(第125回)


説教日:2003年5月18日
聖書箇所:ペテロの手紙第一・1章1節〜21節


 きょうもペテロの手紙第一・1章に記されていることにしたがって、私たちが聖なるものであることが、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって神の子どもとされている私たちに与えられている望みと深くかかわっているということについてお話しします。
 3節、4節には、

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。
 父なる神さまは「ご自分の大きなあわれみのゆえに」、私たちを御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりあずからせてくださって新しく造り変えてくださり、新しく生まれさせてくださいました。その結果、私たちは「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」すなわち相続財産をもつようになりました。
 このように、私たちは父なる神さまの「大きなあわれみのゆえに」新しく生まれていますが、そのために、まずイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいています。そのうえで、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。けれども、ここではイエス・キリストの十字架の死には触れられていません。これによって、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりが強調されています。それは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりが、この世とその歴史であるこの時代の終わりと、新しい世とその歴史である新しい時代の始まりを告げる出来事であるからです。
 これはイエス・キリストにあってのことであり、イエス・キリストのうちにある者にとって現実となっていることですが、イエス・キリストの十字架の死によって、この世とその歴史であるこの時代は清算されています。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりとともに新しい世とその歴史である新しい時代が始まっています。このことは、今はこの世の目から隠されていますが、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に完全な形で立ち現われてきます。そして、神の子どもとしての私たちに与えられている「生ける望み」と「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない相続財産」は、この新しい世とその歴史である新しい時代のものです。それで、ここでは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりが強調されているのです。


 イエス・キリストはご自身の民である私たちの罪を負って十字架にかかってくださいました。そして、十字架の上で私たちの罪に対するさばきとして下される父なる神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わってお受けになりました。このイエス・キリストの上に下されたさばきは、世の終わりになされる最終的なさばきです。そして、十字架にかかられたのは無限、永遠、不変の栄光の神の御子です。御子は、ご自身がお取りになった人の性質において、私たちの罪に対する父なる神さまの最終的なさばきお受けになって、その聖なる御怒りを余すところなく味わい尽されました。それが人の性質においてであったも、その死の苦しみを味わわれた方自身は、無限、永遠、不変の栄光の神の御子です。それで、この御子の身代わりの死によって神さまの義は立てられ、聖なる御怒りはなだめられました。しかし、もし被造物である私たちが神さまの聖なる御怒りを自分で負うとしたら、永遠に負い続けても神さまの完全な義の要求は満たされることはなく、御怒りが止む時は来ません。
 このことは二重の意味においてそうなります。その一つについてはすでに繰り返しお話ししましたが、きょうはもう一つのことも含めて復習しながら補足したいと思います。
 まず、すでに繰り返しお話ししたことの方ですが、私たちは自分自身のうちに罪を宿していますし、罪が当たり前のようになっている世界に住んでいますので、なかなか実感することはできないのですが、私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の神さまに対する罪であり、その神さまの聖さを冒すものであるので、無限の重さをもっています。それで、それを償おうとしても、有限な存在である私たちには永遠に償うことができません。
 そればかりでなく、私たちの罪は無限に重いので、たとえ、もっとも高い御使いがそれを永遠に償い続けてくれたとしても、私たちの罪を贖うことはできません。
 古代教会において、三位一体の教理が確立されていきましたが、その際に問題になったのは、御子イエス・キリストはまことの神かどうかということでした。その論争の中で、イエス・キリストはまことの神であられるということを主張した人々の中心はアタナシウスでした。アタナシウスの主張の根拠はまさにこの点にありました。私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の神さまに対する罪であり、その神さまの聖さを冒すものであるので、無限に重い罪です。それで、それを償うことは私たちにはできないし、御使いも含めてどのような被造物にもできないことです。けれども、福音のみことばは、神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストによって、私たちの罪は完全に贖われていると教えています。アタナシウスはこのことから、すなわち、福音のみことばのあかしから、御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の神でなければならないという確信をもっていたのです。
 私たちは、すでに確立されている三位一体の教理を信仰の中心に据えています。それで、みことばのあかしに基づいてのことですが、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子イエス・キリストが、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださったのだから、私たちの罪はすべて完全に償われ、私たちは贖われて、神さまの栄光のご臨在の御前に生きる神の子どもとされているということを信じているのです。
 もう一つのことも、どこかでお話ししたことがあると思いますが、また、少し込み入ったお話になりますが、私たちがわきまえておいたほうがいいことであると思いますので、敢えてお話ししたいと思います。
 私たちの中にもそのような感じ方があるかもしれませんが、造り主である神さまを神として認めない人々は、人間が永遠に自分の罪を償い続けても、その償いが終わることがないというような残酷な話があっていいのかと抗議します。
 しかし、それは、神さまの無限、永遠、不変の栄光を知らないためだけでなく、人間の罪の現実を知らないために生まれてくる抗議です。実際には、神さまの御前に自分の罪を認めて、その罪を自分で永遠に償い続けるようになる人はいません。自らのうちに罪を宿しており、造り主である神さまを神として愛することもあがめることもしない人間は、永遠に罪を積み上げ続けるだけであって、少しでもそれを償うことはしないし、償うことはできないのです。
 それは、いったいどういうことでしょうか。
 父なる神さまが定めておられる世の終わりになって御子イエス・キリストが栄光のうちに再臨されるとき、御子は、天地創造の初めからこの世界に存在したすべての者を、神さまの聖なる義の尺度にしたがっておさばきになります。私たちは何となく、そのようになる時には、すべての者が神さまの御前に罪を認めて悔い改めるようになるのではないかと考えます。そして、たとえその時になって悔い改めても、もう遅いのだと考えます。それは、そのようなことを教えているのではないかと思われるみことばの教えがあるからです。
 たとえば、ルカの福音書13章25節〜27節には、

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください。」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない。」と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」だが、主人はこう言うでしょう。「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。」

というイエス・キリストのたとえが記されています。
 また、マタイの福音書25章1節〜13節に記されている賢い娘たちと愚かな娘たちのたとえも思い出されます。3節〜13節には、

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

と記されています。
 どちらのたとえにおいても、戸が閉められてしまうと、もはや神さまがご臨在される所にたとえられる「」の中に入れてはもらえないということが記されています。その意味で、「遅すぎる」ということがあると教えられています。コリント人への手紙第二・5章21節〜6章2節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。
  「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
  救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

と記されています。先ほどのたとえにおいては、この「恵みの時」、「救いの日」はいつまでも続くわけではないということが示されているわけです。
 これに対して、この「恵みの時」、「救いの日」は、これまで二千年の間続いてきたではないかと言われるかもしれません。しかし、それは、それぞれの人に二千年の時が与えられているという意味ではありません。人の生涯は限られていて、私たちはこの世を去る時を迎えます。それは「個人的な終末」の時です。その時には、その個人的な終末を迎えた人にとっては、神さまがご臨在される所にたとえられる「」の戸が閉められるのです。
 このように、私たちそれぞれにとっても、また歴史の全体の流れの中においても、神さまがご臨在される「」の戸が閉じられる時があります。その時には「恵みの時」、「救いの日」は終わってしまいます。けれども、そのことは、ルカの福音書13章25節に記されていることばで言いますと、

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、

どんなに悔い改めても、もう遅いということを意味しているのではありません。もちろん、「恵みの時」、「救いの日」が終わってしまってからでも、悔い改めて罪が赦されるようになる人がいるという意味でもありません。
 どういうことかと言いますと、

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってから、

すなわち、「恵みの時」、「救いの日」が終わってしまった後には、その時までに神さまの御前に罪を認めて悔い改めていなかった人々は、誰も罪を認めて神さまの御前に悔い改めることはしないし、できないということです。その時になって神さまの御前に罪を悔い改めても赦されないということではなく、その時になると、その人々が神さまの御前に罪を悔い改めることはなくなるということです。
 私たちが神さまの御前に罪を認めて悔い改めたのは、確かに私たちがしたことです。自分で自覚して罪を認め、神さまの御前にそれを告白しました。そして、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりをとおして成し遂げてくださった贖いの御業を、自分の罪を贖い、新しく生かしてくださるためになしてくださった御業であると信じました。そのことについて、みことばは、それは確かに私たちのなしたことであるけれども、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることであるということを示しています。そして、そのように、御霊が私たちの心を開いてくださって、神さまの御前に自分の罪を認めて悔い改め、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストを信じるように導いてくださったのは、ただ、父なる神さまの一方的な愛と恵みによっていると教えています。
 確かに、人が神さまの御前に罪を認めて悔い改めるようになるためには、神さまを知らなければなりません。これは神さまの御前で、神さまに対して罪を犯したことを認めることであって、神さまと無関係に「悪かった」と感じるということではありません。そのように神さまの御前に罪を認めて悔い改めるようになるためには、神さまを知らなければなりません。そして、神さまを知るようになるためには、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただき、新しく生まれていなければなりません。それは、ただ御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みによって実現することです。
 このように、人が神さまの御前に罪を認めて悔い改めるようになるためには、神さまを知らなければなりませんし、神さまを知るようになるためには、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を贖っていただいて新しく生まれていなければなりません。ということは、私たちが神さまの御前に罪を認めて悔い改めたときには、すでに、私たちは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって新しく生まれていたのです。御霊のお働きによって新しく生まれているから、神さまの御前に罪を認めて悔い改めることができたのですし、福音のみことばのあかしにしたがって御子イエス・キリストを信じることができたのです。もし私たちが御霊によって新しく生まれていれば、私たちは御子イエス・キリストの民です。そして、御子イエス・キリストは、ご自身の民に向かって、

私はあなたがたがどこの者だか知りません。

とか、

確かなところ、私はあなたがたを知りません。

というようなことを言われることは決してありません。
 ですから、栄光のキリストから、

私はあなたがたがどこの者だか知りません。

と言われた人々は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって新しく生まれて、イエス・キリストを信じてイエス・キリストの民となった人々ではなかったのです。それがどのような人々であるかは、先ほど引用しましたルカの福音書13章25節〜27節の文脈から知ることができます。それに続く28節〜30節には、

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。このことから分かりますように、それは、律法学者、パリサイ人たちに典型的に見られる生き方をする人々です。それは、神さまが遣わしてくださった贖い主であるイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いを信じることによって義とされるのではなく、自分の力で律法を行なうことによって義を立てて神さまに義と認められようとしている人々です。そのような人は、その時代の律法学者、パリサイ人に限られてはいません。しかし、律法の行ないによっては、神さまの御前に義と認められることはありません。ガラテヤ人への手紙2章16節に、

しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

と記されているとおりです。
 いずれにしましても、私たちは自分の意志で神さまの御前に罪を認めて、罪を悔い改めたのですが、自分の力でそうしたのではありません。御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊が、私たちの意志を生かしてくださったので、私たちは自分の意志で神さまの御前に罪を認めて悔い改め、私たちの贖いとなってくださった御子イエス・キリストを信じたのです。そのすべては、ただ御子イエス・キリストにある父なる神さまの恵みによっています。しかし、

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってから、

すなわち、父なる神さまが一方的な愛と恵みによって備えてくださった「恵みの時」、「救いの日」が終わってしまった後には、そのように私たちを生かしてくださっている贖いの恵みは、その恵みを拒み続けてきて、「」の外にいる人々には与えられません。
 そのために、「」の外にいる人々は歯ぎしりして悔やむことはあっても、神さまの御前に罪を認めることはありませんし、罪を悔い改めて、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いを信じるということはありません。むしろ、神さまに対する憎悪を増幅させるとともに、お互いに対する憎しみを増幅させて投げつけ合うようになるでしょう。恐ろしいことですが、それが神のかたちが罪によって腐敗しきってしまうときの姿です。そこでは、造り主である神さまと隣人への愛は腐敗しきってしまって憎しみに変質してしまいます。これが永遠の死の場所としての「地獄」における人間の姿です。そして、これは常に神さまの聖なる御怒りをひき起こすのです。
 今この世では、神さまの一般恩恵による御霊のお働きによって、人間の罪とその腐敗の姿がむき出しになって現われることがないように抑えられています。そればかりでなく、一般的な意味での「よいこと」が育まれるように励まされています。それで、一般恩恵によって人間の文化と歴史が築き上げられているのです。けれども、永遠の死の場所としての「地獄」では一般恩恵による御霊のお働きはなく、人間の罪がありのままの姿を現わします。そこでは、永遠に神さまへの憎悪と、お互いへの憎しみが増し加わるだけで、神さまの御前に自らの罪を認めてそれを償おうとするような人はいません。―― 神さまの御前においては、人は、自分が選び取ったものだけを受けるのであって、それ以外のものが理不尽にも加えられるということはありません。
 ですから、実際には、

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってから、

すなわち、「恵みの時」、「救いの日」が終わってしまった後にもなお「」の外にいる人々は、自らの罪をむき出しにして、永遠に神さまの御前に罪を積み上げ続け、御怒りをひき起こし続けるという状態になってしまいます。それが「地獄」の恐ろしさです。それで、実際には、神さまが永遠に罪を償い続けている人をご覧になっても心を動かされることはなく、その人をお赦しになることはない、というようなことになることはありません。またそれで、そのようなありえない仮説を立てて、神さまを非難することはできません。
 このこととのかかわりで、先週お話ししました、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたことの意味を振り返ってみますと、最初の創造の御業によって人が神のかたちに造られたのは、ただ単に罪のないものに造られたということではなく、神のかたちとしての栄光に満ちたものとして造られたということを意味しています。そして、その神のかたちとしての栄光は、人が造り主である神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために与えられたものです。それはまた、人が造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようにと聖別されているということを意味しています。
 神さまはあらゆる点で無限、永遠、不変の豊かさに満ちておられるので、造られたすべてのものと絶対的に区別される方です。それが神さまの聖さの本質です。そして、神さまの聖さの根底にある神さまの無限、永遠、不変の豊かさの輝きが神さまの栄光です。それは、特に人格的な神さまの本質的な特性である愛においてもっとも豊かに現われています。そして、その神さまの栄光の現われである愛は、何よりも、三位一体の神さまの御父、御子、御霊の間にかよわされている無限、永遠、不変の愛のうちにあります。そして、その愛が、天地創造の御業をとおして神さまがお造りになったこの世界に注がれています。そして、そのことをとおして神さまの栄光がこの世界に現わされているのです。
 神さまがお造りになったこの世界において、造り主である神さまの栄光を現わすということは、このような、無限、永遠、不変の豊かさに満ちている愛をもってこの世界をお造りになった神さまの愛を受け止めて、それを映し出すことにあります。神のかたちに造られている人間は、まさにこのことのために神のかたちとしての栄光を与えられており、造り主である神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、また、同じく神のかたちに造られている者同士の愛にある交わりに生きるものとして造られているのです。
 このことを考えますと、『ウェストミンスター小教理問答書』において、問1の、

人のおもな目的は、何ですか。

という問いかけに対して、

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

という答が与えられていることも納得できます。
 天地創造の初めに人が神のかたちとしての栄光をもつものに造られたのは、造り主である神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためでした。そして、これまで繰り返しお話ししてきましたように、この神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるということが、主の契約の民に与えられている相続財産の中心であり、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、新しく生まれている私たちに与えられている相続財産の中心です。その意味で、人は天地創造の初めに神のかたちに造られたときから、神さまがお造りになったこの世界において、相続財産を与えられていました。そして、その相続財産の中心は、私たちの間にご臨在してくださる造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりである、ということは変わっていません。
 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれたことによって、神のかたちの栄光を回復していただいているだけでなく、イエス・キリストの復活の栄光にあずかる者としていただいています。それは、天地創造の初めに人が神のかたちに造られたときに与えられていた造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きる恵みにはるかに優る恵みにあずかっているということを意味しています。それは、ガラテヤ人への手紙4章6節に、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されていますように、神さまを「アバ、父。」と呼ぶことのできる近さと親しさにおける交わりです。
 しかし、振り返って考えてみますと、私たちは自らのうちに罪を宿すものとして生まれ、心は造り主である神さまから離れており、御前に罪を犯し続けてきました。造り主である神さまを神としてあがめて礼拝することも、愛することもありませんでした。そのような私たちの当然行き着く先は死と滅びでした。そして、その永遠の死の場所としての「地獄」においては、神さまに対する憎悪を増幅させ、お互いに対する憎しみを膨らませ続けていくという、神のかたちの栄光の腐敗の極みが現実になってしまい、常に神さまの聖なる御怒りをひき起こしてしまうはずでした。これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、これが、罪の下にあった私たちが永遠に相続するはずのものでした。もし私たちがイエス・キリストのうちにいなければ、これが私たちの現実であったはずです。
 しかし、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストは、ご自身が十字架にかかってくださって私たちのための贖いとなってくださり、私たちをこのような滅びの道から贖い出してくださいました。そして、ご自身の復活のいのちの栄光にあずからせてくださって、永遠に神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。それが、今、イエス・キリストのうちにある私たちが受け継いでいる相続財産と「生ける望み」の中心です。

 


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