでもなく、このことは、これに先立って、私たちがイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいているということを意味しています。
 また、その結果、私たちは「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」をもつようになったと言われています。このことは、また、神さまが私たちに神の子どもとしての身分を与えてくださったということを意味しています。というのは、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」の「資産」は相続財産のことであり、ローマ人への手紙8章17節に、

もし子どもであるなら、相続人でもあります。

と記されていますように、私たちは神の子どもであるので「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」を受け継いでいるのです。


 ここで改めて注意しておきたいのですが、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産の中心は、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりです。このことについての聖書のみことばのあかしは一貫しています。前に取り上げたところですが、詩篇16篇5節には、

  主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。
  あなたは、私の受ける分を、
  堅く保っていてくださいます。

と記されていますし、73篇25節、26節には、

  天では、あなたのほかに、
  だれを持つことができましょう。
  地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
  この身とこの心とは尽き果てましょう。
  しかし神はとこしえに私の心の岩、
  私の分の土地です。

と記されています。また、119篇57節には、

  主は私の受ける分です。
  私は、あなたのことばを守ると申しました。

と記されており、142篇5節には、

  主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
  「あなたは私の避け所、生ける者の地で、
  私の分の土地です。」

と記されています。さらに哀歌3章22節〜24節には、

  私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
  主のあわれみは尽きないからだ。
  それは朝ごとに新しい。
  「あなたの真実は力強い。
  主こそ、私の受ける分です。」と
  私のたましいは言う。
  それゆえ、私は主を待ち望む。

と記されています。
 これらの個所において「地所」、「分の土地」、「受ける分」と訳されているのは同じことば(ヘーレク)で相続財産を表わしています。ただし、詩篇16篇5節の「受ける分」は別のことばです。これらの個所はすべて主を告白することばを記していますが、みな、主が自分の相続財産であるということを告白しています。
 これに対しまして、申命記32章8節、9節には、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。

と記されています。
 8節では「国々」との関係において神さまは「いと高き方」(エルヨーン)として示されています。この「いと高き方」という呼び名は、神さまが主権者であられることを示しています。それで、ここでは、神さまが地のすべての国々に対して主権者としての立場にあって、すべての国々を、それがどこを領土として存在すべきであるかという、国家としての成り立ちの根本的なところから治めておられるということを示しています。同じことは、使徒の働き17章26節に記されています、パウロの、

神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

ということばにも示されています。
 ついでながらお話ししますと、この8節で、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。

と言われているときの、

  イスラエルの子らの数にしたがって、

ということがどのようなことを意味しているかということについては、この部分のもともとの本文の読み方が、マソラ本文の「イスラエルの子ら」であったのか、それとも七十人訳や死海写本の断片にある「神の子ら」であったのかという問題もかかわって、はっきりとしたことは言えません。これが、

  イスラエルの子らの数にしたがって、

ということであれば、神さまが「国々の民の境を決められた」時にイスラエルの民をそのご配慮の中心に据えておられたということを表わしているということになりましょうか。もし、

  神の子らの数にしたがって、

ということであれば、また別の理解の可能性が開けてきます。「神の子ら」は御使いたちのことで、主の御前における会議のことを指しているという意見もありますが、「国々の民」の間に散らされている神の子どもたちを考慮しておられたというようにも考えられます。―― これには旧約聖書における「神の子ら」の用法もかかわっていますが、私は創世記6章2節、4節の「神の子ら」は御使いのことではなく、契約の神である主への信仰を継承した人々の子どもたちのことであると理解しています。
 8節では「国々の民」のことが述べられていますが、イスラエルのことを述べる9節では、

  主の割り当て分はご自分の民である

と言われています。この「割り当て分」が、先ほど引用しましたいくつかの個所で主ご自身が自分の受けるべき相続財産であると告白されていたときの相続財産を表わすことば(ヘーレク)です。また、ここで神さまはご自身のことを契約の神である主、ヤハウェとして示しておられます。イスラエルはアブラハム、イサク、ヤコブに対する契約に基づいて、主の契約の民とされているのです。そして、その契約の民であるイスラエルが、主の相続財産であると言われています。
 このように、聖書の中には、神である主の契約の民にとっては主ご自身が相続財産であるという教えが一貫して流れています。それとともに、神さまにとっては、ご自身の契約の民が相続財産であるとも言われているのです。申命記32章9節で、

  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。

と言われているのは、それに先立つ8節で、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。

と言われているのを受けています。8節の「相続地を持たせ」ということば(動詞・ナーハル)と9節の「相続地」ということば(名詞・ナハラー)は同族語、この場合は、同じことばで動詞と名詞の違いだけです。このことから、ここでは、国々の民が自分たちに与えられた地に住まうように、主はご自身の「相続地」であるイスラエルの民の間に住まわれるということが考えられます。
 このことは、主のご臨在の御前で仕える祭司の国として召されたイスラエルの民の存在の目的に一致しています。イスラエルの存在の中心である聖所で仕える祭司に関する規定を記している出エジプト記28章と29章の結論部分に当たる29章45節、46節には、

わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。

と記されています。これは、エジプトの奴隷の身分から贖い出されて、祭司の国として召されたイスラエルに与えられた祝福とイスラエルの存在の目的を明らかにするものです。イスラエルの民の祝福は主がイスラエルの民の間に住んでくださることにあり、イスラエルの民の存在の目的も、主がイスラエルの民の間に住んでくださることにあります。
 このように、古い契約のひな型である地上のイスラエルをとおして、主の契約の民の相続財産が主ご自身であり、主の相続財産は主の契約の民であることが示されています。そして、それは、主がご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、主の民が主のご臨在の御前にあって、主との愛にあるいのちの交わりに生きることによって実現します。
 このことから、私たちは、神さまとの愛にあるいのちの交わりは神の子どもである私たちの受け継いでいる相続財産の中心であると理解しています。神さまとの愛にあるいのちの交わりが相続財産の中心であるということは、これまでの何回かのお話の中で意識して表わしてきましたが、改めて心に留めておいていただきたいと思います。神さまとの愛にあるいのちの交わりは相続財産の中心ですが、相続財産のすべてではありません。また、神さまとの愛にあるいのちの交わりは神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産のすべてではありませんが、神さまとの愛にあるいのちの交わりがなければ、どのような相続財産も、神の子どもである私たちが受ける相続財産としての意味をなしません。
 神さまとの愛にあるいのちの交わりは私たちが受けている相続財産の中心ですが、相続財産のすべてではないというのは、私たちが受けている相続財産には、さらに特別な意味合いがあるからです。それは、すでにお話ししましたように、旧約聖書においてはこの相続財産はカナンの地という地上的なひな型によって表わされていることに示されています。主の契約の民が受け継ぐ相続財産は、カナンの地によって示されている具体的な土地でした。
 繰り返しになりますが、カナンの地はあくまでも古い契約の下での地上的なひな型です。ですから、このことから直ちに今日のパレスチナがユダヤ人のものであると主張することはできません。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって主の契約の民のための贖いが実現したことによって新しい契約が確立され、古い契約の下で地上的なひな型として用いられていたものは、ひな型としての役目を終えています。
 このカナンの地は主の契約の民であるイスラエルの民が住むべきところとして与えられました。そして、その中心は、そこにおいて主の聖所が建てられて主がそこにご臨在してくださり、イスラエルの民が主のご臨在の御前に近づいて、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためでした。ですから、この地上的なひな型であるカナンの地をとおしても、神の子どもである私たちが受け継いでる相続財産の中心は神さまとの愛にあるいのちの交わりにあるということが示されていたのです。その意味で、神の子どもである私たちが受け継いでいる相続財産の地上的なひな型であったカナンの地の本質は、そこに神である主のご臨在があって、主の契約の民がそのご臨在の御前にあって主との愛にあるいのちの交わりに生きるということにあったのです。
 たとえば、レビ記18章24節〜28節に記されている、

あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。―― あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。―― あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。

という主の戒めは、カナンの地が主のご臨在のある地であるということを踏まえています。
 先ほど言いましたように、カナンの地は古い契約の下での地上的なひな型でした。そうであるとしますと、イエス・キリストの血によって確立された新しい契約の下では、地上的なひな型であるカナンの地によって示されていたものの本体はどこにあるのでしょうか。そのことを考えるために、このカナンの地がアブラハムに与えられた主の契約に基づいてイスラエルの民に与えられたということに注目したいと思います。アブラハムへの契約を記している創世記17章5節〜8節には、

あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

という主のみことばが記されています。
 8節で、

わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。

と言われていますように、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民は、アブラハムに与えられた契約に基づいてカナンの地を相続財産として与えられたのです。それとともに、このことは、これに続いて、

わたしは、彼らの神となる。

と言われていますように、そのカナンの地において主がイスラエルの民の間にご臨在してくださって、イスラエルの民が主のご臨在の御前を歩むことによって、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを目的としています。その意味では、この主のご臨在があるということを離れて、ただ領土としてのカナンの地を所有するようになるということには意味はありません。
 また、イスラエルの民が、主がご臨在してくださるカナンの地を相続財産として所有するようになることは、それに先立って、

あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。

と言われていますように、アブラハムが「多くの国民の父」となるということにかかわっています。それは、アブラハムが、アブラハムに与えられた召命を記す12章3節に記されている、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

という約束を与えられていることを受けています。
 ですから、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民がカナンの地を所有するようになったのは、地上のすべての民がアブラハムとその子孫をとおして契約の神である主の祝福にあずかるようになるためでした。それで、イスラエルの民はすべての民にアブラハムに与えられている契約の祝福を身をもってあかしするために祭司の国として召され、それが主の一方的な愛と恵みによることであることを身をもってあかしするために、エジプトの奴隷の身分から贖い出されたのです。イスラエルの民にたする主の召命を記している出エジプト記19章4節〜6節には、

あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

と記されています。イスラエルの民が主のご臨在の御前において仕える祭司の国となったことは、

全世界はわたしのものであるから。

という「全世界」を視野に入れたことでした。
 このことを心に留めて、先ほど引用しました申命記32章8節、9節に記されている、

  いと高き方が、国々に、
  相続地を持たせ、
  人の子らを、振り当てられたとき、
  イスラエルの子らの数にしたがって、
  国々の民の境を決められた。
  主の割り当て分はご自分の民であるから、
  ヤコブは主の相続地である。

というモーセのあかしを見てみますと、主がイスラエルの民をご自身の相続財産としてくださって、イスラエルの民の間に住んでくださり、イスラエルの民をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださることが、主がいと高き主権者として、地のすべての国々を、その国家としての成り立ちの根本にあることから治めておられることとかかわっていることが分かります。
 これと同じ構造をもっていることを、別の視点から述べている戒めが、申命記4章15節〜20節に記されています。そこには、

あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。

と記されています。
 ここでは、イスラエルの民が呼吸していた古代オリエントの文化圏において普通に見られたさまざまな形での偶像とそれに対する礼拝のことが取り上げられています。そして、イスラエルの民はそれらの風習に従ってはならないことが戒められています。それは、

主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。

ということばに示されていますように、主は生きておられる―― それゆえに、ご自身の民に語りかけられる、栄光の主であられ、無限、永遠、不変の霊であられて、造られたこの世界のどのようなものによっても表示することができない方であるからです。
 そのことを踏まえたうえで注目したいのは、造り主である神さまを知らない民が神々として拝んでいるものが何であるかを記している19節に、

それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。

と記されているということです。ここで「主が全天下の国々の民に分け与えられた」と言われているときの「分け与えた」ということば(動詞・ハーラク)は、先ほど古い契約の下にあった聖徒たちが、主が自分の相続財産であると告白していたいくつかの個所で、相続財産を表わすことば(名詞・ヘーレク)の同族語―― ここでも動詞と名詞の違いだけです。古代オリエントにおいて高き神々としてあがめられた天体は、神として人を支配するものではなく、造り主である神さまが人々のために与えてくださった賜物としての相続財産です。それらは神ではなく、神さまの知恵と御力と真実な御手を思い起こさせるために、すべての人のために与えられているものです。詩篇8篇3節、4節に、

  あなたの指のわざである天を見、
  あなたが整えられた月や星を見ますのに、
  人とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを心に留められるとは。
  人の子とは、何者なのでしょう。
  あなたがこれを顧みられるとは。

とあかしされているとおりです。
 しかし、この世の国々は造り主である神さまを知らないために、それらのものを神としてこれに仕え、これに頼っているのです。その伝統は今日まで続いています。主のご臨在の御前に仕えて、主こそがこの世界のその万象をお造りになって、それを支えておられる神であられることをあかしするように召されているイスラエルの民が、それらの主を知らない国々の風習に誘惑されて、それに倣ってしまったら、もはや造り主である神さまをあかしする民はいなくなってしまいます。いずれにしましても、この申命記4章15節〜20節に記されている主の戒めも、ただイスラエルの民が周囲の国々の風習に倣ってはならないということを戒めているだけでなく、それが全世界の民の前に造り主である神さまをあかしする祭司の国としての召しを受けているイスラエルの民の使命に深くかかわっていることを踏まえています。
 このように、イスラエルの民が主の契約の民として約束の地であるカナンを受け継ぎ、主の栄光のご臨在の御前で仕える祭司として召されたことは、地のすべての民が主からの祝福を受け継ぐようになるためのことでした。そして、それは―― イスラエルの民が主のご臨在されるカナンの地を受け継ぐことだけでなく、それがすべての民の祝福のために祭司としての使命を果たすためであるということも―― 、アブラハムに与えられた契約によって約束されていたことでした。このことを踏まえて、先ほどの問題である地上的なひな型であるカナンの地の本体はどこにあるのかということを考えてみますと、約束の地であり主の契約の民の住まうべきカナンの地の本体は、地上のすべての民にとって意味をもっている所であるということが分かります。また、それは地上ばかりでなく、造り主である神さまの知恵と御力と真実な御手のお働きを示す天の万象をも含むということも分かります。
 このことと調和して、ローマ人への手紙4章13節〜16節には、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

と記されています。
 ここでは、アブラハムの真の子孫とは、信仰によって義とされることによってアブラハムの信仰にならう人々のことであるということが明らかにされています。そして、アブラハムの子孫に与えられている相続財産が「世界」であることが示されています。
 先ほど引用しました申命記4章15節〜19節のみことばに照らして言いますと、さまざまな生き物たちが生息し、地を明るくし暖める太陽を初めとして、天の万象の壮大な運行が見られるこの天地には、造り主である神さまの知恵と御力といつくしみが溢れています。私たちはこの世界において、造り主である神さまを礼拝しています。このことは、神さまがアブラハムに与えてくださった契約に約束された祝福にあずかっていることの具体的な現われです。そのために、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれて、アブラハムの真の子孫としての神の子どもとされているのです。ガラテヤ人への手紙3章26節〜29節に、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されているとおりです。

 


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